被 占 領 心 理 肉体の戦士R.A.Aと官僚的「合理性」

川 島 高 峰


 

序 被占領心理

 

 筆者の知る限りで、「被占領心理」という言葉が最初に用いられたのは、一九五〇年八月の雑誌『展望』における座談会においてである。概念としての被占領心理は、敗戦後の米軍「進駐」とともに形成されたから、この座談会を以って嚆矢とするわけにはいかないだろう。しかし、この「被占領心理」なる表現が当時一般に用いられていたとは考えにくい。占領軍をその「占領」という表現を嫌い「進駐軍」と称していたくらいである。このような“屈辱的な表現”を起点として問題を深めていこうとする態度は、当時では稀であったとみてよいだろう。

  丸山真男、竹内好、前田陽一、島崎敏樹、篠原正瑛らが参加したこの座談会の冒頭で、『展望』の編集部は次のように問題提起をした。

 

 「占領下に置かれているというこの特殊事情」から「心理的に非常に問題を含んだ反応が示されつつある」、「そこには日本特有の国民性とか或は伝統文化の本質とかいう根深い問題が関連して考えられ、また反省を求められております」

 

  この提起を受け、島崎敏樹は一般論として、被占領の心理を、大きくは解放と抑圧に類型し、さらに抑圧の心理を次のように分析している。

 

  まず、積極的な抵抗として敵視、反抗、サボタージュなどがある。しかし、「征服者への反撃というものが仲々出来るものではない」という段―つまり、被占領の日常化―となると「妙な現象」が現れてくるというのである。すなわち、反撃の対象を「自分の力の及ぶ範囲」に置き換えて、「国内の人たちが互に相手をののしつたり軽蔑したり攻撃したり」する現象である。そして、逃避。これは、失われた権力の代替を、精神とか、思想、学問・芸術といった抽象的、観念的な世界における権威により補おうとすることである。敗戦後に興隆した「文化国家」論がまさにこれに当たるという。

 ところが征服者の方がこの精神や理念といった権威の世界においても、実は自己よりも優れていた、という段になると、今度は「自分をこの優越者と同一視したいという気持」が生まれてくる。他方、優越者と接していると当然、自己否定なり、自己に対する軽蔑が生じてくる。この自己嫌悪と優越者への一体化の願望をどう折り合わせるかというと、自己を劣等民族から切り離すという処し方が取られるのである。つまり「『日本人は四等国民だ』というその人はまず自分だけは省いてある」。

 

  以上が島崎の見解の要約である。被占領の日常化の中で、敗戦ナショナリズム、もしくはナショナリズムの再生といったものが下からのムーブメントとして沸き上がってきそうなものである。ところが、そういう形跡というものが全く見当たらないのが、戦後日本の被占領なのである。何しろ、「自分だけは省いてある」のだから、たとえ民主化がナショナリズムと逆行するベクトルを持とうとも、痛みを伴わないわけである。所謂、日本人論とは、実は、体のいい当事者意識からの逃避とも言えるのではないだろうか。このような被占領心理の側面を“当事者意識の欠如”と呼ぶことにしたい。

  被占領は、明らかに異常であり非日常である。戦中の標語に「非常時日本」というフレーズが頻繁に登場し、非常時の日常化が進展したが、敗戦後は被占領というこれまた非日常が日常化したのである。これだけ長期にわたり「異常」が常態化すると、一体、日本人にとって「正常」な姿とは何であったのかがわからなくなる方が道理である。これに対して丸山真男は

 

  被占領心理を「抑圧感でもないし、解放感でもない、その中間にある感じです」と語っている。つまり、「一夜あければ日本人がみんな民主主義者になつてしまつたということはたしかに本当ではない」とし、占領政策を「日本国民が積極的にジャスティファイしたと解釈すると間違う」と指摘している。さりとて、否定しているのかというとそうではなく、「結局、是認もしなければ反抗もしないのです」と述べている点が興味深い。

 

  主体性の欠如と言えばそれまでだが、この状況に対する判断の放棄を、筆者は“惰性の意識”と呼ぶことにしたい。つまり、否定とも肯定ともつかぬ間に、ただただ事態のみが進展してしまう状態である。この“惰性の意識”の対局に「情勢分析的思考」がある。これを左翼思考の体質として指摘した笠井潔によれば(1)、「情勢分析的思考」とは「『情勢分析―政治方針―総括』というスタティックな思考のスタイル」であり、「大衆蜂起のリアリティとはなんの関係もない」ものと酷評している。著者もまた、この「情勢分析的思考」を、左翼の通弊くらいに思ってはいるが、それはむしろ左翼的思考というよりは、多分に近代日本的な思考なのではないかと思う。また、少なくも「情勢分析的思考」が官僚的であることはまちがいないだろう。仮に、この種の思考方法自体が、より広義には意志決定論と呼ばれる範疇に含まれてたと想定してみると、この日本的な「情勢分析的思考」に欠如しているものとは何かがより明確となろう。つまり意志決定論と表現される場合、それは状況に対しより創出的な態度が伺われるが、情勢分析というといかにも模様眺め的な、つまり状況対応的な受動的、消極的なニャアンスが込められるのである。これを近代日本的としたのは、近代が日本にとって常に対応すべき「状況」であり、創出の対象とはなり得なかったことに由縁する。

  「情勢分析的思考」における「左翼的」な性向とは、その自己完結性、並びに完全無欠性への執着である。理論に完全性を求めるきらいが強くなれば、その潔癖さゆえに革命のリアリティーからは、むしろ遠ざかるのではないだろうか。さらに自己完結性は左翼史では常に異端の排除や、相互反目を生み出してきた点を想起すれば、自己完結性や理論の完全性の追求が持つ逆機能を理解していただけると思う。そもそも、官僚的に革命のエネルギーを結集しようなどということは、土台無理な話であり、戦中の翼賛運動などはその典型であった。ところが、この“惰性の意識”と「情勢分析的思考」は、後に改めて触れるが、妙なところで折り合ってしまうのである。

  以上、なにやら脈絡の見えにくいままに、被占領心理の底流として、当事者意識の欠如、“惰性の意識”、「情勢分析的思考」の三点を指摘した。次に被占領の実際であり、被占領心理の原型とも言える米軍「進駐」における民衆意識を検証してみようと思う。

 

第一節  己を以て他を測る

 

 占領軍「進駐」に際して暴力的行為や略奪、特に婦女子の強姦といったことが国民の間で心配されていた。これは戦前の帝国政府による「鬼畜米英」の宣伝が民衆に徹底的に浸透していたためである。特に婦女子に不幸な事態が起こるに違いないという予測は広範な広がりを示していた。内務省は進駐軍に対する心得として、米軍の進駐は「秩序正シク極メテ平穏デアリ、彼我平和的雰囲気ノ中ニ事態ハ進行中デアルカラ一般国民ハ不安動揺ヲナスコトハ絶対禁物デアル。」(2)としていたが、その一方、「ふしだらな服装をせぬこと、また人前で胸を露わにしたりすることは絶対にいけない」と警戒を盛んに呼びかけていた(3)。しかも、その対策となると「自分ノ權利(生命、貞操及ビ戝産)ハ飽迄自分デ主張スルコトガ必要デアル」(4)、「婦女子は徒らに恐れるよりは毅然たる態度で、飽迄反發することが肝要であるし、又其の方が却つて難を免れることが多い」(5)とかえって心細くされるばかりのものであった。このため早期に進駐を迎え入れる予定にあった地域では、婦女子の疎開を指導した市町村が数多くあった。

 被爆地長崎からの報告(6)では、長崎、佐世保の「両市民中には進駐軍上陸の際に於ける乱暴行為等を危惧し陸続として近郊を始め市外各地に避難為に長崎駅発列車は超満員にて混雑を呈し警察官を派遣之が整理鎮静に務むるの状況」、「長崎市内銀行郵便局等に預金引出者相当詰め掛けたるを以て之が整理並びに調査の為警察官を派遣せるが引出の原因は進駐軍上陸近日中なりと狼狽避難の為」と米軍進駐を前に県民の混乱ぶりが報告されていた。初期の進駐予定地ではいずれも類似した現象があったと見て間違いないだろう。

