卒業生便り

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2022年4月4日

吉弘先生のご逝去を悼み、卒業生の長寿を願う

著者

1. 先生のご略歴
 吉弘芳郎先生、1924年新潟生まれ。2022年3月22日ご逝去。98歳。東京大学、糖化学研究室(多分中村研究室)出身。1961年工業化学科着任、1994年退職。

2. 教育・研究者としての先生:常に先端へ。シュレ-ディンガーの波動方程式
 私は、化学科の6期生として入学。4年生のゼミ・卒論で吉弘研に入り、1994年にご退任になるまで、先生とご一緒させて頂いた。大学での生活を共にした者からすれば、先生は「温厚」なお人であった。
 吉弘先生を語るとき、外せない物語がある。入学後、初めて先生の講義を受けたのは2年生の時である。第一日目の授業はろ過後の洗浄の仕方で、黒板にロートの絵を描き、100の洗浄液を用いる場合、一度に100を注ぐのと、50の二回に分けて洗浄する場合での不純物の除去効果を、数式で示していたことを、いまでも鮮明に覚えている。
 翌年、有機化学の講義を受けたが、その内容は「シュレ-ディンガーの波動方程式」の数学的な解き方であり、超難解な数学の講義であった。当時の有機化学の講義は、ともかく化合物の名前とともに、官能基別の反応を如何に記憶するかに重点が置かれていた。これに対し先生は、有機化学反応を電子論的に捉える道を選び、当時発行された最新の波動方程式の解説書を、日々読破すべく悪戦苦闘をされ、理解した事柄を次回の講義で教えるスタイルであった。当時の先生は、40代半ばであり微積分中心の波動方程式の解法は、先生にとっても超難解だったようである。理解できないところは数学の片岡先生や井上先生に教えを乞うなど、理解するためには体面も構わず突き進む先生だと、おぼろげに記憶している。
 4年生になってのゼミは、吉弘先生がさらなる有機電子論の理解を深めるべく選択した英語版テキストで、当時は英語+有機電子論の内容を理解するには苦労の連続でもあった。吉弘先生が先鞭をつけた有機電子論の講義内容は、時代の流れでもあり、その後工業化学科から応用化学科への名称変更時に「フラスコからコンピュータまで扱える科学者・研究者・技術者の育を合言葉成」とする情報化学実験の新設へと繋がることとなった。
 このように先生は、時代の先端を目指し常に先を見つめているお方であったと、今にしてもそう思う。

3. 先生の長寿を思うとともに、卒業生の長寿も心より願う
 先生が長寿であったことを思うにつけ、人生100歳の時代を迎え、卒業生にお願いしたいことが、ひとつだけある。それは「化学薬品の危険性=発がん性」である。以下に、このような事例を具体的に書くことが適切なことかどうか分からないし、医学的に因果関係あるかどうかも不明である。しかしながら、具体的な事例としてご退職された先生についての話を書き残したい。

U先生:この先生も吉弘先生と同様温厚で紳士的な先生であった。U先生の研究成果である「スルファミン酸合成」は、無機化合物ながら気相反応をベースとしたもので、人工甘味料として商業化された。U先生にも糖尿病の卦があり愛飲されていたが、数年後「スルファミン酸」には発がん性があるとのことで、発売中止となった。しかし、時すでに遅く、胃がんを併発しお亡くなりになった。

N先生:N先生は高純度ゲルマニュウム製造に用いられたゾーン・メルティング法を有機化合物に応用し、超高純度精製物質の熱力学的な解析により学位を取得された。N先生の実験室にはアゾベンゼン・水銀などが散乱していたと記憶している。先生は結果として、肝臓がんを患い、現職のままご他界となった。

「ガンになることを避けることはできないが、ガンで死ぬことは避けることができる」。この言葉は、私が40歳で大腸がん検診を受けた時の医師の言葉である。「わが身を守る最善の武器はがんの早期発見=検診」に尽きる。

卒業生の皆さんは、吉弘先生の長寿を思うにつけ、心当たりがあれば、40歳からは「がん検診」を必ず受診しすることを強くお勧めする。

                                                   合掌

   

2022年3月24日

吉弘先生を偲んで

著者

この度、吉弘先生の突然の悲報に接し、大変驚いています。いつまでも長生きしてくださるものと思っていましたので、残念でなりません。
私は1964年、工業化学科に入学しました。因みに私達の期から、4年間通して生田校舎で学びました。4年次に吉弘ゼミに入り、卒論も吉弘先生の指導を仰ぎました。
卒業後も八千代台の先生のご自宅まで伺い、仕事の事・プライベートに至るまでご相談し、アドヴァイスを頂きました。
 余談ですが、その当時先生は、庭でバラを育てており、「手間暇かけた分バラは綺麗に咲く」と説明していただき、「人材育成にも繋がっているのかな」と自分なりに解釈しました。当時園芸の知識が乏しい私でしたが、後に「バラ園・植物園」でバラを鑑賞する機会が多くあり、その度に、バラが好きな先生の事を思い出しました。
 会社を退職した後、中小企業の海外進出の専門家として仕事をしていた時も、時折先生のご自宅を訪問し、いろいろ会話をする中で、海外事情について多くの質問を受けました。いまだ衰えない旺盛な知識欲には驚かされました。
 記憶に残っているイベントは、「明治大学理工学部応用化学科50周年記念」です。その時先生は名誉教授として招待され、私が先生のアテンド役を務めました(先生はタクシー嫌いで、ご自宅から電車で移動)。会場には大勢の卒業生が参加され、ゼミごとに30テーブル用意された大イベントでした。先生は多くの教え子に囲まれ、久々の対面でしたので大いに盛り上がり、その時の先生の生き生きしたお姿を鮮明に覚えています。
 もう一つ思い出として、先生の卒寿を吉弘ゼミOBの有志で、ご自宅の近場でお祝いしました。私が学生の時の先生、90歳になった先生、何時も変わらず、「柔和な佇まい、示唆のとんだスピーチ」。「皆さんの思い出になれば」と、その時の写真を添付しますが、先生独特の雰囲気がでています。
 最後に「1995年版 吉芳会名簿(吉弘芳郎先生の頭文字)」に記されている先生の座右の銘を紹介します。

「良き朋友  良き先輩  良き後輩  素晴らしき哉!」
吉芳会   吉弘 芳郎

人間をこよなく愛した先生の銘です。これからも先生の銘を心に刻み、生きてゆく所存です。
改めて、在りし日の吉弘先生を偲びつつ、ご冥福をお祈りします。
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2022年2月4日

この2年間を振り返って①

著者

 日本にてコロナウイルス感染者が初めて確認されて2年が過ぎました。この2年間で日常は大きく変化し,大学では,「対面での授業」が実施できなくなりました。私自身,対面での授業がなくなるなど,夢にも思っていませんでした。この2年間における大学内の状況を少し振り返ってみたいと思います。

<2020年2月〜3月頃>
 1月15日に日本で最初の感染者が確認されて以来,少しずつ感染者は増えていました。大学では定期試験,大学入学試験,そして卒業論文など,最も忙しい時期でしたが,その頃はマスクを着用しながらも,それまでと変わらず過ごしていたように思います。
 しかし,3月になっても感染者は徐々に増え続けていました。大学では飲み会などの自粛,卒業式の中止など,コロナウイルス感染症の影響がで始めていました。本来なら,卒業生の門出を祝い,学生との思い出を作る予定でしたが,イベントはすべて中止となりました。

<2020年4月〜8月頃>
 4月に入り緊急事態宣言が発出され,それに伴い大学の授業はすべてオンラインとなりました。それまで経験したことのない授業形態となり,その準備に追われることになりました。学生さんは慣れないオンライン授業でとても苦労したと思います。特に新入生は,描いていたキャンパスライフをおくることができず,つらい状況であったと思います。教職員,学生共にストレスを抱えながらの春学期だったように思います。
研究活動もまた在宅に切り替わりました。普段,大学で実験している学生は大いに戸惑ったと思いますが,一方で研究についてじっくり考える機会は少なくなかったように思います。実験ができないことをネガティブに捉えるより,実験ができないからこそやれることもあるので,研究に限らずポジティブに捉えて過ごしてほしいと思っています。
 さて,明治応用化学会に関連する話題として,「応用化学概論2」の授業について状況をお伝えします。応用化学概論2はゼミ形式の授業であり,工業化学科,応用化学科の卒業生を講師として招聘して実施しています。ゼミの内容は,会社のこと,自ら学んだ経験など,講師の方に自由に設定して実施いただいています。この授業も例外なくオンラインとなり,2020年度は「授業動画の配信」と「Zoomによるリアルタイム授業」にて実施しました。オンライン授業で良かった点として,遠方の卒業生に授業を実施していただいたことです。これまでであれば,授業を行うために大学に出向く必要がありましたが,オンライン授業により自宅や職場から授業を行っていただくことが可能になりました。なかには,会社のショールームから授業を配信していただいた卒業生もいて,学生には大変好評でした。これからは対面授業を中心に行いながらも,オンライン授業の良さも取り入れて実施できればと考えています。
 卒業生の皆様も日常生活や働き方が大きく変わり,ご苦労されていたと思います。それにもかかわらず,本科目の講師をお引き受けいただき,大変感謝しています。人とのつながりを大切にし,困ったときに助けていただける卒業生がたくさんいることが,工業化学科・応用化学科の誇りだと改めて気付かされました。次年度(2022年4月から)も応用化学概論2が実施されますが,多くの卒業生に講師として授業を実施していただき,社会での経験を在学生へ伝えていただきたいと思っています。授業の詳細は明治応用化学会ホームページ(http://www.isc.meiji.ac.jp/~chem50an/index.html)よりお知らせしますので,気軽な気持ちで構いませんので,ご協力をお願いいたします。

 少し長くなりましたので,2020年9月以降については、改めて書きたいと思います。

  

2022年1月6日

明治応用化学会(応化会) 会長職就任挨拶、新年挨拶

著者

明けましておめでとうございます。コロナ禍での生活が3年目に突入しました。2022年、これからの一年、会員の皆様方が健康で過ごされることを願っております。さて、この度の明治応用化学会臨時総会において、私、岩橋が会長職を拝命することになりました。大それた目標を掲げるには、正直年齢が行き過ぎていますが、副会長職をご快諾いただいた「鈴木義丈氏:組織委員会委員長、田中文典氏:事業委員会委員長、高橋正明氏:広報委員会委員長」の3名の強力なサポート体制が整いましたので、頼もしく安心して会長職を履行できます。
 私の「座右の銘」と言ったら大袈裟になりますが、常日頃心掛けていることがあります。それは「自分の身の丈を知り、行動する」ということです。果たしてこの度の会長職が、身の丈に合っているのかと自問すると、即答に窮しますが、引き受けた以上は、満身創痍の気持ちで行動する所存です。“身の丈”という表現は、自ら限界点を設けているのではないかと指摘される場合がありますが、私の“身の丈”の解釈は、その時点で自分の状況に応じた“到達点”を意識することであると考えます。すなわち、自分の“身の丈”とは自分が作り出す目標(フラッグ)であり、時々刻々と変化しなければなりません。年齢には関係ないのです。2019年に寄稿した文面にも、同様のことを述べさせていただきました。
 昨今、世界は自分たち人類のエゴイズムによって地球へ与えたダメージを、どのようにして再生するのかをようやく本気で考え始めました。Cop26では地球の気候変動対応策としてCO2排出量の削減目標を設定し、SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)という聞きなれない言葉も生まれてきました。フードロスに関しては、残念ながら日本は世界のトップランナーのようです。大量消費、使い捨てを美徳とする文化が生まれ、さらに、作りたてを食する、期限(時間)が来たら廃棄するのは当たり前という文化も出来上がりました。店頭で商品が欠損することを許さない消費者、過剰に作ってしまう食品、衣料品等々。行き着く先は廃棄。東京オリンピック2020でも食品(弁当)の廃棄がTVで流れていました。担当部門の言い訳は、決まって「不測の事態が起こった、想定外であった」という決まり文句です。飽くなき快楽(快  適)、利便性の追求、すなわち我慢を忘れてしまったことによる必然的な結果が、今の地球の姿と言っても過言ではないでしょう。
 2020年度、全国的に大学の講義はオンラインが主体となり、大学生としての自覚が薄らぐのでないかとの危惧がありました。保護者からは「我が子を通信大学に入学させた覚えはない」などという意見も出ました。2021年度、明治応用化学会がバックアップして進めたオムニバス形式の授業である「応用化学概論2」も、オンライン授業と対面授業の併用になり、社会人としての経験談話は伝え難い状況が続きました。来る2022年度は対面での講義やゼミナールが可能になり、学生諸君との会話が出来る日々が戻ってくることを期待します。
 以上、思いつくままに書かせていただきました。乱筆乱文になったことをご容赦願います。

  

2021年7月5日

倉田武夫名誉教授の悲報に接して

著者

明治応用化学会初代会長倉田先生の悲報に接し、突然のことに大変驚いております。
先生は明治応用化学会の立ち上げにご尽力され、これからもご指導ご鞭撻を頂かなければならなかっただけに残念でなりません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

2021年3月26日

応用化学科及び応用化学専攻をご卒業・ご修了される皆様へ

著者

本日、学位記授与式の喜ばしい日を迎えられた学部卒業生の皆様及び大学院修了生の皆様、誠におめでとうございます。明治応用化学会を代表致しまして、心よりお祝いを申し上げます。また、学科長をはじめ諸先生方のご功労に対し改めて敬意を表したいと思います。
これから新しい生活に一歩を踏み出す皆様は、それぞれの未知の世界に向けて思いを新たにしていることと思います。皆様が過ごされた大学生活、特に最後の一年間は混乱と不安の中で様々な制限を受けながらも他の何人とも異なる学びをしました。「過去は未来の収穫を育む畑だ。」という言葉があります。コロナ禍を乗り越えてきた経験はこれからの人生で必ずや活かされる時があると思います。
皆様にはこれからそれぞれの新しい日常が待っているわけですが、一番大事なことは、健康に気を付けて欲しいということです。今や人生100年時代に突入し、長い社会生活を歩きとおすには、健康でなければなりません。健康であることのありがたさは、働き始めると実感すると思います。精神面を含め健康を維持できるよう自己管理を怠らないようにして下さい。そして、多様な人々との直接の出会いを通して自分自身を常に磨くことを忘れないで下さい。
さて、皆様にひとつお願いがあります。それは皆様が学生生活を過ごした明治大学応用化学科との「絆」をこれからも大切にして頂きたいということです。皆様は卒業と同時に明治応用化学会の会員となりますが、明治応用化学会は「卒業生と在学生との懸け橋を築こう」というスローガンの下、卒業された皆様と在学生、大学とをつなぐ交流の場を提供することを目的として活動しています。ホームページも活用しながら「明治応用化学会」の活動に加わって頂き、先輩、後輩、諸先生方との交流を深めて頂きたいと思います。
最後になりますが、卒業生の皆様の社会でのご活躍を心より祈念致します。

2021年1月1日

新年あけましておめでとうございます

著者

 あけましておめでとうございます。会員の皆様におかれましては、お健やかに新しい年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 昨年明治応用化学会に賜りましたご支援とご協力に厚く御礼申し上げます。どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、昨年は新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的な蔓延により、日常生活はもとより社会・経済活動や人々の交流などが著しく制約されてしまいました。
 明治応用化学会におきましても、「新型コロナウイルス感染拡大防止のための明治大学活動制限指針」に従い、応用化学科ホームカミングデーに計画しておりました応用化学科60周年及び明治応用化学会10周年記念イベントや総会などの事業が実施できませんでした。
 そのような状況下で、広報委員会の皆様のご尽力により、昨年7月に応用化学会のホームページが刷新されました。今回はスマートフォンやタブレットにも対応したことで端末の種類を問わず閲覧できるようになりました。より多くの会員の皆様にご覧頂き、ご活用頂けることを期待しております。ホームページも活用しながら「OB・OGと現役学生との懸け橋を築こう」という設立当初からの目標を達成して行きたいと思います。ぜひとも、若い卒業生の皆様方の積極的な参加をお願い申し上げます。
 引き続き新しい生活様式を実践し感染防止に努めることに加え、新型コロナウィルスに対するワクチンの接種が始まったことにより、今年はこの感染症が終息し、元の日常となることを願っています。  会員の皆様のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げ年頭のご挨拶と致します。

あれやこれや

 緊急事態宣言が一部解除という明るいニュースがありましたが、今なおStay Homeでここが辛抱のしどころと言われています。皆様はいかがお過ごしでしょうか?そろそろ退屈している人もいるのではないでしょうか。そんな人に「話のタネ」になればと思い身近な情報を発信してみました。

[1] ポリプロピレンとマスク
 5年前まで、毎年秋口の頃になるとプロピレンからアイソタクチックポリプロピレン(以降PPと略す)の合成について触媒の歴史とその反応機構を講義していました。ちょうどそのころ教室では、何人かの学生がマスクをしています。そこで皆に質問をします。
 「今日何人かの学生がマスクをしていますが、マスクの素材は何でしょうか?」
 えー・・・・、しばらくシーン、その後ざわざわ、
 「素材は、これから講義をするPPです。」
 うそー、ほんとー、
 「PPを不織布にし、マスクにしたものがそれです。」
 今マスクを入手するのが極めて困難ということで、早く新型コロナウイルスが終息するように祈るばかりです。当時は一枚10円位で誰が名付けたのか、「使い捨てマスク」と言わ れていました。  PPの不織布は、自動車部品など多方面で用いられています。PPは、熱可塑性ポリマーの中では、融点が高く、電子レンジ対応の容器としてもお馴染みです。ただPPの短所は、色づけが難しいこと、耐光性が低いことが挙げられています。PPを語ると長くなりますので、この辺で。

[2] ろうそくの科学
 ノーベル化学賞を受賞された吉野彰先生が、「ろうそくの科学」に感銘され、皆さんに推薦します、と言われてから書店の店頭には、複数の出版社からの本が並んでいました。小生 は、立ち読みでその中から下記の一冊を購入しました。尾島好美訳編、白川英樹監修、「ロウソクの科学」がおしえてくれること(サイエンス・アイ新書 2018年)
  「ろうそくの科学」の内容は、既にご存じと思いますが、マイケル・ファラデーがロンドンの王立研究所で一本のろうそくが「なぜ燃えるのか」、「その間何が起きているのか」ということを、実験を通して明らかにしていきました。時は、1860年ですから今から160年前のことです。今回購入した本は、大変カラフルで実験の様子が手に取るようにわかります。また個人でも実験ができるように工夫されています。監修されている白川英樹先生もご存じのように、ノーベル化学賞を受賞された先生です。小生が、これまで持っていた「ろうそくの科学」は、下記の著書です。
 ファラデー述、白井俊明訳、「ろうそく物語」(法政大学出版局、1968年)
 この本は、縦書きで実験装置等は全て手書きです。単位には、インチ、ポンド、パイント(容積)が使用されていますが、大変読みやすい本です。上記2冊の本をじっくり比べながら読みたいと思っています。
  追記:吉野彰、白川英樹両先生には、応用化学科50周年の際に応用化学科にお越しいただき、その上吉野先生には、記念式典の記念講演会でご講演いただきました。
  

[3] 新しい元素周期表
 5月1日の新聞に、京都大学の萩野浩一教授の研究チームが新しい周期表を学会発表したニュースが掲載されました。原子核の安定性に注目した周期表とのことです。これまでの周期表とは違う性質や傾向が見い出せると解説されていました。その後いろいろ考えてみましたが、小生にはどのような利点があるのか、どのように利用すればいいのかわかりません。どなたかこの記事について説明をしていただけないでしょうか。
この項は、お願いをして終わりです。よろしくお願いします。

明治工化55年卒 近況報告

昭和55年工業化学科卒業の同期7名の近況を報告します。この7名は、60歳を過ぎても元気に仕事をしています。他の同期の皆さんも近況をご連絡ください。

(内海;倉田研)
15日から臨時休校なので、市の非常勤講師は出勤だけはしていましたが、21日から在宅勤務になりました。
出勤してもやっていたのは教材研究。とりあえず1日までは在宅勤務、その後7日に出勤する予定ですが、休校は延びると思います。
家では片付け(断捨離を含む)をしています。(4月26日)
県教育委員会は、5月いっぱいの休校を決定。よって、市教育委員会も5月いっぱい休校にするでしょうから、5月いっぱい在宅勤務ですね。(4月27日)

(鎌田;貴家研)
試行テレワークで思ったこと。
PCを持ち出せないので、通常業務はほとんどできませんでした。ならば、休校になった旧小学校にサテライトオフィスを作って欲しいが、(市に)予算があるか?(4月28日)

(塩野;貴家研)
愛知県知事の緊急事態宣言を受け、時差出勤及び接触を防止した対策を行い、出勤している。この状態は、5月末まで継続する。5月からは、一時帰休も開始予定であり、給料も少し減額となる。通勤は自家用車であり、会社までは人との接触はない。私は、テレワークの環境が整っていないこと、テレワークだけでは仕事を行うことが難しいことから、在宅勤務はしていない。
ゴールデンウィークの期間中は、国及び県の緊急事態宣言を受け、買い物以外は外出を控えている状況です。また、これまで店頭販売では、全くなかったマスクが出始め、購入して使用している(一人一箱限定)。尚、価格は、従来の7~8倍。
幸いにも、我が町内ではコロナ感染者は出ておらず、今後も自分でできるコロナ対策(手洗い、うがい等)を継続して行っていく。いつになったら収束するのだろうか。
皆さんもコロナ対策を継続するとともに健康に留意してください。(5月5日)

(篠宮;貴家研)
医薬品工場や食品工場向け生産財(フィルター)のメーカーに勤務。事務所が都内のため、4月8日より在宅勤務を開始し、5月末までの予定。
工場勤務者以外の会社全体で、テレワーク化されたが、会社の売上はダウンすることなく順調です。ただ、個人としては営業の仕事をしているため、お客様との直接の面談ができず、時間を持て余している状況。
今までも外出が多く、テレワークが進んでいましたが、電話やメールに加え、社内・お客様とのWEB会議が多くなり、この状態を機に、今後足で稼ぐ営業の形から、インサイドセールス化が進むと予想しています。(5月6日)

(白濱;貴家研)
建設業は比較的3密になりにくく、本社等の内勤は在宅勤務になっていますが、現業はほぼ通常勤務です(大手の清水などは現場も閉鎖していますが…)。
GWは休んでいますが、11日からはほぼ通常業務です。
高速道路は5,6月に集中工事があるので、私もこれから夜勤や現場が待っています。(5月5日)

(高久;竹内研)
3月末から4月15日までテレワークでしたが、出勤を最小限にするため、5月末まで一時帰休中。
実験、分析等は、100%テレワークは難しいです。また、海外の売上げ比率の高い企業にとっては、厳しい状況です。
オンライン飲み会をやってみました。少人数であればグループラインのビデオ通話、10人程度ではMicrosoftのTeamsを使いました。(5月6日)

(髙橋;竹内研)
国の緊急事態宣言の発令を受けて、会社から公共交通機関を使っての出勤が禁止されたので、8日から在宅勤務中です(自家用車、バイク、自転車、徒歩による出勤は可なので、工場を含めて約半数が出勤)。この間、会社の先輩に自家用車で迎送してもらって一日のみ出社。
パソコンとメールでほとんどの仕事はできるので、約3週間の在宅勤務に必要な書類とデータは持ち帰りました。ただし、使うパソコンは個人の所有物。悲しいかな、中小企業のセキュリティ対策は道半ば。仕事に集中できるのは良いのですが、手元に必要な資料がなくて不便を感じることもあります。(4月26日)
往復の通勤時間がないのは楽ですが、家でもほとんど動かないので(加えて、ソフトボールの試合と練習は5月末まで中止)、太り気味。そこで、朝(仕事前に)1時間程度のウォーキングを始め、今週からはジョギングも組み入れました。
ゴールデンウィークに入る前に、5月7,8日も公共交通機関を使っての出勤が禁止されましたが、昨日、緊急事態宣言は31日まで延長することが決定されたので、次回出社は6月1日? これでは仕事が滞る!!(5月5日)

当社の対応状況

弊社の現状をお伝え致します。
 弊社はメーカーであり、且つ食品を扱っておりますので、工場は粛々と生産活動を必要最小限の人員で行っています。緊急事態宣言発令後も極力人との接触を抑え、3蜜を防止しつつ事業を継続しております。ロックダウンや社員に発症者が出た場合等の対応が難しいところですが、対応マニュアルを作成してマニュアルに沿った形で対応して行きます。また保健所との連携も深めて対応して行きます。
 また、今の所問題ありませんが、原料調達にも不安があります。
 管理部門、技術部門、営業部門は交代で在宅勤務を行っていますが、弊社はIT化が遅れていて対応が難しい状態です。しかし、これを機にIT関連の整備が進んでおり、これに関してはコロナウイルスのおかげです。(笑)
 そして私は、日々変わる状況の中、役員は車通勤となり毎日役員会を行い、対策の検討、想定シミュレーション決定事項の社員への通達・徹底に振り回されている状態です。
飲みにも行けずストレス溜まっております。
 コロナウイルスが収束した際は皆さん大いに飲みましょう!
 このような状況ですが皆様ご自愛頂き、何とか乗り切って参りましょう!

