解 説

川 島 高 峰

 

1. 本資料集の構成と特徴

 

 『時事通信占領期世論調査』(全一〇巻)は占領期に時事通信社調査局・時事通信社大阪支社調査部が行った世論調査報告を集成した。巻構成は利用者の便宜を考え年代順に各巻に振り分けることとした。時事通信社では1946年4月から調査局を開設し、同年10月からその結果を『通信』の「世論調査版」として刊行(1951年12月廃刊)する。しかし、これらの報告書はその配布が極めて限られ、当時の国民の目には殆ど触れる機会がなかったものである。また、今日にあっては時事通信社、並びにその調査部門を引き継いだ中央調査社にも残されておらず、全国の研究機関並びに図書館等においても極めて希に断片的な所蔵が確認できるに過ぎない。占領期に時事通信社が行った調査数は1948年3月現在調べで 回、また、『時事年鑑』によれば1950年7月までに134回、1951年6月までに202回の調査が行われている(数値はいずれも1946年4月以降の累計)。『時事年鑑』にはその年度に行われた代表的な調査についてその設問と回答が数頁に列記されているに過ぎず、この202回の調査についてその主題の全て確認することできる資料は現在のところ存在しない。これらのうち本資料集で収録したのは1946年8月から1950年11月にかけての調査報告 タイトルであり、前記「世論調査版」刊行以前の報告書が二点含まれている。従って、本資料集は占領期の時事通信社による調査報告の全てを網羅するものではない。しかしながら、本資料集により戦後改革期における世論を多岐な調査主題と詳細な分析で知ることができることの意義は大きい。

 復刻にあたっては国会図書館憲政資料室にあるGHQ/SCAP文書の民間情報教育局(CIE)世論社会調査課(Public Opinion & Sociological Research Division)のマイクロフィッシュ資料を基とした。この世論社会調査課にある世論調査に関する資料の概略について述べておく。ここでは資料構成を便宜上、次のように分類した。@世論に関する政策・方針についての資料、A世論社会調査課による世論調査報告、B日本の世論調査機関についての調査資料、C日本の言論・報道機関、並びに調査機関が提出した世論調査報告。@は占領政策の参考として日本の世論をいかに収集・分析し育成するかについての方策であり、日本の世論の啓蒙・育成と科学的な世論調査方法の普及、つまり、世論の民主化と世論調査機関の近代化に関する方針を意味する。また、占領軍の他の部局からの調査の要請、あるいは同様の任務を持つ他の部局(GS、CI、G−U)との調整についての資料も含まれる。Aは日本の世論並びに民衆意識について世論社会調査課が分析したレポートである。調査の殆どは、同一もしくは類似したタイトルについて複数の日本の調査機関が提出した調査報告を比較検討したものでありその客観性に秀れた分析となっている。また、@には他の部局から同課のレポートの送付を求める要請がしばしば見られ、GHQが政策策定に日本世論を参考としていたことが伺える。BはCIEが日本の公的、私的な世論調査機関について、その組織の沿革、目的、機構、財源、調査の方法、既に行った調査とその結果、計画中の調査等について調べたものであり、このような調査をCIEは占領期に繰り返し行っていた。Cには朝日、毎日、読売といった主要紙は勿論のこと地方紙が行った世論調査についての報告、ラジオ視聴者に対する世論調査、そして、専門の世論調査機関による調査報告等、大量の世論調査報告書が確認できる。これらの資料の中で時事通信社による世論調査報告はその量、質ともに最大級の資料群を構成している。後にも述べるように、GHQは政府による世論調査を「非政治的な」事項に限って認めていた。既にこの政府による世論調査については『総理府国立世論調査所 世論調査報告書』大空社(1992)として刊行をみており、本資料集の刊行により公私双方の調査機関による占領期の世論の「政治的」、「非政治的」側面が明らかとなるわけである。

 

2. 占領期の世論調査と時事通信調査局について

 