 しかし、「一部の有識者殊に支那に駐屯せる経験ある者は当時を偲び今般連合軍各地に駐屯し傍若無人の行動をなすは見るに忍びずと嘆ずる者多し」とあるように、この種の「敗戦恐怖譚」は自らの侵略の過去からの類推であり「己を以て他を測る」ことに外ならなかった(7)。実際、進駐軍による犯罪・暴行は記録に残るものだけでも相当の件数となるであろう。しかし、日本人が予測した事態とはかつて自らが中国大陸や東南アジアの占領地で行って来た数々の略奪行為であった。こうした官民の対応に、高見順は次のような批判と嘆きを投げかけている。「かかることが絶対有りうると考える日本人の考えを、恥しいと思う。自らの恥しい心を暴露しているのだ。有りえないと考えて万一あった場合は非はすべて向うにある。向うが恥しいのである。」(8)。

 

第二節 初期進駐 横浜、土浦の事例

 

 最初に米軍を受け入れた神奈川県からは相当の混乱があったことが報告されていた(9)。それによると八月三〇日から九月五日にかけて総計八二一件の事件・事故が報告されていた。その内訳を見ると最も多いのが武器剥奪の四八〇件でありその殆ど全てが警察官からの、小銃、拳銃等の強取であった。次いで、物品強取一四三件、自動車強取一〇三件となる。警官の武器強取が一番多いのは、警官と軍人との区別がつかずこれを武装解除したためと、スーベニア漁りのためである。また、市民に対する危害と異なり警官に対する事件・事故は殆ど全て報告されたと見るべきであろう。これに対して最も心配された暴力行為は強姦が4件(内未遂二件)、殺人一件、人員拉致四件(内女性二件)、傷害三件、暴行四件であった。「米兵四人に連行され約三十名の米兵に輪姦せられましたが斯る行為が敗戦の結果に来るものなら日本婦人全部は原子爆弾にて最後を遂げた方が寧ろ幸福だろう」(娼妓)という強烈な証言も見られる。こうした事件はその性格上、届け出られることが少なく実数はこれをはるかに上回ったものと思われる。新聞も当初はこの種の米兵による市民への暴力事件を奉じていたが、間もなく、報道も規制されるようになった。

 しかし、総じて事故・事件の発生件数は時日の経過と共に「減少の傾向にあるも一般人心特に婦女子の不安の念に駆られ居るは否む可からざる」状況にあった。ここでも「外国の兵隊が来れば新聞に出ないでも相当悪い事が行われてるのは普通だ。自分達が支那やマレーで経験した事でも判る」(帰還兵)、「皇軍と雖も支那大陸其他各占領地に於て今迄やって来た事で略奪暴行は敗戦国の常甘受せねばならぬ」との発言が認められた。そして、その対策として「各所に慰安施設土産物販売店を設置等急速に実施して欲しい」という事が要望されたのである。

 この「婦女子」の問題の他に懸念されたもう一つの問題が、非軍事化、武装解除に際しての軍人の抵抗であった。一般に武装解除は穏やかに行われたが、一部にはかなり緊迫した状況を引き起こしていた。例えば、土浦航空隊の施設を宿舎に利用することとした連合軍進駐部隊の指揮官ランガン中尉は、九月二〇日、当時の航空隊責任者、渡辺大尉に「拳銃を擬して一週間以内に二〇〇名が、ここへ進駐してくるが受入れ態勢を整えておけ」と命じた(10)。同大尉は、その場では承認したものの、屈辱感に堪えかね「接収の手続きもなくここへ進駐するということは了承しかねる。無理にというならば、帝国海軍は一戦を辞さない」と、警察を介し進駐部隊に伝えてきた。当時、警察は進駐軍の警備につき「聯合軍側トノ一切ノ紛議ヲ絶対ニ防止シ、以テ御聖慮ヲ安ンジ奉ルト共ニ、信ヲ世界ニ保持セネバナラヌ」と指令を受けていた(11)。土浦警察では緊迫した情勢下にある航空隊の警備について「占領軍を射つことはできない。射つのは味方の日本人だけということでは情けない。」との理由から「拳銃を持たずに体を壁にしての警備」をすることに決定した。ところが、警察から報告を受けたランガン中尉は「激怒し拳銃を警部に擬し、昨日土浦航空隊では承諾したのに今になって拒絶するとは警察側の謀略であろう」と、その警部を連行し土浦航空に乗り込んでいってしまった。しかし、いざ、乗り込んでみると、電話で激高していた渡辺大尉は平静を取り戻しており、結局、事無きを得たのである。もっとも、「一戦を辞さない」と“警察を介して”伝えてきたくらいであるから、直接、米軍に“宣戦布告”を言う程の戦意があったわけではない。

 

 

第三節  警察機構の官僚的「合理性」

 

 

「進駐」に対する抵抗運動は他にも幾つか見られたが戦闘に至ったものは皆無であった。米軍の占領は世界史的に見ても極めて平和理に行われたことが、しばしば、強調されるが、その前提には日本人の無抵抗があったことが挙げられなければならない。そして、この敗戦時の無抵抗を惰性の意識とすれば、秩序ある降伏へと事態を進展せしめたのが警察の官僚機構であった。敗戦被占領に際して治安当局の「『情勢分析―政治方針―総括』というスタティックな思考のスタイル」はいかなるものであったのだろうか。

中央政府は、すでに八月一四日には敗戦後の治安方針を策定し、全国に通達していた。それによると「廟議決定の方針を曲解し又は異議を唱へ、或いはこれに矛盾するが如きもの」、「政府の態度、方針、時局を誹謗するが如きもの紊りに既往の戦争責任の追及」等の言動をなすものが取り締まりの対象となった(12)。また、右翼、左翼関係者、朝鮮人に対する監視体制の強化が行われた。敗戦に際し予想される混乱を未然に防ぐことぎ、秩序ある降伏と秩序ある占領を実現することに、情勢の分析と政治方針があったわけである。

  しかし、現場でこれに当たった警察はまさに占領とナショナリズムの板挟みにあり、取り締まりという観点からだけで対処するわけにはいかなかった。敗戦直後の三重県では、管下各警察署が中心となって「県下一斉に緊急常会を開催」していた(13)。次に少し長くなるがその「常会指導要旨」を紹介しよう。

 

  まず「戦争終結の意義」を「縦からも横からも十分論議した結果常識を超越した厳粛な奉告がなされ光輝ある国体を護持し又民草の身を思ひせらるヽ鴻大なる御仁慈に依り御聖断が下されたものであり唯々恐懼するのみで今更何も云ふべきことはない」と、承詔必謹を国民に求めていた。

  次いで「戦争終結の原因」を「直接原因は正に新型爆弾の出現であると云ふことが出来よう。然らば敗戦の責任は科学者に在るか又は科学者を遇する者に在るか否夫は部分的問題で深く遡り深く掘下げて考えると敗戦の責任は誰彼の問題でなく日本民族全体に在る、然も日本民族の負わねばならぬ運命であったと云ふべきである」。従って、戦争指導者を批判することは「百害あって一利ない」のであり、軍人に対しても国民は「感謝こそすれ非議すべきではなく、国民は自己の努力の足らざるを反省せねばならぬ」と言うのである。

  他方「日本精神の確保」では、「若し魂の髄迄米英の思想に蝕ばまれる様なことがあれば再興は覚束なくなるのである。従つて我々の最も大きな仕事の一つは昭和二十年八月十五日の日を子々孫々に語り継ぎ永久に日本精神を伝へることである」とした。この日本精神の確保は占領下の「学校教育では十分行はれぬ感があるから」、家庭教育や「部落叉は町村に於て隠密裡に実状に即したる特別な措置も講ぜねばならぬ」と指導するのである。「本常会は敵兵駐屯前に終了すること」、「示達後は関係書類全部焼却すること」が銘記されていた。

 この指導に際して「本指導が形式に流れ徹底を欠くが如きことあらば却つて逆効果を生ずる虞あるを以て講師の選択に注意」し、「言語態度に注意し『上から指導する』という論調を排し『訴える』如き態度に出ずること」が求めらた。軍には寧ろ感謝すべきとか、敗戦責任は国民全体にありそれが日本民族の運命であるとか、誠に「逆効果を生ずる虞ある」こと甚だしいのであるが、それでも、「秩序ある降伏」の確保には治安当局として相当の苦慮があったらしい。このため「一言附け加へて置くが若し敵兵に危害を加へた者がありとすれば警察は直ちに之を捜査し逮捕しなければならぬ」とし、「自由の日の一日も早く辿り来るため」には「一見敵の手先の様な観さへするが実は国民全体の為であり国家の為である」と、断っておかねばならなかった。