在宅勤務を経験して

私の会社では感染が問題になり始めた2月中旬に社内対策室が設けられ、早い段階で時差通勤、テレワークが可能となりました。3月末の感染者増加で会社指示が強化され、期初社長メッセージには、「積極的な在宅勤務/時差通勤/休暇取得」が急遽盛り込まれました。
 3月初旬のまだそれほど大きな問題になってない段階での在宅勤務は気分的にし辛く、先ずは時差通勤をしてみようと、電車での混雑を避け、これまでの9時から1時間早い8時に出社する事にしました。長年続けてきた出社時間を1時間も早めたらどうなるだろうと心配に思いましたが、明るい時間の帰宅はとても新鮮で、夜の時間にゆとりが出来、健康的に過ごせたと思います。
 会社指示強化の4/1より在宅勤務を始めました。3月にトライアルで行った方々からは、「食卓や座卓で一日中パソコンを見続けて疲れた」とか「気分転換も必要」とか「食事が不規則になる」といった生活に関する意見が多く出ていました。私は”環境第一”と考え、14型のテレビをモニタ替わりにし、キーボードとマウスを探し出し、ちょっとお気に入りの物を置いて気分を盛り上げ快適に仕事を行っています。
 先週から朝10分程度「Google ハングアウト Meet」を使ってグループメンバーで小ミーティングを行う事になりました。固定電話とFAX、伝票は手書きの時代からすると、考えられない便利さです。グループメンバーと顔を見ながらの会話も出来ますし、このまま在宅でも問題なさそうな気がしてしまいます。
 会社活動としては、多くの顧客が自宅業務となり、海外出張も当面禁止で、グループメンバーからは心配の声が挙がり始めています。が、先を案じて不安に思うよりは、今出来る事、今しかできない事を積極的に行い、前向きに過ごす事が今の状況では大切と思います。
一日中家での生活は不健康と考え、お昼時間に軽めの散歩をしたりしますと様々な発見があります。GWの帰省は叶わず楽しみにしているタケノコも諦めなので、意を決し初めてスーパーにて福岡産タケノコを求め、夕食に春巻きを作りおいしく頂きました。気分転換と新しい事にチャレンジ!で日々過ごしております。
 今後が気になる所ではありますが、感染予防に努め、少しでも楽しい事を見つけて乗り切りましょう!

ロックダウンとロックアウト

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、明治大学は4月8日から5月6日までキャンパスへの立ち入りを禁止にする、いわゆるロックダウン(Lockdown、キャンパス封鎖、教員も学生も大学に入れない)体制に入った。明治大学の長い歴史(創立139年)の中で初めての経験ではないでしょうか。私(倉田)のように大学において実験を中心に生活して来たものにとっては、たまらない措置に思います。しかし今回の新型コロナウイルスのような目に見えない相手に対しては、大変重要で適切な措置と考えられます。今年は卒業式も入学式も中止になり、卒業生はもとより新入生も残念でやりきれない気持ちで日々を送っていることと思います。一日も早く終息に向かうことを祈るばかりです。
 ロックアウト(Lockout、大学紛争時における大学側の過激派学生への対抗措置)は、1960年代後半から1970年代にかけて、大学紛争が激しかった時たびたび耳にした言葉です。学生運動において過激派学生は、机やいすを用いて校舎の入り口にバリケードを築き、自分たちの主張を大学側に認めさせようとしました。これを受けて大学側も逆に大学をロックアウト(学生の大学への入校禁止)し、対抗するという状況がありました。私がちょうど学生時代で、「今日も大学は休講だ」ということで、下宿でゴロゴロしていたことを思い出します。しかしロックアウトの場合は、話し合い(?)と時間が解決してくれたように思われます。
 ロックダウンとロックアウトについてメモ書きをいたしましたが、どちらも嫌な言葉ですね。
 応化会のメンバーの皆様には、元気でこの難局を乗り越えられるよう頑張って頂きたいと思います。
 注:明治大学は、ロックダウンという言葉を使っていません。

令和2年3月23日

学科ならびに応用化学専攻を
  ご卒業・ご修了される皆様へ

著者

卒業生の皆様、ならびに大学院修了生の皆様、皆様の新しい門出を祝い、明治応用化学会を代表致しまして、心よりお祝いを申し上げます。また、学科長をはじめ諸先生方のご功労に対し改めて敬意を表したいと思います。
 本年は、新型コロナウィルスの蔓延を防ぐために卒業式が中止となり、皆様におかれましては大学生活最後の大事な思い出を作ることが出来なくなりましたが、気持ちを切り替え、新しい世界に進んで下さい。
 皆様にはこれからそれぞれの新しい日常が待っているわけですが、一番大事なことは、健康に気を付けて欲しいということです。人生100年時代に突入し、長い社会生活を維持するには、健康でなければなりません。健康であることのありがたさは、働き始めると実感すると思います。働き方改革により70歳までの就業機会が確保されることを踏まえ、精神面も含め健康を維持できるよう自己管理を怠らないようにして下さい。
 そして相手の立場を考えて行動し、自分自身を常に磨くことを忘れないで下さい。仕事にかかわることは勿論のこと、人間関係も含め社会に出てからが本当の勉強になります。明治大学の合言葉「前へ」の精神で、困難や難題に直面してもひるむことなく、「夢」の実現に向けて、積極的に、自信を持って、しかしながら、素直に、謙虚に、笑顔を忘れずに、頑張って頂きたいと思います。
 さて、皆様にひとつお願いがあります。それは皆様が学生生活を過ごした明治大学応用化学科との「絆」をこれからも大切にして頂きたいということです。大学を卒業してしまいますと、学校との距離はどんどん離れてしまい、皆様は大学という貴重な財産を手放すことになってしまいます。明治応用化学会は「卒業生と在学生との懸け橋を築こう」というスローガンの下、卒業された皆様と在学生ならびに大学とをつなぐ交流の場を提供することを目的としています。是非「明治応用化学会」の活動に加わって頂き、先輩、後輩、諸先生方との交流を深めていただきたいと思います。
 最後になりますが、卒業生の皆様の社会でのご活躍を心より祈念致します。

令和2年3月23日

新型コロナウイルス感染症の影響拡大による応用化学科の現状

 日本国内における新型コロナウイルス感染症の影響拡大から、健康と安全の確保を優先して、授業開始日を5月7日(木)まで繰り下げることとなりました。卒業式及び入学式の中止だけではなく、新入生や在学生への学習指導週間におけるガイダンスがWEBによる動画配信、書類ダウンロードによるものとなり、例年と異なる新年度を迎えました。
 例年であれば新入生歓迎ムードで盛り上がっているキャンパスも人影が少なく、とても静かです。さらには、研究活動の自粛により閉鎖している研究室も多く、新型コロナウィルスの影響の大きさを感じています。明大生が安心して勉学に励めるよう、月並みですが応用化学科 ONE TEAM でこの局面を乗り越えられるように努力していきます。
 「明治応用化学会」の皆様も引き続き十分な予防対策を取りつつ、ご自身の体調にご配慮いただけますようお願い申し上げます。

校舎

流れのなかの応用化学科

著者

昨年11月,後輩の研究進捗に興味がわき,ポスター発表会を聞きに大学を訪れた。8ヶ月前までは毎日のように足を運んだ研究棟は,まだ記憶が新しいはずなのに,どこか遠くの存在に感じられた。
 8カ月前,私はどのような想いで応用化学科を後にしたのだろうか。ふと考えると,なじみの環境から離れるさみしさよりも,揚々とした気持ちが支配していたことを思い出した。それは,生物を探求した者らしく,動的平衡(Dynamic Equilibrium)という言葉をこの組織に当てはめたからだ。

“「生きること」は「代謝すること」”
 食物が口から入り,やがて老廃物として出ていく過程,われわれ生物はその影,一種の淀みでしかない。生きているということは,この動的な平衡状態を保つということなのだ。高校2年の夏,この福岡伸一氏の著書「生物と無生物のあいだ」の記述に心を打たれ,それ以来,生物の代謝機構に魅了されつづけた。
 思えば,大学で取り組んだ研究テーマも,奇しくも代謝,とりわけ骨代謝に関わるものだった。骨組織は一見固定的に感じられるが,実際は自らの細胞によってこわされ,自らの細胞によって動的に組み立てられている。わずか3年で全身の骨が置き換わるにもかかわらず,微小な変化が起きていることに気がつかないほど精密で,驚くほどに全体の秩序は自然と維持されているのである。

これは生物の振る舞いに限ったことでなく,この世の中の根底に流れる真理のようなものと感じている。何かが生き生きと活動していくためには,構成している個々の因子に活力があるだけでなく,全体が大きな流れの中にある必要がある。活発で生きた状態を維持している組織には,古いものを除きながら新しいものを盛んに取り入れる許容性,流動性,柔軟性を少なからず存在しているように思える。

大学を離れるころ,私はこのような動的な平衡状態を,この応用化学科に望んでいたのだ。だから私は,悔いではなく自信をもって,毅然とした態度でここを後にしたのだ。過去や常識に固執せず,つねに新しさを追い求めることで,生まれ変わる組織でありつづけてほしい。応用化学科OBとして,後輩たちのさらなる飛躍を願ってやまない。

最近思うこと。。。

著者

今まで大学・学科の近況報告を書くことが多かったが,今回は私自身の思うことを,気ままに書こうと思う。
 年が明けて,早くも2月になった。普段私は朝9時頃には大学に着き,コーヒーを淹れて仕事を始める。途中,昼食を食べ,学生と研究に関する議論や日常会話をして,コツコツ仕事をすすめる。そしてふと気づくと外は暗くなっている。あっという間に一日が終わり,帰路につく。忙しいときほど,一瞬で夜になっている気がする。
 1月と2月は,教員だけでなく学生も大変忙しい。定期試験,卒業論文,修士論文,そして就職活動。研究室では,卒業論文や修士論文の提出が間近に迫った学生が,気合を入れて研究の追い込みをしている。そんな学生に触発され,私も良い成果につながるよう,頭をフルに使って学生と熱い議論を毎日交わす。研究室に配属された頃は,教員と学生という関係から,私が一方的に話すことが多かったが,この時期になると共同研究者として対等に意見を交わす。良い結果ばかりではないが,学生と論理的に議論するのは,とても楽しい時間である。そんな楽しい研究活動を通して,成長していく学生を見られることは,この仕事における一番の幸せだと思っている。
 卒業が近くなると良い結果が得られることが多いように感じる(共感する方がいるのではないでしょうか?)。そして,もう少しで論文になる!学会で発表できる!というところで,学生は卒業してしまう。研究は自身で区切りを決めないと終わりがない。区切りを決められないからこそ,次の年も研究を継続してしまう。もしかしたら,もっとすごい結果につながるかも!という欲深いところが,私の悪い部分だと思っている。
 学生はこの時期何を思い,何を考えて過ごしているのだろうか。もちろん置かれた状況もよるが,学生時代の私は「その時を楽しむ」ことしか考えていなかったように思う。それが正しかったかわからないが,間違いだったとも思わない。友達,先輩・後輩,先生方など,いろいろな人と出会い,交流を深め,一生の仲間にも出会えた。私は今も楽しく過ごしているが,学生時代と大きく異なるのは「責任」が増えたことだと思う。非常に重い言葉だが,責任を伴うからこそ全力で楽しんでいる。
 天気の良い,暖かい日差しを浴びながら,ふと気持ちを楽にして書いてみました。相変わらず文才がありません。とりとめのない文章を読むことも良いと思い,こんな巻頭言を...。卒業生の皆様,どんな内容でも構いませんので,近況を応用化学会(chem50an@meiji.ac.jp)にご連絡いただきたいと思います。

2020年1月1日

新年あけましておめでとうございます

著者

皆様におかれましては、輝かしい新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
旧年中は会員の皆様をはじめ、関係各位にご支援ご協力を賜り、改めて厚く御礼申し上げます。
 本年も明治応用化学会に変わらぬご支援とご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。
さて、昨年は、5月に平成から令和へと元号が変わり新しい時代が始まりました。7月には北野 大 氏が明治大学校友会の会長にご就任され、また、10月には応用化学科創立50周年記念式典の際にリチウムイオン電池について記念講演を行って下さいました吉野 彰 先生がノーベル化学賞を受賞されるという、明治応用化学会にとりましてよろこばしい年になりました。
 本年は、応用化学科創立60周年という節目の年であり、本会の創立9周年となります。現在、約7,000名の卒業生の皆様が明治応用化学会の会員でございますが、今一番切望されているのは若い会員の人達の応用化学会活動への参加、活躍です。幅広い年代の人達に参加して頂くことにより、当会の目標である「現役学生と卒業生との交流」はもとより、「年代を超えた卒業生同士の交流」も活発化することができると思います。
応用化学科のホームカミングデーに開催されます応用化学会の総会には、会員の皆様が一堂に集いますので、総会にぜひご参加くださいますようお願い致します。
最後に、会員の皆様のご多幸とご活躍を心からご祈念申し上げ、新年のご挨拶と致します。

明治応用化学会の総会および
 ホームカミングデーについて

著者

先日,11月23日(土)に明治応用化学会のホームカミング講演会,総会および懇親会が開催されました。加えて,応用化学科のポスター発表会も共催しました。詳細な開催報告については,ホームカミングデーの項目(リンク)を閲覧いただければと思います。

【ホームカミング講演会】
 本年度応用化学科に着任された岩瀬顕秀准教授より,「エネルギー・環境問題の解決を目指した人工光合成–半導体光触媒を用いた水分解および二酸化炭素還元¬–」という演題で講演がありました。人工光合成に関する話題を中心に,背景から現状の問題点,現在進められている研究について,広くお話しいただきました。岩瀬先生の人柄が伺える,丁寧な講演でした。

【総会】
 講演会に続き,明治応用化学会の総会が開催されました。参加者は明治応用化学会員(教員含む:31名)と現役学生(45名)であり,多くの方に参加いただきました。2018年度の会計報告や2018–2019年度の活動報告,2020年度の事業計画,等について説明がありました。

【応用化学科ポスター発表会】
 明治応用化学会が共催となっている,応用化学科研究ポスター発表会がありました。発表者は,応用化学科の各研究室に所属する学生であり,共に学ぶ同期や先輩・卒業生、そして研究室に将来配属される後輩に対して丁寧に説明している姿が印象的でした。昨年度に引き続き明治応用化学会員にも参加していただき、応用化学科の研究を感じていただける良い機会になったと思っています。

【懇親会】
 懇親会には明治応用化学会員(教員含む)19名、現役学生23名の参加があり,盛会になりました。卒業生と現役生が交流できる貴重な場となり,学生にとっては自分の将来について考える良い機会になったと考えています。

多くの卒業生が気軽に集まれる(戻ってこられる)場所として,毎年11月に総会およびイベントを企画・開催しています。来年度は応用化学科の創立60周年の節目を迎え,明治応用化学会としてイベントを検討しています。最新の情報は明治応用化学会ホームページ(http://www.isc.meiji.ac.jp/~chem50an/index.html)にてお知らせしますので,同期や先輩・後輩に声をかけていただき,皆さんでご参加いただければと思います。

我が母校・明治大学

著者

大学を卒業して、40年近くが過ぎた。わずか4年間の在籍でこれほどまでに大学の影響を受けるものなのだろうか。

春・秋は東京六大学野球で一喜一憂し、それが終わるころは、出雲・全日本駅伝。関東大学ラグビー対抗戦。正月は大学ラグビー選手権大会・箱根駅伝で釘付けになる。大学を卒業してから、とにかく「明治大学」である。一年が明治大学に始まり、明治大学で終わる。一年間が「明治大学」中心で回っているように思う。在学中・卒業後もずっと明治大学を応援してきたが、退職後からはより一層、明治大学の応援に力が入ってきた。

私は、32年間中学校の理科の教員をしていたが、子どもたちに進路指導・生徒指導等々をする際、「人間力で頑張れ」「とにかく、目標に向かって、前へ」のようなこと(内容)を言っていたように思う(これも、明治大学の影響?)。大学に行くなら「明治大学がいいぞ」とも言った。(早稲田は好きで入る大学、明治は入ってから好きになる大学。大学図鑑・ダイヤモンド社から引用)

今年の正月は、ラグビー部が22季ぶりに学生日本一に輝き、春は、野球部が東京六大学野球優勝(40度目)・全日本大学野球選手権優勝(38年ぶり)した。嬉しい限りである。明治大学関係者と美酒に酔う機会も増え、年に2度の定期的な飲み会も今年はもう5度も開催された。OB,OGも後輩の頑張りにパワーをもらっている。明治大学卒ということで、明治大学の卒業生(早稲田大・慶応大の卒業生とも六大学ということで交友ができた)と出会い、その出会いによって支えてもらい、その出会いによって変わっていく。実に嬉しいことであり、感謝しかない。

教員生活で辛いとき、野球・ラグビー・駅伝・サッカー・卓球等々で後輩たちが頑張っている姿を目の当たりにすると、「こんなことでへこたれていては駄目だ。明治大学は前を向いて・・・」「明治だから・・・」「明治は人間力」と自分を奮い立たせ励ましてきたように思う。わずか4年間の大学生活なのに、その後の生活に確実に入り込んでいる「明治」という教え?

明治大学関係者が活躍しているとワクワクする。政財界・スポーツ界・芸能界・・・等々、明治大学卒の文字を目にすると、「俺も頑張らなければ・・・」と思う。

やっぱり、明治が一番。明治が大好きだ。みなさんはどうですか。私は、明治大学に入って良かった。明治大学を卒業したから今の自分があると思っている。

そして、もう3年目になるが、高橋君(竹内研)、篠宮君・白濱君・鎌田君(貴家研)と繋がり、今年もラグビーの明早戦観戦のために上京する予定である。試合が待ち遠しい。「オーオー明治―」「頑張れ明治―」「負けるな 明治―」である。

応用化学科(工業化学科)卒業生のつながりを紡ぐ!!

著者

D館とともに歩み、8年が経ちました。その間多くの卒業生がD館を巣立っていきました。また、応用化学科(工業化学科)には6,800名余りの卒業生がおり、様々なフィールドでのご活躍の便りが届くところです。現在は、「応用化学概論2」や「最先端化学」の講義でその卒業生の皆様に支えられ、助けていただき、素敵な授業が展開できています。昨年度のホームカミングデーで、鈴木義丈前事務局長(現副会長)より事務局長を引き継ぎ、そのつながりを紡いでいます。至らないところが多くあると思いますが、応援いただき、明治応用化学会の活動へのご助力をお願い申し上げます。
 さて、この度、2019年11月23日(土)に応用化学科ホームカミングデーを開催することとなりました。ホームカミングデー講演会では、2019年度に着任された、岩瀬 顕秀 准教授よりご講演をいただくことになります。今後の応用化学科の研究と教育を支える、新しい力をご紹介させていただきます。また、当日は応用化学科のポスター発表会も開催いたします。是非、ホームカミングデーにご参加いただき、今の明治大学を感じてください。
 おまけですが、2019年10月27日(日)に開催される明治大学全体のホームカミングデーで化学実験企画を展開しています。駿河台の開催ですが、お時間ありましたら是非お立ち寄りください。
 明治応用化学会は、応用化学科(工業化学科)の卒業生、応用化学専攻(工業化学専攻)の修了生のご参加をお待ちしております。

1号館跡地から見た風景

1号館跡地から見た風景

現在の第二校舎D館の様子

現在の第二校舎D館の様子

明治大学校友会会長 北野 大 氏

著者

明治大学校友会は7月28日、次期会長に 北野 大 氏 を選任しました。北野氏は1965年に工学部工業化学科(現 応用化学科)を卒業され、その後のご活躍は皆様ご存じのとおりです。

明治応用化学会の皆様、北野会長を支援しましょう!

