新 憲 法 公 布 前 後 の 国 民 の 意 識 状 況

川 島 高 峰   

 


 

第一節 一九四六年一一月三日の情景

 

 一九四六年一一月三日午前一一時、国会議事堂、貴族院本会議議場において、天皇裕仁は「本日、日本国憲法を公布せしめた」と勅語を読みあげた。勅語は「朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ」という文言をもって結ばれた。ここにおいて日本国憲法の公布が完了したのである。実は、天皇は既に午前八時五〇分、宮中三殿において憲法公布を「皇祖皇宗」に「御親告」することを「済ませて」いた。日本国憲法の公布は、法手続きにおいては大日本帝国憲法、第七章補則、第七三条によって旧憲法の「改正」として行われた。このように、事実上、占領軍により起草された日本国憲法は天皇の勅語により公布されたのである。本章ではこの事実が持つ意味を、当時の民衆意識に即して明らかにし、「日本国憲法は『国民』にどう迎えられたか」というテーマについて偽りのない姿を記してゆきたいと思う。

 この日、東京では午後二時より、皇居前で、東京都主催による祝賀会が開催され約一〇万人が参集した(注1)。同様の祝賀会は全国各地で開催されていたが、東京都の祝賀会には天皇夫妻が参加していたため、全国の新聞はその多くが東京の模様を報道していた。当日は、三笠宮、閑院宮等の皇族、吉田首相、両院の議長、安井東京都長官による祝辞が行われた。天皇、皇后は、午後二時三二分、「君が代」の演奏と共に会場に馬車で訪れた。会場ではたちまち、拍手と歓声がわき起こり、さらに、天皇が馬車からソフト帽をあげ会衆に会釈をすると、万歳の声がこだました。同三四分、天皇が登壇すると壇上の左右から鳩二五〇羽が放たれた。天皇は三五分に壇を降り閉式となったが、群衆は「両陛下」の周りに「殺到」、帰りの馬車は群衆の中を左右に迂回しつつ二重橋に向かった。

 天皇が実際に登壇していたのはたかだか六〇秒に過ぎなかったのであるが、この様子を伝えた紙面のほとんどは会場での天皇を写した写真を大きく掲載していた。そもそも、一一月三日は明治節(明治天皇の誕生日)の祝日にあたり、憲法公布の日の紙面はそれだけを見ると日本国憲法があたかも「恩賜」の欽定憲法かの如き印象を与えるものがある。実際、天皇、皇后の写真の一般への「下賜」が三日を期して行われることとなっていた。この写真はこれまでのいかめしい軍服姿の「御真影」と異なり、「平和日本国の象徴たる天皇の民主的なお姿として天皇御服常装」の天皇と通常服の皇后が写っているものであった。この「恩賜」は演出にとどまるものではなかった。日本国憲法の発布の日に大規模な恩赦の「御大詔」が「渙発」され、約三三万人に免罪、刑の免除、減刑、復権等が与えられた。これは最後の大権の行使に他ならない。

 一体、当時の日本民衆にとって憲法公布とは、一日ばかりの慶祝ムードと「天皇陛下万歳」を唱えるだけのものだったのであろうか?他方では、労働争議はいよいよ激しさを増し、新聞紙上においても、争議手段の是非や、ストか復興かをめぐる議論が頻繁に展開していた。労働者が権利を主張してゆく姿は戦前とまさに隔世の感がある。しかし、そうであればこそ、逆に憲法をめぐる議論が低調であったことが疑問に思われるのである。憲法公布の日の民衆や街の表情は「何か熱意が足りぬやうに見たのは僻みであらうか。この式典にあたつて国民は外面的な喜びから内面的な反省と沈思に傾くのが当然である。しかし、もし無関心などといふことがあつたら厳しく指弾されねばならない」(『毎日新聞』コラム「硯滴」一一月四日付)と指摘されたが、これは決して「僻み」ではなかった。

 『アカハタ』文化部長を務めていた中野重治は、宮城前の祝賀会に参加し、これを「メーデーは五十万人召集した。食糧メーデーは二十五万人召集した。憲法は天皇、皇后、総理大臣、警察、学校、鳩まで動員してやつと十万人かきあつめて一分で忘れた」(『五勺の酒』)と、評していた。天皇が会場にいたのは僅か六〇秒、そのことを中野は「正味一分で、全てが終わつた。そして終つたとき始まつたことが僕をおどろかした」と言うのである。つまり、閉会後、「散つて行く十万人、その姿、足並み、連れとする会話、僕の耳のかぎり誰ひとり憲法のケンの字も口にしていなかつた。あらゆることがあつてそれがなかつた。たぶん天皇たちも、あれから帰つて憲法のケンの字でも話題にしたかよほど疑わしい」。中野は「憲法よりメシだ」という経済的現実の対極に”憲法より陛下”という政治的理念がいまだ民衆意識に潜在していることを指摘したのである。この「散つて行く十万人」を、『日経新聞』(一一月四日付)は「宮城前から銀座筋へ流れる人達の表情も喜色満面といふよりも内にひそめた慶びを□さないといつた感じ」であり、銀座など繁華街は「平常の賑わひに一寸毛が生えた程度」であったと報じている。これには警備の警官も「拍子抜け」であり、「歴史の日」は当局の予想にさえ反し静かなものであった。