 

敗戦の責任が「日本民族全体に在る」との下りは、国民への責任転嫁であるが、それと同時に「自虐」は、何も左翼や「東京裁判史観」だけのものではないことがよく示されている。戦後の日本人論や大衆心理には日本否定論とも言うべき傾向があったことが指摘されてきたが(14)、この否定の原点には、対米的な観点と、天皇に対する態度という二つの方向性があったことを確認しておくべきである。対米的な観点による自己否定とはアメリカ文明に対する劣等感であり、天皇に対する自己否定的な態度とは一億総懺悔―不忠の自覚―であった。一般にこの否定の意識のいずれか一辺倒にのみ傾斜するという事例は希である。対米コンプレックスと天皇に対するコンプレックスは、多くの人々の内面に共存していたのである。この「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ブ」という重層的な劣等感の下に日本精神を「隠密裡」に伝達しようというのである。しかも、警察は「一見敵の手先」のようになって国民を取り締まるというのだから、この被占領の政治体制は、サド―マゾヒズム的な精神構造を制度化していると言っても差し支えない。

それでは、この警察官僚機構の当事者達は自己の責任をどのように感じているのであろうか。これを岐阜県警察部特高課長を務め、公職追放となった中村隆則のマッカーサーへの投書から考えてみよう。中村は特高経験者の公職追放について異議申立をしていた。

 

  まず、公職追放の範囲は「各県特高課長以上としその他の下僚は警察における多の部門へ転属せしめる様懇願して止まない」としている。その理由として「微細の点に至る迄中央の指示があり地方庁においては機械的に之を適用するに過ぎなくしかもそれに違反する処分は中央に指揮を受けてなされる」とし下級特高課員の弁護に努めていた。部下思いと言えばそれまでだが、部下には職務上の責任しかないというのであれば、上級者の責任はどうなのであろうか。この点について、この投書は特高は秘密警察との世の批判に次のように反駁する。「被疑者を正式の裁判に附することなく事件を闇から闇へ葬って処分して終ることが所謂秘密警察」であり、日本では「検事の令状により拘引し正式の裁判をへて判決が下されるのであって裁判には弁護人が附せられ控訴も許されてゐるのであります。秘密警察とするのは当て嵌らない」と主張した。つまり、合法的に取り締まったのだから秘密警察ではないと言うのである。

  さらに敗戦後、「飽く迄も抗戦すべしとなす過激分子があり其の態度は聯合軍の平和進駐を迎へるに当って最も憂慮された問題」であり、「全国の特高警察官は降伏後の激動期に於いて一命を賭して進駐軍の平和進駐のために尽力しその努力により今日に至る迄聯合軍の進駐を迎へるに当たって大過なく過ごし得て来てゐる」とした。そして「この功績は高く評価されるべきもの」であり、罷免は「上司の判断の誤謬と失策を何等の責任もなく寧ろ現在に於いては功績ある特高警察官に迄転嫁するもの」というのである。

 

  特高そのものは公職追放となったが、警察機構の全てが刷新されたわけではない。従って、この投書に見られたような警察機構が持つ官僚的「合理性」の体質は、その後の逆コースの中で再び息を吹き返した。結局、国民的な惰性の意識の中で、敗戦前後に連続性を保ち得た意識とは、このような官僚的「合理性」に依拠したものでしかなかった。「官僚制的諸装置は、権力を獲得した革命のためにも、占領敵軍のためにも、従来の合法的政府に対すると同様に、通常はそのまま機能しつづけるものである」(16)とのウェーバーの指摘は、日本の被占領に最も適合的なのである。

  しかし、それはウェバーの指摘により後に定式化されたような官僚制の諸原則―合法支配、階統制の原則、権限の原則、無私の原則、専門の原則、文書主義等、―に止まらない(17)。当然のことながら順機能に対する逆機能―それは今日の行政学において共通認識とされる―を含む。つまり、合法支配―法規万能主義、階統制の原則―形式主義、権限の原則―責任回避、無私の原則―非人間的支配、専門・資格任用の原則―特権意識、文書主義―繁文縟礼あるいは執務知識の独占等を含む。

  秘密警察ではない云々の下りは、官僚が法規に基づく執務遂行を旨とすることの合理性から、暗に戦中の警察国家体制を正統化しているとも読み取れる。秩序ある降伏と秩序ある占領への功績を同列とみなす発想は、治安当局にとって「合理性」とは常に「秩序」にあり、その秩序が「国体護持(=日本精神の確保)」の範囲にさえあれば、いかなる国家体制に対しても治安装置として機能することを示している。その要件さえ満たしていれば、執務に私情を持たずに当たることができるのである。しかし、この官僚制の無私の原則は、逆機能としては、当事者意識の欠如となる。敗戦被占領に際し、当事者意識とは国民意識に外ならない。言わば、非国民の逆転現象が生じたのである。この逆転は戦争責任の国民への転嫁となり、戦後責任については「進駐」軍への忠誠となった。そして、多分に間違いのないところとして、その忠誠とは、常にコンプレックスと背中合わせの関係にあり、占領軍への忠誠と天皇への忠誠として、戦後における官僚的正統性は、二重の特権意識を民衆に対して持ち得たのである。かくして、“逆コース”の中で「一見敵の手先」が「進駐軍御用達」に置き換えられるのにさして時間はかからなかったのである。

 

第四節 岩手県下における「進駐」と捕虜の動向

 

  ここでは、岩手県下における連合軍捕虜と占領軍の「進駐」をめぐる動向を岩手県警察部「警察治安報告」から検証する(18)。

 同資料は敗戦直後期における岩手県の警察文書であり、その内容は捕虜、「進駐」軍の動向を中心としており、敗戦後八月二一日から一〇月五日までの間の報告書約二四〇件からなっている。おそらく当時の県警察当局の外事担当の部局を中心にまとめられたものと思われる。各文書の発信主体並びに宛先は、主に派出所、各警察署長、岩手県警察部長、内務省警保局の四段階から構成されている。例えば、「進駐」軍の動向については、まず、宮城県警察部から「進駐」軍が電車にて岩手県へ向かって移動中であることが報告され、さらに来県とほぼ同時に担当管区の警察署から報告される。そして、目的地に到着すると到着駅を管内とする警察署もしくは派出所からその動向が伝えられていた。また岩手県警察本部ではこうした「進駐」動向をまとめて、内務省に報告書を提出している。従って同一の事象について、最も下の段階から報告が上へと積み上げられていく過程が、つぶさに観察できるという点に同資料の特色がある。一般に、下から上へと報告が上げられてゆく段階で、情報量がある程度、要約されることが予測される。実際、筆者もこれまで見た中央本省の治安関係資料は下からの積み上げの過程である程度細かい部分は省略されているのだろうと考えていた。しかしながら、この岩手県の資料を見た限りでは、日本の警察機構は情報を殆ど全く節減することなく、内務省に報告していたことが判明した。この警察国家による地方末端に関する情報の把握量は、実に驚異的なものがある。

  連合軍による援助物資の投下

 敗戦後、連合軍は県内の各捕虜収容所に対し空から落下傘による援助物資の投下をおこなった(19)。県内には、仙台捕虜収容所の第四分所・第五分所が上閉伊郡甲子村大橋に、そして同第一〇分所が和賀郡横川目村に所在した。最初の物資投下は八月二七日、第一〇分所に対して行われ、その後、ほぼ一両日おきに物資投下が両収容所に対して行われた。中には投下したドラム缶が民家を直撃するものもあり、建物被害や負傷者がでたことが報告されている。このように「はずれた」物資は当局の側で回収し、捕虜収容所まで運搬し捕虜に引き渡していた。物資の内容は、食料品、嗜好品、衣類、靴、薬品などであり、その量は毎回二トン半のトラックで二台から四台分になった。こうした物資投下に対し周辺住民は「一般ニ負ケタカラ仕方ナイトテ格別ノ昂奮認メザル」と観察された。しかし、はずれたドラム缶の中身は、噂となり近隣住民の知るところとなった。このため「物量ハ如何ニ多イトハ言ヒ乍ラ毎日俘虜ニ迄物ヲ続ケルモノダ」と驚嘆する発言も見られた。