応用化学科の近況報告

著者

学生は春学期の定期試験を終え,夏休みに入りました。試験期間中,学生たちは図書館,学食,ラウンジなど,至るところで勉強していましたが,8月に入り学内は閑散としています。2ヶ月弱の夏休み,アルバイトやサークル活動,旅行,勉強など,しっかりと計画を立て,充実した夏休みを過ごしてほしいと願っています。
 さて,8月になると,大学では様々なイベントが企画・実施されます。今回は,夏休みの2大イベントを紹介したいと思います。

(1) 夏休み科学教室
理工学部では,小学生から高校生に向けて夏休み科学教室を開催しています。応用化学科では,毎年2,3テーマを実施しており,小学生から高校生を対象とした科学実験を実施しています。本年度は,小学生低学年向けに「ボールの科学」を,小学生高学年向けに「低温の世界」を実施しました。
「ボールの科学」では,3通りの方法でスーパーボールを作りました。作り方(材料)により,スーパーボールの形状や感触,跳ね方が異なるので,この違いについて実験を通して勉強しました。親御さんにも実験に参加してもらい,親子で楽しく実験している姿が印象的でした。
「低温の世界」では,液体窒素を用いて色々なものを凍らせました。普段,テレビでしか見られない液体窒素を,実際に体験できる貴重な一日になったのではないかと思います。

(2) オープンキャンパス
オープンキャンパスは毎年8月8日・9日に開催され,大学・学部の説明会や各学科のガイダンス,模擬授業,などを行っています。応用化学科では,学科ガイダンスや模擬授業,AO入試説明会に加えて,オープンラボ(研究室公開)を実施しました(詳細は下記のリンクより御覧ください)。中高生や親御さんは,普段聞くことのできない研究内容を聞き,見ることのできない実験室の見学を通して,研究室での生活や研究のイメージを掴んでもらえたと思います。また,オープンキャンパス担当学生は中高校生や親御さんの質問に丁寧に答えており,とても良い雰囲気でした。このオープンキャンパスを通して,明治大学のこと,応用化学科のことを知っていただき,一人でも多くの方に応化で勉強したい!と思ってもらえるように,来年度以降も工夫しながら実施していきます。

応用化学科ホームページ:
http://www.isc.meiji.ac.jp/~chem/event.html#event20190714

着任のあいさつ

著者

4月から応用化学科に着任した岩瀬顕秀と申します。よろしくお願いいたします。

私は,学士号,修士号,博士号のいずれも東京理科大学で取得しました。博士課程を修了した翌月の2009年4月から3年間オーストラリアのNew South Wales大学でポスドクとして研究に従事しました。その後,出身研究室である東京理科大学理学部の工藤研究室で助教を4年間,講師を3年間務めました。そして,冒頭でも述べましたように,2019年4月から准教授として本学科に着任しました。

研究に関しては,学生の頃から一貫して,光触媒を用いた人工光合成に携わっています。光触媒を用いた人工光合成はホンダーフジシマ効果で知られるように日本が発祥の科学技術である点から非常に魅力的です。また,人類が避けて通れないエネルギー・環境問題の解決へ貢献できる可能性が高いという点から重要な研究テーマといえます。このような技術を明治大発の成果として発信できるよう教育および研究ともに精進しますので,よろしくお願いいたします

(写真:左が本人,右は学生当時助手として面倒を見ていただいた現東北大学准教授の加藤英樹先生)

学科の近況報告

著者

1年生は入学式から3ヶ月経ち,だいぶ大学に慣れてきたように思います。皆,入学前に思い描いていた大学生活を送っているのでしょうか。大学に入ってはじめての定期試験が目の前に迫っています。直前に一夜漬けするのではなく,いまからコツコツと勉強してほしいものです。

4年生は卒業研究が始まりました。これまでの授業や学生実験とは異なり,すべてが初めての経験だと思います。答えのない自然科学への挑戦を心から楽しんでほしいと思います。また,卒業研究と並行して就職活動もスタートしました。自分自身を見つめ直すだけでなく,将来について深く考え,思い描く夢に向かって,素敵な会社と出会ってほしいと願っています。

学生自身が将来を考えるキッカケとして,卒業生の皆様にご協力いただいている「最先端化学」や「応用化学概論2」が2年生および3年生の必修科目として設置されています。卒業生の皆様におかれましては,これらの講義・ゼミを通して,これまでの経験を学生に伝えていただきたいと思っています。この科目を通して,学生自身は将来を考え,社会人として活躍し,社会で経験したことを学生に話してほしいと思っています。

明治応用化学会では工業化学科・応用化学科の卒業生を中心として,上述の授業や講演会など,様々な活動を実施しています。ぜひ,卒業生の皆様には明治応用化学会の活動にご協力いただければ幸いです。詳細は本ホームページで紹介しております。ご不明な点がございましたら,お問い合わせフォームからご連絡いただければと思います。

応用化学科での四年間

著者

「あっと言う間に大学生活が終わった」ということをよく耳にしますが,私は全くそのようなことは思いませんでした.その理由を考えると,一年ごとに目標を設定し,四年間を過ごせたからだと思います.

本格的に応用化学科であると実感したのは学部二年生からでした.学科専門科目が増え,楽しみであった一方で,未知の世界を学ぶことへの不安もあったのが懐かしく感じられます.また,応用化学実験が始まり,初めて書く実験ノートや初めて触れる器具及び操作に戸惑いの連続でした.科目の勉強のみならず,レポートや実験の予習に追われ,きついと感じたことがありました.このような時に支えてくれたのが仲間でした.応用化学実験や化学情報実験が終わった後の仲間との飲み会は定例会のようになっておりました. 飲み会のために実験を頑張った,そんな日もあったのではないでしょうか.
そして,学部四年生から始まった研究室での生活では,指導教官をはじめ,先輩方や同期の仲間とともに日夜実験やディスカッションを行い,研鑽を積みました.実験の技術だけではなく,考え方や気持ちの面を成長させることが出来たと我ながら思います.

応用化学科では,授業で学んだことを実験したり,コンピューター上でシミュレーションしました.手を動かし実際に目で見て新しく理解出来たことがあり,とても良い経験ができました.また逆に,実験から体感したことや考えたことがフィードバックされ学びに生かされるという,大学に入るまでは体験できなかった新たな勉強の楽しさに出会えました.座学と実験の繰り返しにより,ただ手を動かすだけではなく,「なぜ」が生まれやすくなり,問題提起がスムーズにできるようになったと思います.

最後に,諸先生方のご指導及び関係者の皆様のお力添えに心より御礼申し上げます.
また,学生生活を支えてくださった家族の皆様に感謝いたします.

我が家の愛犬

著者

私は、64歳で妻に先立たれ、66歳で仕事をリタイヤしたのを機に、寂しさを埋めるため犬と一緒の生活を始めました。今回はその愛犬の紹介をしたいと思います。
 犬種はジャック・ラッセルテリアで現在2歳8か月の男の子です。この犬種は穏やかな性格で活発に運動します。ペットショップで購入時に「この犬は高齢者に向きません」といわれました。それでも家族として迎え、名前はジャックと命名しました。彼は散歩時には、来る犬と飼い主さんにご挨拶に擦り寄っていき、吠えついたりは決してしません。
 毎日、近くの公園のドッグランに行き、サッカーボールで遊ぶのですが、天心爛漫に見事なヘッディング(鼻を使うのでノージングかもしれない)でボールを追いかけまわし、私にキックするように要求し、なかなか帰ろうとしません。
 夜は小屋で寝させていたのですが、1年半前からは小屋に入るのを嫌がり、ベッドで体を密着して一緒に寝るようになり、時々は夢を見るのか寝言を言いながら手足をばたつかせ腹を蹴られることもあります。
 彼は食事、散歩等の要求は、アイコンタクト、ボディアクション(体をぶつけてくる)で迫ってきます。犬とアイコンタクトをすると飼い主と犬の両者の脳内のオキシトシン(母子の絆を形成するホルモン)が上昇し愛着関係が生まれるとのことです。
 彼は繊細なところがあり、留守番が増えたり、相手をしないとストレスのためか食事を残してしまいます。
 こんな彼ですが、私は日々癒され、生活に活気を与えてもらってます。今後も彼との楽しい生活を続けていきたいと思います。
 長々と親バカ(いや飼い主バカかな)の話にお付き合いいただきありがとうございました。

明治応用化学会の益々の発展を願って

著者

この度、2019年4月1日をもちまして学科長を拝命いたしました深澤と申します。微力ではございますが、明治大学理工学部応用化学科の発展のために尽力して参りたいと思いますので、ご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
 明治応用化学会は、応用化学科(旧 工業化学科)の創立50周年を機に発足した卒業生の組織です。単なる同窓会というのみではなく、在学生と卒業生の皆様を繋ぐ架け橋となっております。例えば、在学生を対象とした「最先端化学」や「応用化学概論2」では、明治応用化学会の皆様に講義をご担当いただき、在学生が社会を学ぶ貴重な機会となっております。また昨年度は、応用化学科ホームカミングデーと応用化学科研究ポスター発表会を同日開催することで、明治応用化学会の皆様にも在学生の発表会へご参加いただくことができ、在学生と卒業生の皆様の交流の場となりました。
 将来社会で活躍する学生の育成を使命として、応用化学科の発展に力を尽くす所存でおります。今後とも明治応用化学会の皆様のご支援を頂けると幸いです。
 最後になりましたが、明治応用化学会の益々の発展を祈念いたします。

大学勤務5年間を振り返り、考えることは?

著者

2014年4月、名古屋市南区にある大同大学情報学部かおりデザイン専攻(教授)に籍を置くことになった。最初の1年目は、講義資料の準備・整理等で、まさに自転車操業状態の日々であったと記憶している。1科目90分講義×15回分の教材を作り(実際には8科目+卒論・ゼミ)、日々の授業に臨むことの繰り返しであった。よく言われることは、大学の講義の場合、1年目は試行錯誤、2年目は1年目に準備した教材資料の修正・訂正を繰り返し、さらに学生の反応状況を把握し、3年目にしてようやく満足に近い授業内容に到達できるということである。自分自身を振り返っても、3年目にしてようやく講義をする側に余裕が出てきたような気がする。
 日々、18歳~22歳の学生達に接していると、大学の役割とは何なのかを、いろいろ考えさせられる。日本では、9年間の義務教育を修了した後は、高等学校から大学への進学はすべて個人の自由選択である。特に、大学は学問の最高学府としての存在価値は高い。ヒトは生まれてから、ひたすら”まね”をすることで成長していく。”まなぶ”の語源は”まねる”ともいわれる所以でもある。ここで「学習と学問」について考えてみたい。これからの記述は、筆者の個人的見解であることをお断りする。
 「学習」とは、習い学ぶことと理解すると、高等学校までの12年間は、ひたすら自らの将来に向けて、知識という栄養を目一杯蓄えるときである。そして、大学という扉に達したとき、蓄えた栄養分を存分に活用し、さらに新しい知識を吸収してスキルアップし、さまざまな疑問に対して解決できる術を身に付ける。これが大学での学びの基本、すなわち「学問」であると考える。振り返って、私たちは幼子のころから周りの人たちに対して、「何で?どうして?」という疑問を絶えず発しながら成長してきたはずである。しかし、いつの間にかその大事なことを忘れている。学校という見えないバリアに守られていた者が、大学を巣立ち一人の生身の人間(社会人)として生きていかなければならない。ここで重要になることは、「自問」である。一定の答えをもって満足するのではなく、「果たしてこれで良いのか?」と問い続けることである。「真のヒトとは、確信ある行動の中でも自問の心を失わない」とも言われる。昨今起こっている虐待、いじめ等々、そこに係わる人たちに「自問」するという、かけらも感じられない。
 電子媒体が急速に発展した現代社会、望む情報はいとも簡単に手元に届く。そこに垣間見えるのは、試行錯誤を嫌い、直ぐに正解を求める若者たちの姿である。頭の中で「何故?」と思った瞬間に、スマホにタッチすることで答えが出てくる。考えなくてもよいのである。IT社会は人工知能を生み出し、ヒトを考えさせない生物へといざなう。そんな時代の到来が遠くないような気がしてならない。即ち、「自分の身の丈」をわからなくさせてしまうツールになりえるのではないか。身の丈には、様々な状態があると考える。個人、地域、国、地球にはそれぞれ身の丈があっていい。持続可能な社会(世界)を考えるときの基本は、身の丈を知ることが一番である。今の日本、いや世界はあまりにも背伸びをして、身の丈以上のことを求め、実行し続けているのではないか。このような状態は、いつしか疲弊し崩壊するはずである。
 米国の科学ジャーナリストであるジョン・ウィルフォードが執筆した「恐竜の謎」に書かれている”地球暦”を思い出す。地球誕生からのおよそ46億年を1年とすると、ローマ帝国の栄華は12月31日午後11時59分45秒から50秒までのわずか5秒に相当し、地球環境破壊に要する時間は1秒以内である。私達は、何(十)億年もかけて作り上げられた地球(資源)を、僅か100年そこそこで取り返しのつかない状況へと追い込んでいる。
 「わが国家がファーストである!」と各国が言い出したら、地球は間違いなく終焉に向かって突っ走ることになる。今こそ、”地球存亡プロジェクト(?)”なるものを立ち上げ、地球を俯瞰し、一人一人が、地球が、国家が、それぞれの立場で「自問」するときである。
 地球にとって、人間はとてつもないモンスターとして映っているに違いない。昨今の天変地異も、地球の必死の訴えなのか?レッドカードを突き付けられた地球人は、これからどう振る舞うべきなのか?人工知能も正解を教えてくれない。

応用化学科の近況~1月・2月編~

著者

年が明けて、1月・2月は学生にとって大切な時期です。
 学部1年生から3年生は、1月下旬に定期試験が実施されました。図書館や食堂では、たくさんの学生が仲良く勉強していましたが、2月になり閑散としています。あの賑わいはなんだったのかと思うほど。これから3月末まで、学生は学外活動に励みます。勉強に励む人、アルバイトに励む人、サークル活動に励む人、ボランティア活動に励む人、留学をする人、国内外へ旅に出る人。今も昔も同じでしょうか。一人一人が未来を見据えて、充実した休みを過ごして欲しいものです。
 4年生は2月2日および3日に卒業研究発表会が開催され、1年間の研究成果を教員や先輩・後輩の前で発表しました。1年前に研究室配属され、卒業研究がスタートしたときには、口々に”大変だな”、”難しいな”、”1年後は大丈夫かな”といった不安な言葉を発していましたが。しかし、1年もすると堂々と自分の成果を発表しており、とても頼もしく見えました。学生の成長はとても早く、日に日に成長する姿を間近に感じることができることを、教員として大変うれしく思っています。
 気が付くといつの間にか終わる学生生活。4年間という短く、そして大切な時間を応用化学科で学び、世界へ羽ばたいてほしいと願っています。

新年あけましておめでとうございます

著者

あけましておめでとうございます。会員の皆様におかれましては、つつがなく新しい年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 2018年11月の総会におきまして、戸田会長の後任として第4代会長を拝命致しました平塚保幸です。かねてからの念願でありました役員の若返りに少し近づいた新体制で、会の運営に臨んで行きたいと思います。また、OBの方々のご協力による2年生、3年生の授業のサポートを通して教員の皆様方との連携をより深めて行きたいと思いますので、本年も明治応用化学会に対するご支援とご協力を賜りますようお願い申しあげます。
 さて、昨年は生明祭の日程が11月2日~4日に繰り上がったため、応用化学科ホームカミングデーの日程も11月3日となり会員の皆様への周知が危ぶまれましたが、例年通りのご参加を頂き御礼申し上げます。今回のホームカミングデーの開催に当たりましては、初めて応用化学科と応用化学会とが連携(共催)し、従来の講演会と応用化学会総会に加え、来場された卒業生の皆様に4年生の卒業研究ポスター発表会を公開しました。ポスター発表会では、各研究室の学生から熱い説明を受けたなど皆様から好評を得ることが出来ました。
 今年は明治応用化学会が設立されてから8年目となります。新しい元号となる節目の年を迎え、引き続き設立当初からの目標であります「OBと現役学生との懸け橋を築こう」というスローガンの下、さらなる発展を目指して行きたいと思います。ぜひとも、若い卒業生の皆様方の積極的な参加をお願い申し上げます。
 最後に、会員の皆様のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げ年頭のご挨拶と致します。

祝 市民選手権大会優勝

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シニアのソフトボールチームに入れてもらって、この秋で丸4年が過ぎた。同じ自治会でソフトボールをやっている人から誘われたのはそれよりも数年前だったが、平日は仕事が忙しく、土日は自治会活動が忙しくて先延ばしにしていたが、先延ばしにしていた一番の理由は、年齢制限でまだ試合に出られないことを知っていたからである。
 十数年続けていた自治会役員を4年前の春に卒業し、時間に余裕ができたので加入を申し出た。所詮年寄りの集まりで、親睦会・レクリエーション程度のものと考えていたが甘かった。単に年齢でクラス分け(現在60歳以上がシニアで、65歳以上がハイシニア)されているだけで、多くが中学・高校時代に野球を本格的にやっていた者や、60歳未満の各クラス(一般、壮年、実年クラス)の経験者。そんなチームの中に、素人に毛が生えた程度の者が迷い込んでしまったから大変だ。
 第一に試合数が多いこと。相模原市協会のリーグ戦と、近郊数市町の連盟のリーグ戦が各10試合ほど。春と秋には県大会(トーナメント)、また秋には市民選手権(トーナメント)もある。それ以外にも3,4の大会に参加しているので、年間合計30数試合。その合間を縫って練習をするものだから、スケジュール表の3月から11月の休日のほぼ半分はソフトボールで埋まっている。
 次に怪我。打球を指に当てて脱臼したり、顔に当てて鼻血を出したりする人を毎年見る。僕自身にそういう怪我はないが、急に重くて大きいボール(対軟式野球ボール;重さ1.4倍、直径1.35倍)を扱うようになったものだから、入部早々にまず右肩を痛め、それが治ったころには左肩を痛めた。またその間に、試合中のホーム上でのタッチプレーで左手親指を痛め、未だに完治していない。30代後半以降運動らしい運動をしてこなかったことと、その間に身体が硬くなったツケが一気に噴き出した。
 さらに用具は自前で金が掛かること。打球の飛距離はバットの値段に比例する、と言ってもあながち間違いではない。それに、キャッチャーという役目柄、用具が多い。
 相手のピッチャーを打ち崩さない限り試合には勝てないが、こちらのピッチャーが打ち込まれると負ける。打たれるのはピッチャーだけが悪いのではなく、キャッチャーのサインにもよる。我がチームのエースピッチャーは、ストレートの他にカーブ、チェンジアップ、さらにはナックルまで投げる。これらの球種に加えてコースと高低も考えてサインを出すのだから頭を使う。打たれると責任を感じて落ち込み、試合が終わるとドッと疲れが出るが、ホットする。決して楽しいレクリエーションではない。それでも試合に勝つと嬉しいし、試合後に皆で飲むビールは美味い。
 大きいボールだからバットに当てやすいと思われがちだが、そうでもない。相手も頭を使って投げてくるので、女子の日本代表の試合を見てもお分かりのとおり、空振りの三振もよくある。
 今年の市民選手権は運もあって見事に優勝の栄冠を手にした。昔のことは知らないが、僕が入部してからは初めての優勝だ。入部した頃ある先輩に「皆さん元気ですね」と言ったところ、返事は「元気な者がソフトボールをしているんだ」と…。全くその通りだ。
 元気のバロメータとして、今後もソフトボールを続けていきたい。

ソフトボール

リチウムイオン二次電池の将来

著者

私は仕事で年に数回中国に出張します。主な仕事はリチウムイオン二次電池に使用する材料(正極・負極活物質)の量産製造実験の立合いです。中国は現在電気自動車の開発に邁進しております。国からの豊潤な資金援助を基に民間企業は設備投資を増やして工場や研究所の拡張を図っております。日本で開発され、工業化された電池ですが、今や中国はリチウムイオン二次電池大国です。原材料や製造設備の価格や人件費が安価の事と上述のように国からの資金援助等で急速に発展してきました。
 新華社電によりますと広東省深圳市では公共バスは100%EV化を達成し、EVバスは16359台で1日当たりの平均走行距離は285万kmとの事です。充電ステーションは510ヶ所(5000スタンド)あるとの事です。EVバスの運行で34万5000トンのガソリンが節約した計算になるという。またEVタクシーは12518台で市内のタクシーの62.5%にあたると言います。 自動車のEV化は先ずは公共バスから行われます。走行ルート(走行距離)が決まっており各バスの充電計画が立てやすいためです。自動車のEV化は大気汚染が深刻な大都市にとって解決するための切り札と言えましょう。中国では莫大なリチウムイオン二次電池の製造が期待されております。電池に必要な材料であるLi、Ni、Co、Mnを中国は世界中からかき集めております。そのため価格は著しく増大してます。今後、EV自動車や再生可能エネルギー用の大型蓄電池は益々利用が盛んになることが期待されます。しかしながら今のリチウムイオン二次電池はまだ開発途中です。それは日本にとってまだまだ起死回生のチャンスが残っているという事です。
 次の開発目標は全固体リチウムイオン二次電池です。現在の電池は高い電圧を得るために電解液に有機溶媒を使用しております。過充電や過放電等の電気的要因や微細金属不純物の混入によるショート等がトリガーとして加熱して電池は膨張し、破損した箇所が空気に触れると瞬時に電解液に引火するなどして発火につながります。こうした事故を回避するため電解液を使わず電解液と同等のイオン伝導率を持つ燃えない固体電解質の開発が進められております。現在、東京工業大学の菅野了次教授のグループとトヨタ自動車により開発された超イオン伝導体(固体電解質)Li9.54Si1.74P1.44S11.7Cl0.3はイオン伝導率が液体電解質を超えた室温(27℃)で25 mScm-1を持つとの事です。このような固体電解質からなる全固体電池は高速充放電が可能になります。また新しいデバイスの開発にもつながります。リチウムイオン二次電池の悩みは充電時間が長い事ですが、この悩みも解消できます。ただ電解液の場合は正極、負極電極に液が浸み込み確実に濡れますので界面抵抗が極僅かですが、固体電解質の場合、ミクロで眺めると電極とは点接触で界面抵抗が大きくなり電流の流れを阻害します。このような界面の問題を如何に解決するかが全固体電池の開発に課せられた最後の挑戦です。NHKの教育TVの番組で菅野先生の話では、登山に例えるならば現在八合目付近で頂上までもうひと頑張りだそうです。
 更にもう一つの開発目標は、究極の二次電池と言われているリチウム-空気電池の開発です。この電池はアメリカ合衆国の特許5510209号が基本になっており、負極に金属Li、正極に酸素(空気)を用いてLiと酸素の反応で電気を取出しますが、同時に反応で過酸化Li(Li2O2)が正極側に析出して電池劣化を著しく招きます。この電池は理論エネルギ―密度は13.0 kwh/kgで、一方リチウムイオン二次電池のそれは0.66 kwh/kgです。この電池をEVに搭載しますと1回の充電で約1000km走行でき、一方 従来のリチウムイオン二次電池の場合には新型日産リーフで約230km程度(宣伝では400km)の走行距離と言われております。今、世界中でこの電池の開発競争が行われております。今年の5月ソフトバンクは物質・材料研究機構(NIMS)に出資(10億円/2年間)してNIMS-SOFTBANK先端技術開発センターを設立して2025年度を実用化目標として開発するとの事です。上述した二次電池の開発競争に勝ち抜けば再度日本が電池産業の主導権を握るのも夢ではありません。

