調 (1)

        ― 占領軍の情報政策と日本政府の調査機関 ―(2)

 

    川 島 高 峰

 

 

 

 今日、我々が新聞・報道等で見聞するような世論調査のスタイルは戦後GHQが日本に導入したものであり、我が国において「科学的な」−あるいは、アメリカ的な−世論調査の歴史は僅か半世紀を有するに過ぎない。勿論、我国においてより広義な意味での世論の調査、つまり、社会調査の歴史はその源流を明治期にまで遡ることができる。しかし、国勢調査に基づいたランダム・サンプリング、全国的規模によるフィールド・ワーク、統計学を中心とした集計・分析を同時に併せ持った調査方法(3)は、戦後に始まったものであった。本稿では、敗戦後の世論興隆、占領軍の初期の対日情報政策について述べ、次いで内閣審議室と内務省警保局を中心とした日本政府による世論調査の試みについてその概略を述べることにしたい。

 

1.流言飛語から世論へ 

 

 戦時下の日本では国論はあっても世論はなく、国策に沿わない言論は官憲取締の対象とされてきた。この言論抑圧体制はアジア・太平洋戦争開戦以後、一層強化されることとなり国策に関する発言自体が防諜の名の下に流言飛語として取締られることになる。その結果、「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三猿主義」が民間防諜の原則となった。しかし、厳しい言論統制にもかかわらず戦況は勿論のこと、食料配給、空襲、疎開、供米等々、人々の情報に対する欲求は高まる一方であり、官憲の流言飛語取締件数は戦況悪化とともに増大の一途をたどった。そこに世論に対する二つの欲求を読み取ることができる。第一は名目化していた「下意上通」のシステムに対する批判と不満であり、第二は、政策・状況に対する多数意見は何かという世論そのものへの欲求である。敗戦後、デモクラシーの名の下に世論は政治社会の表舞台に登場するがこの下地は既に戦時下に形成されていたのである。

 戦後の世論の興隆は@日本民衆の世論に対する欲求、A日本の言論報道機関・調査機関による世論調査の試み、B日本帝国政府による民心動向の把握、C占領軍による世論の把握とその育成、という四つの側面から形成されていた。しかし、敗戦後も内閣情報局、内務省警保局による言論、報道に対する抑圧や検閲は機能しており、報道機関はその統制の下におかれることに甘んじていた。この言論統制法案の撤廃に関する一連の指令がGHQから出されるのは一九四五年九月一〇日から二九日にかけてのことである。主要な報道機関が世論調査専門の部局を設けるようになるのはおおよそ一〇月から一一月(中部日本新聞社編集局世論調査室・毎日新聞社編集局調査室一〇月、朝日新聞社世論調査室一一月、西日本新聞社世論調査部・読売報知新聞社世論調査部一九四六年一月)にかけてであり、統計学的な世論調査方法の普及に至ってはさらに後のこととなる。それでも一九四六年まで調査方法はともかく民間による世論調査機関が簇生し時事年鑑によればこの年に七十の調査機関が確認されるようになった。

 これに対し民衆の世論に対する欲求は広範な投書行為として現れていた。これは後述する東久邇宮による国民への投書の呼びかけが引き金となったものと考えられる。当時、用紙不足から新聞は紙面の制限を余儀なくされていたが、それでも多くの新聞社が投書欄に紙面を割いており、戦後の報道機関の世論への試みはこの投書紹介から始まったと言える。後に見るように占領軍においても投書分析が日本人の意識分析に用いられていた。敗戦後の日本において「下からの世論」が先ず投書行為として現れ、そして、日本の政府や報道機関のみならず、占領軍においても世論調査の試みが投書の分析・紹介から始まったということは銘記しておくべきことであろう。

 

2.CIEの設立と情報政策の形成

 

 一九四五年一一月一日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」によると、「貴官(マッカーサー)は、常に日本の経済、産業、財政金融、社会及び政治の状態に関する調査を継続し、これを本国政府の利用に供することが必要である。これらの調査を進めるに当たっては、この指令に述べられている初期の管理措置に変更を加え、又連合国の終局目的を促進する政策を逐次形成してゆくための基礎を築くようになされなけれぎならない。」と規

(4)されていた。しかし、この「基本的指令」は日本管理政策を「詳細に規定しようとするものではない」ので、「政策及びその実現のための適当な措置は大部分日本における事態の発展」に即して決定されることが求められた。また、この指令の日付からもわかるように日本の降伏が予想以上に早かったため、既に九月一〇日、「最高司令官の政策を促進するための日本人への情報普及」という情報に関する政策の骨子がマッカーサーの下で決定されていた。そこでは占領下の情報政策の方針が以下のように規定されていた。(5)

 

 問題提起

  最高司令官の政策の促進につき日本国民に対する情報の普及

 上記の問題に関わる事実

 1.軍事的. 国内における召集解除は数週間にわたり継続されるで

   あろう。海外で降伏した部隊の帰還は数カ月から数年を要し、輸

   送機関のための徴税が必要となろう。

 2.経済的. 食料、住居、衣服、燃料、交通手段、その他の物資の

   深刻な不足は冬が近づくにつれ悪化するであろう。

 3.政治的. 最高司令官は充分な結果を生み出す限り日本政府を通

   じて管理を執行する。

 4.心理的. 日本人の諦観的態度(fatalism)は精神的に敗北を受

   容することを容易にしている。彼等の気力、勤勉、責任感そして

   家(home and family)への執着は安定化のための要因となる。天

   皇に対する忠誠は最高司令官の政策を容易に受け入れることをも

   たらす。

 5.情報普及の目的

   a.軍事的.

