シリーズ・聖地をめぐる【中国の聖地 泰山―死者の霊魂が集まる冥府】

2017年1月21日  講師名  明治大学教授 加藤 徹

http://www.geocities.jp/cato1963/

 

★講座内容★ その道で最も尊敬される第一人者を「泰斗(たいと)」と呼ぶように、古来、中国東部にそびえたつ泰山は、夜空の北斗七星とならび、特別な存在とされた。

 孔子は泰山を通ったとき「苛政は虎よりも猛なり」云々と述べた。秦の始皇帝や漢の武帝は、泰山で、世界を支配するための秘儀「封禅(ほうぜん)」を行った。李白や杜甫は泰山に旅して漢詩に詠んだ。民衆は、泰山の地下には死者たちの魂を収める役所が存在すると信じた。泰山の地下の冥府の長官「泰山府君」を寿命を司る神として祭る信仰は日本にも伝わり、能楽の題材にもなった。

 たかだか標高1545mにすぎない泰山が、なぜこれほどまでの聖地となったのか。その歴史的理由を探ると、私たち東アジア人の宇宙観や死生観の原風景が見えてくる。(講師記)

 

『大辞林』第三版より

さんきょう【三教】〔「さんぎょう」とも〕 @三つの宗教。㋐儒教・仏教・道教。㋑神道・儒教・仏教。㋒仏教・神道・キリスト教(明治時代の用法)。(以下略)

 

★五岳(五嶽)と三神山(三島)の概念図

 

蓬萊()、瀛洲、方丈     …「東海」の中の三神山

 

         東岳泰山

北岳恒山 中岳嵩山 南岳衡山   …中国大陸にある五岳

         西岳華山

 

望嶽  嶽を望む

杜甫(712〜770)

岱宗夫如何、 岱宗 夫れ如何      タイソウ ソれイカン

齊魯未了。 斉魯 青 未だ了らず   セイロ セイ イマだオワらず

造化鍾~秀、 造化 神秀を鐘め     ゾウカ シンシュウをアツめ

陰陽割昏曉。 陰陽 昏曉を割つ     インヨウ コンギョウをワカつ

盪胸生曾雲、 胸を盪かせば 曾雲生じ  ムネをトドロかせばソウウン ショウじ

決眥入歸鳥。 眥を決すれば 歸鳥 入る マナジリをケッすればキチョウ イる

會當凌絶頂、 會ず当に絶頂を凌ぎて   カナラずマサにゼッチョウをシノぎて

一覽衆山小。 衆山の小なるを一覽すべし  シュウザンのショウなるをイチランすべし

※〇岱宗…泰山の別名の一つ。〇斉魯…斉から魯にかけての地方。

 

下村湖人『論語物語』より

 孔子は、泰山のいただきに立って、ふりそそぐ光の中に、默然として遠くを見つめている。彼を取りまいている門人たちも、石のように無言である。

 空は翡翠のように透きとおって、はてしもなく蒼い。蒼い空のもとに、静かに、しかしその底に無限の悩みをたたえて、中国がその運命的な息を呼吸している。天と地との境はわからない。中国の呼吸が、蒼空の裾をわずかに溶かして、地上の悩みをかくそうとしているかのようである。(中略)孔子がその一生の幕を閉じたのは、七十四歳の春であった。死の七日前、彼は子貢に対して涙を流しながら、次のような歌を歌ってきかしたと伝えられている。

「泰山それ壊(くず)れんか

 梁木それ摧(くだ)けんか

 哲人それ萎(しな)びんか。」

 

『礼記』檀弓上より

孔子蚤作、負手曳杖、消搖於門、歌曰「泰山其乎? 梁木其壞乎? 哲人其萎乎?」。既歌而入、當而坐。

 

芥川龍之介『杜子春』より

鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸(さいわい)、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。

 

『大辞林』第三版より

たいざんふくん【泰山府君】〔「たいざんぶくん」 「たいさんふくん」とも〕

@中国の泰山の神。人の寿命・福禄をつかさどる神として道家でまつる。また、仏教と習合して十王の一人に数えられ、閻魔(えんま)王の太子ともその書記ともいう。日本では素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同一視されて陰陽家でまつられる。太山府君。泰山王。

A能の一。五番目物。世阿弥作。桜町中納言が、散りゆく桜を惜しんで泰山府君にその延命を祈ると、府君が出現し花の盛りを延ばす。

 

