■長い独話的履歴■

<生い立ちから学生時代まで>

 タイ仏暦2510年生まれ。父親が転勤族であったため、日本各地を転々としながら受精、発生、分娩、成長を遂げる。母方の祖先が河内方面、父方の祖先が伊賀方面らしいが、それらの土地には一度も住んだことがないため、出身地はどこかと訊かれると困ってしまう。ただし、ディープ・サウス、ラテン大阪人の遺伝子をいくらか受け継いでいることは自覚しており、その文化には多少の民族的アイデンティティを感じている。

 ただし、父の勤務先がIBM社の工場・研究所であったため、高校生までの多くの時期は、もっぱら神奈川県の藤沢市近辺で過ごす。ただし、海よりも山を愛した父親の影響で、意外に海にはあまり親しむことなく、むしろ神奈川県から山梨県にかけての山歩きに親しむ。長じては一時期熱帯の海に魅せられることになるが、サーフィンよりもダイビングに惹かれる。表層を軽やかに駆け抜けるよりも、深層に没入してしまうという気質の影響もあるかもしれない。ミクロネシア・ヤップ島のNature's WayでNAUI Open Water 1ライセンスを取得。

 なぜか物心ついたときより何万年、何億光年という長大な時空のスケールに幻惑されてしまい、父親に連れて行かれた山で見た、降るような星空の印象が原体験として強く刻み込まれたこともあって、小学生のころにはすでに、将来は宇宙論か進化論の研究者になろうと決めていた。

 神奈川県立湘南高校から京大大学院理学研究科へと進学していった約十年の間に、自らの数学的才能の不足に気づきつつ、当初の専攻予定であった天文学は趣味となり、高校、大学と天文系部活動・サークルで活動する。現在は東京都三鷹市在住。国立天文台の周囲に集まるアマチュア天文愛好家界隈に出入りして、それなりに楽しんでいる。

 大学ではけっきょく進化論を専攻。物質的宇宙から神経系を持った生物が進化し、そこから創発されてきた意識が自己言及的に宇宙を認識するというクラインの壷のような感覚に夢中になる。現在に至るまでこだわり続けている「人間原理」という考えに触れたのもこのころのことである。神経系の構造を規定する遺伝子の進化を研究テーマに選び、京大農学部農林生物学科と理学部動物学科で故・井上民二先生、故・日高敏隆先生に師事。おもに昆虫(台湾産のフタホシコオロギなど)を材料にした性淘汰の行動遺伝学を学ぶ。

 根が天文少年で昆虫少年ではなく、昆虫自体を愛することができなかったということと、昆虫の神経系を研究しても人間の脳はわからないのではないか、脳の細かい部分をボトムアップに調べても心の進化はわからないのではないかと、ある意味では至極真っ当なことに気づき、大学院博士課程は東大理学系研究科人類学教室生態人類学研究室に移籍。物理学のバックグラウンドを持つ青木健一先生に師事し、人間の社会行動の進化モデルを研究。博士論文のテーマとして、母系制/父系制の分岐を説明しうる集団遺伝学的な数理モデルの構築を試みるが、ここでもまた数学的資質の不足が災いしたこともあり、博士論文は未完のまま、年限が切れて単位取得満期退学となる。

<大学を出てから現在まで>

 その後、根菜農耕を生業とする母系社会を中心に、文化人類学が研究対象としてきたような社会を実際に訪れてみなければと思い、お茶の水女子大学をはじめいくつかの大学で研究員や非常勤講師をしながら、沖縄〜台湾〜ミクロネシア〜インドネシア〜タイ〜雲南〜ヒマラヤ、メソアメリカ〜アマゾン〜アンデス先住民社会などを歩き回る。そのうちに、そこに住む人々の、アニミズムやシャーマニズムといったコスモロジー(世界観、宇宙論)に魅せられていく。その、一見して非合理としか思えない神話的論理は、理論的に理解するのではなく身体で体感するしかないと考え、無謀にも、アマゾンやメソアメリカの、サイケデリック物質を含む薬草を用いたシャーマニズムや、インドから東アジアに広がったヒンドゥー、仏教思想の瞑想的世界への体当たり的な参与観察を試みる。