2018年9月8日

この世は教育がすべて

著者

今の世相をどう見るか、昭和の敗戦をどう見るか、今後の人口減少時代をどう見るか、急速に進化発展するAIとどう付き合うのか.....。 その見方・見え方は人それぞれだが、果たしてどこまで広く・深く・的確に・感情に流されずに・理性的に・論理的に考えられるだろうか。教育の普遍的な目標は、これに応えられる人材を育てることではないか。
 残念ながら今までの日本の教育には、“公”について、客観的に、論理的に、情に流されずに、理性をもって、勇気をもって、かつ相手の意見をも尊重しながら、議論を重ねて結論にもっていく、といった一番重要なカリキュラム内容が欠如していた。
 1940・50年代生まれの年代層は、敗戦の影響をもろに被った時代に教育を受けた年代だが、高度成長時代を働いてその成果を享受し、その一方で、その後のバブル崩壊と長期のデフレ時代をも創出し、その後始末をしていない年代でもある。 国家財政は、悲しいことに、子・孫のクレジットカードを無断借用して返済不能な借財を作ってしまい、毎年この借財は加速度的に増加している。 日本国の世界でのランキングは、民主化度、自由度、透明度、公平度、経済力、男女格差等々、どれをとっても大幅に年々後退している。
 永野護の著書「敗戦真相記 予定されていた平成日本の没落」の中の一文に、「戦時中のアメリカで上映されていた東京空襲の映画の題が“科学無き者の最後”」とある。ここで言われている科学無き者とは、“科学的マネジメントがない”、“科学的経営管理能力がない”ということだと著者は言っている。
 では翻って、今の政治・行政の実態や社会世相はどうだろうか?????? この現状打破を子・孫に託するにあたって、今まさに一番大事なことは何かと言えば、それは教育の他にはない。人材が我が国の唯一無二の資産なのだから。  人口減少国家が、AI時代に乗り遅れることなく、国家・社会が世界に伍して発展するためには、個性豊かな、科学的に(情ではなく理で)創造・経営・管理できる、人材の育成が必要条件であろう。
 しかしながらこの現状を打破するのは、1940・50年代生まれの年代層ではできないし、できると考えるのは思い上がりも甚だしい。何故なら、現状を是としてきたのがこの年代だから。この年代に唯一出来ること・やっていいことは、やらなければいけないことは、次世代を理解・信頼し、次世代に協力して、教育改革を進めてもらい、いい夢を見させてもらうことだ、と、つくづく思う今日この頃です。

2018年7月15日

VIETNAM 雑感

著者

5月下旬 VIETNAM Quy-Nhonに出張した。
その経済発展は目を見張るものがある。
 初めてVIETNAMに出張したのは、1995年、ホーチミン市であった。
その当時のGDPは289(ドル/年)一人当たり であり、飛行機からみたホーチミン市は暗く、飛行場では物珍しさの為か、大勢の人でごった返していた。街には、ストリートチルドレンが溢れ、観光客に無心をしていた。 国全体として、まだベトナム戦争の影響が残っていた。
 それから、5年後の2000年、JUKI VIETNAMに赴任した。 その時、GDPは402(ドル/年)一人あたり に上昇して、ストリートチルドレンは姿を消し、街全体は活気で沸いていた。 VIETNAMの成長と共に JUKI VIETNAMも土地取得・工場拡張と急ピッチに拡大した。 特記すべきことは、工場内に、今回の応用化学概論Ⅱで講義したイオンプレーティング・DLC(ダイヤモンドコーティング)を導入したことである。 そして、従業員も1000名を超えた。
 2007年、VIETNAMを離れた時(日本の関係会社と兼務)のGDPは920(ドル/年)一人当たり、成長率も7%~8%と 高度成長が続き、アセアンでの地位を築きつつあった。
 JUKIを退社した2015年のVIETNAMのGDPは2170(ドル/年)一人当り、特にホーチミン市・首都ハノイのGDPは5000(ドル/年)一人当り を超え、もはや、発展途上国は卒業し、さらに成長が続いている。
 今後の課題として、中進国の罠から脱することができるかどうか? 人材育成・裾野産業の育成・インフラの整備等の取り組みが急務と考える。 色々な壁を克服し、アセアンの核の一つとして、中心的な国になると確信している。
 小職としても、ほんの少しでも貢献できるよう頑張りたいと考えている。

2018年4月29

夏目漱石先生と文学とその愛弟子寺田寅彦

著者

文豪漱石先生の文学やその生き方に興味を覚えたのは20年程前のこと、会社の友人からの影響によるものでした。 それ以来、著作・講座(ラジオ講座を含む)・新聞の特集やその友人のご指導により、その足跡を辿っています。
 小生は、40歳を過ぎてから海での船釣りを趣味とし、一時期は年30回も釣宿に通いました。10年程前、漱石先生の「坊ちゃん」を読み返していたところ、主人公の坊ちゃんが教頭の“赤シャツ”に釣りに誘われる場面で、 “・・・・、一体釣や漁をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくて、殺生をして喜ぶわけがない。魚だって、・・・・”とあるのを発見、それ以来、釣り糸を垂れる度にこの言葉が脳裏をかすめ、複雑な心境になってしまうのです。
 これも10数年前のこと、文士・詩人や武人や風流人や政治家の残した「辞世の句」に心動かされ、かなりの句を収集していたのですが、その時“ふと”、漱石先生の辞世の句ありやと探してみました。そして、英国留学時の回想で有名な「ロンドン塔」の中に、“余は死ぬ時に辞世は作るまい。死んだ後は墓標も建ててもらうまい。肉は焼き骨は粉にして・・・・”と記しているのを発見、漱石先生らしいお考えと感じ入った次第。森鷗外先生も同様に、厳しい生き様を友人に託した辞世の“書”に残していますね。
 漱石先生は多数の俳句を残されていますが、その中に、動と静の躍動感ある素晴らしい句あり。
      「落ちさまに虻(あぶ)を伏せたる椿かな」

物理学者で文学者でもある寺田寅彦は、熊本の第五高等学校で漱石先生に師事、以来、師弟の関係は続き、先生の終の棲家となり弟子達との会話の場でもあったサロン「漱石山房」にも足繁く顔を出していました。その寺田寅彦は、漱石先生が亡くなった17年後の東大教授(物理学)の時に、「空気中を落下する特殊な形の物体―椿の花―の運動について」と題する論文(英文)を発表しています。それ程に師弟の関係は深く、文学(特に俳句)についての思いは強かったことでしょう。
 長い人生の旅路を歩み始めた後輩の皆さん、自然科学(化学)の研究のみならず是非、人文科学(文学や歴史)を友として、より実りある生活を送られんことを鎌倉の地より祈念しています。

鎌倉散策

2018年3月14日

趣味三昧

著者

1969年卒業 山口研現役時代は時間に追われ、定年後タイに渡り三年ほど働き、帰国後、時が経つに従い次第に時間を持て余し、飽き飽きしていた所、同じヒマ人が現れまして、『市内の某所で宝生流の謡の会を『開催している』と云う

マルで落語の ハッツァン、クマさん宜しく覗きに行きましたところ、主催者(後の師匠)から、『ここに来たからには、タダじゃ帰さない、謡ってみろ』 半分脅され 先生の謡う後をオウム返しに謡うと。 『明日から習いに来い』という。
 何せこのご時世、結婚式に出席しても『?高砂や・・』等、一度も聞いた事は皆無の時代です。先生も弟子が居らず余程暇を持て余していたと見えて 懇切丁寧に教えてくれました。ただし、『作曲をするな!』 『教えた通り謡え!』 特攻隊の生き残りの先生が 懇切丁寧に。
 半年もすると、『長唄か何か習って居たか?』と聞かれ かぶりを振ると、“初伝”の免状を取って呉れました。 ミイラ取りがミイラと成りまして、その内に邦楽は?間(マ)“の取り方が大切と生意気な事を考え、間を取るには・・・パーカッション・・・ そうだ 小鼓か大鼓を習おうと思い立ちましたが探してもなかなか見つからず。やっと四谷に大倉流の小鼓教室を見つけ通い詰めて早いもので六年が経ちました。 小鼓の流派には 幸流・幸清流・大倉・観世 四流派がある。

地元で習って居た謡は”素謡“と云って、お囃子 笛・小皷・大鼓(時に太鼓)が入らない要するにアカペラです。お囃子の基本は観世流。それに囃子に合わせて歌う謡は流派の違いはともかくとして素謡とまるで違う囃子謡と云う本来のお能の謡い方です。(観世の素謡とも違う)
    謡の流派は 観世・宝生・金春・金剛・喜多の五流派ある。
 囃子謡は地拍子が基本で、一行八拍 謡の文句は七五調で十二文字 八泊に十二文字は入らないので八拍を2分割して十六拍として 十二文字を入れる。四文字分が余るので余った分、母音を伸ばす訳でそれだから あ~あ~う~う~ と矢鱈滅多伸ばすのです。
 小皷も近頃やっと音が出る様に成り、基礎は終わり舞と共に打つ舞囃子に進んできました。謡の途中で笛、大鼓、小鼓(太鼓)だけの演奏曲でお能ではここで 中の舞、序の舞 等が舞われます。

この世界、中々因習に縛られていて、小鼓の先生が笛を吹く事は許されず、先生は「ヲヒャーラーイヒウヤー」と唱歌(しょうが)を謡いこれに合わせて鼓を打っていく訳です。同じフレーズが何度も続き、きっとグレンミラーはお能をみて『インザムード』を作ったに違いない。
 練習中に孫娘が来て云う事には
  孫:『ネ~オオパパ、何で謡をやって居るの?』
    私:『お前たちの結婚式に高砂を謡うためだよ』
  孫:『それって、無駄だと思うよ』
    私:『何故?』
  孫の云う事には『だって、あたしネ。ハワイで結婚式すると思うよ』 だそうです。参考

参考

地拍子    謡本 文字の横が音符の様なモノ
この一行を ヒトくさり と呼びます。ヒトクサリ文句を云うのヒトクサリ

参考

一噌流 能管(笛)の唱歌 大小中の舞とも云います

2018年1月1日

明けましておめでとうございます

著者

明けましておめでとうございます。穏やかなお正月をお過ごしのことと思います。昨年11月の総会におきまして、小沼会長の後任として会長を拝命いたしました戸田浩之です。今年は明治応用化学会が設立して6年目となります。この間、3年生の必須科目である応用化学概論2、2年生の必須科目である最先端化学におきましては、OBの方々と事務局の先生方のご協力により軌道にのってきております。あらためて御礼申し上げます。
 今年は設立当初からの目標であります「現役とOBとの交流」を再確認しまして、さらなる発展する年と考えております。そのためには若い卒業生の皆様方の積極的な参加が必要です。さらなるご協力、ご支援を賜りたいと思います。
 昨年は九州北部豪雨の水害、米国に大型ハリケーン上陸やメキシコの大地震など地球規模での災害が頻発しました。
 今年は穏やかな年でありますように願うばかりです。
皆様のご健勝とますますのご活躍を祈念いたしまして新年のご挨拶といたします。

2018年12月10日

応用化学を知り、好きになり、楽しむ

著者

1999年3月に倉田研の22期生として、明治大学理工学部工業化学科を卒業後、2001年3月に同大学院を修了し、石油会社でプロセスエンジニアとして勤務しています。

11月25日の応用化学科ホームカミングデーで久しぶりに母校を訪問し、懇親会で恩師の倉田先生をはじめ多くの方に温かく迎えていただき、交流を深めることができました。その際に今回の投稿依頼をいただきました。何を書くか悩みましたが、自分と切っても切れない応用化学と仕事の関係について書いてみたいと思います。

石油精製では技術的な議論の際に、その主張は理論的には正しいのかがよく問われ、化学工学だけでなく、蒸留塔・加熱炉・熱交換器などの単位機器の理解に必要な物理化学、触媒や薬品を扱うため有機化学と無機化学など、応用化学の総合的な知識が要求されます。また、生産管理、品質管理、機械、材料、環境安全、経済など、いくつもの分野の知識も必要です。

大学生になって初めて化学工学に出会いましたが、当時はとても苦手で何の役に立つのか全く分からないまま時間が過ぎていきました。縁があり今の会社に入社しましたが、社会人になって、ようやく、化学工学を含めた応用化学がどのように役に立っているのか、実感として知ることになりました。

製油所では装置の運転改善・課題解決、装置の建設・改造プロジェクトを進めてきました。周りの優秀な諸先輩・同僚に刺激を受け、エクセルやシミュレーターなどを使って化工計算のOJTをしつつ、高圧ガス、エネルギー管理士、ボイラー技士などの資格を取得しながら技術力を磨いていきました。 自分の立てた仮説に従って運転条件を調節したら装置の課題が解決したこと、自分の設計した装置が上手く試運転に成功したという経験を積むにつれて、段々と応用化学が好きになって行きました。

2010年に会社からチャンスをもらい、倉田先生に推薦状を書いていただいて、イギリスのUniversity of Surreyに1年間留学しました。一度体系的に石油精製に関連する工学を学びなおそうとPetroleum Refining Systems Engineering MScのコースを履修しました。世界120カ国から留学生が集まる大学で、自分のコースには誰も日本人はいませんでした。日本人代表として最高の成績を取ってやろうと、明治大学では不完全燃焼だった勉強と研究に本気を出して取り組んだ結果、無事に修了することができました。特に海外の文化の違いを体験したことや、装置のモデリング方法や、熱回収のピンチ解析が理解できたのは大きな収穫でした。

帰国後は、会社全体の生産設備に関して技術検討をしています。とてもやりがいのある仕事で、技術的に難しい課題に直面するほど、応用化学を使って何とか解決しようと気合が入ります。今回のホームカミングデーだけでなく、休日にはリバティータワーに顔を出して北野先生の安全学入門を受講したり、子供と春休み実験講座など受けたりして、勉強を楽しんでいます。今後も大学のイベントに参加して、自分の経験を基に後輩達の刺激になるようなことを伝えられればと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

2017年10月3日

苦しい道を選びなさい

著者

明治大学の門をくぐったのは1999年春。生田キャンパスがどこなのかも知らず,初めて生田駅に降り立った時は「とんでもないところに来てしまったな」という思いがしました。それから3年間は明大生らしく,水の代わりに酒を飲み,大学にいながら授業に出ない学生生活でしたが,ゼミ配属ですべてが変わりました。当時,もちろん有機化学の単位はひとつもありませんでしたが,炭素数20に満たない有機分子が数万ダルトンの酵素と同じ働きをする事実に私は驚き,低分子有機化学に無限の可能性を感じたのです。
 在学中は鹿又宣弘助教授(現・早稲田大学教授)に師事し「低分子アンサ化合物を触媒とした不斉桜井細見反応」を研究し,奈良先端大院に進学して「キラル銅触媒を用いた不斉アシル化」で修士号を,「タキソールABC環の合成」で博士号を頂きました。
 現在は,同志社女子大学で天然物や阻害剤の合成のほか,触媒や反応試薬の開発研究を行っています。
 明大時代,鹿又先生から「苦しい道を選びなさい」という言葉を頂き,私の座右の銘にしています。研究や進路に悩んだときはいつも,先生の言葉を思い出してきました。苦しい道を歩むには忍耐が要るし,鍛練も必要です。しかし,それを乗り越えた時,希望を手にすることを忘れてはなりません。鹿又先生と言葉の出会いは,明大での宝物だったと思います。若い学生たちにも,そのような出会いがあることを願っています。

2017年9月3日

人と人が時代を繋ぐ

著者

最近展示会に行って感じた事を記す。
私は自動車部品メーカで研究開発・製造販売を経験し現役を退いて12年になる。先般5月横浜で開催された「人とくるまのテクノロジー展2017」での見学記である。
 一つは技術論文「装飾クロムめっき腐食に及ぼす融雪剤と土壌成分の影響解析」が自動車技術会賞に評価され、内容が掲示されていた。そのまま引用させて頂く。
 「ロシア市場において、自動車用外装部品に使われている装飾用クロムメッキが特異的に腐食することが知られている。しかしロシアのみで特異的に腐食する原因は不明確であった。今回土壌成分に着目しロシアに多く存在する土壌成分中の有機酸が、冬期に融雪塩として散布されている塩化カルシウムと混在することで、クロムめっきの腐食へ大きな影響を及ぼすことを解明した。」(後述の子細は省略する。女性1名含む5名の企業チーム、企業名はT社と略す。―注1;公益社団法人自動車技術会の冊子よりー。)
 私も化学を勉強し企業で研究開発に携わった者として推察するに、1~2年かかる化学分析・実験の積み重ねと、ロシアから土壌を持ち込み検証など、多くの困難があったうえでの成果であろうと、拍手を贈りたい。先端技術の自動車産業にあって化学は地味で基礎的な分野であるけれど必要不可欠な存在である。日本の自動車産業はこれからも世界をリードすると確信した。
 二つめは、自動車部品の性能試験器の展示説明員との対話に関する気付事項である。
私は使用した事のある試験機前で足を止めた。20代の若い人が丁寧に説明してくれたが難解であった。その試験機は構成も内容もデジタル的に進化しておりアナログ的知識しか持たない私には理解できなかった。その時年輩の説明員が私の胸の名札を見て「〇〇会社さんですか、以前に訪問販売した事がありますよ懐かしいですね。」と言って、20~30年の技術の空白を埋める様に解り易く説明してくれた。私は「ありがとう」と感謝した次第である。
「人と人とが時代を繋ぐ」と思った。
 明治応化会は50数年の卒業生の組織である。様々な形で繋がって行けば、きっと良いものが生まれると思う。

2017年8月2日

高校教員10年目の節目に

著者

倉田研究室卒業生の田口耕平です。
 2006年3月に大学院修了後、2年間製薬会社でMRをしたのち、2008年4月に東京都立高等学校の理科教諭になりました。教諭になって今年で10年目を迎えます。
 本年度より、独立行政法人国際協力機構(JICA)の事業である青年海外協力隊に『現職教員特別派遣制度』の適用を受け、東京都教育委員会からアジア最貧国のラオスへ派遣されることになりました。
 青年海外協力隊とは、日本国政府開発援助(通称ODA)に伴う人材協力事業のボランティアで、公用ビザにて2019年3月末まで1年9ヶ月滞在し任務にあたります。
 主にサワンナケートという街にある教員養成カレッジで化学の実験指導や教育アドバイスを行う予定です。
 ラオスは社会主義国で、教育予算が劇的に少なく教員に対する教育も十分ではありません。ラオスの理科教育の改善に少しでも貢献したいと考えています。

2017年7月1日

今を全力で楽しむ

著者

気がつけば30代後半に突入し、世間からは若手と呼ぶには少々抵抗を感じる年齢になりました。アカデミアの世界でやっていくと決めて以来、人間万事塞翁が馬、一喜一憂しない、達観し、そして今を全力で楽しむという信念をもとに、日々精進に明け暮れています。これまで明治と名の付く場所では非常に多くの時間(約15年)を過ごし、多くの諸先生方、諸先輩方のご指導・ご鞭撻をいただきました。あらためて深く御礼申し上げます。明治大学を卒業して以来、民間企業、日本学術振興会の特別研究員PD、海外でのポスドクといろいろやってきましたが、特に海外での約3年間のポスドク生活は、これまでの考え方や海外に対する抵抗感、先入観を壊してくれる貴重な経験でした。
現在は東京農工大学で助教として学生の研究・教育に携わっています。研究において多くのことに貪欲に興味をもつというのは、融合研究や研究領域の新規開拓の面で非常に重要ですが、実はなかなか難しいものと常々感じています。特に自分の研究分野を超えて新しい領域の研究を創めるような場合、これまでの自身の中で凝り固まった研究概念・知識を超える苦しみがありますが、一方で1から勉強していく楽しみもあります。現在は、環境・エネルギー・持続可能社会の実現をキーワードとして、高分子材料科学に基づいた有機半導体材料(太陽電池、有機EL、有機薄膜トランジスタ)の開発や植物バイオマスを原料とした機能材料の開発、地球温暖化抑制のための高機能分離膜の開発、微小エネルギーの有効利用を目的とした熱電変換材料の研究に取り組んでいます。これからも今を全力で楽しみながら過ごしていきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2017年6月1日

明治大学で学び,明治大学で教える

著者

私は2004年に明治大学理工学部工業化学科を卒業し,2006年に工業化学専攻博士前期課程を修了しました。その後,企業の研究員や大学の助手・助教を経て,2016年4月に応用化学科に戻ってきました。先生やスタッフの方々の多大なるサポートを受け,これまで過ごすことができました。大変感謝しております。10年ぶりに戻った明治大学の印象は学生時代と変わらず,個性の強い学生が非常に多いということです。様々な個性を持った学生を教えるのは難しい部分もありますが,日々やりがいを感じて仕事をしています。教育,研究活動を通して,個性を活かして社会で活躍できる人をたくさん育てたいと思います。
 研究テーマは有機化学を基盤として,様々な生理活性を持つ天然物有機化合物の合成を行っています。また,その分子を利用して医薬品や農薬品,香料などヒトや動物に作用する分子の設計・合成も行っています。この研究を通して,動植物の生命現象の解明に寄与できればと考えています。研究室は2年目となり,学生も増えて活気が出てきました。1年目は研究室を立ち上げるために全員で試行錯誤しながら進めてきました。1期生には大変な思いをさせてしまったと思いますが,積極的に行動してもらい感謝しています。まだ試行錯誤している段階ですが,学生とともにより良い研究室を作っていければと思います。
 また,学生時代にお世話になった鹿又宣弘先生(現早稲田大学教授)や苦楽を共にした先輩,同期,後輩とは,今でも仲良くさせていただいています。鹿又研究室としても5周年ごとに同窓会を開催しており,3年前には15周年パーティーを開催しました。結束力が高く,イベントがあると多くの卒業生が集まってくれるのは明治らしさではないかと思っています。次回の20周年も楽しみにしています。
 話はそれましたが,今後も応用化学科の教員として,そして卒業生として,応用化学科を,そして明治応用化学会を盛り上げていければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