 

第二節 日本民衆にとって憲法改正とは

 

 敗戦後、ほとんどの民衆は政治制度に何らかの変化があるとの認識を有していた。それは、あくまで”変化が起こる”という予期に過ぎず、”変化を起こす”という主体的なものではなかった。そもそも、ほとんどの日本人には憲法を改正するという発想がなかった。独立講話後、保守勢力によりしばしば「自主憲法制定」なる言説が喧伝されたが、これとて、「与えられて」初めてその「屈辱」に気づいたと評すべきものである。占領期の無抵抗とGHQへの密接な協力の挙げ句に「自主憲法」などと声高に叫ぶ資格もない。

 敗戦直後、数少ないながらも行われた政治変革に関する議論のほとんどは、「国体」論であった。例えば、「いまこそ日本は真に正しき国体論を勃興大成せねばならなぬ。けだし誤れる国体論を粛正して正しき科学的国体論を勃興せしめざれば真の国体護持は約束し得ぬであろう。迷信的国体論、無頼漢的国体論を一掃せよ」(『朝日新聞』投稿欄、九月七日付)、「今後の国体論は、日本に独特な国体を、いかなる外国にも理解と共感とを与えるものでなければならぬ<中略>新たなる意味において、正々堂々と国体観念の明徴に努力すべきだ」(『毎日新聞』投稿欄、一一月二日付)といったものである。

 このように敗戦前後の日本人の政治意識を理解するためには当時の日本人の「国体」観を理解する必要がある。元来、学術用語として”国体”は、国家の主権の所在の類型を示すものであり、”政体”が主権の行使の性格や形態を示す用語であった。大正デモクラシーに即して言えば、「法形式上、君主制国体であるが、実質上は民主的政体である」というふうにである。

 これに対し、戦中における「国体」観念とは、曖昧かつ多義的な観念であり、敢えて現代の言葉に換言するならば、極めて広範囲にわたるクニ意識である。つまり、家--ムラ-クニといった郷里と国、郷土と国土、家族と民族との間での一体性もしくは曖昧性。また、「おクニのやること」などと言った場合、その対象は、時の内閣であったり、官僚行政機構であったり、議会であったりもする。しかし、このクニ意識と戦中の「国体」観念とで決定的に異なる点がある。国体観念とは日本的なものの概念を追求しその真善美を天皇制に託していた。従って、包括性の最上位には天皇若しくは天皇制がおかれていた。つまり、国とは皇国のことであり、国史とは皇国史のことであり、国土とは皇土を、国軍ではなく皇軍を、そして国民ではなく臣民でなければならないのである。また、一体感においても自己を「国体」と同一化する願望があり、「国体」の認識と自己認識が重複する傾向が強かった。このため、「国体」観念の個々の構成要素(天皇/皇室/民族/家族国家/家族、皇国史/国史/人生、家/ムラ/国/皇国、郷土/国土/皇土、国家/政府/内閣/議会/お役人etc..)を自覚的に識別する傾向が余りない。

 このような政治認識を「未分化な政治認識」と表現することにしよう。末分化な政治認識においては、しばしは、国体観念が包括するものの一点を否定されただけで、その全てを否定されたと理解する傾向がある。この傾向は今日においても見られ、靖国英霊史観などがその典型である。戦争や当時の国策への評価が故人への評価と完全に一致していなければならないのである(注2)。戦争末期、絶望的抗戦の中でこの未分化な政治認識と葛藤を展開したのは、主に自ら特攻という自滅攻撃をしなければならなかった者に見られた。そこで思考の主体は「自分」でなければならず、「日本」や「国体」という主語に置き換えることで自らの死を納得することはできなかったのである。しかし、「国民」の大部分は国家の軍事的敗北と自らの身体の破滅を同次元に理解し、民衆の多くが玉砕論へと傾斜していた。これは敗戦を「国体」の敗北として理解したためである。

 このように敗戦後の民衆の政治認識とは憲法構想以前のこの国体観念の変容として始められなければならなかったのである。この国体観念の変容は、改憲を不要とみなす傾向とデモクラシーの醇化という二つの傾向に見られた。

