民主党に望む

後援会による利益誘導型政治から市政調査会による公益創出の政治へ

2000年7月29日

  今回の総選挙で民主党は大きな躍進をとげた。今後に待ちうけるのは、さらなる発展か、さもなくば長期凋落傾向のいずれかである。小選挙区では自民党候補を支持しながらも比例区は民主党に投票した人の存在が注目されたが、これは民主党が与党の補完として評価されているに過ぎないことを示している。

そもそも、辛うじて投票率の最低記録更新を免れたという点にこそ、今回の選挙の大きな特徴がある。史上最低となった前回衆院選を上回ること僅かに3%。事前の世論調査で七割以上の人が「投票に必ず行く」、あるいは「行くつもりである」と回答したにもかかわらず、なぜ期待された無党派層の多くが結局「無行動」を選んだのだろうか。この点に民主党は危機意識をもって、新たな政治活動の展開に取り組んでいただきたい。

  私は大学で毎週、少なくとも400名以上の学生に接している。中には大教室での講義もあるが、教壇を通じてでも学生の雰囲気はよくわかるものである。彼らの政治に寄せる意識をご存知だろうか。

  今回は無党派層や若い有権者層の動向が注目されたが、実のところ学生たちは選挙公示前から何の期待も抱いてはいなかった。元々、政治への関心が高いとも言えないが、しかし、これほどまで白けた雰囲気を学生から感じたことは未だかつてない。「どうせ変わらない」という暗黙の常識は、選挙後の組閣報道をめぐり、いよいよ政治に冷たく距離を置く態度に変わりつつあるように思う。自らの国政に痛感を伴わない冷笑に、教育者として批判の弁を持たぬわけではないが、そもそも、かくも希望を抱かざるところになんの失望があろうか。上がらざる投票率は希望と失望の不在を示している。

  この傾向は果たして学生だけのことだろうか。動かざる無党派もまたこの学生と同じ不信の底にあるのではないか。日本新党以来、急展開した政党再編ではあったが、その実状は院内の再編に過ぎず、地域や地方から争点を積み上げたものではなかった。結局、この院内の数合わせが「政界のみの再編」として、縁遠く実感の伴わない物語と理解されているのである。それでは実感ある変化と改革を作りだし、「どうせ」を揺り動かすためには何が必要だろうか。ここで以下の四つを提言したい。

  第一に地方首長選挙の度に見られる与野党相乗りの横並び推薦をやめて頂きたい。今回の総選挙に際し埼玉県知事選が同時に行われたが、当選した土屋氏は共産党を除く全ての政党が推薦していた。地方選挙ではよく見られる光景だが、今般、埼玉県民は「奪る!」との民主党の勇ましい国政選挙のポスターの他方で、地方選挙では「野合」する諸政党の姿を突きつけられた。私が自民党幹事長であれば、まちがいなく統一地方選挙のタイミングに解散総選挙を持ち掛けることが民主党痛撃の最良の好機と考えるだろう。

  日本の地方行政の財源と権限は、依然、中央官庁に押さえられている。この過度な中央集権が官官接待のごとき不正を生みだしてきた。自民党政治は利益誘導型の政治として中央―地方関係に、予算と認可の太いパイプを作ることで築き上げられた。今、そのパイプの非効率と不公正が問われている以上、地方の争点とは、取りも直さず国政の争点であり、この限りで言えば地方選挙と国政選挙は表裏一体である。従って、中央官庁出身の天下り候補に与野党が相乗りで推薦する現象は、結局、中央から予算と認可を引出す利益誘導構造を追認していることになる。今後、民主党がさらなる党勢拡大をはかるためには小選挙区でより多くの議席を奪取する必要があり、そのためにも地方選挙で相乗りをしているようでは、到底、自民党の一党優位を突き崩すことはできないだろう。

  それでは、何故、地方選挙では独自候補を擁立できないのだろうか。地方に人材がいないからだろうか?。いや、有為な人材はいくらでもある。無いのは「政党による地方争点の提出」だ。この「地方争点の提出」が第二の提案である。先般の国政選挙では公共事業や公共投資が「無駄」の代名詞の如く言われた。しかし、個々の小選挙区でその選挙区に大きな影響をもつ公共事業とは何かを、どれ位の有権者が知っていただろうか?。その事業のどのような点が無駄なのか?、よりよい代替案は何か?、その事業を行わなかった場合のメリットは何か?、行うことでどんなデメリットがあるのか?、といった問題提起が地域でどれほど見られただろうか。争点は小選挙区の数だけ存在する。そして、争点なくして対立候補者は擁立し得ないのである。

  この地方発による国政改革に最も必要なことが地方分権と政策評価だ。ところが、地方分権推進は「中央官庁主導による分権」行政であった。地方分権すらも、中央官庁による行政だったのである。また政策評価については省庁再編に伴う法改正により政策評価の実行が義務づけられたが、これもまた「中央省庁主導による政策評価」行政となりそうである。「政策評価」行政そのものが地方に対する集権化行政の手段となりかねない。しかし、本当に必要なのは、地方が中央を評価することだ。地方分権と政策評価のイニシアティブを中央の官庁から、地方と政党へ動かすためには何が必要だろうか。

