●国語学論文の特性(その1)

国語学の論文は、「記述」を基本とします。「記述」というのは、言語学においては特別な
意味を持ち、《先入観を持たずに、ありのままに書く》ということを意味します。つまり、こう
であるべきだとか、こうあったらいいな、といった考え方を排するわけです。同時に、好悪
美醜の評価も行なわないことが普通です。ですから、例えば、「最近の言葉の乱れについ
て」というようなテーマを選んだとしても、最近の言葉が乱れている、という前提で行なうの
ではなく、「最近言葉が乱れているといわれるが、それはどういう意味で、そう思われてい
るのだろうか」、といった問題意識の持ちかたをします。最近の言葉が乱れていることを証
明しようと考えて、研究を行なうことはしないのです。

また、国語学による研究と言語運用の実践も、さしあたっては切り離して考えます。つまり、
例えば「コミュニケーションを上手に行なうために、国語学を研究する」というように直接的
には考えず、コミュニケーションが効果的に行なわれるとしても、それはあくまで、研究の
結果に基づいて実践的に応用するからだと考えるわけです。つまり、その実践の基盤と
なるデータなり、考え方なりを形成するところで止まる、と考えるわけです。

さらに、国語学は、未来の予測をしないことが普通です。例えば、50年後には漢字がなく
なるだろうとか、あと10年で、いわゆる「ら抜き言葉」が市民権を得るだろう、などという
予測は行なわないのです。もちろん、例えば、アンケートを取ってみたところ、「ら抜き言
葉」を容認しないという世代がかなりの高齢に限られているというような結果が出たとす
れば、あるいはそういった展望も持ちたくなりますが、言語は、例えば、常温で放置して
おいた牛乳が腐ると決してもとには戻らないといったような変化を起こすわけではなく、
また元にもどる可能性も持つものです。ですから、安易な予測をするよりは、現実の言語
の在り方を詳しく分析するのが先だと考えるわけです。

ただし、だからといって、言語表現に美醜はないと思えとか、現実の運用なんてどうでも
いいと考えろとか、未来のことなど口が裂けても言うな、などと言っているわけではあり
ません。予断を持って研究することを戒めているだけなのです。例えば、カタカナ言葉が
「氾濫」していると考えてしまうと、カタカナ言葉の持っている独自の表現性を見落として
しまいます。「全然」は否定としか結びつかないはずだと考えて研究を始めると、「全然」
という言葉の歴史は、言い間違いの歴史であったという結論になりかねません。

だから、まずはありのままに述べるということを目指すわけです。