 前者はマッカーサーの対日管理政策に対する発言に現れた。「民主主義政体トナルハ必然ダガ、之ハ明治大帝ノ御精神ニ帰一スルモノデアル」、「自由主義ヲ事新シク喧伝サレテ居ルガ、明治大帝ノ教示アラセラレタ根本理念ニ他ナラヌ」(注3)といった明治天皇の五カ条の御誓文とデモクラシーを結び付けた見解がそれである。しかし、こうした発想がより広範に広まったのは天皇の人間宣言によるところが大なのである。この宣言に際し、天皇は明治天皇の五箇条の御誓文を冒頭に上げ、これを「睿旨公明正大、又何ヲカ加へン、朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。 須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ」と評価している。直接的な言明こそないものの、民主主義の精神は五箇条の御誓文にあると暗に示唆したものと受け止めれた。実際、天皇裕仁にとっても人間宣言の最大の狙いは日本再建の理念が「五箇条の御誓文」にあることを確認しておくことにあった。結果論からすれば、この狙いは天皇、国民共有の認識となった。このため総選挙では「皇統を護持し一君万民の本義に基く民主的政治体制の確立を期す」、「民主主義とは、是如何とりとめもなき、唄乍ら、君民同治の主義のよき、ポツダム宣言、守らにやならぬ」といった、天皇制と民主制を混同した公約が数多くみられた(注4)。中には「民主主義は我が肇國以來の國是である」とし、聖徳太子の「大事は衆と論すべし」、あいは明治天皇の「廣く會議を起し万事公論に決すべし」と言った言葉を引用し、「今更事珍しく欧米から借用せぬでもよい」という見解も登場した。

 デモクラシーの醇化とは、日本の民主化というよりはデモクラシーの日本化を求める傾向のことである。「醇化」とは、かつて『国体の本義』で用いられた外来文化の摂取方式のことであり、「外来文化に『国体による醇化』を施して日本独自の新文化を創造する」(注5)という意味で用いられていた。日本文化は中国の文化を「摂取醇化」した後、これを「和魂漢才」という新文化に昇華させ、「今や我が國民の使命は、國體を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢獻」すべきであると主張されたのである。この戦前の醇化が敗戦後、「日本人は東西文化を融合して、太平洋の一角に平和日本独自の文化を創建しようとする偉大な『野心』の達成に向かつて進まう」(『毎日新聞』社説、一九四六年二月六日)といった、言説により再び登場する。この和洋折衷は「民主主義がわが國情との融合調和の上に建設せられたものであらねばなららない」(『朝日新聞』投稿欄、一九四六年一月二四日)という主張に示される。ここで言う「わが國情」とは天皇制の事に他ならず、「日本的民主主義」として、天皇制と民主制の両立を志向するのである。

 日本的民主主義という概念は醇化という発想に端を発するものであったが、人民主権を原理とする民主制と天皇制との根本的な相違が解消される訳ではない。この意味からすればデモクラシーの「国体」による醇化はあり得ない。しかし、一般に天皇の大権が縮小されれば民主主義と両立することが可能であると認識されていた。そもそも、敗戦前後の日本人は主権を、民族の家長たる天皇が国民に賜ったものとみなす傾向を持っていた。ある者はこのことを「わが帝国における君臣の関係は極めて密接なるものあり、これを通俗的に言えば親と子の関係にあるのである。ゆえに歴代の天皇はいずれも民の心に思いを寄せておらるるのである。・・・もし民主主義に語呂を合わせて言うならば、それは民思主義の帝国で上 陛下は下国民を思い、下 国民は上 陛下を思い奉るの国体を強力に持続することによって、強大にして揺ぎなき国家を形造るものとなろう。」(注6)。このような心情は、早くは中江兆民により次のように指摘されている。「世の所謂民權なる者は、自ら二種有り。英佛の民權は恢復的の民權なり、下より進みて之を取りし者なり。世又一種恩賜的の民權と稱す可き者有り。上より惠みて之を與ふる者なり。」(『三酔人経綸問答』岩波書店)。主権の恩賜が天皇の大権によるならば、大権無くして民権もあり得ない。従って民権を恩賜とみなす精神土壌からは容易に憲法起草という発想は生まれ得ず、また天皇制と民主主義の両立を容認する心理的背景とでもあった。