『世界百科大辞典』より

【東岳廟】…泰山は古来天神が下り死者の霊魂が寄り集う霊山とされた。その神を泰山府君または東岳大帝といい、人間の寿夭(じゆよう)生死をつかさどり死者を裁く神として人々の信仰を集め、各地に東岳廟が建てられた。現在北京の朝陽門外に残っているのが最も有名で、廟内には東岳大帝や地獄の七十六司をはじめ財神などの神々がまつられて、315日からの祭礼は殷賑を極めたという。

 

『今昔物語集』巻第十九より

「代師入太山府君祭都状僧語第二十四」

(師に代わりて太山府君の祭の都状にいる僧の事第二十四)

今昔、□□と云ふ人有けり。□□□の僧也。止事無き人にて有ければ、公け私に貴ばれて有ける間、身に重き病を受て、悩み煩けるに、日員積て、病重く成ぬれば、止事無き弟子共有て、歎き悲て、旁に祈祷すと云へども、更に其の験無し。而る間、安倍の晴明と云ふ陰陽師有けり。道に付ては止事無かりける者也。然れば、公け私、此れを用たりける。而るに、其の晴明を呼て、太山府君の祭と云ふ事を令(せしめ)て、此の病を助て、命を存むと為るに、晴明、来て云く、「此の病を占ふに、極て重くして、譬ひ太山府君に祈請すと云へども、叶ひ難かりなむ。但し、此の病者の御代に、一人の僧を出し給へ。然は、其の人の名を祭の都状に注して、申し代へ試みむ。然らずば、更に力及ばぬ事也」と。弟子共、此れを聞て、「我れ、師に代て、忽に命を棄む」と思ふ者、一人も無し。(以下、略。ネタバレ自粛)

 

折口信夫「花の話」

文学の上の例として、謡曲の泰山府君を見ると、桜の命乞ひの話がある。泰山府君は仏教の閻魔と同様なもので、唐から叡山の麓に将来した赤山明神(せきさんみょうじん)である。此神に願を懸けて、桜の命乞ひをした桜町中納言(信西の子)の話がある。まことに風流な話であるが、実生活には何らの意味もない。だが、こゝに理由があるのだ。即、桜の命乞ひをする必要があつたのだ。此習慣から、実生活に入つて、桜町中納言を持ち出したのである。

 

『大辞林』第三版より

ほうぜん【封禅】 〔「封」は土を盛り壇を造って天を祀まつること。「禅」は地をならして山川を祭ること〕 中国古代に泰山で天子が行なった祭祀。

※司馬遷の『史記』にも「封禅書」がある。

 

『論語』八佾より

季氏旅於泰山、子謂冉有曰「女弗能救與」。對曰「不能」。子曰「嗚呼、曾謂泰山不如林放乎」。

季氏、泰山(たいざん)に旅(りょ)す。子、冉有(ぜんゆう)に謂(い)ひて曰く「女(なんじ)、救ふこと能(あた)はざるか」と。対(こた)へて曰く「能はず」と。子曰く「嗚呼(ああ)、曾(すなわ)ち泰山を林放にも如かずと謂(おも)へるか」と。

〇旅ここでは、諸侯が行うべき神の祭りのこと。魯国の家老にすぎない季氏が主君をさしおいて泰山で「旅」の祭りを行うのは、礼にはずれた「下剋上」であった。〇林放…孔子に礼の本質を質問したことがある人物。(林放問禮之本。子曰「大哉問。禮與其奢也寧儉。喪與其易也寧戚」)

 

『礼記』王制より

天子五年一巡守。二月、東巡守至于岱宗。

 

『礼記』檀弓下より

孔子過泰山側、有婦人哭於墓者而哀、夫子式而聽之。使子貢問之曰「子之哭也、壹似重有憂者」。而曰「然、昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉」。夫子曰「何為不去也」。曰「無苛政」。夫子曰「小子識之、苛政猛於虎也」。

※「苛政は虎よりも猛なり」の出典。

 

『風俗通義』正失・封泰山禪梁父より

:岱宗上有金篋玉策、能知人年壽脩短。武帝探策得十八、因讀曰八十、其後果用耆長。

俗に説く、岱宗の上に金篋玉策有り、能く人の年寿の脩短を知る、と。武帝、策を探りて十八を得、因りて讀みて八十と曰ひ、其の後果して耆長を用ふ。

〇岱宗…泰山の別名。〇金篋玉策…書類を収める金の箱と、宝玉製のふだによる書類。〇脩短…長短。〇耆長…ここでは長寿の意。

 

以上