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序 敗戦意識の現在

 

 本稿は、天皇制ファシズムの敗北を、民衆意識の連続性・非連続性のうちに検討するものである。この「ファシズム」は論争的な概念であり、これをどのような観点から用いるのかを説明しておく必要がある。勿論、「ファシズム論」が本論ではないので、詳述をすることはできない。しかし、敗戦意識の現在は、戦中の体制概念をどう規定するかにより決定される。敗戦を契機に何が何にどう変わったのかを特定化することは、今日の我々自身の自己規定に外ならないからである。なお、「天皇制ファシズムから天皇制デモクラシーへ」という視座は、敗戦と戦中意識の変容、民主化と戦後意識の形成の二点の考察からなされ、このうち後者については拙稿「戦後民主化における秩序意識の形成−天皇システムと戦後デモクラシー−」1)で検討した。同論文は本稿と共通の分析枠組みに基づいており、その考察は両論文をもって完結するものである。

 ここではファシズムを国民国家体系の跛行的な再編という観点から考える。「国民国家体系」とは国家機構の原理と国民統合の理念の相関関係から成立し、「再編」とは国家機構の巨大化・複雑化、社会の利害関係や価値の多様化・多元化への対応を意味する。民主化はこれに対し、選挙デモクラシーを媒介として国家と国民の間に契約的な関係を形成する。この際、重要なことは、選挙デモクラシーの拡大が国民統合の理念として機能し、国家機構の原理とも一致してゆく点である。これに対し、ファッショ化は、現実の国家機構が近代化に伴い複雑化する一方で、その効率的運用を一元主義的で、非合理主義的な世界観を展開することで対処しようとする。基本的に国家機構と国民統合の融合を前提と考え再編をはかろうとする点に、ファッショ化の跛行性がある。このため選挙デモクラシーは国民統合の理念、つまりナショナル・デモクラシーとして機能することなく形骸化する。ファシズムへの岐路は国民統合形成の手段として、選挙デモクラシーがいかに機能しう得るか−参加か、動員か−に関わってくるのである。日本の場合、非合理主義的な国民統合の理念は、天皇の「神聖不可侵」「万世一系」として既に帝国憲法により規定されていた。従って、「運動としてのファシズム」の側面―非合理主義的な国民統合の理念を国家機構の原則として選挙デモクラシーを通じて「選出」する過程―は「真性ファシズム」のように顕在化する必然性がなかった2)。また、日中戦争による大量召集に伴う「動員」の形成は、選挙デモクラシーによる「参加」を凌駕し、これが運動としてのファシズムを実質的に代替する結果となった3)

 天皇制ファシズムは産業化・近代化により解体した人間紐帯を皇国臣民として再編し、高度国防国家の建設に対処することにあった。その再編原理は「醇化」という概念によっており、「醇化」は「外来文化に『国体による醇化』を施して日本独自の新文化を創造する」4)という意味で用いられた。そこでは、近代化による矛盾は「当面せる思想上社会上の諸弊は個人主義を基調とする欧米近代文化によるもの」5)と理解され、「醇化」は「欧化」に対する反動概念であった。そして、「西洋の学問・思想の長所が分析的・知的であるのに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特徴とする」(『国体の本義』、以下国体)と主張され、西洋の科学に対峠するものとして「教学」が提起された。「教学」は「没我帰一」、「物心一如」、「知行合一」といったレトリックによる一元主義的な世界観を展開する。そして、武道は「死によって真の生命を全う」する「生死一如」(国体)を具現するものとして最も高く評価された。