 1) 流言飛語から「輿論」へ

 戦時下の日本では国論はあっても世論はなく、国策に沿わない言論は官憲取締の対象とされてきた。この言論抑圧体制はアジア・太平洋戦争開戦以後、一層強化されることとなり国策に関する発言自体が防諜の名の下に流言飛語として取締られることになる。その結果、「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三猿主義」が民間防諜の原則となる。しかし、厳しい言論統制にもかかわらず戦況は勿論のこと、食料配給、空襲、疎開、供米等々、人々の情報に対する欲求は高まる一方であり、官憲の流言飛語取締件数は戦況悪化とともに増大の一途をたどった。そこに世論に対する二つの欲求を読み取ることができる。第一は名目化していた「下意上通」のシステムに対する批判と不満であり、第二は、政策・状況に対する多数意見は何かという世論そのものへの欲求である。敗戦後、デモクラシーの名の下に世論は政治社会の表舞台に登場するがこの下地は既に戦時下に形成されていたのである。この戦後の世論興隆は、@日本民衆自身による民意の欲求、A日本の言論報道機関・調査機関による世論調査の試み、B日本帝国政府による民心動向の把握、C占領軍による世論の把握とその育成、の四つの側面から形成されていた。

 敗戦直後の8月30日、東久邇宮首相は政府への国民の要望、意見を求め内閣への投書を呼びかけた。これは世論への欲求とあいまって、政府当局のみならず言論報道機関、占領軍当局に書簡の波が押し寄せる現象となった。世論は先ず投書行為として現れたのである。当時、用紙不足から新聞は四面構成を余儀なくされたが、それでも多くの新聞が投書欄に紙面を割いていた。戦後の報道機関の世論への試みはこの投書紹介から始まる。しかし、投書は自主選択による行為であり、また、政治・社会の問題について意見を書簡にして出すという方法からして、投稿者層は政治的中間層、もしくは疑似インテリ層が中心であった。この投稿者層を庶民指導層もしくはサブ・オピニオンリーダー層とみなし、その他者への影響力を考慮したとしても、投書を世論の意見分布の公正な反映とみなすことはできない。しかし、この民意の公正な反映を当時の紙面に期待することはできなかった。というのは、敗戦後も内閣情報局、内務省警保局による言論、報道に対する抑圧や検閲は機能しており、報道機関はその統制の下におかれることに甘んじていたからである。GHQがこの言論統制法案の撤廃に関する一連の指令を出したのは9月10日から29日にかけてのことであった。これを受けて、報道機関が社内に世論調査専門の部局を設けるようになるのは最も早いものでも10月から11月(中部日本新聞社編集局世論調査室・毎日新聞社編集局調査室10月、朝日新聞社世論調査室11月、西日本新聞社世論調査部・読売報知新聞社世論調査部1946年1月)にかけてであり、さらに世論調査結果の記事が日本の紙面に登場するのは11月頃からであった。科学的な世論調査方法の普及に至ってはさらに後のこととなる。いずれにせよ、1946年まで調査方法はともかく世論調査を掲げる機関の設立ラッシュが続き、時事年鑑によればこの年に70の調査機関が確認されるようになった。

 世論政策に対するGHQ/SCAPの権限は11月1日付けの「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本的指令」の第一部一般及び政治、3.日本の軍事占領の基本的目的、C項に基づく。しかし、この指令の日付からもわかるように日本の降伏が予想以上に早かったため、既に世論政策についての方針がマッカーサーの下で決定されていた1)。9月10日、「占領政策を促進するための日本人への情報の普及」について軍閥、政治、経済、心理の四つの観点からその目的が決定され、連合国最高司令官軍事補佐官B.F.フェラーズ准将によりに提出される。9月22日には一般指令183号により太平洋軍総司令部軍政局から民間情報教育局が独立しその初期の方針が提出され、10月にはCIE内部に世論社会調査課が設立された。世論社会調査課は既にCIEに先行して日本人の意識を調査していたアメリカ戦略爆撃調査団と世論政策の方針について意見交換を行う2)。この結果、資材・人材が十分に揃うまでの当面の間の方針として、日本の世論調査機関の把握とその指導・育成、並びに各種調査結果・投書・意識の分析に活動の中心がおかれることとなる。しかし、この方針は占領期全般に共通するもので、世論調査自体についても幾つかの例外を除けばアメリカ戦略爆撃調査団が行った様な直接的調査をCIEが行った形跡はなく、日本の調査機関を介して世論の分析・把握にあたっていた。

