イスラーム・中東トピックス

8ケマル・アタチュルク

トルコ地図

ケマル・アタチュルク
ケマル・アタチュルク

 トルコ共和国初代大統領。ギリシャのサロニカ生まれ。青年期から職業軍人としての教育をうけ、イスタンブール陸軍大学に入ったが、愛国学生運動に参加していたためシリアのダマスカス騎兵連隊に追いやられた。ついで新たな革命団体の組織を企て、1908年には青年トルコ党の革命を支持した。しかし彼はもっと徹底的な立憲制を主張し、軍隊の政治への干渉を排斥したので、青年トルコ党とは意見が合わなかった。

 1911年のイタリアのトリポリ侵略戦争、翌年のバルカン戦争では勇敢に国土防衛にあたり、戦後ブルガリアのソフィア大使館付となった。第一次世界大戦にはダーダネルス海峡地帯のガリポリに上陸した英仏連合を撃退して(1915年8月)、大佐に昇進した。大戦の結果トルコがセーヴル条約を押しつけられ、さらにギリシアがアナトリア西部に侵入すると、彼は農民や資本家の後援を受けて、アナトリア・ルメリア権利擁護団を組織し、1920年4月アンカラに大国民会議を開き、スルタン・カリフ政府を否認し、またイノニュの戦いでギリシア軍の前進を阻止した。かくてローザンヌ条約が結ばれ、トルコ共和国が成立し、その後3回にわたって大統領に選ばれた。

 34回議会でアタチュルク(父なるトルコ人の意)の姓を与えられた。(それまでは、ケマル・パシャの名で通っていた。)1938年11月現職のまま死去。彼が大統領、国民議会議長、最高軍司令官、国民党党首として独裁的権力をふるった共和国政府は、政教分離、身分制の撤廃、男女同権の実行、西欧模倣の立法、トルコ・ローマ字の採用などによってトルコの近代化を図ったが、土地改革を行おうとはせず、また外国資本の支配を認め、国民党に対する一切の批判を禁じ、労働者農民の自由な組織を妨げ、官公史の団結権を奪い、少数民族の利益を無視し、国際主義や階級闘争の立場をとるすべての結社を禁止した。


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