イスラーム・中東トピックス

9キプロス問題

キプロス地図

 キプロス島をめぐる国際問題、同島内のギリシア系住民(約77%)とトルコ系住民(約18%)との対立を軸に、両系住民の背後にそれぞれギリシアとトルコが介入し、また東地中海域の安全保障をめぐってアメリカ・イギリス・ソ連の思惑がからむなどの、複雑な問題をかかえている。

  キプロス島は、1571年以来オスマン帝国の支配下におかれていたが、1878年以後イギリスの植民地となり、1923年のローザンヌ条約によって25年正式にイギリスに併合された。これに対して55年にイギリスが、スエズの軍事基地をこの地に移すと、ギリシア系住民によるエノシス(ギリシア本土への統合)を要求する反英闘争と、トルコ系少数民に対するテロとが激化した。これに対してギリシアとトルコがただちに、双方の住民を支持して介入したため、59年にイギリスはキリシアとトルコを〈東地中海域の防衛とキプロス問題〉会議に召集し、その結果、60年にイギリス連邦内の共和国としてキプロスの独立を承認し、ギリシア正教独立支派の大主教、マカリ才ス3世が初代大統領に選出された。60年に採択された憲法では、トルコ系副大統領に国防と外交に関する拒否権を認めるなど、両民族の融和措置が講ぜられたが、ギリシア系住民は重要な政治的地位を独占し、商業・経済分野について優位を碓保した。63年末にマカリオスが憲法改正も示唆して、トルコ系住民の権利をさらに制限する姿勢に転ずると、トルコ系住民はキプロス政府からの分離独立を要求し、両住民の間に武力衝突が発生した。64年3月、国連安保理事会はキプロスに平和維持軍の派遣を決定した。トルコのみならず、ギリシアも非同盟中立路線をとるマカリオス政権に不満をもっており、ギリシアに軍事政権が誕生し、これを背景として74年7月、エノシス運動を進める地下運動組織、エオカによる軍事クーデタが勃発しマカリ才スを追放すると、トルコはただちに軍事介入し、島の北部を占頷した。その結果クーデタは失敗し、マカリオスが大統領に復帰したが、75年2月トルコ系副大統領デンクタシュは〈キプロス・トルコ連邦国〉を宣言した。

 マカリオスは問題を国連に提訴し、国連維持軍の駐屯する状況のなかで、国連の調停努力がつづけられているが、この間題は共にNATOの一員である、ギリシアとトルコの、19世紀初頭以来の長い対立抗争の歴史に根ざしており、容易に解決の糸口を見いだし得ないでいる。


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