 この一元主義はファシズムを支えた民衆の国家観を形成するものであり、「忠孝一本」を原理とした家族国家観を形成した。そこでは、「政治・経済・文化・軍事その他百般の機構は如何に分化しても、すべては天皇に帰一」(『臣民の道』、以下臣民)するものとされ、国家と国民を一体化する有機体的国家観に加え、さらに国体観念において個人としての天皇と制度としての天皇制の区別も曖昧であった。天皇制ファシズムを支えた「クニ」意識は、国家、国民、国体、国史、国土、郷土、国民性を混在一体化させた観念であった。このような意識が一般化した社会では、原理に対する忠誠と組織に対する忠誠、個人に対する忠誠と制度に対する忠誠が自覚的に区別されることがなく、抵抗や反逆を正当化する根拠は存立し得なくなる。

 「醇化」はまた西欧近代文明の超克に止まらず、西欧本位による世界システムの克服をも意味した。世界情勢は植民地獲得競争により「世界を修羅道に陥れ、世界大戦という自壊作用」(臣民)を来たし、この「西洋文明没落」に対し「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造」(国体)すべき時であると主張された。これは「我が国にして初めて道義的世界建設の使命を果たし得る」(臣民)という八紘一宇の宣言となった。「大東亜戦争」はこの点においてその意義を日中戦争と画していた。実態は帝国主義による侵略戦争であったが、国民には「文明の衝突」と理解されていた面があり6)、この点が戦後、今日に至るまで日本人の戦争観、平和観に歪を残すこととなる。

 

 

一 戦争末期の民衆意識

 

1 敗戦憶測の始まり

 日本敗戦は八.一五から始まったのではない。民衆の敗戦意識は戦争末期の戦況悪化と生活の逼迫化の中で徐々に蓄積されていた。戦争末期から敗戦へ、それは一元主義的な世界観の動揺から分化として現れる。ここではこの戦争末期の民衆意識を戦争末期の本土の銃後の民衆意識に特定することにした。これは必ずしも、戦中意識の一般像を公正に反映するものではない。戦中の民衆意識には少なくとも、銃後と前線、内地と外地といった分類がある。しかし、ファシズムは民衆の体制支持なくしてはあり得ず、天皇制ファシズムを支持する意識構造が最も顕著に現れたのが、本土の銃後の民衆意識ではないかと考えた。また、敗戦意識を介して戦後意識への連続性を検証するに際し、その縮図を、敢えて、前線、銃後、内地、外地(勿論、この外にも世代、職業、階層等、民衆を論じるに際し視野に入れるべきカテゴリーは多様である)から選ぶとすれば、やはり本土の銃後の民衆意識が占める比重が最も大きいと考えた。

 敗戦に向け民衆意識の動向について時期を設定する場合、戦況の悪化した時点が一つの目安となる。前線においては、一九四二年六月のミッドウェー海戦、並に同年八月から一二月にかけてのガダルカナルの攻防戦により戦況悪化は決定的となっていた。これに対し、銃後で大本営発表が戦況悪化を告げるようになったのは一九四三年五月の山本五十六の戦死、並にアッツ島守備隊玉砕の大本営発表であった。銃後には衝撃であったが、この時点で戦況を悲観する者は殆どいなかった。むしろ、山本五十六の戦死には官民あげて「軍神」の国葬が行われ、国民の敵愾心を昂揚させる格好の材料となっていた7)

 銃後で戦況に悲観的な予測が先行するようになったのは、一九四三年末のマキン・タラワ玉砕以降のことであった。一九四四年二月一日になるとマーシャル諸島(ルオット・クェゼリオン)に大規模な攻撃が加えられていることが報道されたが、伊藤整はこれに「またしても、この諸島で敵に名をなさしめ、我々は一歩を退かねばならなくなりはしないか。すぐにそういう予想が私たちの胸に起きるようになった」8)と記していた。さらに、五月五日の古賀峯一の「殉職」は、その「殉職」という表現から「敵ノ反抗熾烈ニ対スル責任又ハ作戦ニ対スル責任カラ切腹(拳銃自殺)セラレタ為戦死テナク殉職ト発表」されたとの「憶測的造言概ネ全国的ニ流布」9)するようになった。内務省警保局では一九四三年九月から翌年の二月までの六カ月の間に報告された不穏言動の中で「天皇皇后並皇族に対し奉る不敬言動は最近急激に増加の傾向」となったことを報告している10)。サイパン玉砕を前に、戦況悪化の憶測は民心の底流を形成し、それは生活悪化とともに体制の本質を批判する特異言動として増加するようになったのである。