 さて、当時の捕虜はどのような状態におかれていたのであろうか。第一〇分所では八月一六日、所長が日本敗戦を伝達すると、「米英ヲ初メ夫々ノ俘虜ニ故国ノ国旗ヲ振リ歓声ヲ挙ゲ其ノ後ハ全ク解放セラレタル観念ヲ以テ処遇ノ改善等ニ関シテモ一方的ニ申出」るようになった(20)。第四・第五分所も同様で、捕虜は「我々ハ此ノ様ナ体格デハ帰国スルコトハ出来ナイ。帰国スル迄日々三回ノ会食ヲ要求スル」と収容所側に申し出ており、彼等は一日三回の食事すら与えられていなかった。記録によると両収容所で合計九九四名の捕虜が収容されており、そのうち六二名が入院中であった。実に約一六名に一人が入院の状態にあり、捕虜の衛生・健康状態は極めて悪いものであったと推察できる。

 敗戦と同時に捕虜達は収容所から外出するようになり、当局も事実上、これを放任した。捕虜が正式に解放されたのは、降伏文書調印のあった九月二日午前九時からであり、それ以後、捕虜の行動半径は徐々に広がり周辺住民と接触を持つようになった。一部に、釜石鉱業所女子寮に「土足ノ侭ニテ上リ込ミ女子寮員ニ対シ売婬ヲ迫リタル事実」、或いは同鉱業所男子職員に「『女ガ居ラヌカ。世話シテ呉レ。女ヲ世話シタラ靴モ衣服モ皆置イテ行ク』ト交渉シタル事実」といった女性を求める行動が報告されはしたものの、全体として日本人が懸念するような集団的な暴行等の報告はなかった。

 捕虜正式解放後の九月三日午前九時半、日本側警備当局(県特高課長、釜石警察署長、釜石憲兵分隊長、各収容所長等)と連合国代表(ダックエーラー海軍少佐、レグラー砲兵大尉、グレーデー通信大尉。なお、正式解放後「捕虜」とは呼ばなくなり、「元捕虜」とか「連合国将兵」と表記するようになる)との間で会合が持たれた(21)。この席上、元捕虜が帰国するまでの間、日本側が責任を持って彼らの警備にあたること、連合国将兵の外出については連合国側で管理することなどが話し合わされた。この会見の中で、日本側の「連合国人並ニ華人ガ無闇ニ歩クノデ地方民ハ恐怖シテ居ル」との発言に連合国側は次のように回答していた。「心配スル事ハナイ。事故ハナイト思フ。華人ヲ恐レルノハ日本ニ責任ガアル。従来野獣ノ様ニ取扱ツテ来タカラ今ニナツテ恐レルノデアル。仕方ガナイト思フガ成可事故(ノ)ナイ様ニ注意スル」。

 このような連合軍の発言をさらに裏づけるものとして、同日、午後一時半、米国海軍少佐バックミーラーは中国人労働者の視察を行っていた。この視察時の華人隊長とバックミーラー少佐との問答は次のように記録されていた(22)。

 

 少佐 君達ハ此処ニ来ル様ニナツタノハ如何ナル訳カ

 隊長 向フニ居ッタラ捕ラエラレ日本ニ行ッテ働ケト言ハレ若シ行カナケレバ殺スト言ハレタノデ仕方ナク来タノダ

 少佐 此処ニ来タノハ何人カ

 隊長 当時ハ二八四名アリマシタガ現在ハ一六八名デ後ノ一一六名ハ死亡シタ

 少佐 原因ハ如何

 隊長 船ノ中ニ於テ健康ヲ害シ食料不足ノ為ノ又気候風土ガ合ハナカッタ結果ダ

 少佐 日本人ニ殴グラレタカ

 隊長 自分ハ殴ラレヌガ仕事中殴ラレテ死亡シタモノモアル

 

 この問答の後、バックミーラー少佐は日本当局(岩手県警察特高課長、釜石警察署長等)に、自分の意見はおそらくアメリカ政府の意見となるだろうと前置きした上で次のような要求をしている。「支那人ハ喜デ日本ニ来タノデハナイ。強制的ニ連ラレテ来ラレタモノダ。大部分ハ俘虜デアル。当然俘虜トシテ取扱フベキデアル。米国兵ハ此ノ支那人ヲ俘虜ト考ヘテ居ル此処ニ居ル支那人ハ米国ノ俘虜ト同様ニ取扱テ貰ハネバ困ル」。「華人」の生存率は四十・九%に過ぎず、俘虜の処遇に冷酷な序列があったことを示している。

  捕虜の引き揚げ

 捕虜たちの何よりもの願いはいち早い帰国であった。このため「九月六日引取リ艦船ノ入港延期トナルヤ横浜聯合軍司令部ニ連絡ノ為メ等ト称シテ所属収容所ヲ無断脱出シ上京スル者等激増ノ状況」となり、「各俘虜ノ行動ハ全ク其ノ意ノ侭ニ放任」となった(23)。そして、中には近在の民家から食料、種類等を強要するような動きも現れた。釜石警察署管内大橋派出所は「俘虜並華労ハ日増強圧的トナリ制禁ノ方法ナキ状況ナルガ比較的静穏ナリシ半島労務者ハソノ感化ヲ受ケテ漸次硬化スルノ傾向」が見られた(24)。

 このような治安悪化の懸念に対し、岩手県警察部では外国人・連合国人の警備について、「緊要警察事務ニ関スル通達」を県下各警察署長あてに九月五日に出した(25)。その基本は外国人の身辺警護にあり、これにより県下の外国人・連合国人の動静を不断に監視し、県民間との不測の事態が生起することを未然に防ぐことにあった。そして、今一つの重要な役割は「外国人ニ対スル最大限ノ便宜供与」であり、交通、宿泊、食事等について「誠意ヲ以テ之ガ斡旋ニ努ムル」とあった。この他方、外国人の「一般邦人ヘノ接触ハ可成避ケシムル様臨機ノ措置ヲ採リ得ル様常時工夫ヲ凝シ置クコト」とし、警察が仲介的な役割を行うことで国民と外国人との接触を努めて排除しようとしたのである。しかし、国民は敗戦の虚脱の中にあって何ら抗戦の意志もなく、さらには国民のかつての敵国に対する融和は当局の懸念や予測をはるかに上回るものであった。

 例えば、釜石警察署長からは早くも九月三日には「収容所付近ノ子供等ハ残飯ヲ貰ヒガムヲ貰ツタリシテ喜々トシテ喜ブヲ散見ス」と報告されていた(26)。また、当時の釜石駅長も「彼等ハ仲々物解リガ良イ。大湊ニ行クト言ツテ来タ者モ『俺ハ金ガナイカラ只乗(サ)セテ呉レ』トハツキリ言フ。新聞等デモ仕事ノ早ク能率的ナ事ヲ書イテ居ルガ我々モ積極的ニ彼等ノ良サヲ学ブベキデアリ徒ニ何時迄モ敵視スベキデハナイ」と述べていた(27)。

 九月十五日には捕虜引取船が釜石港に入船し捕虜引渡が完了した。しかし、この捕虜引渡に際し連合軍艦船より上陸した出迎えの兵士による略奪は「数百件」にのぼったことが報告されていた。被害について「婦女子其他ニ対スル暴行ナシ」と報告されており、その多くが記念品漁りによる強取であった。当局ではこうしたことを予測して、「掠奪防止ノタメ土産品ノ販売ヲ為スベク準備シタルガ彼等ハ金ガ無イト称シ若干ノ煙草及石鹸ヲ置キタルノミニシテ持去リタル」という状態であった(28)。当局は被害の日時、品目、見積、場所、被害者について詳細な一覧表を作成していた(29)。それによると被害件数は三四二件にのぼり、その見積もりによると被害総額は約一七五〇〇円にのぼった。被害を具体的にみると、花瓶、風呂敷、等といったスーベニア狩りと推察されるものが多い。中には顕微鏡、時計といった高価なものや現金、或いはコップや算盤、ハサミといった記念品としては首をかしげたくなるものも多く、この釜石市の件については手あたり次第の戦利品漁り、記念品漁りといった趣があったようである。銃器や弾薬も含まれるが、これは武装解除の意図によっていたのではないだろうか。また、同じ被害でも「国旗」、「宮城御写真」、「秩父宮並同妃両殿下御写真」といった項目には、表の欄外にチェックがあり、特別な関心が寄せられていた。被害の場所は全体の約三分の一が、個人の自宅であり、残りは全て国民学校や神社、寺院、郵便局、工場といったと公共的な場所であった。それにしても、これらの被害調査はコップや傘だのと空襲罹災の時とは比べ様のない詳細さであり、占領軍当局との折衝に際し、この被害を政治利用しようとした意図があったことを感じさせる。