     (1) 戦時から平和への秩序ある移行を支援すること

     (2) 軍国主義と超国家主義の根絶を支援すること

      b.経済的.

     (1) 健全な経済を育成すること

     (2) 労働、産業、並びに農業の民主的な組織化を促進す

         ること

     (3) 武装解除と動員解除による経済的な利益を強調する

         こと

   c.政治的.

     (1) 現在ある日本政府を支持するよりはむしろ利用する

         こと

     (2) 民主的諸傾向に障害となるものの除去を促進するこ

         と

     (3) 政治的並びに市民的自由、集会の権利、公での議論、

         教育、自由な選挙、そして人権の尊重を助長するこ

         と

     (4) 国民に責任ある自由な政府の促進

     (5) 国際社会の名誉ある平和な一員としての来るべき日

         本の承認が認められる条件を提唱すること

   d.心理的.

     (1) 日本敗北という事実を明確にさせる

     (2) 日本人に彼等の戦争責任、彼等が犯した残虐行為、

         そして彼等の戦争犯罪を知らしめること

     (3) 日本人に軍国主義者は日本の敗北と受難故に責めら

         れるべきことを理解せしめること

     (4) 日本民族を奴隷化する意図は全くないことを強調す

         ること

     (5) 宗教的、政治的、階級的、人種的寛容を促進するこ

         と

     (6) 占領軍は日本の戦争能力を破壊する必要があり、占

         領軍はこの占領目的が達成され次第速やかに撤退す

         ることを説明すること

 

 民主化の一方で「非軍事化」「非軍国主義化」が重要視されており、この段階でいち早く「天皇に対する忠誠」と日本政府の利用が確認されていたことが注目される。

 この方針を受けてさらに、九月二二日には一般指令一八三号により太平洋軍総司令部軍政局から「日本並びに韓国における社会情報(PUBLIC INFORMATION)、教育、宗教、その他の社会問題」に関する部局として民間情報教育局(CIVIL INFORMATION AND EDUCATION SECTION、以降CIE)が独立した。初代局長はダイク(KEN.R.DYKE)である。設立当初、(6)CIEの目的は次のように規定されていた。

 

a.以下の事項について促進すること

  (1) 連合軍の情報並びに教育の諸目的の完成を果たすこと

  (2) 社会情報(PUBLIC INFORMATION)のあらゆる媒体を通じて      民主主義の理念並びに原則を普及することで、宗教的な信

      仰の自由、言論、出版、集会の自由の確立を促進すること

  (3) 日本国民一般のあらゆる階層に、日本の敗北並びに戦争犯

      罪についての真実、日本の現在並びに将来の困窮と欠乏に

      対する軍国主義者の責任、連合国による軍事的占領の理由

      と目的を知らしめること

b.あらゆる媒体を通じ情報の計画を促進し、日本の国民一般に行きわ

  たらせること。日本並びに韓国の政治的、経済的、社会的復興のた

  めの全ての政策と計画について両国民(their)の理解を確実にする

  こと(7)

c.以下の機関との連絡を維持すること

  (1) 日本の情報並びに教育に関する省庁

  (2) 日本の報道、ラジオ、映画並びに他の情報機関

  (3) 教育諸機関

  (4) 宗教的、政治的、職業的、社会的、商業的諸組織;つまり、

      最高司令官の情報並びに教育の目的について両国民(their

      の理解と協力を確保する諸組織

d.以下のような世論調査を促進し、その実行を指導することが必須で

  ある

  (1) 占領軍並びに復興に対する民衆の反応について事実に基づ

      いた情報を最高司令官に提供し続けること

  (2) 政策並びに計画を連続的に作成し集成するための信頼でき

      る基盤を確保すること

e.最高司令官の情報並びに教育についての目的を実行するのに必要な

  案、データ、計画の着手並びに作成を指導すること

f.以下のことを確実にするように促進すること

  (1) 教条並びに軍事教練を含む実習において、日本の教育制度

      のあらゆる要素から軍国主義と超国家主義を除去すること

  (2) 民主主義の理念と原則の適切な普及という使命を達成する

      ために必要な新たな指導要領を学校教育課程に含めること

 