 

2 サイパン政変前後

 アメリカ軍は心理的打撃を狙って、北九州爆撃とサイパン上陸作戦を一九四四年六月十六日の同日に決行した。アメリカ戦略爆撃調査団の報告によれば一九四四年七月のサイパン失陥を契機に日本人の戦意は減少傾向になった11)。サイパンが戦意の動向の決定的な分岐点となったのは、この島の陥落により日本全土がB29の行動半径内となることが報道されていたからである12)。既に銃後では「『サイパン島ハ玉砕セリ』ノ未発表戦況ニ関スル憶測的造言漸次多発ノ傾向」13)となっていた。もっとも、政府もサイパン失陥を必至と考え、六月三十日、学童疎開を閣議決定していた。疎開施策は戦意昂揚という観点からすると消極的な措置であった。応召、徴用、学徒勤労動員、女子挺身隊、そして学童疎開に至り、銃後の要である「家」すらも解体を余儀なくされていた。

 サイパン失陥後、産業報国会では職場大会の開催を指令し「増産必勝の決意」と「勤労意欲の昂揚」をはかった。しかし、「斯る勤労意欲の昂揚は所謂衝動的範疇を出ず、従て一時的かつ興奮的にして永続性乏しく労務大衆の胸底には依然として生活問題を中心とする各種の不満焦慮を包蔵」14)する状態にあった。既にサイパン玉砕前から、民心の底流には戦意の低下傾向があり、国体イデオロギーや権力的指導を振りかざすだけでは銃後の戦意を昂揚することはできなくなっていた。このため「絶望的な状況を描いた『おどかし』物語」が新聞の紙面に登場するようになった15)。そこでは、アメリカ人が「男も女も残忍に陶酔」するような国民であることが強調され16)、さらに当局が鳴物入りで喧伝したのはサイパンの民間人約二万人が繰り広げた集団自決であった。この「米鬼」の宣伝は民衆に徹底的に浸透し、「日本が負けたら、あなたとあなたの家族がどうなると思いましたか」という質問に対し、六八%のものが「残虐行為、飢餓、奴隷化、全滅」と答えていた17)。政府は少なくとも、これにより戦争継続を選択の余地のないものと認識させることに成功したのである。

 サイパン玉砕後の七月二〇日、東條内閣が総辞職をした。流言蜚語の取締記録ではサイパン玉砕の流言とほぼ時を同じくして「東條更迭」が見られるようになっていた。それは東條自決に関する発言が中心であり、東條の責任を「切腹モノ」と考えていた人が相当数いたことを示している18)。しかし、このような東條への反感の一方で、「一般民衆は東條の評判がいいとのこと。例の街に出て水戸黄門式のことをやるのがいいのだろう」19)、「東條内閣総辞職。一般に再降下期待す。政治知識の欠乏を知る」20)とあるように、東條内閣を支持する声も少なくなかった。この東條への支持は戦争継続に対する支持と読むことができる。他方、小磯国昭内閣の成立について「米内大将ハ親米派デアリ小磯大将ハ親蘇派テアル関係ヨリシテ日本ハ近ク休戦センカ為テアラウ」21)といった流言が一部に見られ、民心の底流にある戦争終結願望や厭戦意識が表面化した。

 このように民衆の政治意識には両義性あり、政府に対する批判が徹底化しないのは、国体観念を中心とした曖昧な「クニ」意識に包括されてしまうからである。例えば、横浜の小長谷三郎は後継内閣に対し東條内閣と「大同小異、大して相違はあるまい。絶対信頼は出来ぬ」と強い不信を示すが、「天皇陛下の赤子たる我々国民は総理大臣等はさておき、天皇に忠節を尽くすを以て生きる道とし、死する道とするならば、如何なる事態に対するも平然自若とする事が出来る筈である」22)と述べていた。小長谷三郎のように比較的戦意の高かった人の場合、戦争支持と内閣に対する態度との間に相関関係がなく、体制の正統性原理に対する忠誠が全てに優先されるため、政治の位置づけさえ極めて低いものとなるのである。