 2) 時事通信社調査局の創設とその発展

 敗戦後の9月24日、「日本政府のニュース統制の排除、各国の外電通信提供の自由及び政府の助成機関たる同盟通信社の特権剥奪」の指令を受け、同盟通信社は解散しその業務は共同通信、時事通信に引き継がれることとなった。「同盟通信社解散に関する覚書」(1945年10月31日締結)によれば、共同通信は「新聞社および放送協会を対象とする新聞通信」を、時事通信は「一般購読者を対象とする時事通信、経済通信、出版事業等を経営するをもってその目的とする。従って原則として調査局、経済局所属の人員ならびに報道局、連絡局および写真部の残留社員を採用」とある。時事通信社はこの覚書を受け1946年11月1日に発足した。時事通信社の創立趣意書には「時事通信社は政府と大資本とより独立して報道の自由を確保し責任ある通信を発行する」とあったが、その設立自体が同盟からの引き継ぎでありその後の調査部門の歴史には、しばしば、半官半民的な要素が見られた。しかし、その他方、同盟の組織網を引き継いだことは全国的な調査を容易にし、他の報道機関・調査機関に対し優位な立場となり、占領軍当局からその分析について信頼を得るに至る要因であった。時事通信社内に世論調査を担当する調査局が設けられたのは1946年4月1日のことである。当時、大蔵省がその機構内部の実態を調査する必要から、時事通信社に調査機関設立を働きかけ、それが「外部受託の調査を企業として」始める契機となった。この機関設立に際し「大蔵省から数十万円の研究費」が出ており、内閣世論調査課から小山英三、GHQ経済科学局から高橋正雄らが加わり、初代の局長に沼佐隆次が就任した。4月24日には大蔵省より「各省二級事務官および技官の官庁より受ける実際収入」、「各省での実際執務人員および事務繁忙の状況」の2件につき調査依頼を受け、これが時事通信社調査局の最初の調査となる。なお、大阪支社に調査部が設立されたのは1947年7月のことであり、本社調査局と緊密な連絡を取る一方で京阪地方で独自な世論調査に当たった。 時事通信社調査局は「日本一の世論調査」を目指し活動を開始したわけであるが、当時は世論調査の方法そのものが未だ発展段階にあり、そもそも、世論調査の基礎データーである各種の人口構成、人口動態、業種別統計等々が不備な状況にあった。このため、1946年8月に発表した「日本民主化一ケ年の動向分析 第13号調査」は、世論社会調査課から「偏向の中で最も重大な二つの点は女性と郡部双方の人々の見解が十分に反映されていない点にある。他の点についても国勢調査と一致しないものがかなりある。アメリカの基準からすれば、この調査方法自体が全く偶然性に基づいており、調査結果の信頼性に極めて重大な疑問を与えている。」と惨憺たる評価を下されることになった3)。この調査について世論社会調査課課長パッシン少尉は時事通信社に直接赴き、調査方法について調査局に指導をしている4)。このような当時の日本の世論調査の技術を改善すべく1947年3月25、26日に第一回世論調査協議会が総理大臣官邸で開催された。この会議は戸田貞三(東京大学)をはじめとする社会学、統計学の権威、世論調査に携わる公的、私的諸機関の代表からなっており、アメリカから招聘した専門家やCIEによる調査技術向上の講習会であった。この協議会が戦後の世論調査に与えた影響は極めて大きく、日本の世論調査の精度と信頼性は一段と高まったと言える。中でも時事通信社の調査技術は著しく向上し、この年に発表した「日本民主化の歩み」(第 巻収録)はアメリカの主要日刊紙に掲載され注目された。時事に対するCIEの評価も一変する。新聞用紙配給の参考として新聞の購読調査を日本のどの機関に委託すべきかとの経済科学局からの問い合わせに対し、パッシン少尉は時事通信社を推薦しその理由を次のように述べている。すなわち、時事がそうした問題を扱うのに適した全国的組織網を持っていること、日本の世論調査機関の中で最も優秀な三機関のうちの一つであること、そして、この三つのうち他の朝日新聞、毎日新聞が用紙配給に関る問題を調査するのは適当ではないこと5)。