 一〇月にはCIE内部に調査情報課(RESEARCH AND INFORMATION DIVISION)が設立され(後に世論社会調査課、PUBLIC OPINION AND SOCIOLOGICAL RESEARCH DIVISIONに改称)、これらの方針に基づいて世論調査を実行するための方策が検討された。既にCIEに先行しアメリカ戦略爆撃調査団戦意部が、一九四五年一〇月から一二月にかけて、戦略爆撃が日本人の戦意に及ぼした影響について面接による意識調査を、日本全国で行っていた。世論社会調査課は日本での世論調査の実行についてこのアメリカ戦略爆撃調査団の経験を参考とすることとし、この結果、一九四六年一月一五日にはCIE内部で世論調査に関する当面の計画が策定された(8)。そこでは世論調査に必要な人材が十分に揃うまでの間、CIEは直接に世論調査をすることはしないこと、その代わり、次の四つの活動に力点を置くことが確認されていた。第一に日本の世論調査機関との連絡を密にし、その調査結果を分析・評価し蓄積すること、第二に占領軍当局に寄せられた投書を定期的に分析し報告すること、第三に日本人の世論調査に当たっている占領軍の他の部局の調査結果、主に民間検閲部と占領軍当局に宛てられた投書を分析すること、第四に特定の情報源にだけ依ることから生じる偏向を避けるた、これらの手段により得た日本人の諸見解を総合的かつ定期的に分析すること。この方針は、「必要な人材が十分に揃うまでの間」の当面の計画であり、少なくともこの立案段階では将来的にCIEによる直接的な調査の実施を念頭においていた。しかし、アメリカ戦略爆撃調査団が行ったような直接的な調査をCIEが行った形跡は目下のところ確認できない。それよりも、むしろ、CIEは日本の調査機関を介して世論の分析・把握にあたるか、あるいは、日本の調査機関と提携して調査にあたっていた。これらのCIEによる分析・調査は特定の主題について複数の日本の調査機関が提出した世論調査について、それぞれの報告の長短を踏まえ総合的な分析と評価(9)を下すというものであった。また、投書分析については一九四六年一月(10)

から一九四七年一〇月にかけて総計一七回の報告書を提出している。

 このように世論調査についてCIEは間接統治の方針をとっていたが、この間接統治には次の二つの問題点があった。第一に当時の日本の調査技術の低さはそのままCIEの分析精度に直結する問題となった。このため、日本の世論調査機関の把握とその指導・育成がCIEの重要課題となった。第二は、間接的な調査はその媒体として日本政府の調査機関をどう位置づけるかという問題を引き起こした。言うまでもなく、日本民主化のためには言論抑圧体制の解放が必須であり、日本政府の調査機関を調査媒体として利用するには、戦中・戦前の言論・思想統制の復活となりかねないという危惧があった。GHQは秩序ある占領のためにより全国的な調査機関を必要とする反面、民主化のためには日本の言論抑圧体制の全国的組織網に斧鉞を加える必要があったのである。この相反する欲求は政府による調査機関に対する占領政策の矛盾となって現れることになる。

 

3.東久邇宮内閣の言論政策と内閣審議室

 

 政府は既にポツダム宣言受諾の直後から敗戦後の治安と秩序を維持す

るため取締方針を策定しこれを地方に通達していた。八月十四日にはその最終的な方針が通達されたが、その基本原理は、戦中の国民統合を維持しつつ敗戦後という新事態へ移行を図る「秩序ある降伏」にあった。

従って、「廟議決定の方針を曲解し又は意義を唱へ、或いは之に矛盾するが如きもの」、「政府の態度、方針、時局を誹謗するが如きもの紊りに既往の戦争責任者の追求」等の言動が抑圧の対象となり、更に、右翼、(11)左翼関係者、朝鮮人に対する視察が強化された。この抑圧体制は敗戦後も維持され米軍進駐、朝鮮人問題、言論・集会・結社等についての視察、取締方針が通達されていた。しかし、このような言論抑圧体制の維持の一方で、東久邇は組閣後の総理談話で「私は今後建設的なる言論の洞開を促し健全なる結社の自由を認めたいと考へる次第であります」と述べ言論抑圧体制を改革する意向があることを述べていた。

 具体的には八月二〇日には私信検閲の停止が行われ、さらに、八月三一日には東久邇宮は新聞を通じ国民に投書を呼びかけ民意との接近を試みようとする姿勢を示していた。この投書機関設置に対する反響は「不平不満を一々投書すると言ふ事になれば国民は個人主義的となり総親和、協力的観念が希薄となり国民互いに排擠して足並みが乱れ今后挙国一致国難突破に当たらねばならぬ重大事機に直面し思想指導上困難を生ずる虞が多分にある」(岩美郡岩井町長伊藤繁蔵)、「誠に結構なことである国民の声を聞かずしては決してよい政治は出来ない私も多いに投書して国政の参考にしたひと思つて居る」(八頭郡知頭町長石谷貞彦)と町村指導者間では意見が二分していた(12)。しかし、国民には大いに歓迎され、当初「連日四、五十通」であった投書は(13)、やがて「平均八〇〇通〜九〇〇通」(14)にも達した。

 しかし、その反面「自分は教育がなく字を書くのが不得手だから直接宮様に御目にかヽつて私の意見を申上げ度い」と思い上京し、直接、首相に面談しようとした伊佐治□治郎は「不審者として」、「検束」されていた(15)

。このように投書を呼びかける一方で、戦前からの抑圧体制は何等変わることなく機能していたのである。このように東久邇の考える言論解放とは、言論抑圧の戦時体制を解除し戦前の状態に戻すという消極的なものにすぎず、戦前からの治安維持法等の言論弾圧の諸法規は機能したままであった。また、私信検閲解除に際しても、逓信省は、これが「天皇陛下の有難き思召」であり、「検閲が停止されたからとて流言蜚語を飛ばすことは国内を混乱させ社会秩序を紊すことになるから、各自は特に現下の時局を冷静に認識して自戒」することという談話を発表し(16)、官僚機構は東久邇宮の解放政策に対し抵抗を示していた。結果としては、言論解放は基本的に政府当局にとって「建設的」で「健全な」ものの範囲に止まっていた。この抑圧体制は十月四日、GHQによる「政治・信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃に関する覚書」により崩壊する。この指令について東久邇宮は「天皇の名で重く罰せられた人々を、天皇の名で釈放しようと考えていたが、その手続きがおくれて、いまマッカーサー元帥の名で、これらの人々が釈放されるようになったのは、陛下に対して申訳がない」と述べていた。これは「宮様内閣」の限界を示すものであったといえる。