2017年3月26日

「2016年度を振り返って」

著者

毎年「3月26日」は明治大学の卒業式であり、先日(2017年3月26日)、学部生107名、博士前期課程45名、博士後期課程1名の卒業生・修了生を世に送り出した。学位授与式の場で、卒業生・修了生にお話しした内容の一部を「2016年度を振り返って」と題し、明治応用化学会の冒頭所感として記したい。
 2016年度は、学科として大きなイベントが2つあった。一つは「卒業研究発表会の開催」であり、もう一つは「タイ・チェラロンコン大学との合同シンポジウム」である。
 まず、「卒業研究発表会の開催」について述べたい。1960年に工業化学科(現在、応用化学科)が設立されて以来初めてとなる「学科全体での卒業研究発表会」を2月2-3日の二日間にわたり開催した。人数が多いため、二会場に分けての開催となったが、総計103件の発表があった。しっかりと準備をして、レベルの高いプレゼンを行なう学生も散見され、応用化学科の学生諸君の素晴らしさとそのポテンシャルの高さを感じることができた。開催に向けてご尽力くださった小池裕也先生と本田みちよ先生にここに謝意を述べたい。
 いま、大学での学びは「アクティブラーニング」がキーワードとなっている。アクティブラーニングは簡単にいうと「自ら主体的に学んでいく」ということであり、「自分自身で考えて行動すること」につながっていく。「学生実験」や「応化概論2(←応用化学会の皆様のご尽力に感謝いたします!)」はアクティブラーニングに関する科目群であり、その集大成が「卒業研究」である。その研究結果を発表する機会を学科全体のイベントとして持てたことは非常に有意義であったと思う。応用化学科を巣立っていった卒業生の皆には、今後もこの経験をもとに「自分自身で考えて行動すること」を実践していってもらいたいと願っている。
 また、社会はいまグローバル化がどんどん進行している。卒業生・修了生が活躍する場は、日本だけでなく「海外」という場面も大いに増えていくことは自明である。そのような状況の中で、渡邉友亮先生を中心にしてWGの先生方(田原一邦先生・本田みちよ先生・小川熟人先生・我田元先生)の協力のもと、チェラロンコン大学との合同シンポジウムを今年の2月22-26日に開催できたことは、応用化学科における「グローバル元年」ともいうべき、大変重要なイベントであったと思う。異文化に触れ、日本との違いを肌で感じることが「第1歩」であり、参加した卒業生・修了生の皆にはその経験をもとに、世界で活躍する人に成長してくれることを祈っている。この合同シンポジウムは「学長ファンド」からの助成により開催しており、応用化学科の申請を採択してくださった学長 土屋恵一郎先生にこの場を借りて御礼申し上げたい。
 上記のように振り返ると、2016年度は、工業化学科から始まる歴史の中で、大きな変革の年であったと実感している。今後は、応用化学科のOB/OGの組織である「明治応用化学会」とも連携しながら、「教育」だけでなく「研究」や「国際性」などにおいて存在感のある学科にさらに成長していくことを祈念して筆をおきたい。

2017年2月26日

50年前の餅つき機

著者

我が家では毎年12月末に餅をつきます。昨年も無事に餅つきが出来ました。餅は杵と臼ではなく、電動の餅つき機でつきます。この電動餅つき機はナショナル(現在パナソニック)製で、私が高校生の時に母が購入したと記憶しています。約50年前のMade in Japan です。当然のことながらマイコンや各種センサーなどは付いていなく、ヒーターとモーターそれにゼンマイのタイマーのみです。コードリールすらついていません。そして全体は金属製で堅牢に出来ています。
 もち米を洗って水に漬け、水切り後に所定の水を入れた餅つき機にセットします。スイッチを「蒸す」に入れるとタイマーが動きます。蒸し上がるとブザーで知らせます。ただし、自動ではスイッチは切れません。手でヒーターのスイッチをOFFにして、手動でモーターをONにして底にある小さな羽を回して餅をつきます。つき上がりは目視で確認です。これが実に美味しく出来ます。50年間一度の故障も無く毎年動き続けています。まさしくSimple is best の典型です。
 ここで周囲を見渡しますと、家電製品はリモコンつきでほとんどが全自動です。技術の進歩は日進月歩で、どんどん便利になっていきます。そしてインターネットの普及とIoTの進歩により世の中の進歩は加速しています。人間にとって進歩は重要で、江戸時代に戻ることはできません。しかしその便利性と裏腹に何か失ったものはないかと考えさせられます。
 我が家の自動餅つき機は、餅がつき終わると羽と内部に付いた餅をきれいに洗い、乾燥させます。全体を掃除して袋に包んで冷暗所に保管します。手入れをし、寿命がくるまで使い込む。このような使い方は現在の機器では難しいかもしれません。 家電品以外でも長く使い込むことは難しくなってきていると思います。例えば、有名な衣料専門量販店で冬物のセーターを購入しました。シーズンが終わり、クリーニングに出して保管していましたが、次のシーズンには、袖口や裾周りが伸びて着られる状態ではありませんでした。値段相応で使い捨て感覚の商品でした。
「多少高くても良いものを購入し、手入れをして長く使う」このような考え方が省資源、省エネルギーに通じると思います。若い頃にはあまり意識をしていませんでしたが、50年前の餅つき機を前にあらためて考えさせられました。

2017年1月28日

4年間の思い出

著者

応用化学科のOBとなる前に学生として投稿を依頼され大変光栄です。分離プロセス工学研究室 (鈴木研) の木村です。卒業まであと2ヶ月、「あっという間だな」と感じることが多くなりました。そこで、大学にはあまり無い卒業文集を書いてみたい、ということで応化での思い出をここで書きたいと思います。
 私が初めて生田を訪ねたのは2012年8月、オープンキャンパスであり初めての明治大学でした。出来立てほやほやでハイテクな第二校舎D館、ここでしかやってない講義や研究など充実していました。特に印象に残ったのは、北野大先生の模擬授業で、地球環境により一層興味を持ったきっかけとなりました。
 推薦入試、入学前の課題を経て2013年4月に入学、新入生歓迎の時期にはガイダンスや大量のビラを貰い困惑して帰った日も今となっては思い出です。ある日、ビラをチェックしたところ、一枚のビラにはこんなことが書いてありました。
 「履修相談、受け付けます。(応用化学科限定)」、そのサークルこそ、理科連化学研究部でした。履修相談をしたところ、色々なアドバイスをいただき、時間割を決めることができました。それがきっかけで化学研究部に入部。新入生期間も終わり、初めての講義、先生方の熱い話など充実していました。夏休みに入り、化学研究部では熱海に旅行に行きました。買い物、BBQ、『本当にあった怖い話』、海、温泉といった形で普段の生活を忘れるくらいの楽しさでした (翌年は軽井沢に行きました)。他にも化研では、夏実験 (その年はルミノール反応、翌年はカフェインの定量、翌々年はポリピノールの合成) の成果を基に生明祭や某大学での発表、リーダーズキャンプなど一生あるかないかぐらいの楽しさでした。
 やっと学生生活に慣れたところで、2年次に進級しました。「進級したら一気に大変になるから」と先輩からよく口酸っぱく言われました。少し不安はありましたが、学科中心の授業が増えたので、学科の友達が増えたのもその時期でした。2年前期、後期はなんだかんだあって進学 (ギリギリセーフの科目も)。
 3年前期の応用化学概論2では明治の応用化学科または工業化学科を卒業したOBの話を聞き縦社会を間近に感じることができました。
 研究室配属では、地球環境に興味があることや、入学前の新入生合宿で鈴木義丈先生と出会ったこともあって分離プロセス工学研究室に志望し、研究に励みながら論文を執筆中です。
 私は4年間で、最高の環境、施設、仲間に出会え、明治の応用化学科に進んで良かったと改めて感じます。今年から (生涯現役) の進路に向けて残りの学生生活を過ごしていきたいです。明治大学応用化学科、万歳!

2017年1月3日

新年あけましておめでとうございます。

2017年の年頭にあたり、明治応用化学会の皆様のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げます。

著者

”OBと現役学生との懸け橋を築こう゛
を合言葉に初代倉田武夫会長のもと現役学生に対し「応用化学概論Ⅱ」「最先端化学」の授業開催を行い、また生明祭のおり明治応用化学会として講演会の開催など早いもので4年間が過ぎました。

2016年11月19日の総会で後任を任されました小沼 哲昭です。若返りを目的にしていますが、1973年卒(竹内研)です。あまり若返っておりませんが現在でも仕事は続け過去と現在を繋いでいます。
 今後はこれまでの授業・講演会の継続とOB・OGの皆様方のこれまで以上の参加により組織の充実・拡充を行い教職員の皆様方との連携をより深めていきたいと思います。
 新たな《酉年》さらなる羽ばたきのため皆様方のご協力よろしくお願いいたします。

2016年12月14日

明大応化への想い

著者

この欄の読者(ヴューアー)は、大方本応用学科(以前は工業化学科)の卒業生諸兄諸姉であろうから、私の本学科との出会い、三十年半の勤務の思い出と、その後の私の生き方や希望を記してみたい。

1. はじめに
 東大生研から長期海外出張の許可を得て、カナダのトロント大学で客員准教授として研究に励んでいた1968年夏、現名誉教授の吉弘芳郎先生から在外研究の途次会いたいとのお手紙を頂いた。先生は、私が学生時代に助手を勤めておられ、学生実験の指導、工場見学ツアーの折にお世話になり、その後もおつきあいがあった。トロント大学や近くの名所をご案内したが、先生から「1969年4月から明大工業化学科に欠員が生じるので、是非就任して欲しい。物理化学を教え、研究は自由にやってもらい、力を合わせて良い明大工業化学科としたい。学科の主だった先生方の承認を頂いてこの話を持ってきた」といわれた。
 私は、既に1968年9月から一年間、米国アイオワ大学で客員准教授として講義をするオファーを受諾しているし、もっと米国にいたい気もしていたので、69年10月からならともかく4月からは不可能とお答えした。
 その後、アイオワで寒い冬を過ごしながら、もしこのまま米国にい続けたら帰国するチャンスを失うかも知れないと思って、教授としてなら明大からのお奨めを受けることにした。

2.就任後のこと
 1969年9月末帰国し、東大を辞して10月、明大教授に就任したが、当時は日米安保条約改訂のあおりで、大学紛争の最中であった。本学もロックアウト、休校中で、私は他の教職員なみに、警備のための宿直、巡回、検問などに従事した。ようやく授業が始まり、担当の工業化学実験の指導をしようと思ったら、学生ほかの集団に阻まれた。驚いたことに、本学科は内部で教授と実験助手(当時、技術員相当、後に制度廃止)の確執があり、正常な授業が行なえるまでに数年を要した。若かった私は、学科長を助けて教授の先頭に立たされ、学科運営に苦労した。
 就任当初、紛争で不安定な気分になっていた学生諸君からは、「大学とは何か?そこで学ぶ意義は?」と聞かれた。また、「何時になったら明大出身者が学科のスタッフになれるだろうか?」とも聞かれた。私は、「努力すれば道はひらけるよ。先輩には素晴しい人達がいるのだから、劣等感をなくして頑張りなさい」と話した。
 就任当時おられた先生方は順に定年退職され、数年後、倉田武夫氏が専任講師になられたのを筆頭に、何人かの明大出身者のスタッフが生まれた。本学科は創立以来、第2期に入った感じがした。
 授業科目に関しては、私は就任の際の条件通り、当初は物理化学I( 基礎的事項((主に気体、液体、固体の性質、熱力学、反応速度論)、物理化学II(界面の物理化学)を担当したが、その後、新任者へ譲って物理化学III (統計熱力学) 担当となり、結局、物理化学のほとんど全部の分野を担当教授することとなった。化学工学に関しては、就任当時、担当の佐藤忠正教授を助けて基礎や概論を担当したが、先生退職の後は私が担当となり、大方の分野を講義するようになった。
 さて、大学は教育と研究を行なうところであるが、当初、研究は自由にといわれたことは嬉しかった。そこで、学生諸君と一緒に幾つかのテーマについて実験的研究を行なうことにした。幸いに理論好きで優秀な学生が大勢私の研究室を希望してくれた。当初は、今では考えられないほどの劣悪な条件下で、研究費を工面した。一時は、パソコンが100万円近くしたため、「データ処理装置」と称して研究費の大部分を使ったこともあった。
 ともかくも、その後の着任された人達とも力を合わせて、吸着工学を明大の特徴とするように心がけた。以来30年半、成果が挙がり、多数の論文を発表できたし、学会賞を幾つか受賞した。
 就任当初から私は卒業生の就職の世話をしてきたが、卒業生諸君は今や社会の中枢で経営者、管理者になっている。嬉しいことである。なお、私の前歴から、国際交流、留学生の世話も担当させられた。
 就任数年後、研究室卒業生がいわゆるOB会を作ってくれた。その後、「竹の子会」と命名され、当初は隔年、そのうちに毎年、大方11月末に開催され、OBと現役学生の連帯が出来た。先輩に誘われて入社することも多くなった。2000年3月の定年退職までに350名余の卒業生、うち3割ほどが大学院博士前期課程を修了した。ほかに11名に主査として工学博士の学位を差し上げることができた。

3. 定年後のこと
 私は実験的研究をしてきたので、定年退職後は研究ができなくなった。しかし今までの縁で幾つかの会社や財団から顧問や委員長職を依頼され、しばらくは忙しい暮らしが続いた。しかし、2015年にはほぼ役を終えた。今まで著書を幾つか出したが、共著が多かったので、一人で著述することになった。専門書(吸着工学、吸着剤、環境保全など)や教科書(化学工学、物理化学、応用数学など)を刊行することができた。一部は共著となったが、以前からの分と合わせて著書は約40冊になる。
 なお、定年退職後、OB有志が集いを続けようと、「竹の子」が育って「成竹会」と命名し、毎年11月末に懇親会が行なわれ、私も夫婦で参加させて貰い、短い講演(講義)をする機会を貰っている。この成竹会のメンバーが多数明大応化会の役員を勤めてくれていることは、嬉しいことである。

4. 終わりに
 想えば、本年3月に本学出身の諸兄(倉田、中村、宮腰の名誉教授、室田元専任講師)が定年退職され、本学科は創立以来第3期というべき時期になった。以前に第2期に学科で構想した以上に立派になった明大応化の姿を見て誠に慶賀に堪えない。また、学科創立50周年を契機に設立された明治大学応用化学会もユニークな活動をしていることを嬉しく思い、本学科の一層の発展のため、ご尽力頂けたら幸いである。私自身は、「勉強しなさい。そうすれば良い未来があるよ」と学生諸君を励ましてきた手前、今後どう過ごそうかと思案している。

以上

2016年11月20日

化学の知識と友人は一生の宝

著者

昭和48年3月の卒業以来、39年間のサラリーマン生活と実家の鉄工所(正確には一般鋼材販売業)を3年間手伝った後、現在はパートで植木職人(見習い中)をやっています。
 私は3人兄弟の末っ子で次男の兄とは双子で小学校6年間はずっと同じクラスで、優秀な兄と比べられながら過ごしました(学校側が実験)ので、中学からは別々の学校へ行きたいと思いました。(兄は早稲田)入学時、大学は学生紛争の真只中で校舎がロックアウトされていたため、授業は秋まで無かった様に思います。4年になって卒論時期になった時、外部で研究したいとムリを言って都立の研究機関に派遣して貰いました。卒論テーマは当時話題になり始めた環境問題に関連して水中の微量な鉛や水銀を放射化して分析すると言うものでした。各地の河川水の採取、減圧濃縮、カプセルに密封した濃縮液を原子炉で熱中性子を照射して放射化し重金属を測定するなど、貴重な体験をする事ができました。
 卒業時は就職難と言われた時代だったと思いますが、何とか化学と関連有りそうな企業に入る事ができました。会社ではプラスチックの基礎物性試験と加工性改良の仕事を経て分析部門に廻され、自分としては好きな化学に向き合えると喜んだものですが、仕事はどれも研究とは程遠く、どの課題も深くも長くも続かない、一定の手法が確立すれば手順化されて繰り返えされるものばかりでした。その後は、生産管理、品質管理、環境、労働安全部門などを渡り歩きました。中でも印象に残っているのは環境ISO14001の認証取得の仕事でした。環境部門の上司から押し付けられた仕事で予備知識もなく始めましたが、最初はチンプンカンプンな事ばかりやっていて他部門からの信頼が無くなる寸前でした。その際に、隣の部門の上司が他事業所のISOの審査に立会う機会を与えてくれ、その体験が大きな転機となり10ケ月後には環境ISO14001の認証を取得する事ができました。但し、この10ケ月は毎日12~14時間会社で仕事する生活を送り精神的には大変つらい日々を送っていたと思います。世間では何か事を成すには“命がけでやる”必要があると多くの先人が言っている意味が判った様な気がしました。この間の仕事振りを廻りの人も見ていて多くの他部門の責任者と信頼関係を築く事ができたのは良かったと思っています。
 管理部門にいた時はデータ整理や予測に基づく計画立案だけでなく、多くの雑誌・文献を通して知識を広める大切さを学びました。人生の中で自分が知りうる知識はほんの一握りであり、多くの人の“命をかけた”努力によって世間は進歩しているのだと思いました。私自身も友人から聴力を回復させる手術(内視鏡を使った鼓室形成術)が普及しつつ有る事を知り、自分の右耳の手術を受けて聴力を100倍に回復させることができました。
人は様々な問題を抱えて生きていて、本音で話し合える人は少ないと思いますが、学生時代に付き合った友人を大切にして、良い相談相手を持つ事が“一生の宝”になると思いますので、つまらない事で大切な友人を失わない様に心がけたいと思います。また、化学は様々な場面で多くの誤解・偏見に遭う場合が有りますが、化学者としての見識を忘れずに物事を多くの側面から見て、他人に惑わされない様に生きて行きたいと思います。

2016年8月13日

部活で4年間

著者

日本武道館での卒業式以来、はや43年が経ちました。貴家先生、中村先生には大変お世話になりました。
 学生時代は理科部連合会・自動車技術研究部、通称ジギケンの部員でした。1年の春には、新入部員数は50人をゆうに超えていたと思いますが、ほとんどがクラブに入れば免許がとれるというのりで入部するものが多く、結構体育会系の血筋のクラブだったこともあり(何だか知らないけれど体育館の床に1時間正座なんてこともありました。)でしたので、秋の富士吉田合宿の時には20人以下になっていました。
 今、若者のクルマ離れが言われて久しいですが当日は車社会発展途上であり、国産車がやっと国際的にも認知されようとしている頃であり若者はクルマを持つことが夢でした(私の周りだけかも知れないが)。クラブ活動は毎日クルマの整備、クルマの製作などで機械科に入学したようでした。化学の出番はほとんどありません。
 しかし、自動車による大気汚染が大きな問題となり、公害対策基本法、水質汚濁防止法、大気汚染防止法などが施行されたのもそのころでした。
 昭和46年、3年生の夏、同期部員12名で「全国主要都市大気汚染調査」と銘打ち、全国主要都市の交差点で大気汚染の調査を行いました。東名は開通したばかり、東北道はまだできていませんでした。仙台、青森、新潟、金沢、福岡、鹿児島、広島、大阪、京都、四日市、名古屋、横浜、東京と約40日かけて、CO・SO2・NOX・鉛化合物の測定を行い、報告書を作り上げました。ジギケンでは昭和39年から行っている主要行事で第6回目にあたりました。そこでやっと化学屋の出番がやって来ました。全国を渡り歩いての測定ですので、分析機器の調達(借用)からはじめ、いくつかの都市の衛生研究所や大学で測定・分析に必要な「純水」を頂く手筈を整え、山手昇先生の論文を参考に分析方法の手順も頭に叩き込んで出発しました。この原稿を書くにあたり、報告書を読み返しましたが、測定値の信頼性は?がつくところもありますが、データ整理など手作業で随分大変なことをキチンとやったなと改めて感慨に耽っています。
 クラブ活動の思い出を綴ってきましたが、部室に入り浸っていた学生の就活ですが、自動車会社は化学専攻では募集がなく、また「好きなことは仕事にしてはいけない」という教え?を守り、なんとか「東洋ガラス」というびんガラスの大手に就職できました。就職難とは言われていましたが、皆どこかに入れるというのんびりした時代ではありました。以来、ガラスに関わって40年、3年前に退職しましたが、その後も同業の中小のガラスびん製造会社で現役続行中です。
 今でも週末は相変わらずクルマをいじっています。趣味は人を元気にしてくれます。

2016年7月27日

人生は、臨機応変、波瀾万丈

著者

卒業を控えた1973年2月、松原研究室に日本企業と米国企業の合弁会社の技術部長から「新部署設立に伴う求人」がきました。卒業後、長男でもあり田舎の市役所に勤める予定でしたが、研究室から入社を断っても良いから会社訪問をとの話で、この会社を訪問しました。入社試験は無く、社長・取締役との面接が雑談形式で行われ、面接当日に採用の連絡がありました。役員面接でこの会社に強い興味を持ち、田舎の父親に卒業後田舎に帰らずこの会社に入ることを伝えました。入社した会社は日本・アジア・オーストラリアを、米国親会社が南北アメリカを、米国親会社とドイツの会社の合弁会社がヨーロッパ・アフリカ・インドを販売テリトリーとして、3社が同じ工業用触媒を製造、販売していました。私は、新しく設立された「企画開発部」へ配属され、部長、課長と私の3人で社会人生活がスタートしました。入社時は、「屎尿・下水の嫌気性消化処理から発生するメタンガス中の硫化水素除去触媒」の販売が主な仕事で、年間200㌧の販売量でした。この触媒は、約20年間で販売量を1,500㌧まで、輸出も含めると2,000㌧まで増やすことができました。
 1974年11月、米国親会社がドイツの触媒会社へ事業を売却したことにより社名が変更となりましたが、仕事内容に大きな変更はありませんでした。ドイツの新親会社は、ベントナイト製品(鋳物用、油脂精製用、土木用、建築用、塗料・インキ用添加剤 ほか)を製造・販売している会社でした。ドイツ親会社は、日本を含むアジアでは全くそのベントナイト製品を販売していませんでしたが、日本に子会社を持ったことにより、製品の日本での販売を考え、手始めにベントナイト系レオロジカル添加剤(塗料・インキ・接着剤などで使用)の市場に注目しました。当時の需要調査では、このレオロジカル添加剤の国内需要は年間1,500㌧で、米国のメーカーが70%、国内メーカー2社で30%のマーケットシェアを占めていました。そして、私の所属する「企画開発部」でレオロジカル製品を取り扱うことになりました。1980年、この製品PRを開始しましたが、それまで取り扱っていた触媒とは全く異なる分野であり、塗料・インキに関する知識が皆無で英語が苦手な私にとって、ドイツから送られてくる英文製品のカタログ・技術資料の翻訳、ドイツ技術者との交流は苦労の毎日でした。社内にレオロジー添加剤やそれを使用する業種に関する資料・雑誌が全くなく、それに関する知識や経験を持つ人もいませんでした。そのため、図書館や本屋に通い、製品に関連する雑誌、文献、専門用語辞典と英日・日英辞書を購入、必要におうじて製品と使用分野・方法について勉強しました。 2000年には、販売量が年間700㌧を越えました。
 2005年12月、ドイツ親会社は米国の会社に「レオロジカル添加剤」の事業(含 従業員)を売却しました。この米国の会社は、すでにドイツの親会社以外のレオロジカル添加剤関連の会社を2社買収していました。この事業売却に伴いドイツ親会社から私に、「売却先の米国会社へ移籍」通知がありました。売却先の米国会社は、日本に子会社・事業所がありませんでした。そのため移籍にともなう給与を含む雇用条件、事務所設立などの交渉は、そのほとんどを私一人で行いました。2006年4月、東京事務所開設、販売商社変更、顧客への事業売却と取扱い窓口(代理店)変更案内などの作業を完了し、一人東京事務所で「販売代理店の管理、顧客への技術サービス、海外関連会社(ドイツ、米国、英国)技術者の来日アレンジ(顧客訪問先)」などの仕事を2012年6月の事務所閉鎖まで行いました。 
 2013年、米国の会社がドイツの会社にレオロジカル事業を売却、このドイツの会社の日本子会社が事業を取り扱うことになり、この日本子会社に私は2年間「ビジネスアドバイザー」として仕事を手伝いました。
 43年間の会社生活の間、会社の売却・合併・移籍による4回の社名変更と3回の事務所移転を経験。出張で国内は北海道から九州までほぼ全国を巡り、ヨーロッパ、米国、インドほか、多くのアジア各国に出かけました。そして、国内・海外で多くの人たちと知り合い、訪問先で美味しい料理を味わい、各地の観光地と博物館を見る機会に恵まれました。
 自分では考えもしない人生の転機を臨機応変に対応することによって、考えもしなかった波瀾万丈の人生を・・・。

