イスラーム・中東トピックス

5法学者の統治論

イラン地図 イランにおいてイスラーム革命が発生したひとつの大きな理由として、「法学者の統治論」という考え方がある。これは、「シーア派の政治的・宗教的指導者であるイマームが、お隠れになって不在のときはイスラーム法学者が統治者となるべきである」という理論で、イラン・イスラーム革命の指導者であるホメイニー師によって主張された。ただし、法学者(ウラマー)が統治を代行すべきという考えは、ホメイニー氏またはシーア派独自のものという訳ではなく、過去にもスンナ派の国であったオスマン・トルコで、スルタン・カリフ制が崩壊の危機にあった時代には、法学者がカリフになるべきという議論がなされていた、という歴史がある。

 本来のイスラーム世界では、軍事と政治を担当する統治者と、一般信徒である民衆との間に入って、バランスをとりながら支える法学者によって国家が構成されていた。そのために、法学者が国家の君主を差し置いて直接統治に乗り出すということは無かった。では、何故「法学者の統治論」がホメイニー師の時代に急上昇したのか?という疑問が生じてくるが、革命が起きる前のイランは王制の国で、その国王(シャー)はアメリカなどから支援を受けて西洋化を推し進め、イスラームを軽視する統治を行っていた。そこで法学者たちは、イスラームを擁護して民衆を導くべき国王がその役割を果たさなくなったと考え、この危機の時代を乗り切るために自ら表に出て行かねばならないと、行動に出たのである。

 またイラン以外の国でも、20世紀後半に次々と各地で起こったイスラーム復興運動によって、法学者の社会的地位が高まったり、イスラーム法(シャリーア)の復活を求める声が聞かれるようになったりと、法と法学者を見直す動きが強くなってきている。




このページのトップへ 閉じる


明治大学100コンテンツプロジェクト トップへ copyright(C)2007 Meiji University. All Rights Reserved. 利用規定マーク(学外でも-閲覧OK)