イスラーム・中東トピックス

15湾岸戦争

イラククウェート地図 1990年8月2日イラクがクウェートに侵攻したことで引き起こされたペルシャ湾岸をめぐる政治・軍事の緊張状態は湾岸危機とよばれた。アメリカをはじめとする西側諸国は、世界でも有数の産油国である隣国クウェートを侵攻・占領したイラクのサッダーム・フセイン政権のねらいが、世界石油市場支配にあるとみて激しく反発したのである。国連安保理はイラクに対し再三にわたって撤退を要求し、同年11月にはイラクが1991年1月15日までに撤退しない場合は武力行使を加盟国に認める決議を成立させた。期限切れ直後、米軍を主力とする多国籍軍のイラク空爆で戦争が開始された。戦局は多国籍軍の圧倒的優位のうちに推移、同年2月末にはクウェートからイラク軍が一掃されて停戦が成立した。だが湾岸戦争での敗戦にもかかわらず、フセイン体制は存続した。戦争中にも温存していたエリート部隊である共和国防衛隊が、戦争後に立ち上がったイラク南部のシーア派と北部のクルド人を鎮圧したからであった。フセイン体制をいかにすべきかという問題は、戦勝にもかかわらず残った。湾岸戦争は問題の解決ではなく、新たな問題の始まりであった。この戦争が示したのはアメリカの圧倒的強さであった。日本(総額130億ドル)、ドイツ、アラブ産油諸国が戦費を負担したことも特記するべきである。米国のたどり着いた軍事力の高みと、その当時の経済力の凋落を示した戦争でもあった。


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