イスラーム・中東トピックス

13チェチェン問題

チェチェン共和国の地図 ロシア革命後の1934年、チェチェン・イングーシはロシア共和国の自治州となっていたが合併してチェチェン・イングーシ共和国となった。1991年にソ連が解体した際チェチェン共和国が独立を宣言。しかし翌1992年3月、チェチェン共和国はロシア連邦条約に調印せず、また、ロシアも国際社会もチェチェン共和国を承認しなかった。同年北オセチア内のプリゴロドヌイ地区の領有を巡ってオセチアとチェチェン・イングーシとの間に紛争が起きた。これはチェチェン・イングーシが1934年にロシア共和国内の自治共和国となった後、行政区分が再編成されオセット人などのさまざまな民族がチェチェン・イングーシ領に住みつく一方、戦後かつてイングーシ人の居住地であり、北オセチアに編入されていたプリゴロドヌイ地区がそのままにされたためである。そのためプリゴロドヌイ地区でチェチェン・イングーシ人とオセット人との衝突があり、11月にイングーシ人の部隊が侵攻した。これはロシア連邦共和国内の民族衝突として、ロシアが軍隊を投入しイングーシの首都を制圧するにいたった。

 94年にロシアはチェチェンの独立問題に介入し軍事侵攻を開始した。だがイングーシやタゲスタンで同じムスリム系住民の激しい抵抗にあったため、首都を制圧するのに1ヶ月もかかった。この間アゼルバイジャンやアフガニスタンなどイスラム圏から1000人をこす「義勇軍」がチェチェンにかけつけた。またイスラム諸国会議機構(OIC)がチェチェンへの武力行使の停止を求める公式声明を発表した。

 96年にチェチェンとロシアの停戦協定が成立。現在、独立を求める武装勢力は連邦軍に対し破壊・ゲリラ活動を実施しつつ反抗を継続。プーチン大統領はチェチェンに直轄統治を導入し(00年6月)、復興プロセスを進めているところである。


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