イスラーム・中東トピックス

1アルジェリア革命

アルジェリア地図 アルジェリアは1830年にフランス軍に侵攻され、植民地とされていた。フランス軍のアルジェリア侵攻の主な理由としては、自国の工業製品の市場拡大やブドウ栽培とワインの輸出、が挙げられる。そして、アルジェリア人に対し、フランス国籍の取得、フランス語教育、イスラム文化の否定、フランス文化の普及といった同化政策を行った。

 このようなフランスの政策に対しアルジェリア人民は1954年に革命を開始し、民族解放戦線(FLN)が中心となった。しかし、革命当初、国際世論はこれを内戦と見ていたので、革命軍は対外的にアルジェリア問題を国際化させる必要があった。そこで、戦争を「イスラム文化を否定し、アラブ民族の主権を踏みにじる侵略者との戦い」と規定することによってアルジェリア人民を対仏抗戦に動員し、さらに他のアラブ諸国、とりわけチュニジア、モロッコとの連帯を深めた。一方、フランス側にとっては1956年6月にサハラで油田が発見され、和平交渉か武力解決かという二者択一で後者を選択せざるを得ず、戦争は長期化した。同年7月にはスエズ動乱が起こり、アルジェリア革命は、単に一植民地にかかわる局地戦の枠を超越して、植民地主義対アラブ民族主義の戦いという国際戦争の側面すら帯びた。また、1956年9月にアルジェリアの首都アルジェで戦いが始まり、フランス人、アラブ人に関わらず全ての市民が生命の危機にさらされ、現在まで続く無差別テロの嚆矢となった。

 アルジェリア革命は一国の問題ではなく国連が平和協定に関与した。フランスが、FLNは少数意見であり、アルジェリア人民の大半は異なった考えを持っていると主張したのに対し、FLNとアルジェリア人民は1957年1月にアルジェにおいて大規模なゼネストを起こした。そしてついに1957年の国連総会で適切な方法による平和的解決を行う事を決議し、1962年3月エビアン協定が調印され、同年7月にアルジェリアは独立を果たした。


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