イスラーム・中東トピックス

12ソマリア内戦

ソマリア地図 ソマリア内戦は、かつてのアフリカにおける民族対立が部族対立であったのに対して氏族対立であると言われる。1969年のクーデター後成立したシアド・バレ政権は大々的に氏族禁止主義を打出し、ソマリア内戦を激化させた。

 ソマリアの氏族とは父系制を基礎にした血縁集団で、最大集団である「氏族」、そこから枝分かれした「支族」、最小集団の「ディヤ集団」の3段階に分かれている。ソマリア民族は大きく6つの氏族集団に分かれ、遊牧や農耕生活を営む。同じ氏族に属するものはそれぞれ同じ祖先から発生し、父系制を遡り20〜25世代の名前を持つ。自分の名前の中に自分、父親、祖父の名があり、それが氏族、支族、ディヤ集団の名を表している。住所も戸籍もない遊牧社会において唯一名前が身分証明になる。日常生活は数百〜数千で構成されるディヤ集団でし、個人はこのディヤ集団において最も義務を負い忠誠を示し、共同責任を負う。集団では氏族長が指導者であり、歴史的に「中央」が存在しなかったソマリアではそれぞれの氏族集団は自己防衛や経済活動のために協力し合い伝統的秩序を維持してきた。ソマリアの氏族社会は厳しい気候や土地条件の下で干ばつや飢えに対し、互いに身を守る血族を中心とした相互扶助組織として発達し、人々が生き抜くための知恵の集積であった。ソマリアはアジア・アフリカ諸国には珍しく民族的、宗教的、言語的にほぼ統一された国家であって、かつてのように宗教対立や民族対立に至らなかったため、ソマリア内戦は氏族間の対立というのが特徴的である。氏族主義禁止政策や80年以降の西欧諸国による援助が富や権力を首都のモガデシュに集中させる結果となり、都市と地方の経済格差をより顕著なものにした。それが安定していた氏族制を不均衡なものにし、地方の貧困化と都市への人口流入により北部で始めに内戦が起きた。これは中央への反抗という構図になり、内戦をより複雑化させていたのである。


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