2016年5月28日

健康の大切さ

著者

月日の経つのは早いもので、社会人となり40年を過ぎました。私が大学に入学した昭和44年には、日本全土で学生による反戦運動が激しく行わる中、明治大学では、学生のバリケード封鎖後、5月下旬には機動隊が入り、大学側のロックアウトが行われ、秋にやっとロックアウトが解かれ、授業が再開されましたが、大学1年はわずか3~4か月でした。しかし、6大学野球の春のリーグ戦で昭和36年以来久しぶりに優勝し、神宮球場から駿河台校舎まで靖国通りをパレード経験した年でもありました。
 大学3年生の後期にゼミを選ぶ時には、香りに誘われて有機化学の斎藤研究室に入りました。卒論のテーマは、「青葉アルコール(3-ヘキセン-1-オール)の合成」でした。斎藤先生、宮腰先生、司さん(博士課程)の指導の下に研究を進めました。さらに大学院に進み「オクテンジオン(β―カロチンの合成中間体)の合成」テーマで研究しました。
 就職は、石油ショックによる就職難の中で、6社の会社訪問を行った結果、歯磨会社に入りました。1年目は大学で香料の研究をしていたということで、調香室に配属され、2年目から有機合成研究室に異動となり、天然ハッカの微量成分合成、医薬品原料の合成を担当していましたが、入社5年目に会社の合併により、以降50歳まで、口腔衛生用品(義歯安定剤、歯科用接着剤等)の開発を担当しました。その後、5年間営業部門子会社に異動し、開発製品に対する卸店担当者、小売店担当者、消費者から直接意見を聞けるという貴重な体験をしました。10年前より口腔衛生の普及、啓発を行う、公益財団法人に異動し、理事会の運営、固定資産管理等の総務を担当しています。

40年間を振り返ると、一貫して口腔衛生の普及、歯科用品の開発等の健康に関する仕事をしてきましたが、日本人の口腔状態が入社当時から比べると格段に良くなり、口腔衛生と全身健康との関連が解明されてきました。特に成人病と歯周病との関連の強さが証明されました。 また、介護現場でも口腔清掃を実施することにより、嚥下性肺炎が防げ、延命および認知の改善がなされるとの報告があります。

一方、自分の周りをみると、ここ数年の間に、会社同僚、30年連れ添った妻の死に接しました。最近では、姪の長男が「拡張性心筋症」という心臓の難病を患いアメリカでの心臓移植が必要となり、現在募金活動を行っています。

改めて、自分が健康で働けているありがたさ、健康維持の大切さを痛感しています。私の健康維持のためにやってきたことは、通勤時に会社の二駅手前からのウォーキングを20年以上続けてきこと、一日3回の歯磨き(朝食後、昼食後、就寝前)位のことしかしていませんが、これが良かったのではないかと思っています。

最後に、学生の皆様は、社会に出て意欲に燃えて種々の分野の仕事に就いて活躍されることと思います。しかし、若いころはついつい体に無理をすることがあります。時には立ち止まって健康のことを振り返って見てください。

仕事を成し遂げるためには、健康な体と精神が一番だということを頭の片隅で覚えておいてください。

2016年3月27日

技術の進歩と人間

著者

現在の科学技術、特にIT技術の進歩が目覚ましく末恐ろしい気がします。スカイツリーを見物に行った時、「すごいな」と思う前に「怖い」と思いました。人類と地球の歴史を比べれば、いかに我々の知力の及ばない点が多くあり、自然の力を畏敬しながら共存しなければ、そのうちとんでもないしっぺ返しがあるのではないかと思いました。月面に空いた無数のクレーターは何を物語っているのでしょう。また、福島原発の事故は過去の歴史を甘く見た人々による「人災」、「まず起きないだろう」、「計算に合わない」のような思い上がりに思えてなりません。温暖化による地球環境の悪化などもその一端と思います。人間は「地球」と言う「温室」に育まれて進歩してきましたが、今我々のやっている事はこの「温室」を破壊しているのではないでしょうか。また、今では会話の多くがアイフォンやアイパッドと言ったIT機器に置き換わっているようになり、ライン、フェースブックと言った「機械」を通じてのコミュニケーションになり「対人間」との会話がなくなっているように思います。このおかげで(?)人間は「覚える」、「計画する」等の創造力を失っていくように思います。電車、バス、自転車に乗ってもアイフォンやアイパッドの画面を見て機械と会話しています。いま地方に住んでいますがときおり東京を訪れ電車に乗ると愕然とします。かなりの人が画面に注目して会話も忘れて「カチャカチャ」しているのです。適当に不便なほうが人間、進歩すると思います。この辺りで自然と共存する方法を模索しても良いのではないでしょうか。科学技術の発展は人類の生活に役立つ面もあると同時に開けてはいけない「パンドラの箱」もあると思います。また文明の発達と人間の能力、思考力、免疫力が反比例するように思える今日この頃です。

2016年2月20日

化学をバックボーンにして

著者

月日の経つのは早いもので、社会人となり40年を過ぎようとしています。健康に恵まれ、現在も現役で仕事が続けられていることに感謝しております。

私が大学に入学した昭和44年は、ベトナム戦争が泥沼化して拡大するなか日本全土で学生による反戦運動が激しく行われ、日常的にデモ隊と機動隊との衝突が繰り返されていたような波乱の時代でした。1月には全共闘による東大安田講堂事件が起こり東大の入試がなくなり、受験生に大きな影響を与えた年でした。明治大学は社学同*の拠点であり、生田校舎も入学早々の5月下旬にはロックアウトされ大学として機能していない状況でした。講義は無く、毎日大学には出るがクラス討論に明け暮れる毎日でした。1年生の秋にやっとロックアウトが解かれ、授業が再開されましたが、私の感覚では大学1年は飛ばしたようなものでした。

大学3年生の後期にゼミを選ぶときには、その当時大きな社会問題になっていた「公害」に関わりたいと思い、迷わず分析化学の貴家研究室に入りました。当時の最新鋭分析機器のひとつ、原子吸光法による重金属類の分析を卒論のテーマにして、貴家先生、中村先生の指導の下に研究を進めました。さらに大学院に進み研究を進めていましたが、先生より研究の進捗状況を学外の鉄鋼委員会で年に4回発表する事を指示され必死に行いました。この経験が、その後の研究者あるいはマネージャとして幾度となく訪れた人前で話す機会に、臆せず話す事が出来る術を手に入れることができた要因だと思っています。

就職は、「内定取消し」が社会問題となるような就職難の時代でしたので、大学の専攻とは異なる外資系製薬会社に入りました。研究員として新薬の経年変化で生成する物質の同定・単離と安全性の評価を担当しました。薬の効能が側鎖ひとつで劇的に変わるという不可思議さに魅了され情熱的に仕事をしましたが、やはり公害関係を一生の仕事としたくて2年で三井系の建設設備会社に転職しました。入社後は研究所で排水処理システムの開発において、性能評価の指標を分析化学的に確立する仕事を行うとともに、研究所を当時国が進めた「公害関係の分析値の正確さ」を求めた分析機関としての環境計量証明事業所に登録する仕事を行い、自らも環境計量士の資格を取得しました。

その後、開発のサポートより「自分で開発したものを世に出したい」という気持ちが強くなり、当時の科学技術庁(現文部科学省)の補助金事業として採用された「マイクロ波による低レベルβ・γ固体廃棄物の溶融固化処理」のプロジェクトチームに参画しました。化学専攻の私にとって、マイクロ波、原子力は未知の領域であり大きな不安もありましたが、反応があるところでは化学が基本であると信じ、また持ち前の好奇心の強さを武器に、5年にわたる開発から市場導入までを成し遂げました。その過程で、実際の放射性物質を処理している日本原子力研究所に2年間入所し、放射性廃棄物の焼却処理、圧縮処理等を経験しました。開発し納入した設備は4設備になり、お客様に性能・品質に満足して頂いたうえに、作業員の被曝量低減に寄与したことが大変感謝されました。もう30年以上稼働しておりますが、まだ3設備が現役で頑張っています。子供が小さい時に、「お父さんは何を作っているの?」と聞かれても見せることが出来なかったのは残念でしたが、胸を張って「人のためになる機械を作ったんだよ。」と言えたことが、大きな喜びでした。

東日本大震災の時にはこの経験が役に立ち、焼却技術と放射性物質を知る技術者として、国交省他施策を立案する人々に助言することができました。また周囲の人々にパニックを起こさないように解り易く放射線の影響を説明することができたことなどが思い出されます。その後、揮発性有機化合物(VOC)を抑制するPRTR法の実施の動向を見て、工場排気中のVOCを低減化するシステムが必要になると予測し、燃焼での処理が最適と判断して蓄熱燃焼装置(RTO)による処理システムを開発して営業を行い、半導体製造会社、自動車会社、印刷会社などに納めました。中国上海市、北京市の半導体工場にも納めましたが、海外での仕事は、日本とは全く異なるビジネス文化なので、非常に新鮮、かつ驚き(良い意味でも悪い意味でも)を持って遂行しました。その過程で確信したことは、日本も海外も同じで最も重要な事は人との接し方だということでした。言葉は不十分でも技術的にしっかり説明し、相手には真摯に取り組み、信頼を得ることが重要であると知りました。

最後になりますが、社会に出ていろいろな分野で仕事をすると、本当に化学とは人が生きる環境の全てに関わりのある学問だということを強く思いました。学生の皆様は、社会に出て化学と関係なさそうな分野の仕事についても、その中に必ず化学と関わる部分があります。自分のバックボーンとしての化学を信じて前向きに生きてください。

:社会主義学生同盟)

2016年1月1日

「明けましておめでとうございます」

戦後70年を経た2015年は、科学の分野において明るい話題が、いくつかありました。ノーベル賞のダブル受賞、探査機「あかつき」が金星を回る軌道に入ったなどです。そしてCOP21においては、京都議定書から18年ぶりにパリ協定が採択されました。
 印象的だったのは、オバマ大統領の「我々は気候変動の影響をどうにか出来る最後の世代かも知れない」との演説で、この演説がパリ協定採択を推進したと思われます。資源のないわが国は、地球温暖化対策のリーダー的存在であり、日本の技術力に大きな期待が寄せられました。
 さて、今年2016年は・・・? 地震、 火山活動、原発再稼動など不安材料が多々ありますが、どうか平穏で未来に向けて希望に満ちた年になるよう、切に願う次第です。我々の明治応用化学会は、皆様のご支援、ご協力により発足して丸3年を経過しました。そして今一番切望されることは、会員の中の若い人たちの参加、活躍です。よろしくお願いいたします。
 今年も明治応用化学会に変わらぬご支援ご協力を賜りますよう、お願いいたします。
最後に皆様の、ご多幸と更なる活躍をお祈りし、新年の挨拶とさせていただきます。

2015年11月29日

「スポーツ観戦を通して蘇る愛校心」

著者

こんにちは。昭和61年卒の須藤と申します。縁あって現在、明治応用化学会の理事を承っております。理事という事で原稿の依頼を受け、何を書こうか迷いましたが、やはり私の好きなスポーツの話題で投稿する事と致しました。
 私の現在の趣味はスポーツ観戦です。昔は自身で様々なスポーツを楽しんでいましたが、50歳を過ぎ体力の衰えを感じ今では年3回位のゴルフと年1回のリレーマラソン(4kしか走りませんが)年2回位のソフトボールしかやっておりません。
 一方スポーツ観戦はジャンルを問わず全てを見ています。基本的にはテレビ観戦ですが、機会があれば現地に行き直接観戦します。テレビと違い臨場感、迫力がありいいものです。特に今はサッカーJリーグに嵌っています。ジェフ千葉の大ファンで、年間チケットを買ってホームの試合は全てスタジアムに行き、ホーム自由席で立って撥ねながら観戦しています。ジェフは今J2で、もがいていますがサポータのよく目かも知れませんが、どう考えてもJ1レベルのチームです。プレーオフ進出ぎりぎりのところですが、来期J1に上がるよう一生懸命サポートします。
 さて本題の愛校心についてですが、明大スポーツも今が旬ですよね!東京六大学野球秋季大会、法大との最終戦延長の末惜しくも破れ優勝を逃しました。残念でしたね!優勝すれば提灯行列まだやっているのでしょうか?懐かしいですね!また高山選手最多安打記録更新、良かったですね。前記録保持者も明大の高田さんでしたので、さすが明大です。ラグビーワールドカップも終了しましたが、日本が南アフリカに勝利するという歴史的偉業を成し遂げました。田村選手は明大出身で頑張っていました。そして関東対抗戦グループ久々の優勝に向け勢いは良いです。この原稿がアップされる頃には帝京、早稲田をねじ伏せて、全勝優勝していることでしょう。そしてお正月に大学選手権を戦っているでしょう。
 お正月といえば箱根駅伝です。最近の明大面白いですね。今年は昨年に比べ戦力はダウンしているとの事ですが、出雲・全日本と何とか無難に乗り切りました。箱根は何が起こるかわかりません。優勝目指して頑張って欲しいし、楽しみです。お正月が待ち遠しいです。
 やはり、母校明治大学が活躍している姿を見るとワクワクして来ます。そして『やっぱり明治大学が好き』と感じます。皆さんはどのように感じるかはわかりませんが、母校明治大学と触れ合う事は楽しいと思います。
 明治大学理工学部応用化学科を卒業すると同時に明治応用化学会の会員になります。スポーツ観戦で触れ合うのも良いですが、明治応用化学会での触れ合いも捨てたものではありません。明治応用化学会と接する事で新しい出会いや交流が生まれます。
 是非一度明治応用化学会に参加して頂き、楽しい出会いや懐かしい思い出を思い返して母校明治を愛しましょう!

2015年10月25日

「 川崎から、起 承 転 転・・ 」

著者

大学を卒業し既に42年が過ぎました。応用化学会への参画の要請を受けておりましたが、まだ現役企業人であるとの言い訳により何もできないままでおりました。今回、巻頭所感への寄稿のお話があり、罪ほろぼしのつもりでお引き受けいたしました。ほぼ団塊世代直後の私が高度経済成長時代から低成長の現在まで、大学に入る前、入ってから、出た後と、誠に平凡ではありますが健康で日々を過ごせている概況を所感とさせていただきました。
 1950年 川崎(高津区)生まれ。幼稚園・小・中・高と川崎市内で育ち、大学もなんと生田で4年間と、オール川崎育ちです。川崎は私が育った当時、全国的には公害の街との印象ですが、川崎の中部から北部は丘陵地帯が広がり、田畑、果樹園、養鶏などが盛んで、多摩川も近い自然豊かな所でした。そのような処で、公務員の父親と専業主婦の母親との当時は珍しかった一人息子として、のびのびと(甘やかされて)両親に育てられました。
 大学入学当時はまだ大学紛争の影響も残っていましたので、政治に関心はあるが何をすれば良いのかわからない勇気のないノンポリとの立ち位置でした。授業は残念ながら(?)ほぼ定常どおりあり、とりあえず単位を落とさないように毎日まじめに登校する学生でありました。しかし大学生活にも慣れてくると、講義以外の時間は学食、学館、図書館、部室でのたわいのないダベリング、さらにおきまりのバイト(学習塾、家庭教師)、クラブ活動(カブ研、株式研究会ではなく歌舞伎研究会。なぜ入ったかは?)、雀荘(拠点はチュン「中」)、生田祭のソフトボール大会でクラスの雄志で参加し生田代表となったこと、六大学野球や大学ラグビーの観戦、それらの仲間との飲みニケーションと、まさに学業そっちのけの明るく楽しい学生生活を満喫いたしました。
 3~4年になると貴家研でお世話になることとなりました。貴家先生との思い出は学業以外のことばかりですが、先生宅へ賀詞訪問しご出身の郷土料理の鮑の煮貝の美味しさに感激したこと、また向ヶ丘遊園でアイススケートを研究室でダンスを教えてもらったことなどなど懐かしいかぎりです。さらに研究室では、中村先生からクラッシックレコードをもらったこと写真の現像を教えてもらったこと、研究室で夏合宿に海に行ったことや合コンまがいのこともあったりと、学業以外はいろいろとありました。学業では分析化学をかじらせてもらうこととなりましたが、研究成果は全く出せませんでした。しかし、就職した後の仕事にはずいぶんと役に立つこととなりました。 貴家先生、中村先生(現中村教授)、大学院生の藤井さん、竹添さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました。
 大学卒業後の就職については、食いっぱぐれの無いようにと「食に関係する会社」で、特に「パッケージング」に関わりたいと考え、東洋製罐という容器製造会社に就職し、現在は東洋製罐グループホールディングスという持株会社(一部上場会社)で働いております。グループ関係会社は国内外で80数社、社員数約1万4千名、総売上高は約8,000億円の総合容器メーカーです。容器素材は金属、樹脂、紙・ダンボール、ガラスなどで、製品は食品、飲料、生活用品などの缶、ボトル、キャップ、パウチ、チューブ、コップ、ビン、カートンなど多くの製品におよび、提供数は年間約300億個程度です。日本国のみなさんがほぼ1日に一個は消費して戴いている状態です。よく知られた食品・飲料メーカーや化粧品・トイレタリーメーカーの製品としてみなさまのご家庭にも数十個単位で存在しご利用されていると推察しております。
 職歴は開発、生産技術、品質管理、物流管理、営業企画、経営企画と経験し、赴任地は大阪・タイ・埼玉・東京と転戦しました。どの職種も赴任地でも、容器の安全安心・低価格・高品質・利便性向上の提供のための課題解決に取り組んできました。みなさんが毎日お使いになっているいろいろな容器で不具合が発生していなければ幸いです。
 容器事業においては、①容器生産 ②充填・包装 ③流通 ④消費 ⑤回収・再生、と限りある地球の資源を大事にし、サスティナブルな社会の創造をビジョンとしています。あと数年は現役企業人として社会のお役に立ちたいと思っております。
 仕事で身についたことの基本は、管理のサークルと言われている 「PDCA」(Plan Do Check Action)の実践です。一度失敗してもその経験を基に再トライできる(チャレンジしろ)との意味に取れます。最近、吉田松陰がこれに近いことを言っていることを知りました。「夢なき者に理想なし。理想なき者に計画なし。計画なき者に実行なし。実行なき者に成功なし。故に夢なき者に成功なし。」人生のPDCAとも取れませんか。

就職数年後これまた川崎っ子の奥さんと結婚し、国内外の転勤を重ねてきましたが、数年前にまた川崎の住人として戻ってきました。同窓会・クラス会、クラブOB・OG会などいろいろの交流にも参加できるようになり、夫婦共々故郷に戻ったと実感できています。起承転結と言いますが、まだまだ人生は起承転転・・です。墓地も川崎市内なので人生の最後まで本当に川崎にはお世話になりっぱなしですが、最後まで「夢を持つ者」としてがんばりたいと思っております。
 PS 49年卒14組のみなさまへ。 数年前に東京近辺の仲間とのミニクラス会は開催し、全国的な集まりを約束しましたが実現できていません。なんとか実現したいと思いますのでご協力願います。

2015年9月22日

人生80年のニューパラダイム
~資格が人を成長させ、60歳から楽しむ~

著者

私の友人である占い師南羽昇学は人生80年を次のように占う。
20代は一生懸命に働き失敗が許される時期、30代はもう失敗が許されない時期、40代は信用を得る時期、50から70代はお金を儲ける時期、60代からは楽しみ、70代からは夫婦で楽しむ時期であると。 明治大学を卒業して42年余り、私は65歳になり今でも現役(理事・副センター長として勤務)で環境一筋に働き続けている幸せ者。新潟の田舎育ちが上京し、大学1年次には学園紛争の真っただ中で勉強より軟式テニスや麻雀に走り、4年次の卒論は貴家研でX線回折装置を使用した分析化学の研究をしたが学会等への発表は一度もなく、平凡な学生時代を過ごした。
 就職は、オイルショックの影響で希望先が難しく、地元に本社がある北日本食品工業(株)(現ブルボン(株))お菓子メーカーに就職した。お菓子の販売、市場調査が主な仕事で東大阪営業所に配属されて毎日一人で大手スーパーや問屋等を車で廻っていた。しかし、昭和48年入社後3、4ヶ月が経った頃から自分の専門を活かした仕事をしたいと退社を決意し、縁があって現在の職場(入所時名称(財)上越公害分析センター)に勤めることができた。入所当時のセンターは昭和47年12月創設の間もない時で企業出向者やパート職員など10名程、決して待遇は良くなかったが二度も辞められないと思い一生懸命失敗を恐れず公害分析に取り組んだ。
 昭和40年代は公害国会で公害対策基本法から大気汚染防止法や水質汚濁防止法が次々に法制化され、それに併せて新しい分析方法やJISが制定され官民学が力を合わせて公害防止に対応した時代であった。特に、新潟県上越市直江津地区はアルミ精錬工場からのフッ素公害や化学工場からの水銀問題が全国的にも大きな社会問題として扱われ、その解決のために当センターは中立検査機関として独自の分析データを提供し続けた。
 昭和50年、公害分析データを第三者に証明するには環境計量証明機関登録制度が法制化され、環境計量士の国家資格取得が必須となり、死にものぐるいで勉強し運良く合格(全国で110名程、新潟県内では6名合格)、看板を掲げて仕事をすることができた。その後も作業環境測定士や公害防止管理者等多くの国家資格が生まれ、それらに挑戦、取得することが技術の向上に繋がり事業の発展に寄与することになった。自慢話でなく事実を正直に話す。
 昭和62年リゾート法が制定され、ゴルフ場やスキー場のリゾート開発に携わる為に環境アセスを新規事業として新卒者と二人で取り組んだ。動植物の専門家(地元の先生)に教わり、人員を増員しながら現地調査を重ね、大規模開発事業許認可取得の環境コンサル技術の修得に努めた。顧客の信頼を得るためには技術士(環境部門)の資格を得ることが必要と分かり率先して挑戦、コツコツ勉強しながら平成6年環境部門の技術士試験に合格することができた。その後も仕事は順調に伸び、火力発電所建設、廃棄物施設の環境アセス業務や行政の環境基本計画策定等の環境コンサルタント業務を多く受注でき、技術力も大幅に向上した。まさしく顧客から信用を得る時期、40代盛りであった。今では職員も120名程に増え対象も医薬、食品衛生、放射性検査等幅広い分野の総合検査・調査機関となった。
 そして50歳も過ぎた平成16年頃、地域社会に貢献することはないかと考えていた時、地球温暖化対策に取り組む方策として環境省が構築した環境経営システム(エコアクション21)に注目した。所内でISO14001の導入担当を経験していたのでエコアクション21の審査人資格を先ず取得し、地域事務局責任者を兼務しながら中小企業者の支援を行おうと事務局業務をスタートさせた。あれから10年が過ぎ、今年も10月16-17日エコアクション21全国交流研修大会が横浜市で開催されるので参加する。毎年秋期になると研修会や学会等の全国大会が各地で開催され、参加して懇親を深めることは楽しいことだ。10月1-3日富山市で開催される日本技術士会全国大会にも参加する。特に、参加を楽しみにしていたのは今年9月5-6日に大津プリンスホテルで開催された明治大学全国校友滋賀大会(参加者1200名)に夫婦で参加したことだ。昨年50周年目の同大会が新潟市で開催され初めて参加し、次年度は是非妻を連れて行こうと思った。なんと言っても、この年になって胸が躍るのは、素晴らしい講師による講演会と懇親会そして最後に皆がスクラムを組みながら校歌を熱唱することだ。心の底から歌うことで元気がもらえる。明治気質が自分を支えてくれているのだと感じる。私はこれから何回この歌を歌い続けられるか、この感動を楽しみたい。
 今年の7月にも藤井(雅)幹事が毎年案内をくれる明大工業化学科48年卒同期会(新橋会場)に久し振りに参加でき、最後に校歌を歌ってまた感動した。幹事様に感謝、感謝である。この歳になれば努めて楽しむことを多くしたい。趣味のゴルフ、世界遺産めぐり、日本100名城やお寺巡りを今後も夫婦で楽しみたい。人生80年のニューパラダイムの実践だ。
 最後に、学びの母校を誇りに思い、明治応用化学会の諸先生、先輩、学生、関係者のご活躍を祈願すると共に上越市出身北島ラグビー監督の「前へ、前へ」と前進する気持ちをいつまでも持ち続けたい。