 連合軍の岩手県への「進駐」

 岩手県下への連合軍の「進駐」は九月十五日、盛岡に第一陣が到着、その後約一週間に約二千三百名の米軍将兵が到着し、九月二十三日までに盛岡を拠点とし県内の花巻、釜石、二戸、宮古、久慈、一関、水沢の各所に分駐を完了した(30)。「進駐」軍は捕虜引揚船の上陸兵と比べると事件・事故が少なく(報告されたものは九月二一日までにリンゴ窃盗2件、拳銃兵器等の強取3件、ビールの強取3件の合計8件)、全般に秩序ある行動をとっていた。この「進駐」軍の動向に対し岩手県警察当局は緊密な情報収集を行っていたが、それは連合軍の将兵に警察国家の印象を強く与えたようである。九月十七日、通訳として釜石市に来た日系の米軍兵士の樋口勇は「日本ノ警察ハアメリカトハ違ヒ国"民ノ全部ヲ左右シテ居ルカラ吾々ハ信用シテ居ル」と発言していた(31)。

 「進駐」軍に対する県民の印象は、釜石港の捕虜引き揚げの時の集団的な物品強取にもかかわらず、非常によいものであった(32)。例えば、盛岡放送局総務課長岡部桂一は「米兵ノ秩序ノ正シイノニハ敬服ノ外ハナイシ日常ノ行動ハ勝者トシテノ態度デハナク誠ニ慎マシイモノダ」と発言していた。もちろん一部には「米軍ガ進駐スルト聞イテ非常ニ驚イタガ駐屯シテ見ルト最初ニ考ヘタ程ノ不安モ無イ様ダ。此ノ温順シクシテルノハ何カ手ガ有ルノデハナカロウカ。温順シイガ見ル度癪ニサワルカラ一日モ早ク帰ルトヨイ」(農業、山本熊太郎)といった敵愾心を示すものもあった。しかし、「日本ノ兵隊トハ凡有点ニ於テ違ツテ居ルノデ感心サセラレル事ガ多イ」(自動車統制組合書記、中舘大三)といった感想にもあるように、皇軍将兵との比較からくる好印象が絶対的な説得力をもっていたのであった。中には、「私共ノ心配スル事ハ余リニ児童ガ米兵ニ馴レ過ギテ米兵ノ顰蹙ヲ買フコトダ」(盛岡市仁王国民学校教頭、岩持祐三)といった発言さえあり、「一億総転向」は驚くほど早くなされたのであった。

 

第5節 特殊慰安施設

 

 RAAの誕生

 政府は占領軍「進駐」に際し「婦女子」に起こるであろう強姦等の暴力行為を未然に防ぐ手段として、占領軍専用の国家売春施設の準備にいち早く取り組んでいた。しかし、これは何も政府だけが率先した結果ではなかった。例えば、敗戦直後の東京では「異口同音最モ懸念シ居レルハ、婦女子ニ対スル暴行陵辱云々ノ恐怖ニシテ、次ニ食料問題、産業戦士ノ帰趨問題等ナルガ、就中婦女子ニ関スル問題ハ深刻ヲ極メ、速ニ疎開ノ方針若ハ敵上陸兵ニ対スル完全且大規模ナル慰安娯楽施設(特ニ接待婦)ノ確立ヲ要望スル者多キ状況」と報告されていた(33)。また、「進駐」予定地のある三重県からも「私達がこんな事を云ふのは変ですけれども娼妓さんや芸妓なんかをうんと増して欲しい」、「アメリカ軍が民家へ来ない様な彼らを満足せしむる享楽街を早く作ってほしい」といった女性の会話が報告され「婦女子に此の要望多し」と報告されていた(34)。このように「性の防波堤」は官民共有の発想であり、このことは他民族に残虐なものは自民族にすら残虐であることを物語っている。

 既に当局は、敗戦三日後の八月一八日には「外国駐屯慰安施設等整備要項」とする指令を内務省から各都道府県に出していた(35)。当時これを担当した大蔵省主税局長池田勇人は予算捻出に際し「これだけの金で日本婦女子の貞操が守られるならは安い」(36)と融資を快諾したという。かくして、東京では警視庁の音頭とりで八月二六日、特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association、略称、RAA)が設立された。結成式は皇居前で行われ「『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と大層な声明が読み上げられたのであった(37)。かくして、最初の慰安施設「小町園」が八月二八日、東京大森に開かれた。

 以上がこの特殊慰安施設設立の経緯についてこれまで明らかにされてきた点である。しかし、ここで極め興味深い事実を指摘しておきたい。それは、連合軍「進駐」に先立ち「進駐」等の手順を決めるために行われたマニラ会談(八月二〇日)において、「慰安施設」の要求が連合国側よりあった可能性である。マニラ会談の直後、八月二二日付けで内務省警保局は地方総監、各庁府県長官宛に「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書を発令している。これはマニラ会談の雰囲気や今後の「進駐」日程等を、伝えたものであったが、その最後の項目につぎのように記されていた。「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」(38)。これは、会談当時の模様を伝えるいわば間接情報であり、そのことの真偽、つまり、これが会談における公式な要求としてでたのか、或いは、聯合軍側の代表の私的な会話を伝えたものなのかを判断することはできない。又、仮にこれが公式な要求であったとしても「慰安」の意味の日米間での理解の相違の可能性もある。そもそも、日本政府による慰安施設の準備は、河辺虎四郎ら日本代表が出発する以前に命令されており、この資料を以て特殊慰安施設がアメリカから強制されたものであると証明することはできない。しかし、アメリカ側がこのような施設の要求をしたことを完全に否定することもできないのである。

 接待婦の募集

 当時、芸娼妓の間では「アメリカ兵の生殖器は非常に大きくて膝のところまでぶらさがつている」、「日本女性がアメリカ兵と交わればその身体が二つに裂けてしまう」といった噂が流布していた(39)。特殊慰安は悲壮な決意をしいるものであった。

 警視庁保安課では、八月二一日、都下の遊興業者を麻布小学校に集め「進駐」軍に対する慰安接待の協力を懇請した。しかし、この前代未聞の要請に吉原の業者成川敏は「きのうまでの敵の異人に対し、身をまかせて慰安しろと、強引に命令したところで、たとえ娼妓たりとも、果して二つ返事で『ハイ、承知しました』と、ばかりにいうかどうか、まず娼妓たちの意向を確かめねば申上げられない」と難色を示した(40)。さらに瀬谷(名は不明)尾久芸妓屋組合長は「御命令をもつて国のためだから、女たちにつとめさせろ、とあるが、御用が済んだあとは、如何様にしていただけるのか、この際しつかりした補償の言葉を承わりたい」と切り込んだ。これに大竹保安課長は「追ってご返事する」と言葉を濁した。娼妓の会合では「すすり泣く者さえあった。やがて一人がキツと形を改めて、『ご奉公いたしましょう』と、叫ぶように答えたので、あとの女たちも無言のうちに、頭を縦に振つた」という。

 同様のことは地方でも展開していた。茨城県土浦警察署管内では慰安施設の協力要請に対し、ある業者は、かつて本土決戦を前に、警察は「暴行陵辱に対しては甘んずるように見せかけて、米兵の睾丸を握ってしめ殺してしまうようにしてもらいたい。一人一殺の主義で行けば敵の上陸部隊を全滅させることができるのである、といったではないか」と反問があった(41)。これに対し警察署長は「終戦の御詔勅をいただいた後は、大御心に副い奉り、平和のために死力を尽くさねばならない」とし、「いままでとその方法は違っていても、いずれも国に尽す道は変わっていない。」と答えていた。しかし、「特高係は杉山主任警部補以下、慰安婦になり手がないのでその説得にいそがしい。二十名は欲しいのに希望者がなく、やっと六名だけ出来たような始末」であった(42)。同警察署では、警察合宿所を急遽、慰安施設に転用することとなった。これについて署長は「警察権逸脱のどんな問責も非難も、治安維持という大乗的見地から甘受する覚悟」(43)であったという。

