「旧暦」の謎 朝日カルチャーセンター 新宿教室

2018122日月曜 13:30-15:00 講師 加藤 徹

(旧暦 戊戌年十二月六日 甲寅 大安 月齢 5.0)

 

旧暦は実は「旧」暦ではありません。日本は明治6(1873)から「新暦」(グレゴリオ暦)に改暦しましたが、旧暦は21世紀の今も私たちの生活に大きな影響を与え続けています。

干支(えと)が変わる節目はいつ? 新暦の正月? 旧暦の正月? 立春?

 私は「数え年」で何歳? 厄年(やくどし)を、数え年で計算するお寺と、満年齢で計算するお寺の両方があるけれど、どちらが御利益があるの?

 「還暦」(かんれき)のお祝いはいつ? 満60歳の誕生日? 数え61歳の旧正月?

毎年の「旧正月」には中国人観光客が大量に日本に来るけれど、旧正月の日付(2018年は216日だが、2017年は128日だった)が毎年大きく違うのはなぜ? 日本と中国の旧暦の日付は一致するの? 旧暦の日付はどこで誰が決めるの?

 なぜ真冬の寒い時期の正月を「新春」と呼ぶの? 「七夕(たなばた)は俳句では秋の季語」とか、暦の季節と現実感覚にずれがあるのはなぜ?

 葬式をしてはいけない「友引」(ともびき)とか、建築を避けるべき「三隣亡」(さんりんぼう)などの「お日柄のタブー」は旧暦と関係があるの? ……等々、日々の暮らしのなかで旧暦に関する疑問をもつかたも、多いのではないでしょうか。

 旧暦の本質的発想を理解すれば、上記の疑問は氷解します。日本以外の東アジアでは、正月をはじめ伝統行事は旧暦で祝うため、旧暦の理解は国際化にも役立ちます。本講座では90分で、旧暦をわかりやすく解説します。(講師記)

 

【ポイント】

 旧暦のコンセプトは「太陰太陽暦」である。

 日本では「脱亜入欧」の明治時代に伝統的な民間行事の日付をそのまま新暦に読み替えたが、日本以外の東アジアでは伝統行事は今も旧暦に準拠している(例えば正月)

旧暦はすでに公式の暦でないため、政府や公的機関が介入することはない。ただし旧暦の日付を決める要素である月齢や二十四節気などのデータは国立天文台が発表している。

六曜その他の運勢に関する迷信的要素は、本来の旧暦とは無関係である。伊勢神宮の神宮司庁が奉製し頒布している「神宮暦」は、科学的な旧暦の本であり、吉凶を占うための暦注は「本暦」には一切載せない(一般向けの略本暦には暦注も掲載)

明治41年に創業した株式会社「神宮館」(所在地は東京・上野)が毎年発売している暦は、六曜も含めて吉凶判断の暦注も充実しているが、伊勢神宮の「神宮暦」とは別物である。

旧暦は科学的だが、暦注は迷信的である。迷信に縛られてはならないが、そのような迷信が作られて広まった理由にも思いを致すべきである。

 

★二十四節気

大寒 120日 1209

立春 204日 628

春節(旧暦一月一日の中国での呼称)216日金曜日

 

★天文とは?

天地人の「三才」。天文、地文、人文。「天人感応」説。

 「日月星辰」のそれぞれを重視する順番の違いによって、暦の性格が決まる。

 

★「暦」の語源とは?

 「こよみ」の語源は「かよみ(日読み)」説が有力。ちなみに「聖(ひじり)」の語源は「日知り」説が有力だが「火治り」説もある。

漢字「暦」(曆の略体)の字源は、「日」と音符「厤」を組み合わせた会意文字兼形声文字。「厤」は、「厂(屋根)」の下で「禾(穀物の穂)」を順序よく並べるの意。「歴」と同系。

 

★「旧暦」とは?