 

3 科学と物量

 一〇月一日にはグァム・テニアンの玉砕が発表された(実際はテニアン八月三日、グァム八月一〇日に玉砕)。しかし、一〇月九日には台湾沖航空戦の、そして一〇月二六日にはフィリピン沖海戦の「大戦果」が大本営から発表がされた。既にこれまで発表された航空戦の大勝利(一九四三年十一月のブーゲンビル沖航空戦・ギルバート沖航空戦、一九四四年七月のマリアナ沖海戦)と合わせると、大本営発表が撃沈したアメリカの艦船は、航空母艦だけで三七隻に及んだ23)。これらの大戦果は、その度、一時的であれ銃後の士気を高揚させるものであった。これらはいずれも「大誤報」であり日本軍が実際に沈めた空母は四隻に過ぎず、連合艦隊は、事実上、壊滅していた。銃後の国民はその真相を知る由もない。むしろ、フィリピン沖海戦の大戦果が「神風特別攻撃隊」によるものであったという報道は国民に大きな感動を与えるものであった。

 この時期、政府は「決戦輿論指導方策要綱」24)を閣議決定し銃後の士気興隆に臨む。その方針は「我ニ天祐神助アリ」、「大和魂ヲ以テ戦フ時ハ必ズ敵ヲ破リ得ル」等々と非合理主義への傾斜を一層強めたものであった。政府は聖戦完遂の下、国民統合を図るため皇国イデオロギーを世論指導の柱としていたが、他方、戦争は科学戦、物量戦の様相を深め、科学と物量を否定することはできなかった。このため、小磯内閣になってから「この頃新聞の論調には、科学思想尊重の風が顕著である。神がかり的な精神主義があまりに尊重されて来た近年の風潮への反発が、科学戦の様相の深刻化とともに表面に出て来た」25)。このように政府の世論指導は精神主義の強調と科学思想尊重という支離滅裂の展開となった。 これに対し、国民の間には政府の精神主義的な指導に対する批判が存在したが、その反面、これを受け入れる精神的な土壌があったことも否定できない。そもそも、科学振興は「長い間過去にがんじがらめになり、技術上の想像力と個人主義という大胆さを禁じられてきた人々に対して、突飛さを求め、前方に向かって飛躍し、全体の路線からはずれて踏み出せ」26)と求めるようなものであった。敗戦後の調査で戦争遂行上日本の最も大きな力は何であったかという質問に四四%の人が「精神的事項(大和魂、犠牲的精神、戦闘精神等)」を指摘し、七%の人が「神風特攻隊」を指摘した27)。この精神的事項をある者は「いくらあのがいじんがなんだかだといっても、その葉隠れ的な武士道の精神で、肉弾で体あたりして、絶対……という、なんだか、いまから考えると盲目的信念ですが……」28)と説明していた。近代兵器に操縦者がその身体を一体化させた「神風特別攻撃隊」は、精神主義と合理主義の狭間で西欧近代文明を超克する証として「最後ノ勝利」への国民的迷信を支える要因となったのである。サイパン失陥に伴うマリアナ基地の始動はこの精神主義を木端微塵に粉砕するのであった。

4 空襲の激化と戦意の低下

 米軍の空爆作戦は三段階に分けられ、一九四四年六月から翌一九四五年三月までの期間はその第一段階であり、主に軍需工場に対する高性能爆弾による高々度精密爆撃であった。これは中国の成都を基地に主に北九州地方に対する空爆として始められ、サイパン失陥後はマリアナ基地から東京に空爆が行われた。