 この人権指令により帝国政府は旧来の治安情報活動の禁止を余儀なくされる。しかし、既に、政府部内では調査機関を設立しようとする動きがあった。内閣では、敗戦後の九月一日、「戦後経営に関する重要事項の調査及び企画並に戦後経営に関する各庁事務の調整統一に関する事務」を目的として内閣調査局を設立した(勅令第五〇三号)。これは専任の調査官六七名(奏任五九人、勅任八人)を含む総勢一五九名からなる調査機関であったが、一一月二四日には廃止された(勅令六四五号)。この調査局の実態、並にそこにおける世論調査の位置づけは不明であるが、その機能は同局廃止の同日に新たに設立された内閣審議室と戦争調査会(旧称、大東亜戦争調査会)に引き継がれたものと推察する。この一方、内閣情報局は十一月一日、企画資料部内に新たに輿論調査課を設けていた。この輿論調査課は情報局廃止が明らかとなると十二月には内務省地方局に、さらに一九四六年一月二六日には、内閣審議室に世論調査班としてその所属を変えた(勅令第四一号)(17)

 設立当初の世論調査課は、総勢八名の職員からなり、課長は塚原俊郎、顧問は小山栄三であり、事務所は内務省五階に設けられていた。同課の人員の三分の二が情報局出身であり、それ以外の者も同盟通信出身の者により占められ、その人事はすべて塚原と小山により決められていた。その所属が内閣審議室となった当時には職員総数は三二名に増え、六つの課を擁し、第一課が政治、集会等の意見徴集、第二課が新聞を除く出版物の分析、第三課が新聞の分析、第四課が世論調査、第五課が内閣や省庁に宛てられた投書の分析、第六課が渉外を担当していた(18)。確認出来る限りで、内閣審議室による最初の調査報告は一九四五年一二月一五日から一九四六年一月一五日にかけ内閣 に寄せられた投書三三七通の分析である(19)。次いで復員省との提携による復員兵の意識調査を計画したが、これは立案の段階でダイクの許可を得ることができなかった(一九四六年一月一四日)(20)。また、政府の綜合インフレ対策についてラジオを通じて投書を募った調査では、僅かに三三通の投書が寄せられたに過ぎなかった(一九四六年二月二三日、CIE許可)(21)。これに対し政府の憲法草案についてラジオを通じて投書を募った調査では総計一七七七通の投書が寄せられ、その内容を分析した報告書をCIEに提出している(22)

 この内閣審議室の他に情報局はその外郭団体として日本輿論研究所を一一月一日に設立した(23)。同研究所はラジオ東京の座談会番組を通じ様々な主題について視聴者に投書を募る方法で世論調査に当たっていた。同研究所は一九四六年四月間での間に一〇回の輿論調査を行っていた(24)。特に、一一月二一日、徳田球一、清瀬一郎、牧野良三ら三氏による天皇制に関する座談会に関する世論調査は各紙に掲載され、戦後の天皇制に対する国民的な論争の端緒となった。日本輿論研究所ではこの放送の視聴者の賛否の回答を集計した結果、回答総数三三四八人中、天皇制支持三一七四(九五%)、天皇制否定一六四(五%)という値を出している(25)。同研究所は一九四六年四月のCIEとのインタビューで同研究所の財政について問われると、外部からの金銭的な援助を一切受けていないとしている。しかし、「調査結果を受け取っている内務省を除いて、同研究所は他の調査機関となんら関係、提携を持たない」とあり、金銭的援助に関する具体的な記述ではないものの、同研究所が内務省と何らかの関係を有していたと思われる。また、国営放送しかない当時、放送番組を介しての調査は省庁との提携なしには困難であろう。

 政府系の調査機関は投書分析という方法に固執していた。しかし、投書は自主選択による行為であり、また、政治・社会の問題について意見を書簡にして出すという方法からして、投稿者層は政治的中間層、もしくは疑似インテリ層が中心であった。この投稿者層を庶民指導層もしくはサブ・オピニオンリーダー層とみなし、その他者への影響力を考慮したとしても、投書を世論の意見分布の公正な反映とみなすことは到底できない。いずれにせよ、当時の世論調査はその調査方法も試行錯誤の段階にあり今日の世論調方法とは程遠かったのである。このような調査技術の状況に対しダイクは「世論調査実施に関わる基本的な諸問題を解決するために、社会学者や心理学者の中で中心となる人物や、一般の様々な階層の人からの代表数名で構成した委員を作ること」を塚原に提言していた。内閣審議室ではこの世論調査に関する会議を一九四六年二月九日、首相官邸で開催した(26)。これは後に世論調査協議会の結成へと発展し、その第一回協議会は翌年の三月二五、二六の二日にわたりCIEから講師を招き首相官邸で開催された。このように、占領軍による調査技術の指導は内閣審議室を中心的な媒介として行われていたのである(27)