2015年8月9日

就活に思う

著者

最近、電車の中で黒のスーツ姿の若い女性が目に付きます。今まさに7月は大学4年生にとって就活戦線の真只中であることに気がつきました。黒のスーツは就活のためのユニホームですね。今年は4月1日から中小企業、外資系企業の会社説明の開始、8月1日からは大企業の会社説明会が行われるようです。もう既に会社の内定を取り付けて更に大企業への就活を行っている学生さんもいることでしょう。私が学生の頃には耳にしなかった「オワハラ」という聞きなれない言葉もニュースを騒がしております。「オワハラ=就活活動終われハラスメント」は内定者が企業から他社への就活をやめろ!!という内定学生への拘束とか。なかには内定取り消しの憂き目にあった学生さんもいるとか。一方、企業にとってはせっかく手に入れた金の卵をこれから始まる大企業に横取りされるのは我慢出来ない、というのも無理からぬ話です。こういう社会現象が生じるキッカケは大企業が会社説明会(就職試験)をずらして設定したことにも一因があるのでしょう。そうは言っても中小企業と大企業が同時に会社説明会(就職試験)を行えば、多くの優秀な学生さん(何をもって優秀なのかは企業の判断)が大企業に集中しがちです。中小企業は概して不利を招きます。大企業も、中小企業も、就活学生も満足できる就職方法を見つけるのは皆さん、「欲」:優秀な学生を採用したい、希望の会社に勤めたい・・・等のお互いの欲がありますので解決するには困難な問題です。武田信玄の名言に、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」というのがありますが、まさに会社にとっては人こそが発展の礎です。
 ところで、私が就活していた頃、47年前はどのような状況でしたかはっきりとは覚えてないのですが、就職課の会社求人の張り紙で応募、お世話になっている研究室の先生のコネが大部分のような気がします。私の場合は朝日新聞に出ていた一行の求人広告「研究助手を求む」でした。一行の新聞広告ではどのような会社なのか、どのような仕事なのか全く不明でしたが、会社を訪問して面接試験を通して仕事の内容やどのような会社なのか、が分かった次第でした。入社試験は面接だけで、いわば雑談で学校での研究テーマ話、研究所の研究内容の説明でした。幸いX線回折分析を行っていたこと、大学院修士課程に在籍したことで米国本社採用となりめでたく研究員(Technical-Staff)として勤務することになりました。親会社はRCAというアメリカの電気会社で、日本に設立した電子材料を中心とした基礎研究を目的とした30人程度の研究所でした。町田市の郊外にあり森と芝生に囲まれたゴルフができる程の広大な土地に建てられた瀟洒な研究所には、研究員(Technical-Staff)は10人程で半数以上はアメリカで学位を取り入社した方やアメリカの国立研究所に勤務した後、入社した方で理論物理、応用物理、材料科学の研究者でした。研究所長は親会社の研究所から派遣されたアメリカ人で、社内の公用語は英語でした。残念ながらRCAは私が勤務して15年目にGEに買収されてしまい、勤務先のRCA基礎研究所は別のアメリカ企業、コーニング社に買収され、引き続きコーニング社に勤務しました。
 私はたった一行の新聞広告が「縁」でその後、ほとんど人生の大半を電子材料の研究開発に携わることになりました。求人会社と就活学生の出会いは「縁」があれば結ばれるし、たとえ最初の「縁」がなくとも次の「縁」で結ばれることでしょう。「縁」を大事にすれば、その先にきっと予想以上の「成果」が待っていることと思います。 まさに就活真只中の学生さん、
頑張って下さい!!陰ながら応援しております。

2015年6月1日

―大学勤務になって思う事―

著者

2014年4月1日より、名古屋市南区にある大同大学にて教鞭を執っています。昭和46年4月、故郷である北海道帯広を離れ明大工学部に入学し、学部、大学院修士課程、博士課程(会社からの国内留学として)で学び、その後、民間会社で62歳になるまで研究開発一筋で商品を作り、市場に出すことを目的にひた走ってきた感があります。

あるきっかけで、冒頭に記した大同大学との関わりができ、当初客員教授として週一日の割合で、自宅の相模原と名古屋を往復することになりました。今は、専任となり名古屋駅近くの賃貸マンションから、日々大学へ通っています。学生には、生粋の教員とは違う目線、即ち40年間民間会社で蓄積した経験を伝えるべく努力を怠らないようにしています。昨今、協調性・コミュニケーション力等の必要性がよく言われますが、それ以上に「自己修正力」というものが重要であることを学生には強調しています。自分自身のこれまでの人生を振り返ったとき、それは自己修正の連続であったように思うからです。学位を取得し会社に戻った時に与えられたテーマは、「電気めっきにおける添加剤の開発」及び「鉄鋼製品の酸洗浄時の添加剤の開発」というもので、大学院で進めてきた研究とは180度異なるものでした。悪戦苦闘するも、一年後からは徐々に商品を市場に出すことができ、それらは30年が経過した今でも産業界で使用されています。すなわち、自己修正とは、たとえ不本意な状況下に置かれても、その状況下で結果を出すべく努力を怠らず、全力を注ぐことであると、認識しています。

新入生に対しては、“学ぶ”ということは何か? そもそも大学とは何をするところなのかを考えさせ、大学生の本分とは何かを、自らの言葉で語らせる。その本分を忘れずに日々の生活を送るのであれば、アルバイト、遊び、サークル活動等何でも積極的に参加するように言っています。 情報ツールが多岐に渡る現在、入手不可能な情報は無いと言っても過言ではないでしょう。収集した情報は単なる知識であり、それらをどう使いこなし、見極めて、物事を正しく判断し、決断するかです。即ち、判断し決断する時に必要なのが“智慧”と言うものです。 “智慧”を磨かなければ、情報というとモンスターに飲み込まれてしまうのは明白です。“智慧を付けなさい”と、いつも学生に伝えるようにしています。

最後に、ミャンマーのアウンサンスーチー女史がこんなことをTVインタビューで話していました。「日々、努力をしている者のみが、夢を語る権利がある」と。また、私が知っているMIT教授田中豊一氏(若くして他界、ゲルの分野でノーベル賞候補と言われていた)は、「日々、努力をしている者に、一瞬女神がほほ笑むことがある」と。二人の口から出た共通の言葉は、「日々の努力」の重要性です。 また、アップル社創設者のスティーブ・ジョブズ氏は、2005年スタンフォード大学での卒業式の最後のスピーチで 「 Stay hungry, Stay foolish」(空腹であれ、愚か者であれ)という言葉を繰り返しました。重みのある言葉だと思います。世界中から惜しまれ、2011年10月、享年56歳の生涯を閉じました。彼は、多くの語録を残しています。

2015年4月1日

この仕事できるかな

著者

昭和46年4月の4年生時から私の就職活動は始まりました。就職活動は先生からの紹介など考えもせず会社案内のリクルート本を熟読し、その中から就職試験を受け、運よく5月には水処理のエンジニアリング会社に内定し、就職先が決まったほっとした気持ちが先でどんな仕事内容になるかはあまり考えていなかったのを思い出します。
会社は水処理薬品製造と水処理装置プラントエンジニアリングの2部門あり、二人しかいない先輩は薬品部門にいたのでてっきりそちらと思っていたのが、プラント部門の設計に配属になりました。
配属を言われたときは“え!設計などしたことないのに”と困惑したものです。内容は設計業務の中で水処理依頼内容に対する提案・仕様設定・コスト設定・プレゼンをして受注に結び付ける計画設計という仕事でした。初めは不安がありましたが、専門の化学の知識が有効であり、不安以上に面白さが芽生え、この仕事を続けようと思うようになったのです。結果退職するまで続いてしまいました。
長く一部門を続けたことは装置の改善、開発にも携わり推進もしましたが、逆に専門に特化しすぎて狭い範囲での仕事であったのでないかと思う所もありますが。今の就活生達の中にも自分の考える方向性と違う選択を示される場合が多いと思います。
だが、その仕事にやりがいを見つけ出していけることは自分の可能性を広げるチャンスであると思うのです。仕事に対する向き合い方の一つの参考になればと記してみました。
明治応用化学会結成時は生田での会議に出席した際に協力を呼びかけられ、卒業生としては辞退できないと思ったのが始まりですが、参加することで私に何かできることがあれば微力ながら尽力したいと考えて現在に至っています。
明治応用化学会にはいろいろな経験者がいらっしゃいますので多くの方々に参加して活動されることを推奨します。待っています。

2015年3月1日

トップランナーを目指せ

著者

 私は、学生時代は決して勤勉な学生ではありませんでしたし、また優秀な成績を残した訳でもありませんでした。そのような私が、社会に出て、いったんミッションを与えられると不眠不休で取り組むタイプの人間になろうとは周囲の誰が想像できたことでしょう。当の私自身でさえ不思議に思うくらいですが、管理職になるまでの10年間は間違いなく他人の倍は仕事をしました。
 私は卒業後、プラスチックの総合メーカーである住友ベークライト㈱(以下住ベ)に入社しました。住ベでは「カレンダー法による硬質塩ビのフィルム&シート」関係の技術者としてスタートを切りました。まず、当時4台あったカレンダー設備を3台に集約するとともに総生産量を2割アップというプロジェクトに取り組んだ結果、大幅な生産性向上と固定費削減を達成し業務表彰特賞を受賞しました。その後5.25インチフロッピーディスクのカラー化研究開発では、富士フィルムと共同出願で世界特許を取得しました。その後は海外企業へのカレンダー技術輸出を担当し、インドネシアを皮切りにスペイン、ドイツ、米国、カナダ、台湾などへの技術指導を担当しました。
 1991年末に一旦住ベを退職しましたが、2年間の三井物産と11年間の業務用家具メーカー「パブリック㈱」での勤務を経た後、住ベからの強い要請を受けて2004年に復職しました。
 そして、2011年定年退職の翌日にコンサルティング会社「㈱レーベン」を起業して現在に至っています。1980年代後半に「Japan as No.1」と讃えられた日本の技術力は陰りを見せています。微力ながら日本の製造業が再びトップランナーを目指せるよう私の経験を提供させて頂いている次第です。トップになれるかどうかを問うのではなく、トップに返り咲いてみせるという気概を持つことと、失敗を恐れないチャレンジ精神がその鍵を握っているように思えてなりません。

2015年2月1日

~ 私と「プラスチック」 ~

著者

新しい年を迎え、皆様方におかれましてもご健勝のことと、心よりお喜び申し上げます。
さて、私の卒業当時は、1978年の第二次オイルショックの余波で厳しい就職状況にありましたが幸いにも恩師竹内先生の紹介で現在の会社(プラスチック製容器包装のコンバーター)に勤めることとなり、今に至っています。
1977年に日本ではじめてPETボトルが500mlのキッコーマン醤油ボトルに採用されました。私が入社した時期は国内でPETボトル製造が始まった草創期で、初めて手掛けた仕事が、耐熱用PETボトルの成形技術の開発でした。
1982年にPET製容器が食品衛生法で追加承認され、清涼飲料用途への使用が可能となり、熱充填できる世界初の耐熱PETボトルをサッポロ1Lジュース「つぶつぶオレンジ」で上市する幸運にめぐまれました。
以来、PETボトルの成形技術の開発に携わってきましたが、その間に清涼飲料用だけでも年間生産数量200億本となる大きな市場に成長しました。
3年前より、開発を後輩に譲り、現在は業界団体であるPETボトルリサイクル推進協議会で使用済みPETボトルの再資源化の推進活動に携わっています。
ふりかえると、ゆりかごから墓場まで、PETボトルのライフサイクルに関わってきた35年間は充実していました。
話は変わりますが、昨年末に神戸市資源リサイクルセンターの環境プラザで小学校4年生にプラスチック製容器包装ゴミについて話をする機会にめぐまれた折に、「プラスチックとは何か」、「プラスチックはどうつくられるのか」と聞いたことが有ります。多くの小学生はプラスチックの原料が石油由来であることを理解していなくて、「全く思いつかない」がほとんどの回答でした。答えがあっても「木」「紙」「泥」「空気」といったたぐいで、中には「PETボトル」と答える児童もいました。一方、某大学の法学部3年生との会話でも似たようなレベルで、「原油の相当分をプラスチックで消費している(実際は3%)」と思い込んでいることが多く、「プラスチックをつくるのをやめれば石油の浪費が防止できる」と真顔で訴えたり、プラスチックは「プラスチック」という1種類の樹脂だと思っている者や、プラスチックを使用したり廃棄したりすることは環境に悪いことと信じている者が少なからずいることにおどろきました。
オレフィン系の袋が、関西ではナイロン袋、全国的にはビニール袋、NHKのアナウンサーもそう呼んでいます。
プラスチックが開発されて100年経ち、これほど身近なものになっているのに、プラスチックは基本的な知識すらほとんど理解されていないことに、プラスチック製容器包装の生産・開発・販売とそのリサイクルに携わる者として深刻に受け止めなければならないと実感しました。
PETボトルリサイクル推進協議会の消費者啓発活動の中で一人でも多くの人達にプラスチックの基礎知識を伝えたいと活動しています。
最後に明治応用化学会の活動の中でも、折に触れプラスチックの基礎知識を啓蒙したいと考えています。

2014年12月1日

一年を振り返って

著者

本年も残りわずかとなりましたが、皆様方におかれましてはご健勝のことと拝察いたします。
卒業当時は、1978年の第二次オイルショックの影響もあり、就職も厳しい状況にあり先生の紹介もあり現在の会社に勤めることとなり、現在に至っております。
本年を振り返ってみると、自然災害が多く、大雪、大雨、土石流、噴火、地震と多くの方が被害を受けました。故郷の長野県においても南木曽町の土石流、御嶽山の噴火、白馬の地震と多くの犠牲者と被害が出ております。全国で犠牲になられた方のご冥福と一刻も早い復興をお祈り申し上げます。
天候に関しては、異常気象という表現で何年も報道されておりますが、そろそろデフォルトととらえ、災害対策、対応など見直す時期にきているのではと考えます。
また、産業界においては大きな品質問題が発生しました。
 入社当時は品質管理が全盛のころで、解析部門に配属され市場トラブルの解析、対策を行っておりました。当時は設備も少なく、研究室に出向き分析などをお願いし、現在でも時々、相談に乗って頂いております。
 80年代は、バブル経済が進み日本全体が活気づく状態が10年程度続きました。当時はまだ日本国内での生産が主流であり、輸出も順調であり、日本全体が中流家庭以上と現在では考えられない国民意識でした。この時期が一番良かったかもしれません。
その後1990年代バブルが崩壊してからの海外への生産移転、リーマンショック、ガラパゴス現象など企業を取り巻く環境が変わってきました。
入社当時は品質経営で品質が良ければ、製品は売れるという思想が主流でしたが、グローバルスタンダードへと視点が移り、多くの企業で製品仕様、品質(過剰品質)の見直しが行われ現在に至っておりますが、日本製品の品質の良さ、品質管理の強さだけは継続していってもらいたいと願っております。
さて私ごとになりますが、1年ほど前から近隣の山に出かけトレッキングしながら写真撮影などをはじめました。たまたま参加した写真講習会の先生が山岳などの自然写真を専門とされている方で年2度ほど、講習、添削を受け腕を磨いて(?)おります。
講習の中で、現在のカメラの性能、ソフトでの編集能力が上がり、撮るだけとっておき後からいい物だけ選ぶことができますが、この方法は思考が停止し、自分が思い描く写真に近づけないため、条件は状況により自分で設定してくださいとの指導を受けており、勉強、仕事と同じで知識→実験→修正を行いながらスキルを高めていくことに他ならないと感じています。まだまだ勉強することは沢山あると感じております。
山の方は、陣馬山、高尾山、奥多摩方面へ月二回写真と健康増進を目的に行こうと目標を立てていましたが現在は12回であり、目標の半分程度になりそうです。
2015年は新たな目標を立て、写真コンクールへの応募、山中での星景撮影へのチャレンジなどを考えております。 応用化学会を来年もよろしくお願い申し上げるとともに皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
知床半島で撮影した、たまたまの一枚を添付します。

2014/09/01

一生勉強/一生青春

著者

二十四節季処暑、七十二候「天地始粛(てんちはじめてさむし)」どおり、暑さも和らいで来ました。皆様におかれましてはお変わりなくお過ごしのことと拝察致します。
私は昭和52年(1977年)に倉田研究室の第一期生として卒業し、さらに修士課程を修了致しました。防災関連会社に就職しましたが、その後も何かと研究室に出入りし、明治応用化学会に参加させて頂いております。
 さて、応用化学会では昨年度から各界で活躍されている諸先輩方が講師となり、学部3年生を対象にした講義をおこなっています。諸先輩方の持っている知識と知恵を少しでも後輩達に伝えられたなら本企画の趣旨は充分達成されるであろうと思います。ところで、この「知識」と「知恵」ですが、「知識」は基礎力、「知恵」は応用力であるというようなことがどこかに書いてありました。今流行りの「オレオレ詐欺」も心理学を学んだ人がそれを応用しているのではないかと考えると納得できるところがあります。悪い例を挙げましたが、目的を持って学ぶことは勿論のこと、仕事をしていても、生活をしていても遊んでいても学ぶべきことは沢山あります。しかしながら、年を取るにつれ体力・気力の低下と共に何事にも手を抜くことを覚えてきます。如何に手を抜かずに努力するかということが勉強(知識の習得)であると思います。経験ということも結局は知識の習得と考えられますので、それらが集積されたとき「知恵」となるのではないでしょうか。「知恵」を求め、知識を得るために夢中になれる前向きな思い(明治魂)が若さを保つ秘訣ではないかと考えます。
閑話休題。健康維持の為、5年前から妻とウォーキングを始めました。毎日1時間程度自宅周辺を歩くことに加え、毎月全国各地のどこかで開催されているウォ-キング大会の適当な大会に年に何度かエントリーし、歩いています。ただし、私たちの参加理念の一つはウォーキングをしながらその土地を満喫する(学ぶ?)というものなので、ウォーキングコースの途中に観光スポットや面白そうなものがあると寄り道をしてしまい、なかなかゴールにたどり着かないという欠点があります。このような状態なので、当初目標としたウォーキングでの全国制覇はなかなか進まず、更に、昨年より「日本百名城」のスタンプ収集を始めました(現在 8/100 です)ので、両方を達成すべく体力づくりに励むつもりです。
生田の山登りはだんだん辛くなってきましたが、上り用エスカレーターが設置されたことでもあり、出来得る限り応用化学会のお手伝いをさせて頂ければと思います。
 (日本百名城の一つ「会津鶴ヶ城(赤瓦に復元されました)」を添付します。)

2014年7月1日

~青臭い老年?~

著者

定年退職後5年が過ぎ去ります。
団塊の世代、全共闘世代と云われながら40数年、猛烈社員の背中を見ながらサラリーマン生活を過して来ました。
学生時代は3年生の秋から外研(当時六本木の東大・生産技術研究所)に出て生田校舎にはイベント(ソフトボール、飲み会等)が有る時だけの登って行く生活になりました。
外研は他大学の学生と民間企業の研究者そして東大・生産技術研究所の先生方とワイワイガヤガヤ通常の研究室同様学会発表等のデータ測定及び飲み会に明け暮れました。そこで明治大学以外の関わりが出来た事は非常に有意義でした。
特にそこでおこなっていた研究が縁で就職し其のままの学生時代と同じ仕事となった事は驚きでした。3年生の夏、外部の研究室を廻りたまたま巡り合った高速液体クロマトグラフに≪明治魂≫の”前へ、前へ”の気持でチャンスを掴む事が出来た事が不思議な縁を感じます。
現在はスキー、ゴルフ(お付合い程度)他やりながら定年後個人で会社を興しこれまでの経験を生かした仕事を行い時々明治応用化学会のお手伝いをさせていただいております。
また定年後学生時代の体重に戻すべくウォーキングを始めましたが中々思うように体重が落ちず昨年から週100km1日20,000歩を目標に変更。
・・・・60週間継続中、ベスト体重まであと2kgとなりました。
これからも遊びと趣味の仕事に”前へ、前へ”と青臭い老年?を謳歌して行きたいと思います。

2014/05/29

デジタル派・アナログ派

著者

コンピューターが出現し、特にPCが普及し始めるにつれて、人間をデジタル派とアナログ派に分類してみる傾向が出始めました。そのことをただアナログ的に見ているだけならば実害はそれ程ないかもしれないが、人間評価の基準の一つとしてとらえる人々が多くいることは問題です。
多くの場合日本では、アナログ派はデジタル派を下に見ているように感じるし、日本の社会構造そのものが、この観点から出来上がっているようにも見えます。
デジタル派・アナログ派についての明確な定義は分かりませんが、私は次のように理解しています。