 兆民はこの恩賜的民権が恢復的民権へと漸次移行して行くことを望んでいた。しかし、そもそも、戦後状況そのものが天皇の降伏宣言により「与えられた」ものであった。「誰かゞあの時に戦争を止めると云ったならその者は直ちに数千の弾丸がその胸を貫いたであろう」(『東京新聞』投稿欄、一九四五年一二月三日付)とあるように、戦争継続の停止は「天皇陛下の命令」以外にはあり得なかった。従って、天皇の降伏宣言はこうした終戦願望に救済として応えたばかりではなく、戦後という状況創出の契機となることで国民の意識形成の前提となった。戦争に批判的であった人でさえこの例外ではない。ある知識人は次のように告白する。「自分はいはゆる戦争傍観者であったことを告白する。<中略>所詮見込みのない無謀であろうと心痛した。<中略>『そういう考えを持つ者が命を的に所信を表明しなかったから』といわれるが、これは空言にすぎない。命を的にすれば、ただ命が的になるだけであった。まことに、近代の人間にとっては政治が運命であるという言葉を、身に沁みて覚えた。<中略>八月一五日の大詔は闇の中にさした光であった。悲嘆と安堵の交錯した数週はすぎた。これからは自分は傍観者ではない」(『朝日新聞』投稿欄、一九四五年九月二七日)。この戦後状況を天皇からの恩賜とみなす傾向はマッカーサーにより与えられた民主主義とあいまって、政治意識を「上からの」、「外からの」という二重の意味で状況対応的なものとしたのである。

 

第三節 憲法草案への反響

 

  草案提出前

 

 敗戦後、憲法に関する世論形成は常にGHQ/日本政府が先導し、民衆意識はその反応として受動的に展開していたと見ることができる。しかし、一九四五年一二月から翌年一月にかけて行われた輿論調査研究所の報告(注7)によれば、回答者二三九六名のうち、憲法改正方法につき五三%の人が「憲法改正委員会を公選し国民直接の代表者より改正案を公議する」と答えていた。二〇%の人が「現憲法の所定の如く天皇が提出」すること、つまり欽定憲法を求めていた。また、二四%の人が「議会の憲法改正委員会に於て改正案を提出」を選んでいた。少なくともこの調査結果からは、当時の民衆に自主憲法制定の志向があったこと確認することはできるが、労働争議の激しさを考え合わせると、やはり被占領下において憲法制定に対する主体的な意識は極めて低調であったと判断する方が妥当であろう。

 前節で述べたように、敗戦前後、日本人の政治意識を規定していた国体観念の中心には天皇(制)がおかれていた。このため、敗戦直後から、戦後日本の政治体制をどのようにすべきかという議論は、いかなる憲法を制定すべきかという改憲の議論として展開した形跡は弱く、国体をどうするのかという天皇制の可否をめぐる議論として展開してきた。実際、当時行われた世論調査の設問の設定にそのことがよく現れている。つまり、天皇制に賛成か否か、草案の天皇制を支持するか否か、天皇の大権はどうあるべきかを質問しているのである。主権はどうあるべきかではなく、天皇制がどう変わるかという発想なのである。憲法公布の日の対談で金森国務大臣は「国民から手紙がきますが、大体の気持ちは天皇制が確実な基礎の上に憲法に織り込まれたといふところに最大の満足をもつてゐる、そのほかの点はほとんど批評してきませんよ」(『読売新聞』一九四六年一一月四日)と述べているが、天皇制こそ改憲問題の焦点であった。

 そして、国体観念の変革は憲法改正の前提であった。この点についても民衆意識は、一九四六年一月一日の天皇の人間宣言に先導される結果となった。しかし、天皇の神格化が否定されたとしても、それでは人として、民族の家長として天皇が政治的にどのような存在であるべきかという問題が残る。神性の否定は必ずしも政治的関与の否定を意味するものではない。そして、民衆が求めていた天皇制が非政治化された、つまり完全に脱権力化された象徴天皇制と同一のものであったかどうかは疑問である。

 先の輿論調査研究所の報告調査では天皇制について四五・五%の人が「政治の圏外に去り民族の総家長として道義的中心として」支持しているのに対し、一五・九%の人が「現状を支持」し、さらに二八・四%の人は「君民一体の見地より政権を議会と共に共有」することを支持していた。つまり、全体の四四・三%の人は天皇が何らかの政治権力を持つことを肯定しているのである。

 さらに永末輿論研究所によると、一九四六年二月の調査で天皇制について全体(二九三七人)の僅か一六%が「政治に無関係なら支持」を選んだに過ぎず、三一%が「絶対支持」、四二・四%が「修正して支持」を選んでいた(注8、添付資料参考)。「支持せず」は四・一%い過ぎない。この調査では全体の三割りがいわば未分化な認識において「絶対支持」を表明し、四割りの人は大権の縮小を志向するものの脱政治化に至ってはいない。

 大阪世論研究所が二月二〇〜二八日にかけて大阪府高槻市で行った調査では、全体(三八七人)の五四・五%が「天皇は大権を持つが、実際の政務は内閣が責任を持ち、内閣は国民から選出された議会に責任を持つ」を支持し、「天皇の主たる責務は日本の重要な儀礼を執り行う。内閣は国政全般について最大の責任を負い、内閣は国民から選出された議会に責任を持つ」を選んだのは三七・二%であった(注9)。天皇制廃止を選んだのは三%にすぎなかった。

