●『日本国語大辞典』第二版初出例更新情報

☆前言
  以下に示すデータは、『日本国語大辞典』第二版の初出例(冒頭例)
  をさらに遡る用例の一覧である。そもそも、これは、本学の学部演習
  で、4年生の佐藤達哉氏、3年生の舘野雅美氏、福村恵利子氏とで、
  『輿地誌略』巻一(1870刊)を講読していた際に、そこに用いられてい
  る用語を『日国』第二版で確認していったところ、『輿地誌略』巻一の
  例のほうが、『日国』第二版の初出例よりも遡る場合がいくつかあるこ
  とがわかり、これをそのままにして置くのは残念なので、演習に参加し
  た諸氏の同意を得て、ここに公開することとしたものである。

  もちろん、これは『日国』第二版の単なるアラ探しをしようとするものでは
  ではない。それどころか、現在のところ最もすぐれた日本語の歴史主義
  的な辞典である『日国』第二版を嘉しつつ、ささやかな追加を行なおうと
  の微意に出るものに他ならないのである。(2002.02.21記)

  なお、ここで言う『輿地誌略』とは、内田正雄(巻一〜巻十)、および、彼
  の死後を引き継いだ西村茂樹(巻十一〜巻十二)によって、明治3年
  (1870)から同十年(1877)にかけて編纂、刊行された地理書を指す。
  『日本国語大辞典』では、同名の『輿地誌略』を出典として挙げている
  が、これは青地林宗の著述にかかるものであり(1826ごろ成立)、別の
  ものである。
                                 (2002.04.08 追記)

○円環(えんかん)
・凡地球儀ヲ見ニハ自己ノ居ル所ヲ以テ上トス然ルトキハ戌癸ノ【円環】
 水平ニ在ガ故ニ之ヲ地平{ホライソン}ト名ク(『輿地誌略』巻一、5
 オ8、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、信仰之理由(小崎弘道)1889

○開行(かいこう)
・風波ノ穏カナル日、海浜ニ在テ船舶ノ【開行】ヲ望ムトキハ其次第ニ
 遠サカル所ノ舩尚帆檣ヲ見ルト雖モ舩身ハ已ニ水面ニ没シ(『輿地誌略』
 巻一、2オ10、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、東京横浜間の鉄道開業式に際して下し
   給へる勅語1872(初版も同じ)
  ※意味は《物事を始めること。また、出かけること》
  ※「かいぎょう」の立項はなし

○下條(かじょう)
・其外球面ニ縦横ノ線有リ即チ経度緯度ヲ数ルニ便ス尚【下條】ニ詳ナリ
 (『輿地誌略』巻一、5オ11、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、小説神髄(坪内逍遥)1885

○却行(きゃっこう)
・舟行スル者其舟ノ進行スルヲ忘ルヽトキハ岸上ノ樹木皆後ニ【却行】
 スルヲ見ルカ如シ(『輿地誌略』巻一、4オ1、1870)
  ※『日国』第二版は、中国の戦国策を挙げるのみ(初版も同じ)
  ※意味は《あともどりすること》。この例、分かりやすし

○虚線(きょせん)
・此器械[地球儀]ニ依テ地球ノ旋転、度数及ヒ地学ニ有用ナル【虚線】
 ノ種類等ヲ習知スベシ(『輿地誌略』巻一、5オ1,1870)
・地球表面ノ如キ固ヨリ線ヲ画スル能ハズト雖モ仮ニ此【虚線】ヲ設ケ
 テ測算ニ便スルヲ得ベシ(『輿地誌略』巻一、6オ1,1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、工学字彙(野村龍太郎)1886
  ※『工学字彙』における意味は《点線》
  ※この例は《仮に引いた線。実際には存在しないが、利便のために
   引いた線》の意味で用いられているようである

○極圏(きょっけん)
・各六十六度半ノ処〈即両極ヨリ二十三度半ナリ〉ニ平行圏ヲ画シテ之
 ヲ【極圏】ト名ク【極圏】ト至線トノ中間ヲ南北各温帯ト号シ【極圏】
 ヨリ以上両極ニ至ルマデヲ寒帯ト号ス(『輿地誌略』巻一、8ウ10、
 1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、英和和英地学字彙1914
  
○圏(けん)
・此球面ノ線ハ何レノ処ニ画スト雖モ一周スル時ハ必ズ【圏】ヲ為シテ
 正円トナリ(『輿地誌略』巻一、5ウ6、1870)
・横線ハ皆赤道ニ平行シテ【圏】ヲ為スガ故ニ次第ニ両極ニ近ツクニ随
 ヒ愈小ナル【圏】ヲ為スベシ(『輿地誌略』巻一、6オ6)
  ※『日国』第二版の初出例は、思出の記(徳富蘆花)1900