 一九四六年四月一一日、審議室は「輿論調査地方機構設置要綱案」を作成する。これは全国四五都道府県に総計四六六名の調査員を設けるという計画であったが、この申請は占領軍により却下された。それは第一に政府による全国的な世論調査に言論統制の危険性があるとみなされたこと、そして、内閣の世論調査課の調査技術に疑問があることであった。

CIEは、世論調査は民間の機関によって行われることの方が望ましいと考えていたが、日本政府による世論調査の禁止を将来的にも持続するつもりではななかった。この禁止がいつまで続けられるのかについては、政府の調査機関の調査技術の成熟とその民主化の状況に応じて決めればよく、決定は保留されていたと考えられる。しかし、食糧危機に伴う社会的、政治的緊張はこの方針に大きな転換をもたらすものであった。

 一九四六年年六月、日本政府は総司令部より「政府の世論調査は米国から専門家の到着を俟って具体案を樹て担当官の訓練機構の整備其他一

切の科学的基礎準備を完了する迄容認し得ない」と口頭をもって指令された(28)。原因は、一九四六年五月二〇日、食料メーデーに対するマッカーサーの声明「暴民デモを許さず」についての世論調査を試みようとしたことにあった。内閣審議室では五月三〇日、「五月廿日の『マツカーサー元帥のデモ許さずの発表』につきまして御地の反響、世論を御紹介いたゞければ幸甚に存じます、デモ許さず賛成意見、デモ許さず反対意見その他の意見」と記した葉書を全国の新聞社に送っていた。この件が六月一日付けの『読売新聞』に報道されたのである。読売の取材に対し世論調査班事務官吉原一真は「将来この班がやる世論調査のテストとして私個人が適当な調査対象がないので新聞社宛に出したもので、正式に調査班の仕事としてやつたものではない」「私個人の住所を書くよりは調査班の肩書きをつかつた方が回答の率が高いと思つて調査班の名前をつかつた」と弁明を試みた。しかし、CIEはこれに対し厳しい態度で臨んでいた。六月四日、この件について世論調査班の渉外担当官に対する尋問がラジオ東京ビル四〇一号室で行われた。尋問にはダイクの後任としてCIEの局長となったヌジェント大佐自らがこれに当たったのである(29)。以下にその尋問記録の一部を引用する。

 

(ヌジェント大佐) 「言い換えれば、テスト調査か本調査かということを抜きにすれば、これは日本政府の一機関である内閣世論調査班による調査ですね?間違いありませんね?」

(鵜飼) 「この調査は吉原によって行われたものです。」

(ヌジェント大佐) 「しかし、新聞にはこれは内閣世論調査班の役人によるものであると書いてあるんじゃないですか?違うのですか?」

(鵜飼) 「個人的にやったのでは(吉原の名前を使ったのでは)回答者の意見を得るのが難しいので、回答者は内閣世論調査班の住所に返事を送ることにしたのです。」

(ヌジェント大佐) 「しかし、一般の人からすれば、これは政府の世論調査になるんじゃないですか?」

(鵜飼) 「こういう風に書かれれば一般の人はそういう印象を持つでしょう。」

(ヌジェント大佐) 「言葉を換えれば、日本政府はマッカーサーの声明を支持するか否かを国民に聞いたことになる。そうですね?」

(鵜飼) 「私の印象はそうではありません。これは私の上司と吉原がしたことなので、よくは解らないのです。でも、その経緯を知っています。総司令部の誰かが内閣にマッカーサーの声明に対する反響を尋ねてきました。私は、内閣は暗にこの調査を行うように要請されたと思いました。

(ヌジェント大佐) 「誰が?」

(鵜飼) 「私は全く関わっていないので、誰がこの調査をやるように言ってきたのかは知りません。」

(ヌジェント大佐) 「吉原氏は知っているのか?吉原氏が一人でこの調査を行ったのか?誰かの命令によるのか?」

(鵜飼) 「彼は塚原から命令を受けていました。」

(ヌジェント大佐) 「塚原氏は総司令部の誰かから暗にこのような調査をすることを要請されたと言っていたのですか?」

(鵜飼) 「これは、人々の反響について調べるよう内閣の誰かに(首相か内閣の官吏に)言ってきた総司令部の何者かによって要請されたのです。それで、内閣の誰かが世論調査班にこれについて調べるように言ってきたのです。」

 

 このようにマッカーサーの声明に対する内閣審議室の世論調査にCIEは極めて敏速かつ峻厳な対応を取っていた。現在の段階ではこの「総司令部の誰か」が誰であり、それがどのような意図をもってなされたのかを確認することはできない。あるいは、これは鵜飼の単なる方便であったかもしれない。しかし、マッカーサーの声明に対する日本国民の反応はおそらく占領軍当局にとって興味ある調査であったに違いない。この意味からすれば「総司令部の誰か」がこの声明に対する国民の反応を日本政府に問い合わせてくることは、必ずしも、ありえないことでもない。実際、総司令部では食料危機を契機にCIEが内閣審議室に対したのとは全く逆の情報政策が進行していたのであった。

 

4.公安警察の設立と特高精神の復活

 