「大辞林 第三版」の説明:旧暦 1872年(明治5)の太陽暦採用以前に使用されていた暦法。新暦太陽暦

 

国立天文台の公式ホームページでの説明:「国立天文台 > 暦計算室 > Wiki」より引用。引用開始。

太陰太陽暦 基本的には月の満ち欠けを基本とする太陰暦です。

太陰暦の1年は29.5×12354日と1太陽年に比べて11日ほど短く、その差は3年でほぼ1か月に達します。

その1か月をうるう月にすることで、ずれを補正するのが太陰太陽暦です。

平均的な1年の長さは1太陽年に近い値になります。(引用終了 出典

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C2C0B1A2C2C0CDDBCEF1.html 2018/1/22閲覧) 

 

国立天文台の公式ホームページでの説明:「国立天文台 > 暦計算室 > トピックス旧暦2033年問題について」より引用。(原文の注の形式は改変。引用開始)

わが国ではさまざまな文化や慣習が太陰太陽暦に端を発しており,今でも旧暦という呼び方でそれは生き残っている.なお,旧暦とは,厳密には太陰太陽暦の中でもとくに天保暦(注・天保15年=弘化元年より用いられた,江戸幕府最後の暦法)のことを指すのだが,既に廃止され,その手順どおりに推算・公表する機関もないため,通常は現代天文学による朔や二十四節気の情報を元に構築しているというのが実態のようである.具体的には,朔を含む日を各月の1日とし,二十四節気のうち雨水・春分など偶数番目のもの=中気を用いて,正月中である雨水を含む月は1月,二月中である春分を含む月は2月のように定めればよい.(中略) 旧暦は既に廃止されており,公的機関がどの案を採用するか決定することはないだろう.(引用終了。URLは下記

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2014.html 2018/1/22閲覧)

 

★世界の暦

中国語では新暦を「公暦」、旧暦を「農暦」と呼ぶ。

純粋太陽暦 例:共和暦(フランス革命暦)

太陽暦   例:新暦(グレゴリオ暦)

太陰太陽暦 例:日本を含む東アジアの旧暦

純粋太陰暦 例:イスラム暦

 

★日本の暦の歴史

「自然暦」。古代天皇の享年と「二倍年暦」「春秋暦」仮説。古墳時代、中国暦の部分的な導入(干支紀年、干支紀日)

 6世紀、百済から来日した暦博士を通じて、中国の元嘉暦を導入(『日本書紀』によれば554年)。その後も、儀鳳暦、大衍暦、宣明暦などの中国暦を輸入して使った。江戸時代中期の1685年、日本独自の天文計算に基く初の暦である貞享暦が採用され、その後、宝暦暦、寛政暦、天保暦など次々と改暦を経た。

現在の日本の旧暦は江戸時代以来の「天保暦」である。中国の旧暦は明末清初に作られた「時憲暦」がそのまま使われており、日本と中国の時差の関係もあって、現在、旧暦の日付は日本と中国でたまに1日ていどずれることもある。また「旧暦2033年問題」は日本の旧暦(天保暦)だけの問題で、中国の「時憲暦」は無関係である。

 

★新暦と旧暦のコンセプトの違い

新暦は太陽暦、旧暦は太陰太陽暦。

  旧暦の太陰暦的性格:日付は月の満ち欠けと連動。漁民や遊牧民に便利。

  旧暦の太陽暦的性格:二十四節気、七十二候、雑節など太陽の位置(季節)と連動。

農民に便利。

新暦の宗教色、旧暦の政治色。

  東洋的発想では、天子の実効支配は空間(領土)だけでなく時間()にも及ぶ。

「正朔を奉ずる」「律暦」「元号」「閏の字源(なぜ「門」のなかに「王」と書くのか)

新暦は直線的、旧暦の循環的

 新暦の紀年法(西暦××年。キリスト紀元)は直線的。

歴史的事件Aと歴史的事件Bの年数差は簡単な引き算で求められる。

 旧暦の紀年法は複雑。高杉晋作の誕生日と命日は、旧暦では天保10820日と慶應3414日。彼の享年を瞬時に計算するには干支紀年も必要。西暦では1867517日と1839927日なので死去時の年齢も簡単に計算できる。

干支紀年は循環的。例えば、1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の「稲荷山古墳出土鉄剣銘」に「辛亥年七月中記…」云々とある。この辛亥年は西暦471年説が有力だが、531年説もある。辛亥の年は60年に1回まわってくるので、西暦と違い、干支紀年だけでは絶対年代は不明。

鴨長明(1155-1216)は『方丈記』の中で「治承四年(西暦1180)水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかたこの京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり」云々と書いた。桓武天皇による平安京遷都は794年。ただし、平安京「定都」は810年の薬子の変(平城太上天皇の変)のあとなので、鴨長明が書いたとおり嵯峨天皇の時代である。

西暦××年式の紀年法を知らなかった彼および当時の日本人が、どうやって過去の歴史的事件から「現在」までの年数を求めたのかは、謎である。

 

★一年の最初の日はいつか?