 このように象徴天皇制(非政治化により脱権力化する)という発想はこの時点では必ずしも民衆の側にあったとは言えず、むしろ、天皇(制)に政治的なものを期待する傾向は強かった。それを仮に、少ないと見積もったとしても、天皇へ何がしかの政治的権能な期待をする傾向と天皇制の非政治化を求める傾向は拮抗状態にあり、さらにそれは個々人の内面においては両義的な、葛藤状態にあったと判断するのが妥当であろう。

 

  憲法草案の民衆への影響とその評価

 

 三月六日、政府は新憲法の草案を発表しマッカーサーはこれに「深き満足の意」を表明した。この声明からある者は「名称は草案であつても、その本質は確定したものではないか」(『毎日新聞』投稿欄一九四六年三月一〇日)と寄せている。

この発言にも見られるように当時、憲法の自主的な制定という気概は全く感じられない。この草案をめぐる民衆の反響を分析してみることにする。

 『中部日本新聞』では政府の憲法草案について三月中旬、世論調査を実施した(注10)。それによると、回答者一九五七名中、一〇四六名(五三%)がこれを支持していた。四九八名(二五%)は主権在民の明記を求めており、二八九名(一五%)は天皇に大権を与えるべきだとしていた。また六八名(四%)のものが君主制に反対していた。この調査では、かろうじて過半数のものが草案を支持し、さらに全体の四分の一の人が主権在民の明記としてより民主的なものを望んでいた点が注目される。先の輿論調査研究所、永末輿論研究所、大阪世論研究所の調査結果と比べると、天皇制の非政治化への欲求が強く出ている。このことは提出された憲法草案が意識の変革を促したと言える。しかし、草案支持は五三%と憲法への支持としては決して充分なものではない。

 内閣審議室世論調査班では政府の憲法草案について、新聞・ラジオを通じて投書を求め、その分析結果をGHQに提出していた(注11、添付資料参考)。それによると放送日(三月八日?)から同月末までに総計一七七七通の投書が寄せられた。残念ながら、投書はその集計結果が残っているのみで、その個々の内容を知ることはできない。投書は一日平均にして約八〇通になるので、少なくとも数量的の限りでは国民の関心の高さを示していたと言える。しかし、この一七七七通のうちで試案草稿を記したものはわずかに五通であり、自由民権期における多様な憲法草案の存在を思う、質的には低調と言わざるを得ない。

 分析によると一七七七通の投書に総数二八四一件の見解が記されていた。このうち天皇に関する見解が九七五件であり最も多い。次いで、総論(憲法への賛否、時期、制定方法等)が八七二件、国民の権利義務が五三九件、国会が三二九件、戦争放棄が三〇三件となっている。個別の見解で特に多かったのが華族制度の廃止で二三七件の見解が表明されていた。

 天皇制について触れたものの内訳を見ると、天皇制を強調するが故に草案に反対するものが二六件、現行制(帝国憲法)護持九六件、天皇主権説一二三件、国家主権説(君民同治)一五件、大権増加論三四件、大権縮小論四九件、拒否権・国民投票一一三件、皇室財産の制限を不可とするもの六件である。これらの天皇に何らかの政治的権能を期待する見解を総計すると四六二件となり約半数を占めた。これに対し、大権廃止(天皇尊崇)二九件、天皇制を護持するが故に草案を支持が二九二件、という事実上の象徴天皇制の支持が合わせて三二一件。天皇制反対一〇〇件、大権廃止(天皇尊崇せず)二五件、世襲制度反対一六件と、天皇制の価値を否定した見解の総計は一四一件であった。他は、第一条の語句不明瞭とするものが三〇件であった。

 分析は集計のみでこれ以上の詳細を知る由もないが、一般に自主的な投書行為による場合は、現状を支持するものよりも現状を変えたいと考える人の方が、熱心に投稿することが予測される。特に、天皇制反対を主張するものがこの当時の調査としては突出して多いのは、これを反映したものと言える。しかし、天皇制については、政治的権能を期待する見解が四六二件、象徴天皇制の支持が三二一件、天皇制の否定が一四一件と、投書上の意見分布はかなり論争的な争点を形成している。自主的な投書の集計は当時の世論の公正な意見分布を示すものではないが、逆に言えば、これは憲法についてより関心の高い人々についての意見分布を示しており、そうした人々の間で必ずしも合意形成がなされていなかったという事実は重要である。総論として賛成を表明したものは八七二件中、五七四件。反対は五五件と少ない。しかし、この投書は多様な点についての意見表明なので、個別的見解、例えば、一院制や首相公選の主張を草案への反対意見として勘定したとすれば、反対意見は九八八件となる。後にも触れるように憲法草案への支持は絶対多数を形成していた訳ではない。