 東京への昼間の空爆作戦に対し、当初、都民はある程度の冷静さを保つことができた。しかし、十一月二九日の夜間空襲を期に都民の戦意は大きく低減し、「各区役所ニ於ケル届出疎開者ノミニテモ 自十一月二十日至二十七日ノ間一日平均一、一二〇名ニ対シ十一月三十日以降一〇倍乃至一八倍ニ急増」29)していた。さらに「真珠湾攻撃の記念日である一二月八日に、猛烈な空襲が加えられるという噂がひろまり、全市が戦慄状態」30)に陥っていた。東京では一二月七、八、九日の三日間学校の休校が命じられた。この一二月七日(金曜日)、文部省を訪れた一色次郎は省内の様子を次のように記していた。「廊下はひっそりしていて、まるで、休日に迷い込んできたみたい。〈中略〉みんな、逃げてしまったのである。怯えて誰も仕事が手につかないのだ」31)。空襲に関する流言も全国的に急増し、北九州爆撃の際の流言の発生件数が一〇九件であったのに対し、東京空襲は三二一件に達していた32)。それは「帝都」の被害や惨状を憶測するものが中心であり、「陛下ハ京都ヘオ移リニナツタ」、「二重橋ハ破壊サレタ」といった「不敬」流言を必然的に含むものとなった。憲兵隊司令部の記録によると一九四五年二月には全国の流言蜚語取締件数が一月の七七三件から一二六五件へ増加した。同時期の東京憲兵隊の取締件数は六二件から四一九件へと激増しており、東京空襲が流言増加の決定的要因であった。二月一六日から一七日にかけてはアメリカ機動部隊の艦載機約九〇〇機が東京を中心とした関東地方の空爆に登場し、二月一七日に初めて宣伝ビラが撒かれた。

 二月二十日には米軍が硫黄島に上陸したことが伝えられた。これに対する銃後の反応は次のように観察されていた。「『とうとう、上がったか』/誰も、おどろかない。/『また、玉砕だろう』。『戦争はどうなるんだろう』/『負けはせんさ』と、一人が言下に答えた。『しかし、勝ちもせんさ』/この答は、どこへいっても聞かされることである。〈中略〉おそらく日本中の国民が、そうした戦争観を抱いているのではないか」33)。厭戦・終戦願望の一方で、戦勝へ望みを託す気持ちも低下していた。しかし、民衆には戦争継続という状況に対する諦念があり、これが消極的な意味で体制支持として機能したのである。

 一九四五年三月一〇日の東京大空襲を期に米軍は新たな空爆作戦を展開する。これは大都市地域の工場地帯と住宅密集地帯に対する焼夷弾による低空からの無差別絨毯爆撃であった。大都市に対する無差別絨毯爆撃が始められると「四大工業地域より無計画恣意的に各地方各府県に転流せるもの約八百万人」(六月一日現在)となり、地方に深刻な「食料問題、インフレ激化問題」を引き起こした34)。しかも、この大量の罹災者、疎開者の移動と共に空襲被害に関する情報は全国へ広まっていった。他方、疎開のあてもなく罹災により壕舎生活を余儀なくされた人は東京都内で約六万七千世帯、二十二万七千人、横浜で約十万人、大阪九万人と推定された。この東京の罹災者の戦意は低く、「敗北主義的厭戦的気運即ち『戦争に勝つても敗けてもこれ以下の生活に落ちることはない。敗けても勝つてもどうでもよい』と云ふが如き風潮を一部に醸成する処多分」にあった。憲兵隊の流言蜚語取締件数は二月をピークに、三月六二三件、四月五四六件、五月五九九件となる。これは一つには「全滅した警察署や殉職した警察官も多く、正確な死者数を調査できる状態ではなかった」35)とあるように、大空襲が取り締まる側の機能をも破壊していたためである。しかし、流言内容には変化が見られた。罹災地では「『スパイ』横行シアリトノ流言多発」し、「一般民心ノ不満対象ヲ『スパイ』視スル傾向」36)があった。国民の一部に特異言動ではあるが、「アンナニ東京ヲ焼イテ了ツテ天皇陛下モ糞モナイ戦ニ勝カラ我慢シロト言ヤカツテ百姓ハトツタ米モ自由ニナラヌ骨ヲ折ル丈ケタ」といった「『皇室ノ戦争責任』又ハ『皇室ノ生活様式ヲ羨望憶測』等ヲ云為スルカ如キ自棄的厭戦不敬造言ノ発生増加ノ傾向」37)が見られるようになった。

