ETV特集 「マッカーサーへの手紙」

1999年5月24日、午後10時放映 [その後、衛星放送等で再放映]


マイクロフィルム資料を調べる筆者

 占領全期間を通じて、当初の総数は五〇万通に及んだ。しかし、占領当初半年間(1945年8月〜1946年3月)までの投書は、多くとも五千通を超えることはない。

 投書が爆発的に増えるのは、1946年後半であり、その主たる要因は、復員に関する要望、嘆願であった。1947年以降に入ると投書全体の90%以上が、この復員のカテゴリーに関するものとなった。これに対して敗戦後、最初の半年間に寄せられた書簡は戦後改革について言及したものが多く、戦後、日本人が天皇制や民主主義について最も熱心に語った時期であった。

 占領軍はこれらの投書、一通、一通を重要なものについては全訳を、そうでないものには要約をつけていた。米軍にはこのような作業を専門とする通訳翻訳部隊が存在し、占領軍当局に寄せられた大量な書簡の全てが、余すところなく分析されたのである。

 書簡資料の一例

 一九四六年三月三〇日 ○○行平
 三重県志摩郡磯部村

拝啓 小生昨年以来度々低級な投書を致して御迷惑をお掛け申せし処此の度は却つておとがめも無く礼状を頂きまして誠に限りなき御同情に感謝致して居ります。

 就きましては最近日本政府の発表しました憲法改正草案は私の今後の生活に重大関係を有しますので参考のため意見を申上げて見たいと存じます。

 天皇制の存続に就いて私は絶対反対では有りませんが日本政府の今日の計画のみでは甚だ危険と思つて居ります。何故かと申せば天皇は従来と同じく政治責任者或は官吏の忠誠心に対する確認の機関として依然日本天皇の特権が元首に於て遂行されるからであります。故に結局狂人でない限り時勢の波に乗つて政権を獲得すれば天皇も同じく時勢の動向に左右されて単純なる忠誠心に元首としての役割を制約されるからであります。(以下略)




 かつて、中江兆民は民権を恩賜的民権と恢復(回復)的民権の二つに分けて論じた。恩賜の民権とは民権が天皇から恩賜としてありがたくも与えられた諸権利であるという認識を意味している。これに対し、恢復的民権とは下からすすんで主権を獲得する意識を意味し、日本人の民権意識が恢復的民権へと漸次、移行することを、兆民は期待した。

 これは戦後民主主義を考えたとき極めて示唆に富む。そもそも、「戦後」という状況そのものが天皇の「御聖断」による「恩賜」であり、これに対し民主主義は「マッカーサー元帥閣下」からの「恩賜」であった。殆どの国民が民主化を歓迎したのである。戦後民主主義の民権意識は、「上から」、「外から」という二重の「恩賜」により形成されていた。

 書簡の多くがマッカーサーに「天皇陛下に対し奉る」ような最上級の敬語表現をとっている点にも、こうした特徴が現われていると言えるだろう。しかし、このことに矛盾や葛藤がなかったわけではない。


国井通太郎氏の子息
国井信義さんの家を訪ねて


 敗戦時、茨城県那珂湊市(現ひたちなか市)の町長を努めていた国井通太郎氏もその一人であった。敗戦後の混乱状況と心の葛藤を通太郎氏が残した日記『町政雑記』から追ってみた。

   問題は「主権在民」の民主主義と旧来の大権概念による天皇制との間にどう折り合いをつけるのかという点にあった。その葛藤の解決を国井氏は「民思主義」という言葉に託した。

 「民思主義」とは「上 陛下は民を思し召し、下 国民は陛下を思い奉る」という考えを表した国井独自の言葉である。恩賜の民権という認識が読み取れるものの、国井氏は自分の言葉で折り合いをつけていったのである。

 占領軍はこの矛盾に「象徴天皇制」という解決策を示したが、この解決策の恩賜を国井氏は「一種の革命」と肯定しながらも、この憲法を上手く使いこなせなければ日本人は「世界の笑いものになる」と述べていた。



 書簡の中の声は書き手一人一人がその思いを「マッカーサー元帥閣下」に託したものであった。そこにはマッカーサーへの絶大な信頼があり、書簡を通じての「私的な関係」への期待があったと言える。

 しかし、戦後半世紀、改めて考えさせられることは、これら書簡の中の議論とは書き手が、「マッカーサー元帥様」、あなただけに申し上げますという形で意見表明がなされている点である。つまり、それは社会における公の空間での議論ではなくマッカーサー元帥という媒体を通じて初めてプライバシーなものとして表明されたものであった。

 それ故、それは占領軍にとっての日本人の世論であり、「日本社会」や日本人にとっての世論ではない。実際、占領軍は一定期間ごとに投書分析から得られた日本人の意識動向を報告書にまとめていたが、それは「部内秘」として占領軍内で数十部が頒布されていたに過ぎない。民主主義とは、公の場での議論を通じた意思決定を基本とする。この「公での議論」は今日の日本人にも求められる資質ではないだろうか。



 投書は占領政策の重要な参考意見として用いられ、重要な内容を含むものについては占領軍関係部局に全訳やその書簡本体が送付された。占領軍の資料をみるとそうした日本人からの書簡が、様々な部局で見られる。公職追放や戦犯裁判では多くの告発や中傷がみられ、その他方、公職追放や戦犯指定の解除を求める嘆願も見受けられた。同様のことは農地改革、教育改革、財閥解体といった他の領域でも見受けられた。

 占領軍にとってそれは現場の声を知る材料として占領行政に利用されたが、その比重は1946年末から徐々に低くなり、1947年以降は、新たな世論把握システムである「私信検閲」にとって変わられた。

 米軍は私信検閲を大規模かつ体系的に行い、その報告書を定期的に作成した。報告書は「秘密」扱いとされていたが、2001年1月、資料集『占領軍治安・諜報月報』(監修・川島高峰、現代資料出版)としてようやく刊行されることとなった。この検閲システムこそ、今日のエシュロンに至るアメリカの検閲テクノロジーの原点である。