 一〇月四日の人権指令を契機に特高警察は「解体」を余儀なくされた。さらに翌年の一月四日の公職追放により特高関係者は日中戦争(一九三七年)までさかのぼり公職から追放されることとなった。しかし、この両者はともに不徹底なものであり、特高解体の一方で、内務省警保局による治安情報の調査機関設立の試みは継続されていた。一九四五年一二月一四日の地方官官制改正により全国の都道府県庁に警備課が設置され、一九日には内務省警保局内に公安課が設置されていた(30)。そして、各府県の警備課は翌年の二月から三月にかけて公安課と改称されていた。さらに内務省警保局では六月二〇日、総司令部に日本警察による情報収集活動の承認を求める申請文を提出し、この要請が「七月十一日原文の侭承認せられたる」のであった(31)。そして、この承認により全国の各警察署に公安係を設置することが可能となったのであった。このように公安警察の設置は、警保局内から各府県庁に、そして、各警察署へと拡大されていったのであった。この申請文は内務省警保局とって公安が何を目的とするものなのかを伺い知ることができるものである。申請文はその冒頭で次のような現状認識を示す。

 

 「最近の労働争議大衆行進並多衆運動等各種社会運動の状況は不法不軌の行動続出し健全なるべき運動本来の目的を逸脱した多衆の暴力とも認められる極めて過激な運動が展開されつつあり、デモンストレーションは遂に宮城坂下門内に進入する等の暴挙が敢行され、現下深刻なる食料危機下にある国内治世に大なる脅威を與へつつある実情にして本件に関しては五月二十日貴司令部より重大声明を発せられたる次第なるが、他面に於ては斯る暴民的傾向に対する国内一部分子の反対的対立運動は漸次萌芽の傾向にある如く見受けられる等国内治世の前途は極めて楽観を許さざる状況にある」

 

 そして、警察による情報収集の必要性を次のように主張するのである。

 「如何なる近代国家と雖も、共同社会の基盤の上に立つ限り、無知につけ入って人を誑惑する悪質な言動や、無秩序な行動、又は個人責任の上に立脚しない無責任・放埒な言動・行動、若は国家が要求する日本民主主義化を阻害する言動・行動等は、国家存立の目的からして、既存法規に照らして取締まらざるを得ないのであって従って、斯くの如き治安を脅かす方面に対する警察の情報活動を活発にして治安の万全を期さねばならない」

 この申請の承認を受け全国の警察に「公安係設置要領」が出され、「各警察署に公安係を設置すること」が命令されるのであった。これと共に出された「治安警備情報収要領」によるとその情報収集活動の主たる対象は以下のようなものであった。

(一)聯合国の対日管理政策の強化に対する影響部面の動向(例へば恩

   給停止に伴ふ軍人の動向、公職追放に基く該当者の動向、賠償施

   設指定等に基く関係者の動静等)並之を繞る国内民心の動向

(二)軍国主義者、極端なる国家主義者、急進的分子、直接行動者等の

   動静並に秘密団体、禁止団体の動向

(三)解放在留民(朝鮮人、台湾人等)の不逞行動及び之を繞る一般民

   心の動向

(四)暴動騒擾の基因となる虞ある急迫せる経済問題、社会問題、政治

   問題若は著しく人心を刺戟する諸問題の実情並之を繞る各方面の

   動向

(五)人心を惑乱する流言・造言の状況並之を繞る各方面の影響状況及

   動静

(六)常に衆を背景とする各種社会運動の活動状況並之に対する反対運

   動対立運動の状況及之等の運動を繞る一般民心の動向

 内務省警保局は「秩序ある降伏」を目指す日本政府による民主化のサボタージュと「秩序ある占領」を目指すGHQとの間隙を縫うようにして、敗戦後も巧妙に生き残りの道を模索したのである。そして、それは「国家が要求する日本民主主義化を阻害する」動向に対する公安警察に現れたのであった。

 この公安警察設立の一方で、政府による世論調査禁止は一一月二九日の「第二次口頭通告」により解除された。この通告では調査案、調査方法、並びに結果の発表に関し事前に民間情報教育部の承認を得ることを条件に、非政治的な事項についてのみ世論調査を行うことが許された。この場合、政治的とは、政治的に論争点となる問題であり、「例えば特定の政治的団体に対する態度、内閣に対する態度、並に天皇及天皇制に対する態度等」とされた(32)。また、非政治的とは「行政及政策の実施、官庁、事務の改善、公共問題などに関する態度及提案並に各種問題の所在探求等」とされ、具体的には「インフレーション、闇取引、食料配給の統制に就いての提案、政府の貯蓄運動に対する反響、人口移動、生活問題に対する態度、教育問題、復員軍人、引揚者、戦災者の欲求態度等」とされた。しかし、戦後の逼迫した経済状況と急激な民主改革が行われていた当時にあって、非政治的な例として出された事項はいずれもそれ自体が政治問題として先鋭化していた。結局、政治的、非政治的の判断はCIEの事前承認においてむしろ政治的に決定されていたと見ることができる。