 元旦(新暦11)説。年賀状で使われる。今の日本ではこれが普通。

 旧正月元旦(旧暦一月一日中国の「春節」)説。日本以外の東アジアではこれが一般的。今年は2月16日。

 立春説。立春の日(いわゆる「節分」の翌日。今年は24日)とする説。四柱推命など東洋の伝統的な占いはこちら。

 自分の生まれの干支や数え年を計算する場合、誕生日が新暦1月および2月の人は、旧正月元旦説(旧暦一月一日)を基準とするか、立春説を採るかによってずれることがあるため、要注意である。また「厄年」の計算基準は、寺や神社によってバラバラなので、厄払いを受けたい人は寺や神社に確認する必要がある。

 

★私は「数え年」で何歳?

 新生児の年齢は、満年齢では0歳、数え年では1歳。年齢が1つ加わる日は、満年齢では誕生日前日()であるが、数え年では上記の三つの基準がある。

 新暦1月〜2月は、上記の「元旦説」「旧正月説」「立春説」のどれを基準にするかによって、数え年が一つ変わってしまうこともあるので、要注意。特に「享年」など、今も数え年でカウントするのが普通であるものについては、亡くなった日付も重要になる。

※誕生日当日でないことに注意。1日の違いが、保険の加入日や支給開始日、選挙権の有無、学齢の決定などで大きな影響を与えることもある。小学校の新入生を例にとると、41日生まれの児童は、誕生日前日の331日の満了時(午後12時)に満6歳になり、翌42日生まれの子どもよりも学年が1つ上になる。

 

★「還暦」(かんれき)のお祝いはいつ?

 例えば、戊戌の年に生まれた人が、再び戊戌の年を迎えることを言う。今年、還暦を迎える人は、1958年(昭和33年)生まれなので、満年齢では60歳、数え年では61歳である。

「還暦のお祝い」をする日付は特に決まりはない。今の日本では、新暦の誕生日当日やその前後にお祝いすることが多い。数え61歳という点を重視するなら、上記の「元旦説」「旧正月説」「立春説」のどれを基準に考えてよい。

 

★旧正月の日付(2018年は216日だが、2017年は128日だった)が毎年大きく違うのはなぜ?

 これは言葉のあやで、旧暦一月一日を中心に考えれば、「新暦の正月の日付が毎年大きく違うのはなぜ?」という質問になる。

旧暦の一月一日が月の満ち欠けを基準にしているのに対して、新暦11日は太陽の黄道上の位置を基準にしているのが原因である。

 

★なぜ真冬の寒い時期の正月を「新春」と呼ぶの? 「七夕(たなばた)は俳句では秋の季語」とか、暦の季節と現実感覚にずれがあるのはなぜ?

 理由は二つある。

 まず、旧暦の起源が日本ではないこと。もともと中国の旧暦の季節の推移は、いわゆる中原の大陸性気候を基準としているため、日本列島の海洋性気候よりも半月から一か月ていど季節の推移が早くなる(大陸の大地の土は熱しやすく冷めやすいが、海の水は熱しにくく冷めにくいため)。旧暦の二十四節気の名称が「啓蟄」を除き日中共通であるのに対して(中国では「驚蟄」と書く)、七十二候の名称は日本と中国で大きく違う理由も、日本列島と中国内陸部では気候風土や寒暑のピークに違いがあるためである。

 もう一つの理由は、日本では旧暦の日付を、そのまま新暦で祝うようにしたため。日本以外の漢字文化圏では、伝統的な民間行事は旧暦で祝うため、過去の歴史の季節感と断絶が少ない。

 

★葬式をしてはいけない「友引」(ともびき)とか、建築を避けるべき「三隣亡」(さんりんぼう)などの「お日柄のタブー」は旧暦と関係があるの?