 毎日新聞は全国の有識者二〇〇〇名に憲法草案についての意識調査を行った(『毎日新聞』一九四六年五月二七日付)。全体の八五%が草案の天皇制を支持し、一三%が反対していた。そして、全体の八六%が天皇制の廃止に反対し、天皇制廃止論は一一%にとどまった。当時の世論調査の問題点として、草案の天皇制への賛否を以て憲法草案全体への支持・不支持を判断しようとする傾向があった。つまり、設問設定そのものが未分化な政治認識を露呈しているのである。実際には象徴天皇制の支持と憲法草案の各条項に対する支持は一致するものではない。その最たるものに第九条がある。「戦争放棄の条項を必要とするか」という設問に対しては全体の七〇%が「必要」と回答し、不要と回答した者は二八%であった。天皇制と比べると支持の度合いが一五%低下し、その分、不要が増えている。

 調査対象が有識者に限定されていた毎日の調査結果と事なり、広範な階層を対象とした永末輿論調査研究所の報告では、第九条により否定的な結果が出ている。また、永末の調査では「将来、我が国が他国から不当の侵略をうけた時、あなたはどうしますか」という設問に対し、「侵略を甘受する」、「侵略を甘受しない」、「わからない」という回答が設定されており、自衛権の問題に焦点を据えていた(注12)。永末の調査では「侵略を甘受する」を選んだのは八・八%、「侵略を甘受しない」七三%であった。圧倒的多数は自衛権の否定を拒絶しているのである。同様の傾向は内閣審議室の投書分析にも該当する。しかし、この自衛権放棄に反対の七三%を以て即、第九条の不支持が七三%と理解することはできない。戦争の放棄は自衛の名の下に侵略行為が行われたという過去の経緯から作られたものである。しかし、これが第九条の条文で「国の交戦権は、これを認めない」となった場合、先制的な武力行為の発動の禁止と不当な侵略に対する自衛権の放棄の双方が含まれるてしまう。このため、第九条に対する態度は、問題の焦点を平和主義におくのか、それとも、自衛権の放棄におくのかによって調査結果に大きな差異が生じるのである。第九条には少なくとも、@先制的もしくは不当な侵略等による武力の発動の否定、A自衛権の否定、B戦力の保持の否定の三点が盛り込まれているが、@を採る人が必ずしもA、Bを採るとは限らないし、自衛権を主張するものが何も必ず好戦もしくは侵略の思想の持ち主と決めてかかることはできない。しかし、戦後、我が国において自衛権を主張する全ての政治勢力の歴史観は「大東亜戦争聖戦史観」にあり、過去の侵略の肯定と自衛権の主張は常にワンセットとなっていた。この戦後五〇年間の経緯を考えると第九条は重要な歯止めとなっていた言える。しかし、この他方、少なくとも、憲法制定時において第九条に対する民衆の支持は、先制的な武力行為や不当な侵略行為の発動として交戦権を否定するという理解に託されており、自衛権の否定には相当に強い抵抗があったとみなすことができる。

 一九四六年八月、時事通信社は全国二四五三名に対する調査で「今議会に提出されている憲法改正案をどう思いますか」という設問を設定している(注13)。「ゆきすぎである」と回答した者が一四二名(五・八%)、「満足に思う」が一〇五三名(四二・九%)、「不満足に思う」が七五八名(三〇・九%)、「わからない」五〇〇名(二〇・四%)という結果を出している。つまり、「ゆきすぎ」と「不満足」を合わせると全体の三六・七%が草案に対して批判的である。「満足に思う」との差は僅かに六・二%なのである。

 また、憲法公布後の新日本輿論研究所の調査報告によると「あなたは新憲法に心から賛成しますか」という設問に対して六五二名中、三七四名(五七・四%)が賛成したのに対し、二六七名(四一%)が反対を表明していた(注14)。他方、同調査で「新憲法における天皇制を賛成しますか」という設問には四九九名(七六・五%)が賛成し、一四五名(二二・三%)が反対していた。象徴天皇制の支持と憲法への支持は必ずしも一致しない傾向がある。また、新憲法は、象徴天皇制ほど圧倒的多数の支持を得ていたとは言い難い。むしろ、毎日の有識者に対する調査結果は他の調査結果に対して異例の結果を提出していると言える。憲法支持の世論が六〇年代にかけて形成されていったのはこの有識者の影響力によるのであろう。