 1948年は国内の世論調査機関の間で横断的交流と組織化が活発に行われた年であった。先ず、この1月、国内の研究者、主要機関との情報交換、国際機関との交流を目的とした日本世論調査協会が結成される(1950年9月、財団法人日本世論調査連盟となる)。会長には戸田貞三が就任し、常務理事に国立世論調査所から小山英三、時事通信社からは沼佐隆次が参画し、毎月研究会、講習会を開催した。一方、時事通信社は3月18日から20日にかけて日比谷市政会館で第一回世論調査研究会を主催する。これはブロック紙、地方紙の世論調査の関係者を集めて行われたものであり、5月には同研究会に参加した新聞社を中心として新聞世論調査連盟が結成される。これは全国的な調査網を持たない地方紙18紙と時事通信社の技術並びに全国的組織網を結合することで、世論調査の普及向上を目的としたものであった。理事社には中部日本新聞が、幹事社には時事通信社が選ばれる。日本の世論調査は戦後、アメリカを範としてその技術向上に努めてきた。しかし、この12月に行われたアメリカ大統領選挙においてギャラップ等のアメリカの代表的な調査機関が全て選挙結果の予想に失敗したことは世論調査のありかたに大きな影響を与えた。日米の双方の調査機関で世論調査の信頼性を回復すべく、これまでの調査方法に対する批判と新たな分析方法の模索が試みられる。時事通信社はこの教訓を踏まえ、1949年1月の総選挙に際し試験的調査を行いこれを「選挙予想研究調査」(第8巻収録)にまとめた。同年6月にはアメリカの世論調査を研究するため深井武夫をミシガン大学に一年間留学させる。このように、時事は常にその調査技術の向上に努め国内の世論調査機関の中心となる一方で、GHQに対し調査機関としての信頼性を確立したのである。

 

 3)政府による世論調査の是非と時事通信社との関係

 帝国政府による民意へのアプローチは東久邇宮内閣期までは基本的に戦前の方策を継続していた。言論統制に関する法案撤廃後も帝国政府は投書分析を中心とする方法により民心の把握に努めていた。情報局はその外郭団体として日本輿論研究所を11月1日に設立し6)、ラジオ放送の座談会番組を通じ様々な主題について視聴者に投書を募る方法で世論調査に当たっていた7)。この手法は情報局廃止後(12月31日)には内閣審議室に引き継がれる。しかし、1946年6月、総司令部より「政府の世論調査は米国から専門家の到着を俟って具体案を樹て担当官の訓練機構の整備其他一切の科学的基礎準備を完了する迄容認し得ない」と指令される8)。原因は、1946年5月20日、食料メーデーに対するマッカーサーの声明「暴民デモを許さず」についての世論調査を試みようとしたことにあった。内閣審議室では全国の新聞社にこの声明について寄せられた投書の反響、異論の紹介を依頼していたが、この件が6月1日付けの読売新聞に報道され、GHQはこれを占領政策への批判と判断したのである9)。この禁止は11月29日に解除され、調査案、調査方法、並びに結果の発表に関し事前に民間情報教育部の承認を得ることを条件に、非政治的な事項についてのみ世論調査を行うことが許される。また、報酬を支払わないこと、及び調査の結果の一般への開放を条件とし世論調査を民間に依頼する事が許可された10)。この場合、政治的とは、政治的に論争点となる問題であり、「例えば特定の政治的団体に対する態度、内閣に対する態度、並に天皇及天皇制に対する態度等」とされる。また、非政治的とは「行政及政策の実施、官庁、事務の改善、公共問題などに関する態度及提案並に各種問題の所在探求等」とされ、具体的には「インフレーション、闇取引、食料配給の統制に就いての提案、政府の貯蓄運動に対する反響、人口移動、生活問題に対する態度、教育問題、復員軍人、引揚者、戦災者の欲求態度等」とされた。しかし、戦後の逼迫した経済状況と急激な民主改革が行われていた当時にあって、非政治的な例として出された事項はいずれもそれ自体が政治問題として先鋭化していた。結局、政治的、非政治的の判断はCIEの事前承認において極めて政治的に決定されていたと言える。例えば、時事通信社は1948年7月、大蔵省から所得税についての世論調査の依頼を受けCIEはこれに事前承認を与えている11)(『所得税に関する世論調査』第 巻収録)。その理由として、時事が調査機関として優れていること、先の新聞購読調査において政治的な圧力や選好に左右されることがなかったことを指摘する一方で、「この調査で得られた情報は日本政府と共にSCAPで利用すること」、「地域抽出の計画並びに調査票の改善についての詳細は本課と共に作成すること」等があげられていた。つまり、これは単に日本政府から時事への委託調査に止まらず、その事前承認に名を借りた占領軍による日本国民の世論調査の意味を持っていたのである。しかし、この委託システムは政府の委託調査機関として時事通信社を発展させるものであった。