 タイの古都チェンマイにあるラム・プン寺で一時出家したり、帰国後、日本でハタ・ヨーガを学んだりする中で、人間は、ふだん現実だと思っている世界が、実は夢のようなものだということに気づくことができるような意識状態をとりうることを体験的に理解(したつもりになる)。またそれが、一見、非論理的で狂気のようにさえ思われる「野生の思考」や「神話の論理」に対応した意識状態であり、それがグローバルな近代化の中で捨象されてきた別種の合理性を持つことを自分なりに発見(したつもりになる)。

 もとより虚弱体質のくせに無理な修行めいたことをしてしまったため、というか、幼少時より親しんできた科学の思考と、世界各地で体感した野生の思考の折り合いをつけるのに苦労する中で、アクリル画を故・パブロ・アマリンゴ氏に師事、裏千家の黒川五郎(宗五)氏に弟子入り、テルミンをロム・チアキ氏に師事するなど、アート系の世界で脳のコリをほぐしながら、学問的にはインド哲学的世界に惹かれつつ、構造主義者になる。

 同時に、そのような神話的コスモロジーが超自然的リアリティを内包していることをどのように理解していいものやら悩み、かといって特定の宗教を信じることもできず、そのスピリチュアル(精神的)な世界とフィジカル(物理的)な世界を、神話の論理と科学の論理を、整合的に対応させられないものかと考え、超心理学論争の世界に参入して行くが、信奉者(ビリーバー)対懐疑派(スケプティック)という不毛な対立の枠組みからいつまでたっても抜け出せそうにない業界の大勢にうんざりさせられる。その枠組み自体に問題があるはずだと再検討していく中で、ようするに、物質的宇宙の中に心とか意識とかいった現象が存在する(と感じる)ことこそが神秘なのだと考えるようになる。

<現在の研究、そして今後の展望>

 こうして、自己言及的な意識を進化させた宇宙の不思議というテーマにふたたび回帰。それは、けっきょく心物問題という古典的な形而上的問題であることに遅ればせながら気づき、出口のない二元論を回避するために実証主義者になったり中性的一元論を模索したり、しかし元々哲学の素養が不足しているので、目下迷走中。ただし、その中でエルンスト・マッハがいう「要素」としての感覚、現代的にいえば「情報」という概念に出会い、そこに有望な可能性を感じていたところで、明治大学に新設された情報コミュニケーション学部に助教授として赴任。その後、大学院の設置をきっかけに、同僚の石川幹人先生らとともに、明治大学意識情報学研究所を立ち上げ、現在に至る。

 現在は、とくに、心理的時間における時間反転対称性の破れが、熱力学の第二法則ではなく、観測による波束の収束という物理的な過程に対応しているのではないかという仮説に半信半疑になりつつも、もしこれが本当なら、イグ・ノーベル物理学賞ものだとひそかに思いつつ、ツェナー・ダイオードに逆電圧をかけたときに生じるトンネル電流の確率が観測者の「意識」と同期するかどうかという実験的研究も、思索の合間にすこしずつ進めている。

 もちろん、進歩するにつれて細分化していく学問の業界の中にあって、あまり大風呂敷を広げすぎると収拾がつかなくなる。大きな問いかけの答えを探す作業は、当然、共同作業であるべきで、一人ひとりの分担として、研究テーマを小さく絞りこんで、そのテーマに何十年も地道に取り組むのも大事なことだし、それがとくに日本の学界では評価される。ただし、自分じしんの分担として、どういう方向からアプローチしたらいいのかがよくわからず、紆余曲折を経てきた結果、ややこしい経歴になってしまったのは事実である。しかし、そうやって試行錯誤をしてしまうのが、むしろ平凡な研究者の姿ではないだろうか。

 ついでに言えば、学問の縦割タコツボ化により、一本一本の木はよく見えても森全体がよく見えなくなってきてしまった弊害というものもある。その中でとくに日本の大学が学際的な総合学部を次々と新設している時代にあって、そういう動きの中に自分のような立場の人間がいても悪くはないだろうと、それなりに自己正当化したりもしている。

 一見、大きくて錯綜したようにみえる問いであっても、最終的な答えはシンプルでエレガントなものに違いないと、意外にナイーブに考えている。そう考えたがるのは理科系人間の発想だと言われればそれまでだが。

(2010/2553-03-12)