 永末輿論調査研究所では憲法公布後、象徴天皇制について世論調査を行っている(注15、添付資料参考)。それによると調査対象者二七一七名のうち、八六九名(三二%)が「天皇にもっと政治の権能を与えた方がよい」を選択している。草案の支持は一四一九名で五二・二%。「天皇の憲法上の権能をもっと少なくした方がよい」が一九〇名で七%。天皇制廃止が九〇名で三・五%である。象徴天皇制の支持並により共和主義的な見解を総計すると五九・二%となり、反動化への有効な拮抗を形成していると言える。しかし、この段階で依然、大権を志向するものが三割り以上いるのである。さらにこの調査結果を同研究所の二月の調査と比較すると天皇制についての意見分布にはさして変化が起きていないことがわかる。二月の調査で三四%であった「絶対支持」は二%減少して「権能をもっと与えよ」に移行し、「修正して支持」と「政治に無関係なら支持」を合わせた五八・四%が、一一月の「草案支持」と「権能を縮小」を合わせた五九・二%に相当し、「支持せず」の四・一%は若干減少している。これを見ると、一般の民衆の間での「国体」観念の変革は、八月一五日に一つの大きな転機があり、それ以降、日本国憲法の草案提出からその審議、公布に至るまで余り大きな変革はなかったと言える。

 しかし、憲法改正の審議の中で国体は変革したのかということが一つの大きな争点となっていた。これに対し、金森国務大臣は法律上変わったが、「天皇があこがれの中心であり、天皇と国民との心のつながりが根底となって確固不動のものとなっていること。ここに国家が同一性をたもち、不可変のものたる基礎があり、これが国体である」とした。所謂天皇制「あこがれ論」である。永末輿論調査研究所ではこれについて、憲法公布後「国体は変わったと思うか」という調査を行っている(注16)。調査結果では二七一七名の内、一三〇三名が「変わった」と回答し、一一六一名は「変わらない」と回答している。解らないと回答したものが二二九名で八・四%である。数値のみで何がどう変わったのか、何がどう変わらないのかを特定化する事はできない。しかし、この調査結果から推論できることとして、「象徴」の意味について合意は形成されていないということである。「国民」の圧倒的多数は天皇制を支持していたが、彼らが支持する「象徴」とは何かという問題になると、相当に曖昧な観念でしかない。また、天皇制支持には、依然、大権を求める傾向も含まれていた。国体は変わったか?、変わらないか?を質してみても、元来、国体は曖昧で多義的な概念である。結局、敗戦前後、政治意識の基底を形成していた国体観念は、国体明徴から象徴天皇へと、曖昧から曖昧へ転換したのである。この曖昧さの中で最もないがしろにされたのは「主権者」意識である。

 

  憲法実施へ 一九四七年五月三日の情景

 

 一九四七年五月三日、日本国憲法は実施されることとなった。当日は雨。午前一〇時、憲法普及会主催による記念式典が、宮城前広場で開催された。この日の永井荷風の日記は「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑う可し。」(「断腸亭日乗第三一」五月三日付、『荷風全集』第24巻、岩波書店)と、荷風らしく醒めた筆である。式典は憲法普及会会長芦田均の挨拶により始まり、尾崎行雄、吉田首相、安井都知事の祝辞と続いた。そして、金森国務大臣の閉式の辞が「終わらんとするとき、とつぜん『君が代』が奏され、雨で御臨席をお取止めとなっていた天皇陛下がにわかに御出席になられた」(『読売新聞』一九四七年五月四日付)。傘を持ち壇上に登った天皇に、「天皇陛下万歳」が渦のようにわき起こった。新聞各紙は宮城前の「天皇陛下万歳」の模様と壇上の天皇の写真を伝えると共に、各地の慶祝ぶりを報道している。しかし、『朝日新聞』によればこの日、宮城前に参集したのは約一万、公布の日の一〇分の一程であった。

 横浜の一市民、小長谷三郎は、この日、「民主主義憲法の発足を喜び大いに祝賀すべきであるのに、どうしたものか自分には他人事の様に思われてならない。従って今の自分にはこれに対する何の感想もない。直接身近に感ずる事も無いし、また新憲法が発布されたからと言って吾々の生活が楽になると言うわけのものでもないからだ」と記している(注17)。憲法実施に対しこれを祝賀する実感がないのである。作家、高見順はこのことをこう自問自答する。「今日は新憲法発布という歴史的な日である。一つの政治的な事件である。しかし、私は全く無関心である。私だけのことか?否、日本の精神世界にとって、それは関心の外にある『画期的な事象』である。天降りのものだから? 闘いとったものでなく、与えられたものだから?」(『高見順日記』五月三日付、勁草書房)。