 内閣審議室では禁止令の解除後、試験的な研究調査を行う一方、公立の世論調査機関としてその整備に努め1947年5月、総理庁官房審議室世論調査部に所属を変更する。同年8月には、政府による初の本格的な世論調査として「経済実相報告書に対する世論調査」が発表される。しかし、このような政府による世論調査には戦前の世論操作や言論統制の復活の危険性を指摘する声が民間の世論調査関係者から上がっていた。当時の時事も同様な立場をとっており、政府による世論調査の実行について次のような理由から反対をしている12)。第一に「政府の都合によって調査結果や調査計画が歪曲されることに強い危惧」を感じており世論操作の危険性があること、第二に都市労働者や学生は政府に対する強い反感から政府の調査に非協力的な態度をとることが予想されそのような標本によった調査結果に信憑性は期待できないこと、第三に、逆に、農村部で政府が調査を行う場合、村の官吏や農業会の役員を動員することが予想され「農民の反応は、殆ど本心によってではなく村の役人や農業会に対する態度による」こととなり公正な調査結果を出すことはできないこと。しかし、こうした批判の一方で、政府の委託機関として時事通信社と総理庁とは微妙な関係にあった。これは、一度、民間に提案された調査が後で上司により否定された事例に対する時事の態度から読み取ることができる。例えば、「祝祭日に関する世論調査」(第 巻収録)は当初、総理庁の小山英三が時事にその調査委託と資金配分を提案してきたものであった。しかし、小山の上司がこれを取り消し総理庁に直接行うことを命じてきた。時事通信社はこの調査の重要性を鑑みこれを自己資金で行うこととしたが、時事はこれを政府の世論調査機関が官僚的機構の支配下にあるための弊害とみなしていた。そして、「政府と世論調査とのふさわしい関係とは、世論調査を独自に行うことよりも、むしろ、民間の努力に対し財政的な支援をすることにある」と言うのである。このような時事の主張からは、むしろ、戦前からの同盟的体質が委託制度という半官半民的な志向となって現れたと見るべきである。さらに、この時点で時事と総理庁とは一面において競合的な関係にあったともいえるが、しかし、それは公的、私的双方の機関からGHQに祝祭日に関する世論調査報告を提出する結果を導いており、両者は占領政策の促進に対し競合的相互補完の関係にあったと言える。

 政府は官庁が世論調査を行うことに対する批判に応えるべく、1949年6月、総理庁官房審議室世論調査部を廃止し、新たに総理府国立世論調査所を発足させた。これは政治的中立性を獲得するためより独立した機関へと改編することを目的としていたが、この改編により政府の世論調査機構はさらに拡大充実したものなっていた。その運営方針は7名の委員からなる世論調査審議会によっており、戸田貞三等の学界の代表者にまじり時事通信社からは世論調査室室長の沼佐隆次が加わり、初代所長には小山栄三が就任した。さらに1954年7月、国立世論調査所が廃止され時事通信社への委託が正式に決定される。しかし、当時、この民間への委託に対しても戦前の言論統制の復活であるとの強い世評があった。時事では委託機関が「実体はあくまで時事通信社の付属機関」であることを強調し、「言論統制を考えるなら世論調査の必要性はない」と声明する。こうして10月1日、時事通信社調査局と国立世論調査所が合併され、社団法人中央調査社が設立された。社屋は時事通信神田別館内に置かれ、役員には理事会長に戸田貞三、常任理事に沼佐隆次、そして8名からなる理事には小山栄三らが加わっていた。その役員構成は戦後の世論調査の歴史において重要な役割を果たしてきた人材が集中した観があり、敗戦後数年にして最も優れた三つの調査機関の一つに数え上げられた時事通信社は、日本を代表する世論調査機関となったのである。