  「国に尽す道は変わっていない」との官僚的合理性は自己欺瞞に過ぎる。民族の純血を護るために、その純血を売ることが「大御心に副い奉」ることであるとすれば、これはあきらかに戦前説かれた「日本婦道」や「家の本義」と一致しえないのである。それは「いままでとその方法は違って」いるのみならず、その本質も違うのである。もし、同じ点があるならば、それは自民族に対する残虐さであり、当事者意識の欠如である。

 RAAはその声明に「幾千人かの人柱」としていたが、当初から職業的な芸娼妓だけでは「数」が足りないと判断されていた。このため新聞広告等を通じ広く一般にも募集することとなった。これには「米軍支給の食料が与えられた」ために、東京では最初の応募だけで一、三六〇人という予想外の女性が集まった(44)。

 愛知県では「県内有力者」が「国際高級享楽ナゴヤクラブ(仮称)」を設立したが、そのダンサー、女給募集状況、募集者の志望動機等の調査についの報告書が提出されている(45)。これによると九月十四日から十七日の四日間に行われた募集選考に六八〇名の女性が応募していた。その志望動機は「イ)外人に対する好奇心に基くもの 四〇%、ロ)享楽的職業に憧憬するもの 二〇%、ハ)良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの 二五%、ニ)家計困難に因るもの 五%、ホ)その他 一〇%」であった。この内、イ)、ロ)は「比較的年少にして未婚」の者が多数を占め「裏面的淫売行為を暗黙裡に是認しおりと認められる者約二〇%」であり、ハ)、ニ)は「既婚婦人及経験者等にして大体売淫行為」である事を自覚していた。

  仮にイ)の「外人に対する好奇心」がアメリカ文明に対する憧憬であったとすれば、「裏面的淫売行為」を是認していなかった八〇%の女性にとって、この募集は完全に詐欺行為である。しかも、イ)、ロ)を合わせた全体の六〇%の内の八割が慰安の意味を理解していなかったということは、つまり全体の四八%、つまり約半数は騙されて応募していたということになる。

  そもそも、政府自らが推進しながらその応募者の志望動機を「外人に対する好奇心」とか「享楽的職業に憧憬」、「良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの」と評価するとは、あまりに欺瞞・偽善が過ぎる。このイ)、ロ)、ハ)だけで全体の八五%、約五八〇人になるというのである。しかし、例えば、東京ではこのような調査結果は確認はされていないが、「一般からの応募者は、大体においてモンペ姿の、ボサボサ頭の女が多くて、国家への奉公というよりも生活のために身を投げて来た者」と観察されていた(46)。

 名古屋の調査は、そもそも設問類型からして、どう考えても女性に対する封建的蔑視が、女性を潜在的通敵者とみなしているようにしか思われないのである。それは丁度戦争末期、在日朝鮮人が空襲激化と共にスパイのやり玉にあげられるようになったのと似通った心情である。フェミニズムにおいて、女性差別の男性心理は、しばしば、「女は最後の植民地」と表現されるがこれは女性差別の核心を衝いたものである。集めるときばかり、「国のため」とか「天皇のため」とか都合の良いことばかり述べ、実態は紛れもなく優良富裕階層の婦女子の貞操のための「性の防波堤」であった。

 運営の実際

 「進駐」初期の慰安施設は、慰安婦は勿論のこと、業者も「命を的に」運営されていた。というのは、アメリカ兵たちは慰安施設に従事する男性に対しては「いきなり鉄拳を喰らわせ、蹴飛ばしにかかる」(47)。このため「殺され損なつた施設所の人は、一人や二人ではなかった。軽くて片眼をつぶし、足をポツキリやられるなぞ、全く業者は命がけ」であった。また、神奈川では業者が約三〇戸、接待婦約一〇〇名がいた(48)。

 先の土浦警察署では管内での慰安施設の準備に際し、横浜の実態調査をしていた。その報告書によると、施設のほとんどは「バラック建にして内部を望見」できるようなものであり、「接待婦一人に対する一日接待客数最高五十人、接待婦は局部に『フノリ』又は『クリーム』を用う」とあり、特殊慰安施設の「接待」は過酷を極めた。

 帝国政府にとってこのような施設自体が国家の捨て石に過ぎなかった。政府は従軍慰安婦と同様、特殊慰安施設を直接、国家運営するのではなく民間業者に委託する形態をとった。

 岩手県からは元赤誠会岩手支部長菱谷敏夫が「進駐軍受入に関する慰安施設関係者の中に入り陣頭に立ちて遊廓地帯の上田移転問題之れが設置計画等に奔走し居る状態」(49)と報告されていた。特殊慰安事業では裏社会に通じた右翼団体が重要な役割を果たしていた。

 国粋同盟の笹川良一はその代表例である。大阪府からの報告によると、国粋同盟は「進駐軍慰安施設を経営すべく之が準備に忙殺され」、「総裁笹川良一の実弟笹川良平を社長に旧幹部岡田太三郎、松岡三次を総務として連合軍慰安所 アメリカン倶楽部」を大阪市南区西櫓町元三笠屋に九月一八日から開業した(50)。敗戦直後、国粋同盟は解散し当時は「日本勤労者同盟」という新組織への再編を行っており、旧幹部岡田太三郎も「新組織に積極的に参加すべく決意」していた。これに対し笹川良一は「該事業は資本百数十万円を投じたる大事業なれば運動(新組織再編)は他の適当なる人物に任し岡田は慰安施設経営に専念すべしとの命」を出していた。

 このように経営主体としては民間業者への委託がとられたが、先の池田の発言にもあるように、その資金源は政府からでていた。従って、それは常に政府の監視下にあり、半官半民の国家売春とみても差し支えないだろう。それどころか、慰安施設の管理は日米協同の下に行なわれていたのである。

 岩手県ではこの「慰安施設ノ整備促進ニ関スル事項」は県警保安課が担当していた(51)。同文書によると、約百名の分駐隊がその管内に「進駐」した一関警察署からは、「進駐」当時の様子が報告されていた。分駐隊指揮官デュール大尉は九月二三日、一関駅到着後、部下全員を集め指示や注意を与えたが、その中には次のような「注意」も含まれていた。「酒、ビール等モ警察署長ニ頼メバ買ツテ貰ハレルダロウ(ママ)。又女モ何人カ居ルラシイ(一同笑フ)」。「一同笑フ」とあるが、これは単なる冗談ではない。九月二十五日には、「花川戸慰安施設ノ検梅状況等ニ関シ進駐軍々医ヨリ三神診療医ニ質問、状況聴取セリ」とあり、さらに九月二十六日には、「進駐軍々医大尉外三名山日村娼妓診療所ニ至リ娼妓六名(一名疾病)ノ検診ヲ了シ明二十七日ヨリ毎日午後一時ヨリ午後五時三十分迄登楼スベキニ付同時刻以外ニハ絶対ニ登楼セシメザル様注意アリ」とある(52)。このように、特殊慰安施設の運用は警察がこれを民間業者に斡旋し、「進駐」軍はこれを公認しさらにその衛生管理に加わっていた。

 「進駐」軍関係の記録には、日本警察の連合軍将兵に対する警備活動に感謝する意の言辞が、しばしば、見受けられる。実際、警察は慰安施設の斡旋のみならず、所謂「オンリー」の世話までしていた(53)。先に引用した土浦警察署長は「進駐」軍士官の要求により「オンリー」三名のみならず、そのための借家と、自転車まで用意する羽目となった。米軍士官は「オンリー」を「令夫人」の如くつれ歩き「まともに見られない熱愛の情景」だった。この三件の借家は、場所もあろうに管内の小学校の前にあったため、小学生の借家への投石が絶えなかった。このため、警察は学校を通じて生徒の指導を依頼した。後に士官の帰国後に生まれた女の子は、「ある公務員が、子どもがいないので、混血児をもらい受け」たという。「オンリー」は接待婦の中でも「特別待遇」だったわけであるが、小学生からは投石され、士官は子どもに何の責任もとらず帰国し、所詮、「秩序ある降伏」と「秩序ある占領」のための捨て石であった。こうして多くの下層階級の女性が「日本の良家の婦女子」の防波堤となった。高見順はこのような「防波堤」を当時次のように見ていた。「戦争は終わった。しかしやはり『愛国』の名の下に婦女子を駆り立て、「進駐」兵御用の淫売婦に仕立てている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、婬売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている」(54)。