* デジタル派 :
言語、計算、論理思考・処理にすぐれ、公的活動は主として分析的に事 象を見て論理的に行動表現する人々。
デジタル思考の人々。

* アナログ派 :
デジタル派以外の人々をいい、イメージ・芸術・感情表現が豊かであり 、公的活動でも分析的に事象を見ることが苦手であり、論理思考・表現も稚拙な人々。
アナログ思考の人々。

海外の客先や発注先で、打ち合わせや交渉をしている時に強く感じることがある。それは、話合いの相手となる経営者、技術者、現場作業者すべてが、分析的に事象を見て、論理的に話をすることです。これは正にデジタル思考そのものです。
分析的に事象を見て、論理的に話をすることは、欧米人(いや、日本人以外はすべてかもしれない)の指導層には共通している。このことは毎日のマスコミ報道を見れば明らかです。
翻って、日本の現状はどうでしょうか。ほとんどの政治家が、分析的に事象を見て、論理的に話をする訓練ができていません。悲しいかな、科学者・技術者等の理系教育を受けた者でも多くの場合、同様でしょう。
学校教育の最大の目的は、社会生活に最低限必要な 「読み・書き・そろばん」を基礎にして、分析的な目を養い、論理的思考ができる脳を鍛えることだと思っています。日本の教育には、この目的がないのか、成果は全く出ていないのが現状です。教育に携わる関係者のみならず、社会全体の課題だと考えられます。

デジタル思考とアナログ思考は決して対立するものではない。
公的な場ではデジタル思考が優先し、感情移入して思考・行動することは善くなく、その人の人間性を疑われるだけです。また、プライベートな場で感情を無視して気が利かない立ち居振る舞うのも周りの人々から嫌われるだけです。
海外の人々と付合ってみて感じることは、思考・感受性・行動パターンの面で、日本だけが異質のように見えることです。外国と付合って行く以上、この違いを理解することは大切で、デジタル派・アナログ派についてもその一つです。

平成26年4月22日

~ 生 田 育 ち ~

著者

光陰矢の如しとか、時の経つのは早いもので今年も早や風薫る5月となりました。日々、陽射しが長くなり、昼間の時間の長さに比例して気持ちまで明るく弾んでくる季節の到来であります。 皆様、いかがお過ごしでしょうか?
 私は1973年に貴家研究室を卒業し、1975年に修士課程を修了した10期生の竹添と申します。1970年前後の6年間を「生田の山」で過ごした明大生の一人です。
 私の大学生活は1年生時のストライキとロックアウトから始まり、入学早々の神宮での野球部優勝と提灯行列、TBSラジオへの出演(入試中止の東大を除く5大学新入生対談)、テストなしのレポート提出、和泉祭に駿台祭に生田祭、下北沢の寿司「太郎」と駿河台下の美味しい天ぷら屋、そして理科部連合会・化学研究部での新入生歓迎コンパと合ハイ、夏の合宿と秋のダンパ、体育祭での皇居一周駅伝、国立のラグビー明早戦、冬の明日を結ぶスキーツアーと追い出しコンパ等々、良き仲間、良き先輩に恵まれ盛り沢山で充実した日々でありました。
学業では工業化学科の諸先生方のご指導を仰ぎ、工業分析化学ゼミの貴家研究室ではX線回折分析を学び、無事に卒業することができました。
 現在は、製薬会社を定年退職した後に再就職した東京都の計量団体で計量管理の推進活動を行っている毎日であります。明治応用化学会では、理事を仰せつかり事業委員会に所属して活動しています。メインの事業である学部3年生を対象にした「応用化学概論2」の講師活動は、各界で活躍されている諸先輩方の体験談を基に最新情報を併せて紹介する貴重な講義となっております。社会人として、企業人として求められる人物像を体験談とともに学生諸君と討論し合うゼミも活発で、応用化学科の名物講座を目指せるのではないかと期待しております。
また、この明治応用化学会の役員会活動では、私は隔月ごとに生田キャンパスを訪れる機会をいただき、会長はじめ役員の方々に心より感謝しております。私を育ててくれた母校に再び通うことが出来て、自分は本当に幸せ者だなと実感しています。還暦を過ぎた私ですが生田の土を踏みしめると、まだまだ若い血潮が甦ってまいります。
 明治応用化学会は応用化学科の諸先生のご指導のもと、駿河台から生田のキャンパスで育った工業化学科と応用化学科の諸先輩方をはじめとした卒業生のご尽力により2012年11月に発足したOB・OG会組織であります。私は明治応用化学会の更なる発展のため、微力ではありますが尽力する所存であります。明治の若人行くところ、前途に遮る雲もなし。明治応用化学会を宜しくお願い申し上げます。

2014/04/01

~ 気分は 今も明大生 ~

著者

皆さんお元気でしょうか、私は昭和46年(1971年)稲垣研究室を卒業し、それ以降今に至るまで、何かと学校とのご縁が有る生活を送っております。就職で後輩を推薦してもらいに研究室に伺ったり、学校の行事のお手伝いをしたり、図書館を利用したり、六大学野球、ラグビーに行ったりと明大生気分がこの年になるまで残っています。昨年12月の国立競技場最後の明早ラグビーも観戦できました。そんなご縁でこの明治応用化学会にも参加させてもらっております。
大学は今年も新入生を迎える季節になりました。応用化学会も二年目の活動に入ります。初年度、古参のOBが中心となり、「明治大学を卒業してから自分がかかわってきた技術の解説を交え、社会人としての諸体験を学生さんにお伝えする」、このような形の講義・ゼミ形態が先生方との協議の中から一つ出来上がりました。
私の場合は物理化学のゼミでしたが、社会に出てからはプラスチック容器メーカーに勤務をし、PETボトルの開発に携わって来ました。学校で勉強した内容が仕事に直結するわけではないこと、しかしきちんと勉強しておいたことは別の面で役立ったこと、人間関係については教室の勉強より部活での体験が支えてくれたことなど、PETボトルストーリーとともに聞いてもらいました。
これから就職戦線に臨む学生諸君の参考になり、今度は彼らが仕事の経験を積んで学校に話しに来てくれる、そんな循環が出来上がってくれば社会と学校を繋ぐ組織に発展出来るのではないか考えています。
 化学科の卒業生は約6,000人とのことです。この応用化学会の認知度はまだまだですが、初年度の活動のさらなる充実と、仲間に声を掛けて組織の輪を広げてゆく作業が二年目の活動の中心になると考えています。個人的には昨年からスキーを30年ぶりで再開し、体力に維持に役立てようと気合を入れなおしているところです。

2014/01/01

年頭所感2014

明けましておめでとうございます。
 昨年賜りました、明治応用化学会へのご支援ご協力に心より感謝いたします。どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、昨年の世相を漢字一文字で表すならば、という企画では「輪」でした。この背景には2020年の東京オリンピックの開催決定等があったといわれています。この「輪」は、我々の明治応用化学会にとっても大切な一字と思います。2011年11月19日に発足した明治応用化学会は早いもの2年を経過しました。
 この間役員の方々の献身的な努力で素晴らしいスタートを切りました。そして今、大きな、丈夫な「輪」を形成する時期に来ています。“OBと現役学生との懸け橋を築こう”という合言葉の下、参加しやすい組織、何か役に立ちそうな組織、面倒を見てあげたくなるような組織になるよう、これまで以上のご支援、ご協力が必要です。どうぞ今年は、明治応用化学会の大きな輪を作るため、友達を誘い積極的に参加されんことを切に願っています。
 最後に、明治応用化学会のメンバーにとって今年が良い年であることを願って年頭の所感といたします。

2013/12/03

応化会とともに充実した時間を過ごそう

著者

「OBと現役学生との懸け橋を築こう」のもとに、応化会がスタートして一年になる。 明治大学応用化学科創設50周年の準備委員会に参加してから足掛け5年になる。 この間、大学の先生方、卒業生の皆さんと応化会設立主旨について話し合い、記念式典・講演会行事に参画し、時には親睦を楽しみ、充実した時間を戴いた感謝の気持ちである。 個人的なことで恐縮だが、この時期会社を退いており、会社の仕事一辺倒の生活から 定年後の生活をどう築くかが、私の課題でもあった。 振り返って私は1970年自動車部品製造会社に就職し、研究・開発部門、営業・販売部門の職種で仕事をした。 ちょうど、時代は高度成長期にあり、また、産業構造は重厚長大から軽薄短小へ自動車部品も金属からプラスチック材料への代替えが求められていました。 経験に照らして思うにどちらかと言えば機械会社にあっても化学知識が仕事の基盤になりました。仕事にやりがいを感じ、会社も自分も成長した時代でした。 今日の自動車の発展を観るとき、化学とともに進化してきたと独り合点している。 自動車は軽量化・低価格化そして高機能・高品質化さらには省エネ・環境エコ・安全安心へと進化している。 プラスチック材料は炭素繊維複合材料へと強化され、メッキ・塗料の表面処理技術は、装飾・長寿命化に、エンジン燃焼技術はハイブリット・水素燃料・電気自動車へと?がる。製造ラインでも自動化・省力化の組み立て・塗装・検査ロボットが並んでいる。それらも化学材料・化学技術の応用・発展がもたらしたとも言える。 年齢を重ねた今、化学の視点で社会を見詰めてみると、様ざまな形で見えることがある。 化学(ケミストリ)学問を勉強(Study)してきて良かったなと思う。 「英語のスタデイには語源で知る楽しみという意味があるそうです」 私の課題も見つかりました。これからも応化会に携わりながら、化学の未来をスタデイし、 「知ることを楽しみ」、ながら、毎日の生活を豊かに生きようと思う。 今年の応化会活動は、卒業生が社会人講師となって現役学生の授業をに参加し、 新しい結びつきができました。また11月の生明祭では卒業生の講演会が開催され、多数の現役学生さんも聴講・参加して頂きました。来年も継続されます。 今応化会で活動している人達は50・60代です。20・30・40代の卒業生の皆さん 忙しい年代と思いますが参画を希望します。若い卒業生にとって、その参画が有意義と 感じて貰えるような活動・組織化を目指しましょう。

2013/10/01

オレオレ詐欺

著者

早いもので、社会に出てすでに31年が過ぎた。入社した時は55歳が定年だったから、その当時であれば今頃は悠々自適の生活を送っているはずだが……、日本の社会事情からも我が家の家庭事情からも、それは許されない。それでも、年に2,3回腰痛(ギックリ腰)を患う以外に持病らしきものはなく、また薬のお世話にもなっていないから、この調子だと60歳の定年を過ぎても、しばらくは働けるであろう。いや、働かなくては生きていけない。
 田舎には、弟(竹内研1984年3月卒業)夫婦と同じ屋根の下で、老老介護ならぬ病病看護(親父の言葉)ではあるが、両親がお互いに助け合って、ボケもせずに、健在でいるのが嬉しい。 それでも最近急に心配になってきたのが、年々増えている特殊詐欺、いわゆるオレオレ詐欺である。どうしてあんなものに引っかかるのかと不思議に思っていたが、身内が被害に遭った。90歳を過ぎても頭がしっかりしている伯母が、その詐欺に引っかかってしまったのである。それもあろうことか、電話の先の犯人を私と間違えて、伯母が私の名前を呼んでしまったのだ。一度味を占めると二度、三度と要求してくる。手元の金が尽きたこともあって、三度目の要求には応じなかったのが不幸中の幸いである。
 犯人はどういう気持ちで老人から金をせしめ取るのだろうか…。未成年者までが、アルバイト感覚で手を貸しているケースもあるという。そういう犯罪が増えているこの国の、将来が心配である。
 私が付き添って警察に被害届を出したが、犯人を特定できるような証拠は全くないので、取られた金が戻ってくることはないだろう。そこで今私にできることは、自分の周りで同じような詐欺に引っかかる人を一人でも少なくするために、恥を忍んで事実を広く伝えることだけである。

2013/08/04

暑中お見舞い申し上げます

著者

毎日暑い日がつづいておりますが、皆様方にはお元気でお過ごしのことと思います。今月、この欄を担当いたします戸田 浩之です。自己紹介と最近の趣味について簡単に述べたいと思います。
昭和50年(1975年)に貴家研を卒業しました。卒業当時はオイルショックが発生し、大変な就職難でした。大学院の修士課程に進み2年後修了いたしましたが、就職難は改善されることなく、就職活動は依然として厳しい状態でした。そんな中、吉弘先生の紹介で何とか分析の仕事に就くことができました。一度転職をしましたが、昨年3月無事に定年退職し、現在は嘱託として働いております。これからは会社人間でなく、人生を楽しみつつ少し社会貢献ができればと考えております。
これからの人生を楽しむためには健康維持が重要ということで、自転車と若い時やっていたお山登り(ハイキングに毛が生えた程度)をはじめています。また、当時貴家研はフィルムの現像と焼きつけ(もちろん白黒)が必須科目でしたので、必然的に写真に興味がでてきました。給料を頂くようになって、念願の1眼レフカメラを購入して家族の写真などを撮っていました。最近は小型のデジタルカメラを購入して、山へ行くときは持っていくようにしています。昨年8月に南アルプスへ行った時の写真を2枚ご紹介します。
社会貢献ですが、まずは「明治応用化学会」へ参加して、少しでも大学へ恩返しができればと考えています。その次は地域活動かなと漠然と思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

2013/07/06

「MK賛球会」について

著者

この会は昭和39年に工業化学科に入学した人で、ゴルフの好きな人たちの集まりの会です。もともとは坂野さん(応化会 広報副委員長)、牧野さん(50周年 募金部会 現在病気療養中)、齊藤晶さん、川村さん、野田さんたちが中心になり、30年くらい前にプライベートで年に数回やっていたとのことでした。
 ある年のホームカミングの会場で牧野さんからゴルフをしないかと誘いをうけ、接待ゴルフしかしていなかった私ですが、糖尿病予備軍と診断されていて何か運動をと思っていた矢先でもあり参加し、ゴルフにのめりこむようになりました。何回か参加していたら、「幹事をやれ」と言われ「牧野さんが会長ならば」と条件を付け、受け入れられ、それ以来幹事をさせて頂いている。その頃から倉田さん(応化会 会長)、西川さん(応化会 監事)、佐藤賢三さん(応化会 理事)たちが加わり、今では総勢19名のメンバーになりました。年に1回の1泊2ラウンドのコンペ旅行には毎年3組の人たちが参加しています。ゴルフ場は大阪の一幡さん、名古屋の野田さんに合わせ静岡が多かったが、最近は岡谷の諏訪レイクヒルカントリークラブを使っています。何故ここ数年同じゴルフ場かというと、3年前メンバーのひとりが心臓発作でグリーン上で倒れ、キャディさんと川村さんで人工呼吸を施したり、救急車とドクターヘリを呼ぶなどし、後続組とゴルフ場にご迷惑をかけてしまい恩返しのつもりで使っています。その方は翌年から元気になって会に参加されています。
 メンバーの腕前ですが田中功さん(片手シングル?)を除けば「どんぐりの背比べ」と言ったところです。
 この会の楽しみのひとつに夜の懇親会での舌戦があります。ゴルフの憂さを晴らすべく飲み、学生時代に戻ったように語り明かします。ゴルフをしないで懇親会を目的に来て頂いた方もいました。名古屋の住田さんは注射器持参で来られ、酒、タバコ、みんなとの会話を遅くまで楽しみ朝食を摂られ一人で帰られていました。5年くらい続いて参加していましたが、残念ながら3年前にお亡くなりになられました。
 私の楽しみは名古屋の渡辺駿さんが差し入れてくれる生しらす(冷凍)です。懇親会の席で皆に振舞われるのですが、とても美味しく頂いています。
 現在、会長の牧野さんが病気療養中で、会長代行を坂野さんにして頂いていますが、現役で事業をされており、お忙しい方なので牧野さんの早い復帰を望んでいます。
 今年も9月8日(日)、9日(月)に諏訪レイクヒルカントリークラブで行います。費用は交通費別で35,000円くらいです。学生時代に戻って楽しんできます。

2013/06/19

○●○ 碁楽会 ●○●

著者

同級生を中心に10人で2ヶ月毎(偶数月の第4土曜日)にJR市川駅前(千葉県市川市)で「碁楽会」という集まりで囲碁の対戦を楽しんでいます。10年位前に数人で始めたこの会は、その後吉村佳兆君の呼びかけにより少しずつメンバーが増え現在は他学部の先輩一人を加え10人の会になっています。
 会には囲碁部OBで現在は三鷹市の囲碁の指導員も務めているアマチュア高段者の岡田克保君がおり、彼に全体のレベルアップの為のいろいろな指導をお願いしています。
 囲碁は初心者から高段者までがともに楽しめるゲームです。メンバーはそれぞれの力量に合った点数を持ちその点数により対戦相手とハンデをつけて対戦し、勝てば点数が上がり、負ければ点数が下がるという囲碁の一般的な対戦ルールで楽しんでいます。
 毎年今年は何点まで点数を上げるぞと決心しながら一向に点数の上がらない、いや若干下がり気味のここ数年です。それは他のメンバーが私以上に対戦や研究を重ねているからです。
 会の初めの頃は津田沼と千葉の碁会所を交互に利用していましたが、現在は吉村君の勧めで会に入られた吉村君の学生時代のマジック同好会の先輩が勤めておられた会社施設を無料で利用させて頂いています。落ち着いた雰囲気の大きな部屋で7面の碁盤がセットされており、利用させてもらう時は私達だけの贅沢な空間になります。
 対戦の後は明大OBが展開している居酒屋チェーン「和民」で反省会。とは言っても囲碁の話は殆ど出ず学校のことや各種雑談に花が咲きます。
 応用化学関係者の中には私達と同じような集まりを持っている方々もおられるのではないかと思っています。将来、応用化学会の中に囲碁サークルのネットワークでも出来れば面白いな、などと考えている今日この頃です。

2013/05/06

「省エネルギー」を考える

著者

世の中の物事を考え、判断する場合、まず状況を大雑把に見て考えることが大切である。いきなり各論や枝葉末節の部分を考えると、そこですぐ行き詰まってやたら時間かけても何ら進展しない状況に陥るというケースが多々ある。次に、それを何か理解し易い指標で「見える化」して考えることである。自分はエネルギー業界に身を置いている故、身近な例として「省エネルギー」について考えてみる。
 我が国は2011年度に全体として566百万KL(原油換算)のエネルギーが供給され、最終的に375百万KL(同)が消費された。消費量としては、世界で5番目の高消費国である。この供給と消費の差の多くは、エネルギー変換・輸送・排出ロス等である。すなわち有効に使われるエネルギー量は供給量の約2/3(逆に1/3はロス)にすぎないということである。電気だけでも発電効率は約40%に過ぎないのである。
 次に、このエネルギー量の大きさであるが、長さに例えてわかり易いドラム缶(容量200L、高さ85cm)に入れたとして換算すると、年間の供給量は、ドラム缶で28億3000万本、延長距離にして240万km(ドラム缶高さ:85cm)に達する。この距離は地球の円周が約4万kmと言われておりますから、およそ地球を60周する量に匹敵する。日本で1年に供給されるエネルギー量はこのような「大きさ」である。仮に省エネ5%を目標とすると、距離で12万km(本数で1億4千万本)分、地球約3周分の長さの使用量を減らさなくてはいけない。この量(長さ)が大きい(困難)と思うか小さい(容易)と思うかのご判断は任せることしにて、大変なことに変わりない。しかし、それ以上に我が国政府が抱えている課題は、2020年までに1990年比25%の二酸化炭素削減を公約としているところであり、原発の増強を前提としたこの公約を、世界の国々の理解が得られるように説得し、軌道修正が図れるかが今後の鍵である。そんな大変な課題ですが、自らできる省エネの積み重ねなくして何も進展できません。今後の地球温暖化問題への関心とともに我々は毎日の生活の中でのできる省エネを心がけていきたいものです。
*原油換算キロリットル:原油発熱量を9.25×106kcal又は 3.87×104MJとして他のエネルギーを原油量に換算した値。

2013/03/27

アベノミックス

著者

最近、株価があがり、リーマンショックでやられた個人株主も市場にふたたび入って来たみたいですね。その結果、デパートの売りがげも昨年同月比で上昇して何か世の中が明るくなったとテレビや新聞で報道されていますが本当なのでしょうか?
 デパートで売られているのは高級品で、株で儲けた大金持ちが宝石等を買っているみたいで我々年金生活者には関係ないですね? もしこれがインフレになったら株もない、土地もない、Gold(延棒の金)もない我々年金生活者にはたまったものじゃないですね。年金2.5%ダウンは確定でインフレ2%になれば、4.5%のダウンになりますからね。アベノミックスはもしかしたらアクマノミックスかもしれませんよ。本質を見る目を科学者は持たなければいけないと思っています。
 最後に明大応用化学会の発展を願って筆をおきます。

2013/03/01

応用化学科の近況

寒い日が続いていますが、卒業生の皆様にはお元気にてご活躍のことと思います。大学は1月から3月にかけて、一番忙しい日々を送っています。
 今年の主な入試は無事終わりました。既に明治大学のHPをはじめマスコミ等でご存じのように、明治大学は今年も順調に受験生を集めました。
 特に応用化学科は、理工学部の中で一番受験生を集めています。これも卒業生の皆様の日頃の活躍の賜物と感謝しています。現在は合格発表も終わり、手続き待ちの状況です。全国から元気のよい学生が集まることを期待しています。
 次に、既に報告していますが、応用化学科の旧館は解体作業がすべて終わり、更地となっています。この様子を見ると、不思議なことに、歌の歌詞ではありませんが、思い出だけがよみがえります。皆様も機会がありましたら是非お越しください。
 さて、今年の明治応用化学会は、具体的な活動方針の基で動き始めます。どうぞ皆様からも活動方針、要望等を寄せられますようお願いいたします。

2013/01/01

新年明けましておめでとうございます。

平成25年の年頭にあたり、明治応用化学会の皆様のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げます。

“OBと現役学生との架け橋を築こう”を推進しよう。

年頭にあたり、新春のご挨拶を申し上げます。既に皆様には後承知のように、昨年11月24日に明治応用化学会の第1回総会が開催され、会則および役員が決まりました(HPに掲載中)。今年は本格的に行動する年です。
 本会のキャッチフレーズは、表題にもあります“OBと現役学生との架け橋を築こう”であります。そこで本会の事業としてOBの皆様に、これまでの体験や活躍の様子を現役の学生に披露して頂く場を作ることを計画しています。また、会員同士の近況を報告しあう場をHPに設けたいと思っています。現在事業委員会を中心に様々な企画を立案中です。会員の皆様からの提案も大歓迎です。
 今年は、明治応用化学会として具体的に一つでも二つでも計画を実行し、目に見える形にしたいと思っています。
 新年を迎え、旧年にも増して明治応用化学会に対するご支援とご協力を賜りますようお願い申しあげますとともに会員の皆様のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げ年頭のごあいさつといたします。