 

 敗戦後、世論そのものへの欲求が世論の興隆を支える大きな要因であった。これは国民自身による自画像追及の欲求にほかならない。しかし、この欲求に報道機関が応えるためには、GHQから言論抑圧体制を解体する指令が出されるのを待たなければならなかった。国民は自らの像を求めながらその術を得ることが出来なかったのである。それどころか、戦後の初期において世論調査の方法すら満足に確立していなかったという事実は、日本人がそれまで自分自身を知るということにいかに無関心であったかということの現れである。世論はデモクラシーを叫び、デモクラシーは世論の政治への反映を要件とした。しかし、民意尊重とは単に政府が民意を重んじるということではなく、国民自らが自分自身をいかによく知ろうとしているのかという問題に関わっているのである。この意味で占領期の世論は混沌の中で自画像を求め展開した国民の思考の軌跡であり、そこで求められた自画像とは現代の我々の姿に外ならない。戦後50年という節目を冷戦構造崩壊後の世界情勢の中で迎えつつある今日、占領期の世論は新たなる時代への思考に示唆を与えるものである。


注 記

 

1) 「Public Opinion Survey - Basic Plans Sept.1945 - May.1946」 CIE(B)-7424〜6

2) 「Public Opinion - U.S.S.B.S. Operations Oct.1945,Dec.1945」 CIE(B)-7442〜3

3) 「Public Opinion Memorandum - Sept.1945 - Dec.1946」CIE(B)-7421

4) 「Public Opinion & Sociological Research. Nov.1946〜July.1948」CIE(D)-5346〜7   5) 「Intra Section Memorandum - Outgoing. Mar.1947 - Dec.1947」CIE(B)-7420〜1

6) 「終戦連絡各省委員会議事録」12月11日、『日本占領・外交関係資料集』第2巻。

7) 「Japan Public Opinion Reseach Institute (Nippon Yoron Kenkyujo) Apr.1946」CIE(B)-7470

8) 「政府機関による世論調査差止の件」、終戦連絡中央事務局政治部『執務報告  第四号』

   (日付不祥)、『日本占領・外交関係資料集 第三巻』

9) 「Cabinet Public Opinion Survey Department (Yoron Chosaka of Naikaku) Dec.1945 - June.1946」

CIE(B)-7457〜9

10) 「世論調査に関するGHQの第二次口頭通告」、終戦連絡中央事務局政治部『執務報告第五

号』(1946.12)、『日本占領・外交関係資料集 第三巻』

11) 「Public Opinion & Sociological Research Memos,1946-1948.Jan.1947-Oct.1948」

   CIE(B)-7418〜9

12) 4)に同じ

 

参考文献

 

佐藤 彰 解説『総理府国立世論調査所 世論調査報告書』大空社(1992)

総理庁官房審議室輿論調査班『全国輿論調査機関概況要覧』(1948年3月3日現在)

時事通信社編『時事年鑑』

時事通信社社史編纂委員会『建業四十年』時事通信社(1985)

朝日新聞社編『朝日年鑑』

小山栄三『輿論調査概要』時事通信社(1946)

時事通信社調査局編『輿論調査』(1946)

南 博編『近代庶民生活誌 C流言』三一書房(1985)

粟屋憲太郎編『資料日本現代史2 敗戦直後の政治と社会@』大月書店(1980)

影山三郎『新聞投書論』      

袖井林次郎『拝啓マッカーサー元帥様』大月書店(1985)

荒 敬 解説『日本占領・外交関係資料集』柏書房(1991)

天川 晃 解説『日本占領重要文書』日本図書センター(1989)