○圏線(けんせん)
・只【圏線】ノ中真ト円球ノ中真ト同処ニ在ルトキハ其【圏線】最モ大
 ナル者ニシテ(『輿地誌略』巻一、5ウ7,1870)
・直線ヲ以テ円球ノ中真ヲ貫キ其両端ヲ連合シテ表面ニ【圏線】ヲ画ス
 ル時ハ必ズ大圏タルベシ(『輿地誌略』巻一、5ウ10、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、経国美談(矢野龍渓)1883

○航海暦(こうかいれき)
・経度ハ其初メトスル処天然ノ定リナシ故ニ各国ノ亰城或ハ【航海暦】
 ヲ製スル司天台等ヨリ初メ東西ニ数ヘテ百八十度ニ至ル(『輿地誌略』
 巻一、7オ2)
・此処[緑林{ギリンウッチ}]ニ於テ製スル所ノ【航海暦】一般ニ行
 ルヽガ故ニ他国ニ於テモ此経度ヲ用ルモノ有リ〈本文用ル所ノ経度ハ
 皆東京ヨリ算ス〉(『輿地誌略』巻一、7オ4,1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、米欧回覧実記1877

○午前(ごぜん)
・今此地ニ於テハ現ニ正午ナレトモ其西方ニ在ル地ニ於テハ未タ子午線
 ノ中スルノ前ニシテ【午前】トシ(『輿地誌略』巻一、8オ3、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、公益熟字典1874

○至線(しせん)
・赤道ノ左右各二十三度半ノ所ニ平行圏ヲ画シテ之ヲ【至線】〈又回帰
 線〉ト名ク其二【至線】ノ間ヲ熱帯ト号シ(『輿地誌略』巻一、8ウ
 8、1870)
  ※『日国】第二版、項目なし
  ※「回帰線」の成立などと関係して重要な例
  ※荒川(1997)、123頁に言及あり

○小時(しょうじ)
・地球廿四【小時】〈即我一昼夜也〉ヲ以テ全周一旋転ヲ為スニ因リ一
 【小時】ニシテ経度十五度ヲ転ズベシ(『輿地誌略』巻一、7ウ9,
 1870)
  ※『日国』第二版、《一時間》を明確に表す意味のブランチなし

○数理学(すうりがく)
・【数理学】ノ定則円周ヲ三百六十ニ分チ其一ヲ一度{ジジクハー}ト
 称シ一度ヲ六十ニ分チ之ヲ一分{ミニユーツ}トシ(『輿地誌略』巻
 一、6ウ1、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、講学余談1877

○正中(せいちゅう)
・各地皆太陽ニ面スルヲ昼トシ太陽ニ背クヲ夜トシ太陽ノ己レノ子午線
 ニ【正中】スルヲ以テ正午トス(『輿地誌略』巻一、8オ1、1870)
  ※『日国】第二版用例なし

○地軸(ちじく)
・地球ノ日夜旋転スルニ当リ其中真ノ軸トスル所有リテ万古其位置方向ヲ
 変ゼズ之ヲ【地軸{アキセス}】ト名ケ(『輿地誌略』巻一、5オ3、
 1870)
・一歳ノ間四季ノ変更スル所ノ理ヲ原ヌルニ此地球ノ運行ト【地軸】ノ方
 向トニ外ナラズ(『輿地誌略』巻一、9ウ7、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、改訂増補物理階梯1876
  
○地道(ちどう)
・絶エス自転スルコト三六十五回有余ニシテ軌道ヲ一周シ再ビ其本所ニ
 還ル之ヲ一年トス此周回スル所ノ道ヲ【地道】又黄道ト名ク(『輿地
 誌略』巻一、9ウ5、1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、明六雑誌1874

○凸凹(とつおう)
・地球ハ仮ニ之ヲ考ルニ其表面山嶽海河ノ【凸凹】有リト雖モ其全体平面
 ニシテ且動カザルガ如ク(『輿地誌略』巻一、2オ3,1870)
  ※『日国』第二版の初出例は、小学読本(田中義廉)1873

○平行線(へいぎょうせん/へいこうせん)
・横線ハ皆赤道ニ平行シテ圏ヲ為スガ故ニ次第ニ両極ニ近ツクニ随ヒ愈小
 ナル圏ヲ為スベシ是緯度ヲ数ル所ノ者ニシテ【平行線{パラレル}】ト
 名ク(『輿地誌略』巻一、6オ9)
  ※「へいぎょうせん」の『日国』第二版の初出例は、小学教授本(藤
   井惟勉)1875、「へいこうせん」は、小学読本(田中義廉)1873
  ※ただし、この例は右側振仮名に「パラレル」とあるので、字音に読
   んだ確証がない

[参考文献]
荒川 清秀(1997)『近代日中学術用語の形成と伝播―地理学用語を中心
          に―』(1997.10、白帝社)