 果たして、これは高見順の「私だけのこと」ではなかった。一九四七年七月、時事通信社は全国四〇〇〇名に対し「あなたは新憲法の条文とか説明などを一とおり読んだか聞いたことがありますか」という世論調査を行った。「読んだ」と回答した者は五九・三%、「読まない」と回答した者が四〇・七%であった(注18)。仮に当時、日本国憲法を支持していたものを八割とし、さらにそれが憲法を「読んだ」ものの八割りであったとしたら、それは全体の四七・四%であり半数にも満たないことになる。かなり多めに見積もって九割りとして、やっと五三・四%となり過半数を越えるのである。「読まない」けど賛成する人もいるという想定をとると、今度は賛成の人の約四割は”読みもしないのに賛成した”と言うことになる。憲法支持に対する「国民的」合意の形成は、五五体制以降、六〇年代に定型化されたものであり(注19)、制定時の民衆の憲法に対する理解には相当にあやふや、もしくは、危うげな点があったのである。

 

小 括

 

 敗戦後の日本人の政治意識については、既に当時から戦前的な価値観が根深く残っていることが指摘されており、戦後意識は非連続性よりも連続性によって拘束されていたことは改めて指摘するまでもないことである。従って、日本国憲法制定時における憲法への一般の関心が低いものであることはある程度予測がつくことであるが、新憲法に対する支持がかくも低調であったとことは以外であった。おそらく、この驚きは筆者だけのものではないだろう。この民衆意識の低調を思うと、その後の逆コース、保守勢力による度重なるを改憲の企図を頓挫させてきた護権勢力の運動や啓発が、いかに重要な役割と影響力を行使してきたかが理解できよう。事実上、占領軍により起草され天皇の勅語により公布された日本国憲法は、その矛盾と限界を指摘されながらも半世紀間、護られ続けてきたのである。

 今日、制定当時と比べると天皇制が持つ国民統合の価値は、明らかに著しく失われつつあり、天皇により公布されたという事実が純粋戦後世代になにがしかの感慨を与えることはほとんど全くない。また、民衆思想の状況が、今や、戦争を知らない世代から、戦後を知らない世代へと変容しつつある昨今、戦後を知らない世代に、日本国憲法の「与えられた」という負の側面を原点として強調し、自主憲法や改憲を訴えることはナンセンスということになろう。その反面、戦後の平和主義を支えてきた戦争体験からも日々遠ざかりつつある。つまり、従来の護憲・改憲の双方を支えてきた「国民」体験(戦争と被占領)は今や歴史となりつつある。今後、この戦後を知らない世代へ日本国憲法はいかに継承されるのか、そこには少なくとも二つの選択があるべきである。すなわち、第一は、単に護憲を強調するだけではなく新たな意味での護憲思想を形成すること、第二は、原点における矛盾-天皇制と民主制、排他的な「国民」要件の規定等-を解消すべく現憲法の条文の修正を志向する、のいずれかである。

 

 注 記

 1 宮城前の祝賀会の情景については『朝日新聞』、『読売新聞』、『毎日新聞』、『 東京新聞』の一一月四日付けの紙面を参考。

 2 「犬死論」を主張する側にも問題はある。つまり、革命や民主主義のための戦死なら尊いのか、という反問を想定したとき、「犬死」の主張もまた人の生死を何かの判断基準とする考え方になるからである。

 3 鳥取県警察部長「マツクアーサー司令部ノ対日政策ニ対スル輿論ニ関スル件」(一九四五年一〇月三日)、粟屋憲太郎編『資料日本現代史2』大月書店(一九八〇)。

 4 「第二十二回東京都第一区選挙公報」アメリカ国務省日本関連文書。東京第一区の候補者の多くが同様な趣旨の発言を行っている。

 5 浅沼和典「ファシズムの原理」、『比較ファシズム研究』成分堂(1982)、二一頁。

 6 国井通太郎「町政雑記」、一九四五年八月二九日付、『那珂湊市史料 第五集』(一九八〇)。

 7 輿論調査研究所『研究所だより』(一九四六年二月一五日)、CIE(B)7546-7547。同調査は一部、大阪毎日に記載。

 8 永末輿論調査研究所『サーベイ』創刊号(一九四六年四月)、CIE(B)-07578。

 9 一部『大阪毎日新聞』一九四六年三月九日に掲載、CIE(07452-7453)。

10 『中部日本新聞』三月二七日付、CIE(B)-07453。

11 CIE(B)-07560

12 永末輿論調査研究所『サーベイ』第二巻第二号(一九四七年三月)、CIE(B)-07581。

13 吉田裕・川島高峰編『時事通信占領期世論調査』第一巻(大空社)

14 新日本輿論研究所『新憲法、天皇制、家族制度に関する世論調査』CIE(C)-6506-6507

15 永末輿論調査研究所『サーベイ』第二巻第一号(一九四七年一月)、CIE(B)-07580。

16 同前。

17 小長谷三郎日記(五月四日付)、『横浜の空襲と戦災2』

18 前掲、『時事通信占領期世論調査』第三巻(大空社)

19 加茂利男「戦後五〇年・日本政治文化の軌跡」、年報日本現代史『戦後五〇年の史的検証』東出版