●国語学のめざすもの

 例えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』のことを考えてみましょう。この小説
 は、夏目漱石という作家が産み出した作品です。

 この『吾輩は猫である』が、作品としてどのような芸術的価値を持つかを追求
 するのは、作品論であり、文学の研究と言えます。

 また、『吾輩は猫である』を産み出した夏目漱石を、他の作品、例えば、『坊っ
 ちやん』『こころ』『彼岸過迄』『行人』…といったものをも視野に入れて、トータル
 に追求するのは、作家論であり、これも文学の研究に属するものでしょう。

 ところで、漱石が『猫』以降の作品を産み出したときに使用したものは、日本語、
 より詳しくは、明治時代末期の日本語です。漱石が、独自の作品世界を産み出
 すにあたり、いかに独創的であったとしても、新しい言語を創り上げて、それに基
 づいて『猫』を書いたのではありません。漱石といえども、「時代の言葉」の制約の
 中にあったわけです。

 そのような「時代の言葉」、すなわち、ごく普通の人が普通に使う言語、日常的
 な言語にひそむ、さまざまな規則や秘密を解き明かしていこうとするのが、国語
 学の研究と言えます。

 そう考えると、漱石の小説は「言語資料」として捉えられることになります。つま
 り、漱石の小説の向こうに、明治時代の言葉をかいまみようとするわけです。例
 えば、そこに登場する教養層の人々は、どのような言葉遣いをするのか、どうい
 った語彙を用いるのか、などということを追求していこうとするわけです。

 また、そう考えると、国語学で資料とするものは、文学作品とは限らなくてもいい
 ことになります。明治時代の言葉を知るためには、他に、新聞、雑誌、週刊誌、
 手紙、メモ、借金の証文…、なんでも、当時のものでありさえすれば、そして、
 そこに言葉が記されているものでありさえすればいいわけです。さらに、文学作
 品でも、必ずしも漱石のような評価の高いものである必要はなくなります。むし
 ろ、市井の人々の会話が生き生きと描かれているようなものであれば、現在の
 文学的評価基準からは見捨てられているものでも、立派に資料となります。ま
 た、当時すでに読み捨てられた小説でもいいわけです。

 というわけで、国語学がめざすものは、一般的な言葉遣いの追求です。そのよ
 うな方面に関心・興味を持つ学生諸氏とともに、さまざまな未知のことを明らか
 にしていきたいと願っています。

 [参考] 『吾輩は猫である』一、より「吾輩」と「車屋の黒」との会話

  「一體車屋と教師とはどつちがえらいだらう。」
  「車屋の方が強いた極つて居らあな。御めへのうちの主人を見ねえ、丸で骨
   と皮ばかりだぜ。」
  「君も車屋の猫丈に大分強さうだ。車屋に居ると御馳走が食へると見えるね。」
                              (青空文庫のテキストより、引用)

   ・吾輩: だろう/そうだ/見える(推量系の語を使う)
   ・黒: 極つて居る/だぜ/見ねえ(断定・命令系の語を使う)

   ・吾輩→黒:きみ  黒→吾輩:おめえ

   ※「吾輩」は、「だぜ」とか「見ねえ」、「おめえ」といった言い方はしない。これ
    は、教養層の用語の反映であろう。「吾輩」は猫なのだけれども、教養層の
    猫なのだ。