  ここに私は第三の提案として市政調査会運動の組織化を要望する。アメリカでは、かつて市政が一部の有力者に牛耳られ腐敗の蔓延が全国的な現象となった時代があった。この「ボス政治」による地方行政の不公正や非効率に立ち向かったのがニューヨーク市を代表として全国に展開した市政調査会運動であった。この運動はやがて「節約と能率に関する大統領委員会」の設立へつながり、アメリカの政治行政に大きな変化をもたらした。従来、我が国においても行政の無駄・不公正を監視するものとして市民オンブツマンの運動が行われてきた。しかし、これからは不正の監視からさらに進んで政策の評価と代案の提示を行うことが必要だ。国政レベルでのネクスト・キャビネット(シャドウ・キャビネット)に相当するものを、地方政治においては市政調査会運動として展開すべきである。

  利益誘導型の政治は右肩上がりの日本経済を前提として機能した政治手法であった。経済全般が持続的拡大傾向にある中では、特定階層・特定業種に予算投入が偏っても、それは不満より、むしろ予算投入された産業領域が経済全般に持つであろう波及効果によせる期待が上回った。自民党政治は選挙区の利害関係者を中心に後援会として組織化していったが、未組織にあった有権者もまた実は総中流という「利権」を消極的であれ是認してきたのである。しかし、総中流を達成するための政策と、達成してからの政策は必ずしも一致しない。それどころか、従来型の政官業の癒着が持続すれば貧富の差を拡大させ、高度に平準化された経済社会は崩壊するだろう。ところが、この利益誘導にとって代わる政治が見えてこないのだ。かくして、多くの無党派層は政党の選択を決めあぐねたのである。市政調査運動は地道な作業ではあるが、このまさに決めあぐねたものを模索する場である。

  以上のことを綜合し利益誘導型の自民党政治に対し、新たな「公益創造の政治」を提言したい。

  「公益創造の政治」とは、後援会システムを基盤とし政・官・業の利益関係を調整する利益誘導政治に代わり、市政調査会運動を通じた政治・行政・有権者の「公益関係」を形成する政治のことである。この「公益関係」とは、争点の模索から政策提言に至る思考過程を、政治・行政・有権者が共有し得る関係を意味している。重要なことは、「政治家や政党が上から有権者に理想を説くような時代は終わった」ということを、政治家も、有権者も強く認識することである。有権者は政党や政治家にビジョンや理念がないと嘆き、その他方、政治家や行政官は政策の難解で複雑な面を有権者に理解させるのは困難という理解に踏みとどまる限り、この国のデモクラシーに変化は訪れない。

  このようなより直接民主的な方法を目指すことには、従来、次のような困難があるとされた。1)現代日本のように一億人の有権者を擁す巨大な社会では技術的に不可能である、2)大衆は複雑な問題に合理的な判断能力を持たないので限られた有能な人材に意志決定を委ねた方がよい、3)大衆は権威に自らすすんで服従するような指導者願望を持っている。しかし、これら三点はいずれも誤りであり、克服され得る問題に過ぎない。

  1)について、今日、大きな可能性を示すのがインターネットである。これはコミュニケーション技術の革命であり政治社会に中長期的に大きな変化をもたらすだろう。一億の有権者でも地域単位であれば公益関係の場へ参画し得ることを実験する価値は充分にある。IT革命の革命たる所以はこの点にあり、景気対策などという近視眼的なものではない。

  2)の主張は、政治行政のみならず「自己責任」が何かと言われる昨今を鑑みれば、もはや時代錯誤である。自己責任を主張する他方で、大衆の理解力を悲観的にしか捉えないのであれば、それは強者の論理に与することにしかならない。そもそも、限られた有能な人材に任せることが続けば、それは単に腐敗を招くだけである。

  3)についても、今日、求められるリーダーシップとは上から号令をかけるようなリーダーシップではなく、説明能力に関するリーダーシップである。有権者は自らに求められる自己責任に見合うだけの説明責任を政治・行政に求めている。それを単に指導や指揮の「強力さ」にあると思うのは甚だしい誤解である。

  最後に公益関係の形成において政治・行政・有権者の間での信頼関係、ことに行政と有権者との関係について述べたい。昨今の官民の信頼関係は最悪の状態にあり、省益と組織防衛に固執する官僚の姿はあたかも国家内国家のように見える。しかし、実は「どうせ変わらない」という意識は官僚にも強い。それは「どうせ」官僚の改革に関する潜在能力を引出すような要因は、政治にも、世論にもありはしないという諦念である。重要なことは単に官僚を一括りにして非難することではなく、官僚にとって改革者として尊厳が成立し得るような環境にあるか、どうかを問うことである。官僚の中にいる改革志向を世論へ、公益関係の中へと引出すことこそ、行政に対する政治のリーダーシップであり、単に官僚の中にいる「悪玉」を「成敗」することは現状にさして変化をもたらさない。

  また官僚には行政技術の専門家として、公益を実現するものとしての使命感を持つ側面がある点に有権者はもっと注目すべきである。現代の政党に求められるもう一つの重要なリーダーシップとは、癒着と対立という両極端な関係しか見られない官民関係の体質を脱皮させ公益創造をめぐる競合関係へ発展し得る場を作り出す点にある。

  かつての社会党が長期凋落傾向に陥ったのは、第一にその支持基盤を既存の労働組合に置く既成団体丸抱え方式に依存し続けためである。このため、第二の理由として単なる投票という一過性の政治参加を変えることに対し創意工夫が足りなくなったのである。このことに鑑み、日本政治に改革者としての尊厳と自己変革能力の創出につとめて頂きたい。

  再び、言う。民主党は大きな躍進をとげた。今後に待ちうけるのは、さらなる発展か、さもなくば長期凋落傾向のいずれかである。