 「友引」や「三隣亡」などの六曜は迷信である。旧暦そのものとは関係ない。ただし、日本の「旧暦文化」の一部になってしまっている。

 例えば「私はさそり座の女」などの星座占いは、新暦とは関係のない迷信であるが、「新暦文化」の一部になってしまっている状況と似ている。

 昔の旧暦には、吉日や凶日を選ぶための迷信的な基準がいろいろあった。昔は、寺や神社が暦を印刷して信者に販売し、収入源とすることも多かったため、日ごとの吉凶なども「暦注」として書き込まれていた。これらの迷信の中には、宿曜道や陰陽道など奈良時代以来の伝統をもつ由緒正しい占いもあれば、民間のあやふやな占いもあった。六曜は後者の、日本独自の迷信で、中国や韓国にはない。

 西暦の一週間は7日で一巡する。東洋の旧暦で「一週間」にあたるのは十日間で一巡する「旬」だった。ただ、十日で一巡というサイクルは、やや長い。そこで宗教行事や占いなどでは、六曜、七曜、九曜などのサイクルも補助的に使われた。

 六曜の起源は不明だが、現在と同様に「先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口」のサイクルになったのは江戸時代後期からで、比較的新しい。民間の迷信が起源であるため、根拠はあやふやである。例えば、手近な国語辞典にも次のような説明が載っている。(引用開始)

大辞林 第三版の解説 ともびき【友引】

@  陰陽道(おんようどう)で、凶禍が友人に及ぶとする方角。友引方。

A  六曜の一。何をしても勝負がつかないとする日。朝晩は吉、昼は凶だが、のち、@ と混同されこの日に葬式を出すことを忌むようになった。友引日(にち)(引用終了)

すでに江戸時代から六曜は迷信なので気にする必要はない、という意見があった。その一方、民間では今も、友引の日には葬式を避ける、仏滅(これも本来は「物滅」で「仏」はあて字)には結婚式を避ける、などの迷信が根強く残っている。

ここで想起されるのは、前田慶次の「王の袖二尺五寸」の故事である。

昔、熊野に「王の袖二尺五寸」という謎の呪文をとなえる巫女がいた。彼女は神通力で評判だった。前田慶次はその呪文を聞き「正しくは『応無所住 而生其心』(おうむしょじゅう にしょうごしん)ですよ」と指摘した。これは禅家が好む『金剛経』の句で、訓読すると「応(まさ)に住(とど)まる所無くして而(しか)して其の心を生ずべし」となる。常に動いてこそ自由の心を得られるはずだ、という意味である。巫女は恥じ、神通力を失った。慶次は後悔し、その後は人のことにちょっかいをださないよう心がけた、という。

「友引」は「王の袖二尺五寸」と同系の迷信である。

 

★迷信は排除すべきなの?

 迷信の中には、いわゆる「創られた伝統」invented traditionもある。初詣も土用のうなぎも恵方巻も、創られた伝統である。近代の民間で発生した迷信についても、なぜそのような迷信が生まれ「伝統」になれたのか、その理由にも思いを致す必要がある。つまり、迷信にすがる人々の心や、その迷信が社会のなかで果たしている「非合理の合理性」なども考慮する必要がある。

 六曜の迷信の一つ「友引の日は葬式をしてはいけない」も「創られた伝統」だ。今の日本では火葬場も斎場も休むところが多い。その理由について、

「人はいつ死ぬか分かりません。そのため、斎場は土日も営業しています。特に平日に仕事を持っている現代人には、土日にお通夜・告別式が行われるのはありがたいことです。しかし斎場という施設も、メンテナンスや従業員の休息のため、休みが必要です。友引にかこつけて、休館しているというのが現代の実情でしょう。」

という見方もある(出典 https://saijo-zukan.com/tomobiki/ 2018/1/22閲覧)

暦にまつわる迷信も、うまく使えば、思いやりのアイテムになる。

「また、自分の大切な人が、いつも幸せであるようにと想い、お祝いやお見舞いなどの日を良い日を選んで行動する思いやり。自分に関わる全ての人が幸せであるようにと願う心の指針であると感じています。 暦は日本人の奥深くにある素晴らしい特性である、常に相手を思いやる、慮る気持を表すための一つの道具であるように思うのです。」

(株式会社神宮館 代表取締役社長の「ご挨拶 暦をより多くの人に」から引用。出典は

http://jingukan.co.jp/about/greeting/  2018/1/22閲覧)

 

以上