イスラーム・中東トピックス

2バングラデシュの独立

バングラデシュ地図 バングラデシュは、一九七一年十二月十六日、解放戦争に勝利し、パキスタンから独立した。一九四七年、英領インドからインドとパキスタンが分離独立したとき、現在のバングラデシュはパキスタンの一翼を形成する東ベンガル州(一九五五年、東パキスタンと改称される)として独立した。バングラデシュの人々は、わずか四半世紀のあいだに実に、二度も独立を経験したことになる。なぜ、こうした展開になったのか、歴史を振り返ってみたい。

 英領インド時代、現在のバグラデシュはインドの西ベンガル州とともに、ベンガル州を形成していた。つまりバングラデシュと西ベンガル州は歴史的に一体であり、同じベンガル語を話す人々が住まう土地であった。この地域を、ベンガル語ではバングラデシュ(ベンガル人の国)といったのである。一体をなしていたベンガルが、印パ分離独立に際して、パキスタンとインドに分かれた理由としてあげられるのが、宗教の違いである。当時、ベンガル全体としてはイスラム教徒がヒンドゥー教徒よりやや多かったが、二つの宗教の分布には著しい偏りがあって、東ベンガルにはイスラム教徒が圧倒的に多く、西ベンガルにはヒンドゥー教徒が圧倒的に多かった。

 英領時代のベンガルのイスラム、ヒンドゥー両教徒の社会的地位には大きな違いがあった。イギリス支配がはじまるとともに、イスラム教徒の支配貴族層は没落し、ベンガルは土地所有の面でも、イギリス支配機構への参加の面でも、教育、文化の面も、ヒンドゥー上位カーストが支配的な地位を占め、イスラム教徒は大きく立ち遅れていた。独立後、ヒンドゥー教徒の多いインドに属せば、従属的な立場を強いられることを恐れ、東ベンガルのイスラ教徒は将来に展望の持てるイスラム教国家、パキスタンを選んだのである。

 さて、パキスタンが出来あがってみると、それは東ベンガルのイスラム教徒住民の期待を大きく裏切るものだったのである。きっかけは、国語問題であった。パキスタンはアラビア文字を使用するウルドゥー語を国語にして、国民統合をはかろうとした。ところが、東ベンガルの住民は、ヒンドゥーとの関わりの強い文字を用いるベンガル語を母語としており、ウルドゥー語を強制されれば、著しく不利な立場におかれることになる。一九五〇年代はじめに、言語運動と呼ばれる激しい反対運動があり、ウルドゥーと並んでベンガル語も公用語に認定されたが、その通用範囲は東ベンガルに限られていた。

 ベンガル語の取り扱いに象徴されるように、東ベンガルは西パキスタンからみれば、イスラム圏の辺境とみなされ、文化的な後進地域の扱いを受けた。これは経済面にも反映し、西パキスタンの発展のために東ベンガルを搾取するような、植民地的構造ができあがっていった。具体的には、パキスタンの主要輸出品であるジュートは東ベンガルの特産品であるが、その輸出から得られた外貨が、もっぱら西パキスタンの開発のために投下されたのである。東パキスタンの自治を求める運動は、こうした文化・政治・経済構造に対する当然の反発であった。東パキスタン自治運動を支える理念は、イスラム信仰ではありえず、ベイガル語を中核とするナショナリズムであった。

 人口のうえで過半数を制する東パキスタンの政党アワミ連盟が、一九七一年三月の総選挙で勝利を収めると、政治的危機は一挙に頂点に達した。パキスタン政府は弾圧に乗り出し、東パキスタンの解放勢力はゲリラ戦で対抗し、インドの軍事援助を得て、同年十二月十六日に勝利して独立をはたした。


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