イスラーム・中東トピックス

4コソボ紛争

セルビア地図  セルビア共和国に属するコソボ自治州の90%を占め、独立を要求するアルバニア人と、これを認めないセルビア共和国との対立によって引き起こされた紛争。紛争の発端は、1989年3月コソボ自治州の権限を共和国に集中したことにある。反発したアルバニア人は、同年12月に研究者ルゴバを指導者としてコソボ民主同盟を結成、自治権の復活を要求した。セルビア側は認めていないが、91年9月には住民投票が実施され、「コソボ共和国」の独立も正式に宣言された。      

 92年秋には、コソボ共和国の議会選と大統領選が実施され、ルゴバが大統領に選出された。ルゴバはコソボの独立を最終目標としながらも、自治権の回復を掲げて、非暴力及びセルビア当局との交渉路線をとり、アルバニア人の間で大きな支持を得た。

 しかし、96年9月に当時のミロシェビッチとルゴバとの間で結ばれた、初等・中等学校でのアルバニア語教育を認める「教育協定」の不履行を契機とし、状況が変化する。特に、大学でのアルバニア語教育を求めるアルバニア人学生などの青年層の不満が強く、武力によるコソボの独立を目指すコソボ解放軍(UCK)支持につながった。穏健路線をとってきたルゴバも、独立要求を前面に掲げ出した。

 98年2月末から3月初めにかけて、ユーゴスラビア連邦のセルビア治安部隊が、コソボ解放軍に対し、大規模な掃討作戦を展開した。この後、両者の激しい戦闘は長期化し、99年3月NATOによるユーゴ空爆が開始された。

 空爆開始と同時に、アルバニア系住民の追い出しが強まり、NATOは民族浄化としてユーゴを非難し、一方的に爆撃した。その後ユーゴはコソボからの軍の撤退に合意し、NATOは爆撃を停止した。また、コソボ平和維持軍(KFOR)が派遣され、アルバニア系難民の帰還が開始された。コソボの将来については、自治とする国連コソボ暫定統治機構と、独立国家を目指すコソボ側との対立がある。


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