 日本警察は公安課活動を展開したが、しかし、これはすぐに先の第二次口頭伝達と衝突するものであった。「急迫せる経済問題、社会問題、政治問題」や「各種社会運動の活動状況」の情報収集が「非政治的」な世論調査であるはずがない。第二次口頭通告に先立つ一一月二三日、福井軍政部は管下で警察による村民の民心動向調査が行われていることを報告した(33)。その報告によると、管下の警察署が村民四名に公職追放、教員組合、米価についての意見徴集をしていた。これについて世論社会調査課課長のパッシン中尉は一二月九日、ラジオ東京二一四号室で内務省警保局公安課の富永政美と渡辺正に尋問を行っていた(34)。パッシンは二人に第二次口頭通告を読み上げ、彼らがこの通告について知っているのか否かを尋ねた。これに二人は「知っている」と答えた。次いで、パッシンは「都道府県に公安課を設置し世論研究をすることについて彼らが起草した計画を、連合軍最高司令官が認めた文書を持っているのか」と質問した。これに対し「彼らは持参をしてはいないと答えたが、プリアム大佐(民間諜報部、公安課長)が承認し、自分達の計画の草案に署名してくれた」と答えていた。パッシンはその後、地方の警察署に公安係を設置することの目的を質問し、さらに公安警察設置についての申請書、「治安警備情報収要領」、「公安係設置要領」等を持ってくるように要求した。公安係設置について、CIEは事前に何等知らされていなかったのである(35)

 GHQ/SCAPは一九四六年一二月一六日、福井県の事例について覚え書きを出す。そこでは、まず、この福井県の事例が政治的な世論調査であり占領軍の指令に反するものであることが断定され、第二次口頭通告の内容を改めて尊守することが求められた。そして、この指令には次のような項目が最後につけ加えられていた。すなわち、

 

 「社会の秩序と安寧の維持に必要な情報を警察官が収集することは、通常の世論調査と結びついた活動と異なるものであれば、口頭通告にある指示に抵触するものではない。例:重要な統計や他の必要なデータの収集は禁止されない。例:政治的、社会的問題に関する世論を確かめようとする事並に右諸問題及びこれに関する問題につき個人の意見を質問することは一切差し止めること」

 

 調査の実際を想像してみると、この項目がいかに困難なことを公安警察に要求しているかがわかる。つまり、「通常の世論調査」とは異なる方法で「個人の意見を質問すること」なしに、一体、どのようにして「社会の秩序と安寧の維持に必要な情報を警察官が収集」すればよいと言うのだろうか?「政治的、社会的問題に関する世論を確かめようとする」ことなしに、「社会の秩序と安寧の維持に必要な情報」を集めるのは、相当に困難なことと思われる。これは事実上、そのような調査をしないことを求めているのであろうか?しかし、それならば何故、公安警察が禁止とされないのか?いずれにせよ、こうした矛盾の背景にあるものが、逆コースへとつながっていったことは間違いあるまい。

 

 むすびにかえて

 

 間接統治は日本政府という思惑を媒介とすることにより実行され、また、統治者である占領軍の間においても見解の相違が存在していた。このため世論の指導・育成は必ずしも民主化だけを意図するものではなかった。本稿では政府の調査機関の沿革に終始したが、調査機関の沿革が世論形成に決定的に影響を持つわけではない。やはり、世論あっての調査機関であり、「秩序ある降伏」と「秩序ある占領」の狭間で、占領期の世論が何を志向していたのかが問われなければならない。しかし、占領期の世論に関するデ−タは未だ資料発掘の対象にあるというのが現状である。CIEでは政府による世論調査を認める要件の一つに調査結果の公開を挙げていたが、データ公開は民主的な世論調査の原則と言える。これは調査機関の沿革の解明と共に今後の大きな課題となろう。この意味からすると世論に関わる資料発掘は、それ自体が遅まきながら戦後民主化の意義を持つのである。

 

注 記

 

(1) 当時「世論」の読みは「よろん」であり、漢字表記も「世論」ではなく「輿論」もしくは「與論」が中心であった。

(2) CIVIL INFORMATION & EDUCATION BUREAU(民間情報教育局)のinformationとは、単にデータとしての情報だけではなく、「知らしめる」という啓蒙の意味が含まれていた。従って、information policyを「情報政策」とするのは必ずしも適切ではない。しかし、この双方のニュアンスを持つ訳語が他にないので単に「情報政策」(この言葉自体、日本語として決して慣用的なものではないのだが)と訳すことにした。

(3) 社会調査史については川合隆男編『近代日本社会調査史(T)』慶応通信(一九八九)、石川淳志/橋本和孝/浜谷正晴編著『社会調査−歴史と視点』ミネルヴァ書房(一九九四)、江口英一編『日本社会調査の水脈−そのパイオニアたちを求めて−』法律文化社(一九九〇)等を参考。また世論調査史に日本世論調査協会『日本世論調査史資料』(一九八六)、監修吉田裕、川島高峰、資料集『時事通信占領期世論調査』大空社(一九九四)、『世論調査報告書』大空社(一九九二)等がある。

 管見の限りで言えば、これら社会調査史の記述は、戦後の世論調査史について全く触れていない。また、GHQとの関わりについて述べているものも殆ど全くない。これら社会調査史の記述で一般に意識されているのは、戦前からの連続性である。CIEはこれら戦前からの社会調査方法に基づいて世論調査に当たろうとした当時の傾向を「非科学的」とみなしていた。そこには勝者の敗者に対する偏見や、敗戦後、族生した調査機関の水準の低さも含まれていた。しかし、そもそも、戦前・戦中を通じ言論の自由が抑圧されていた日本において、特定の主題について全国規模の統計学的な世論調査をすることは困難であった。戦後の世論調査が、これまでの社会調査の伝統に対し持った最も異質な点はここにあったと言える。

