イスラーム・中東トピックス

10ナゴルノ・カラバフ紛争

アルミニアアゼルバイジャン地図

 アルメニア・アゼルバイジャン間の民族対立意識には、トルコの存在が深く関わっている。東方キリスト教の聖地アララト山のある父祖伝来の土地を回復しようとする「トルコ領アルメニアの解放」を目的としたアルメニアの民族意識はトルコにより厳しく弾圧され、19世紀には多数のアルメニア人がトルコで虐殺された。一方、アゼルバイジャンにはトルコ文化が浸透しており、言語的にも、トルコ東南部の方言が使われ、アゼルバイジャン・トルコ語といわれている。こうしたことから、アルメニア人の歴史的な反トルコ感情が「内なるトルコ」と呼ばれるアゼルバイジャンに向けられたのである。

 アルメニア人住民が多くを占めていたナゴルノ・カラバフ地方はソビエトの人為的な国境の線引きにより1921年にアゼルバイジャン・ソビエト共和国に併合され、1923年にアゼルバイジャン内の自治州となった。しかし、ナゴルノ・カラバフをアルメニアに取り戻す事はアルメニアにとって積年の念願であり、ようやく1988年にソビエト社会主義アルメニア共和国は、カラバフ委員会を組織し、アルメニア最高ソビエト協議会はこの決議にすぐに反応し、5000人の軍隊をナゴルノ・カラバフに派遣し、この地を占領した。以後、アルメニアとソビエト対アゼルバイジャンとトルコという対決の形となった。

 1991年にアルメニア、アゼルバイジャンの両国が独立したことを受けてロシア軍は1992年初めに同地から撤退し、以降はアルメニアとアゼルバイジャンの全面戦争に発展した。アゼルバイジャンでは、政治的混乱が続き、ナゴルノ・カラバフは、全面的にアルメニアの支配下に入った。1994年5月にアルメニアとの停戦合意が成立したが、アゼルバイジャン国内のナゴルノ・カラバフ自治州は現在でもアルメニアの占領下にあり、100万人の難民、避難民が発生したといわれている。


*



このページのトップへ 閉じる


明治大学100コンテンツプロジェクト トップへ copyright(C)2007 Meiji University. All Rights Reserved. 利用規定マーク(学外でも-閲覧OK)