政治学者と政治、知識人と民衆 政治学者白鳥令の草加市長選立候補をめぐって

  いかがお過ごしですか。草加市長選は残念な結果に終わってしまいましたね。白鳥票は私の予想以上に多かったですね。こうなると共産党さえいなければという感じになります。もっとも、向こうの方もそう思っているのでしょうが。

  あい変わらず直観的な断定になってしまうのですが、これからの10年は幹部型政党から党員・市民型政党への過渡期になるのではないでしょうか。僕はその過渡期的現象の一環として白鳥先生の立候補をとらえてます。

   こう言うと気分を悪くされるかもしれませんが、良くも悪くも、今回の白鳥先生の立ちかたというのは、非共産党系の知識人が選挙に立候補する場合の典型だったと思います。とりわけ、その中心的な支持母体のありかたについて該当するのでは?もっとも、白鳥先生が草加市でどんな市民運動とネットワークを持っていたかはわたしも知りませんので、余り断定をしてはいけませんが。

   あいも変わらぬ投票率の低さからすると、残念ながら投票へと新たな市民層を掘り起こすには至らなかったと思います。この前、私の住む志木市でも市長選挙がありましたが、投票率は33%でした。最近ではこの数字に慣れてしまいましたが、投票率が上がらないかぎり新たな政治軸の形成は困難ですね。

  それでどんな政治軸が必要かというと、これがもう頭が痛いところで、それがわかりゃ苦労しない。ひとつこの過渡期は、既存の方法だろうがなんだろうが、取り敢えず上の世代に頑張ってもらって、とにかく、細くても流れだけはつないどいてもらう。その間に、我々若いのが一生懸命、知恵をしぼっておくということに当面はなりそうですね。

  一般に学者の知名度は低いです。タレント化でもしない限り、所謂「カンバン」にはなりません。さらに、言えば、どんなに立派な研究者が立候補しても、一般の有権者はその研究内容を吟味・評価するだけの能力も、余裕も持ち合わせてはいません。

   つまり、学者の側で”政治学の「理論」を今度は「実践」に移そう”というスタンスで、思っていても、一般の有権者からしてみると何の理論をどう実践しようとしているのかが、まるで理解されていないということが想定されます。  それで、余り、学者、学者と肩に力を入れない方がいいと思います。その力の入れかたが、はたから見ると、ともすると特権的に見えたりするものです。何時ぞや、「市民派の川島さんに聞きたいんだが云々」と話しかけられた時、「あなたは市民じゃないのですか」と余程、切り返そうかと思った事があります。かく言う、小生も細君から、知識人としてのプライドみたいなものが、ともすると人を見下したような目線や話しかたになると、傍らから、頻繁に注意される。どうやら、この問題は我々「知識人」の、悪しき習性と思い余程注意した方がよい。

  「市民の皆様に申し上げます。」等という表現も、その話し手のいいかたやキャラクター如何によっては、「私は市民なんかじゃなくて、もっと上の立場に居るものなんですが、その上から、僣越ながら、聞いて頂きたい」というように聞こえる場合もあるわけです。個人攻撃になるので事例の引用は避けますが、各地域の市民運動が選挙で知識人を担ぎ上げた場合、よくこの種の事柄を目撃します。それで、一般の民衆というのはこういう「におい」というのに敏感で、決して自覚的というのではないのですが、親しみが持てない、とか、冷たい感じといった評価を受けてしまう事になるのです。

   結局、この問題は、知識人と社会との関係の在り方という問題に帰着します。政治学者と政治という範疇から、よりマクロな視点から考えることが必要かと思います。それでこの関係を根本的に、革命的に見直そうとして、かつて、中国で文化革命という不毛な実験が行われたわけですが、そうするとこれに日本の知識人の多くが飛びついてしまった。極端から極端へという時代は取り敢えずもう終わったでしょう。とにかく、しばらくは、自らを省みつつじっくりと考えてゆきたいです。

  話が飛びますが、.....  戦後半世紀が経過し、今日日本の社会は、あらゆる領域に既得権益が存在し、あらゆる領域が既成事実化しています。社会状況は明らかに、新たな局面に直面しつつあるにもかかわらず、それに対応するための社会機構はあらゆる意味で官僚化している。つまり、今日、求められるのが新たな政治社会の創造であったとするならば、その他方、現実に要請されるのは、既存の社会機構への適合であり、若い世代は、その適合のための競争システムに青春の「半生」を費やしていると言っても過言ではない。

  翻って、今日のアカデミズムの状況を見るにつけ、憂慮されるのが、学問の官僚化である。学問における特定分野の理論の体系化は、しばしば、その領域の研究者組織の体系的組織化を引起し、そこでは、今日の行政学が「官僚制の弊害」について指摘するあらゆる問題点が生じる危険性がある。いや、もう生じている。この種の問題が最も先行して現れているのが、理工系の学会である事は、いまさら指摘するまでもないだろう。 それから、東大を頂点とした旧帝国大学の出身者により、各学会の要職が占められ、研究助成をめぐる、しばしば、無意味とも思われる文書の作成が省庁や各種特殊法人との間でやり取りされるわけである。

* 土木工学系、自動車工学系、機械工学、情報科学系、医学系等々

  そして、最も、懸念されるのは学者が持つ特有の特権意識と日本民衆のお上意識が結びついた場合です。これが、悪い意味での "institutional intellctuals"(体制派知識人)の分厚い層を形成した場合、学者の特権意識は官尊民卑となり、「学問」の理論を理解しえない市井の有権者は愚民とみなされるようになりましょう。薬害エイズに典型された官、業、学の癒着構造は決して、既に、理工系分野に限られた現象ではないと思います。

* 知識人の体制協力が何でもかんでも悪いとは考えません。むしろ、我一人のみ清しを決め込んで、政府の委員なり諮問機関に協力する事を闇雲に批判する言説は忌むべきと考えます。

 このような学問組織体系の頂点にいる識者が、教育の荒廃を語り、審議するという点に、一つの歪みの縮図があると考えるのは、私の見方が余程斜に構えているからなのでしょうか?