 なお、社会調査と世論調査の相違を強いてあげれば、その調査対象の規模にあり、世論調査の方がより広範な対象(地域的にも、階層的にも)を分析するものと思われる。しかし、今日では、代表的な社会調査が世論調査ということもできる。また、全国的な世論調査は、しばしば、その予備調査に小規模な「社会調査」を伴うものであり、双方の間に線引をすることは余り意味を持たない。

(4) 第一部一般及び政治、3.日本の軍事占領の基本的目的、C項。

(5)  PUBLIC OPINION SURVEY - BASIC PLANS  Sept.1945 - May 1946B-7424-6

(6) 同右。

(7) GHQ/SCAPは日本並びに韓国の占領を目的としており、CIEの目的もこの両国を対象としたものであった。従って、内容的には、明らかに日本を主たる対象としている事項であっても、文書中における被治者の表現は、しばしば、日本だけを指すのか、韓国だけを示すのか、或いは両国を意味しているのか曖昧な部分がある。

(8) (5)に同じ。

(9) 現在確認している範囲でCIEが提出した世論調査報告書は総数で約一〇〇点。

(10)  不定期、第一七号以降の所在は現在のところ不明。より詳しくは拙稿「マッカーサーへの投書にみる敗戦直後の民衆意識」『明治大学社会科学研究所紀要』第三一巻第二号(一九九三)、一九−三二頁。

(11) 粟屋憲太郎『資料日本現代史2、@』四〜七頁、大月書店 (一九八〇)。

(12)  「投書処理機関設置発表に対する意嚮に関する件」一九四五年九月三日、鳥取県知事、編集粟屋憲太郎、川島高峰『敗戦時全国治安情報』第七巻、日本図書センター(一九九四.一一)。

(13) 『毎日新聞』一九四五年九月四日。

(14) 東久邇稔彦『東久邇日記』一九四五年八月三一日、徳間書店(一九六八)

(15) 「普通要視察人の動静に関する件」一九四五年一〇月一日、警視庁総監、前掲『敗戦時全国治安情報』第一巻。

(16) 『朝日新聞』一九四五年八月二一日。

(17) 内閣審議室世論調査班の設立当初の経緯については佐藤彰 「解説」、前掲『世論調査報告書』に若干の説明がある。

(18) 「Yoron Chosa-ka, Naikaku (Public Opinion & Sociologic al Research) Jan.1946 CIE(B)-7427

(19) 「Cabinet Public Opinion Survey Department (Yoron Chos aka of Naikaku) Dec.1945 - June.1946 CIE(B)-7457〜 9

(20) 「Organization of Cabinet Deliberation Room Public Opi nion Unit - Memos on Confidential Material. Jan.1946 -Mar.1946 CIE(D)5301-2

(21) 同右。

(22) 「Naikaku Shingishitsu (Cabinet Deliberation Room) Apr. 1946 - Feb.1947CIE(B)-7660

(23) 「終戦連絡各省委員会議事録」一九四五年一二月一一日、荒敬『日本占領・外交関係資料集』柏書房(一九九一)

(24) 「Japan Public Opinion Reseach Institute (Nippon Yoron Kenkyujo) Apr.1946CIE(B)-7470、インタビューの引用もこれによる。

(25) 座談会での発言記録と世論調査結果の詳細については『日本週報 第3号』一九四五年一二月二三日を参考。

(26) (20)に同じ。

(27) (18)に同じ。

(28) 「中央事務局執務報告 政治部 第四号」、前掲『日本占領・外交関係資料集』。世論調査に関わるGHQによる命令はその殆どが「口頭」による伝達によりなされた。しかし、この内容はGHQの資料においても、日本側の記録においても、口頭伝達の内容を書き起こした文書として保管(その際、文頭、若しくは文末に必ず「口頭をもって伝達された」旨の断りがある)されており、占領軍が何故口頭伝達に固執したかは不明である。

(29) (19)に同じ。

(30)  敗戦後の特高解体から警保局公安課設立に至る経緯については、萩野富士夫『特高警察体制史』せきた書房(一九八四)を参考。

(31) 「Police Survey of Opinion July.1946 - Mar.1948CIE(B) -7451-2。この公安警察設立に際し内務省警保局から各府県に宛てられた原文書タイトルは「情報の 集並公安係設置に関する件」(七月二五日付)であり、同文書は、警保局による連合国最高司令部に対する申請文(タイトルなし)と「治安警備情報 収要領」「公安係設置要領」の二つを添付文書として構成される。管見の限りで言えば、この公安設立に際しての七月二五日付の中央からの文書はこれまで確認されていない。各府県の警察史にこれを受け管下に発したと思われる公安係設置の指令に関する資料を見ることができるが、その基となったのがこの文書と思われる。

(32) 「中央事務局執務報告 政治部 第五号」、前掲書

(33) (31)に同じ。

(34) 「Japanese Public Opinion Polls - 1946 - 1947CIE(D)- 5310

(35) (31)に同じ。