 GHQは一月二一日、公娼の廃止を日本政府に命じ特殊慰安施設は短命に終わる。解散時、「五万人余」いた特殊慰安婦は国家から何の補償も受けることがなかった。その多くは「パンパン」と呼ばれる洋娼となったのではないか。敗戦後、「道義の退廃」が頻繁に指摘され、「進駐」兵に「ぶら下がって歩く」「パンパン」はその典型として国民から侮蔑の対象とされた。しかし、道義の退廃は戦前の「残虐」の連続に過ぎない。国家のために要請され、その窮乏のため生きる術を他に求め得なかった彼女達は、「敗戦後の非国民」と指弾され、「見えざる地下の柱」として過去へと葬りさられたのである。

 敗戦後五十年、「肉体の戦士RAA」への国家賠償は未だ行われていない。

  第六節  「鬼畜米英」から親米へ

 

 戦後最初の右翼団体は「親米博愛勤労党」という名称の団体であったが(55)、敗戦後最も大きな変化を示したのはアメリカに対するイメージであった。このような変化に対して最も強硬な態度をとるかと思われた右翼が「親米」を旗印にしたことは意外である。しかし、東久宮内閣に内閣参与として招かれていた児玉誉志夫は、自宅に訪ねてきた三重県の地方結社天業翼賛挺身隊の柏木勇に「今後はマッカーサー元帥の指揮に従ひお互に要領よくやろう」と発言していた(56)。児玉は勅任官待遇で秘書を五人持ち、その邸宅も豪壮なものであったと柏木は話していた。児玉といい、笹川といい右翼の中には戦前、権力と一定の関係を持ち続けたものがあり、その多くは敗戦という事態の転換に対し処世術に長けていたと言える。

 このようにアメリカ化には豹変としか表現のしようのない無節操ぶりも含まれたが、それでもやはり、「アメリカ化」には評価されるべき点も含まれるため、日本人のアメリカ・イメージは屈折したものであった。このアメリカ・イメージは「進駐」の進行と共に変容していくのであった。

 神奈川からは「敵が進駐して来て初めて物資的にも文明的にも日本は遥かに劣つてゐた事を知つた。上陸後数時間にして自己発電により無電を設置し翌日はトラクターにて焼け跡の整備にかヽつた。口惜しいけれど全く感服の外はない。日常の彼等の生活を見ても実に能率的である我々国民も彼等に学ぶ所多々あると思う」(横浜市関内茅一町内会長)、「此の際今迄の考へ方はきれいに精算(清算)して本当に日本民族の幸福の為になる政治をして貰ひ度いと思ひます」、「今までの島国根性を捨て彼等の良い處はどんどん学ぶことです」(木村延太郎)という発言が報告されていた(57)。横浜の小長谷三郎もそのアメリカ人との最初の遭遇を「彼らの勤労力の旺盛なる事、案外なり。又機械力を頼る彼等の作業能率百%と思う」(58)と記していた。

 「進駐」により日本人の多くが、戦争末期に渇望された「科学と物量」を目の当りにすることとなった。そして、そのほとんどがこれまでの考えを修正せざるをえなくなった。これを「豹変」と呼ぶことはできないだろう。むしろ、このような事態を目前になお、精神主義を主張する者がいたとしたら、その方が余程異常である。大阪からは京阪地区に対する占領軍の「進駐」に対する国民の反響として二つの面が観察されていた(59)。有識者層にあっては全体的に「諦観的雰囲気にあり、血気にはやり軽挙妄動するは其の結果全国民に累し及すものとして之を極度に危惧」していたが、これに対し庶民層は「眼前の生活環境に支配され、愛憎を超越して之を感情に表現するいとまなき無感覚を露呈、一部国民学校児童に在りては彼等より物品の恵与を受けんとして蝟集する珍現象も見られ、物珍らしげに之に追随する民衆も散見」する状況にあった。

 このように、庶民層が「無感覚」という“惰性の意識”に陥っていたのに対し、有識者層には「諦観的」になる一方で「危惧」をする「いとま」なり、余裕といったものがあった。「いとまなき」庶民層が物資の「恵与」という極めて現実的な次元から、アメリカへと接近していったのに対し、有識者の方は、より自覚的な思考―つまり、「情勢分析的思考」―により親米化した。長野からは教育問題について「今後世界的見地より民族繁栄の為には米英蘇は勿論各国の長所を取入れ我が国情に即応する教育を実施する要あり」(60)、新潟からも「米思想とソ聯思想との長所を探り之を日本化して堂々と実行して行けば彼等から弾圧の来る筈がない要は日本民族も世界の進運に遅れず努力することである」(61)。これらの変化の認識に特徴的な点は「各国の長所を取入れ我が国情に即応」させるとか、「長所を探り之を日本化」という表現に現れていた。

 

  ―「総括」にかえて―

 

  戦前、戦後の意識に共通するのは、支配―被支配における精神構造であった。それは、第一にサド―マゾヒズム的な精神構造であり、第二には装置的な思考である。

  為政者にたいする卑屈・卑下、目下の者に対する傲慢・尊大。これらは敗戦前後と言わず、今日においても広く観察される日本民衆の性格である。敗戦被占領に際しては、アメリカニゼーションが、アメリカ文明の「日本化」というレトリックにより語られた。しかし、このような情勢分析的思考の総括に対し、特殊慰安施設は、一体、何の役に立ったというのでろうか?そもそも、そのような施設が本当に必要だったのかどうかすら怪しい。この日本化に、どれほどの当事者的な意識なり、実感が含まれていただろうか?確かに、戦争末期、日本国民が痛感した科学と物量の彼我の差は、戦後、国民がアメリカ文明に一億総転向する充分な理由となろう。しかし、そうした自己変革願望には、特殊慰安施設の「慰安」ほどに肉体化したものがあったのだろうか?あるいは、それは日本文化の「純血」を守るために必要な程度の転向に過ぎなかったのか?

  アメリカ・コンブレックスと天皇コンプレックス。そして、その重層的な特権意識。この支配―被支配におけるサド―マゾヒズム的な精神構造が、特殊慰安施設に最も端的に、そして残酷に投影されていた。しかも、その運営は後々、国家賠償や国家責任を回避し得るように半官半民で行なわれていた。この計算可能性の下における予防措置的な対処は、いかにも「官僚的」ではないか。さらに自己の態度や意志決定を必然や不可避、歴史の「科学的」法則、法規に委ねることで、自己を行政行為を免責し、正統化するのである。無私の原則は当事者意識の欠如としていかんなく発揮される。

  しかも、これは官僚的「合理性」に限らない。自らの所信を述べる場合に、主語を「日本」とか「日本人」に置き換えることにより欺瞞と正統化を積み上げてきたのである。「私はアメリカ人になりたい」とは言わずに、「アメリカ文明を日本化する」とか、「私は慰安施設が必用であると思う」とは言わずに、「日本には必用である」と言うのである。事実、「日本は敗れた」と言うが「私が負けた」とは言わないではないか。だから戦争責任も「私」の責任ではない。「一億」の責任なのである。しかし、この我々がともすると無自覚に仮託している「日本」という主語の中身は何と空虚なことか。

  この際、自分が日本人であるということを徹底的に疑ってみることである。日本人とか、日本という「情勢」の存在も徹底的に疑ってみることである。

  但し、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの勢いで、日本的なものの概念を片っ端から糾弾したり、否定したりしろといっているのではない。そういう、単線的で直線的な思考回路にはうんざりである。この方法でゆけば、再び「日本」はあれが駄目だ、「日本」はこれがいかんと、これまた当事者意識の欠如した「情勢分析的思考」が繰り返される。それがなまじ「科学的に」、「実証的に」、そして「合理的に」行なわれれば、再び、「総括」という自己完結に帰着するだけだろう。

  そもそも日本人であることを疑えと書きはしたが、それ自体が既に

 

「日本人であることを疑え」

 

と日本語で表記され、私の頭の中では間違いなく日本語として思考されている。つまり、「疑え」と言っても、底は見えているのだ。かつて、敗戦後にローマ字運動があったが、表記だけをアルファベに置き換えて、何の意味があろうか。そんなことをしても、所詮、日本人は日本人なのである。「日本人」を越えた類的普遍性の見地に立って見たとしても、そんなものは所詮気分の問題にすぎない。「類的普遍性」もまた日本語ではないか。それに、一体その発想が近代の超克とどう違うというのか?勿論、一つの倫理、理念として、「類的普遍性」という規範の意義を認めはするが、現実には釈迦になれというのに等しい。そのようなことを過剰に繰り返せば、規範あるいはイデオロギーへの劣等感が蓄積され、再び権威主義的で、サド―マゾヒズム的な精神構造に行き着くのではないだろうか。

 

 

注 記

 

(1)    笠井潔「戦後ラディカリズムの現在」、『敗北における勝利  樺美智子の死から唐牛健太郎の死へ』エスエル出版会(1985)。

(2)   回覧板「連合軍進駐地付近住民ノ心得ニ就而」、神奈川県警察本部「神奈川県ニ於ケル連合軍兵士関係ノ事故防止対策」に収録されていたもの、粟屋憲太郎編『資料日本現代史2』大月書店()。なお、同じものが新聞等にも掲載されている。

(3)   『読売新聞』一九四五年八月二三日付。

(4)   (2)に同じ。

(5)   『埼玉新聞』一九四五年年九月一四日付、「進駐軍と県民の心構え」

(6)   長崎県警察部長「停戦後における諸動向に関する件」一九四五年八月二二日、前掲『敗戦時全国治安情報 第七巻』

(7)   石川県警察部長「戦争終結に対する動向に関する件」、一九四五年八月一八日、前掲『敗戦時全国治安情報 第四巻』

(8)   前掲、高見順、一九四五年八月一九日付。

(9)   神奈川県知事「大東亜戦争終結に伴う民心の動向に関する件」、一九四五年九月八日、前掲『敗戦時全国治安情報 第二巻』。

(10) 池田博彦『警察署長の日記』筑波書林(一九八三)、一九四五年九月二〇−二一日付。

(11) 警保局警務課長「警備警察官ノ心得ニ関スル件」一九四五年八月二三日、前掲『資料日本現代史2』。

(12)  粟屋憲太郎編『資料日本現代史2、@』4〜7頁

(13)  三重県警察部長「緊急世論指導実施に関する件」一九四五年八月二二日、前掲『敗戦時全国治安情報  第五巻』

(14)辻村明『戦後日本の大衆心理』東京大学出版会(1981)、237―254頁。

(15)  川島高峰「マッカーサーヘの投書に見る敗戦直後の民衆意識」、『明治大学社会科学研究所紀要』第31巻第2号(1993)28頁、投書は国会図書官憲資料室、SCAP/GHQ文書、G―Uのファイルにある。

(16)  M.ウェーバー『支配の諸類型』創文社(1970)世良晃志郎訳、28頁。

(17)  M.ウェーバー『支配の社会学T・U』創文社(1960・62)世良晃志郎訳、『支配の諸類型』創文社(1970)同訳。

(18) 「Police Intelligence Rept.IWATE-KEN KEISATSUBU. Iwate(1945)」、粟屋憲太郎氏(立教大学教授)が極東軍事裁判国際検察局押収文書(アメリカ国立公文書館収蔵)から「Evidentiary Document」入手したものである。粟屋氏と連名編集した『敗戦時全国治安情報』刊行後、新たに収蔵を確認した資料であったため、同資料集に編纂することはできなかった。分析には粟屋氏と共に筆者もあたり、これを共同通信仙台支社から地方各紙に配信した。掲載紙は『岩手日報』、『秋田魁新報』、『山形新聞』の各紙に一九九五年九月一九日、夕刊一面、並に『山陰中央新報』九月二二日等に掲載された。

(19) 岩手県警察部長「連合国側飛行機ヨリノ慰問品投下状況ニ関スル件」一九四五年九月二日。

(20) 岩手県警察部長「本県ニ於ケル俘虜等ノ動向ニ関スル件」一九四五年九月三日、同段落、並に次段落内の引用はこれに準ずる。

(21) 大橋派出所「大橋地方治安状況ニ関スル件」九月三日、同段落内の引用はこれに準ずる。

(22) 釜石警察署長「大橋地方治安状況報告ニ関スル件」九月三日。

(23) 岩手県警察部長「俘虜並ニ華人労務者ノ動向ニ関スル件」九月九日。

(24) 大橋派出所「大橋地方治安状況ニ関スル件」九月七日。

(25) 岩手県警察部長「緊要警察事務ニ関スル通達」九月五日。

(26) (22)に同じ。

(27) 釜石警察署長「連合軍(俘虜)ノ動静ニ関スル件」九月一二日。

(28) 釜石警察署長「連合国人引取船ヨリノ上陸□ノ状況ニ関スル件」九月一五日。

(29) 岩手県警察部長「連合国艦船乗組員上陸ニ依ル被害状況調査ニ関スル件」九月二六日。

(30) 岩手県警察部長「連合軍進駐ニ関スル件」九月二四日。

(31) 特別警備隊長「米軍釜石偵察ニ関スル件」九月一八日。

(32) 岩手県特別警備隊「連合軍進駐後ニ於ケル連合軍兵舎付近民心ノ動向並要望ニ関スル件」九月二八日、同段落内はこれに準じる。

(33) 警視庁「当面ノ問題ニ対スル庶民層ノ動向」(一九四五年八月二〇日)同右、一四九頁。

(34) 三重県知事「連合軍進駐に伴う管下部民の動向に関する件」、一九四五年一〇月二日、前掲『敗戦時全国治安情報 第五巻』

(35) 神田文人『昭和の歴史第八巻 占領と民主主義』小学館(一九八三)四九頁。

(36) 千田夏光『従軍慰安婦』正編、三一書房(一九八八)、二一四頁。

(37) 『東京百年史』第五巻、一三五七頁。

(38) 『敗戦時全国治安情報 第一巻』。

(39) タモツ・シブタニ『流言と社会』東京創元社(一九八五)、三二七頁。

(40)  「肉体の戦死R.A.A」、台東区編『台東区史』下(一九五五)、五四三頁、同段落内はこれに準ずる。

(41) 前掲『警察署長の手記 』、七〇頁。

(42) 同右、九九−一〇〇頁。

(43) 同右、一〇〇頁。

(44) 「パンパンという名の女」、『東京百年史』第五巻、一三五七頁

(45) 愛知県知事「終戦一ヶ月の民心の動向等に関する件」一九四五年九月三〇日、前掲『敗戦時全国治安情報 第五巻』。

(46) 『台東区史』下巻、五四四頁。

(47) 同右。

(48) 土浦警察署「連合軍進駐状況視察方の件」九月一二日、前掲『警察署長の日記』、六四頁。

(49) 岩手県知事「橋本斤欣五郎の戦争犯罪者決定に伴ふ元赤誠会員の動向に関する件」、一九四五年九月二六日、前掲『敗戦時全国治安情報 第二巻』。

(50) 笹川の動向については、大阪府特高一課「旧国粋同盟の動静」一九四五年九月一九日、大阪府警察局長「日本勤労者同盟(仮称)の管下に於ける結成準備運動状況に関する件」一九四五年九月二七日、『敗戦時全国治安情報 第六巻』。

(51) (30)と同じ

(52) 一関警察署長「進駐軍警備ニ関スル状況報告」九月二九日。

(53) 前掲『警察署長の手記 下』、一二四−八頁。

(54) 『高見順日記』、一九四五年十一月十日付。

(55)  堀幸雄『戦後の右翼勢力』勁草書房、一〇頁。

(56) 三重県知事「右翼人物の動静に関する件」、一九四五年九月二七日、前掲『敗戦時全国治安情報 第五巻』。

(57) 神奈川県知事「大東亜戦争終結に伴う民心の動向に関する件」、一九四五年九月八日、前掲『敗戦時全国治安情報 第二巻』。

(58) 前掲、小長谷三郎、九月一七日付。

(59) 大阪府特高一課「聯合軍進駐に伴ふ民心の動向」、一九四五年一〇月二日、前掲『敗戦時全国治安情報 第六巻』。

(60) 長野県知事「戦争終結後に於ける治安状況の件」一九四五年八月三〇日、前掲『敗戦時全国治安情報  第三巻』。

(61) 新潟県警察部長「タイトルなし(終戦に伴う各種事象)」、一九四五年九月八日、前掲『敗戦時全国治安情報 第四巻』