 大空襲はアメリカの科学と物量を最も国民に強く印象づける要因となった。アメリカ戦略爆撃調査団の報告によれば、日本の最大の弱点は何かを問われ58%のものが「物資力−−軍備、天然資源と産業資源、生産力、必需品、科学知識等−−にある」と答えている38)。国民統合の正当性と西欧近代文明との間には絶望的な懸隔が現れていたのである。このアメリカの科学と物量に、民心は迷信で対処する状況に追い込まれていた。当時、空襲に対する恐怖は「爆弾よけ」の様々な迷信を生み出す。「金魚を拝むと爆弾が当たらないという迷信が流布し、生きた金魚が入手困難のところから、瀬戸物の金魚まで製造され、高い値段で売られている」39)と、こうした迷信はかなりまじめに流布されていた。絶望的な状況で戦局をめぐる民心動向は悲観と楽観の両極を揺れ動くことになる。五月二十七日、東京都小石川区江戸川町内で「沖縄ニ上陸シタ米軍ハ無条件降伏シタ」と流布されたため付近の住民は同日午前十時頃、一斉に万歳をあげ歓喜したという40)。この噂は、瞬く間に都内を駆けめぐり、伊藤整も「異様な話」として、「中野方面へ歩いて行って来た人が、その噂は本当で、あちこちで皆が万歳を叫んだり、国旗を立てたりしている。憲兵隊の前を通ったので訊ねたところ、まだ確認はない、と言った」と記していた41)。一色次郎もこの噂を一笑に伏しながら「まさかと思っても、ついドキッとしてしまうのだ」と述べており42)、戦勝への一縷の希望が、しばしば、この種の流言を生み出していた。しかし、敗戦を憶測する特異言動はより積極化し、「日本ガ負ケタラ私ニツイテ来ナサイ私ハ英語ガ出来ルカラ助カルデセウ」といった「敗戦ヲ前提トシテ自己保身ノ策ニ出ントスル造言発生ノ兆アル」と報告されるようになった43)

 米軍の空爆作戦は主要な都市を焼尽すると、六月一五日以降、第三段階に入り地方の中小都市に対する空爆が行われた。大都市爆撃では「全市の四割前後」の焼失であったが、「中小都市に於ては一夜にして其の八割内外の戸数」が焼失したのであった44)。ここで見た東京を中心とした世相悪化、戦意停滞は全国に波及していったのである。空襲は敗戦の日まで行われ広島、長崎を含めた日本全土の六六都市が各都市平均で市街地の四三%を焼失した45)

 六月二五日、沖縄の玉砕が発表されたが、もはや銃後には反応らしいものすら見られなくなった。「巷にはしかし別して憂色は見られなかった。〈中略〉誰も痛憤の言葉を発する者はいなかった」のである46)。当局は沖縄失陥後の民心を「予想に反して格別の反響も示し居らず」、「諦観的放心的症状を払拭せず国民の驚くべき無気魄さは愈々一般化し膠着化し」、「極めて顕著なる敗戦観一色に塗りつぶされたる」と観察していた47)

 

5 本土決戦体制の機能不全とその破綻

 戦時体制下、常に指摘され続けた問題に動員体制の非効率・不公正があり、戦争が末期となるにつれ統制はますます機能不全に陥いり、戦意を低下させる大きな要因となっていた。その原因として、特権的地位にいるものによる不公正、セクショナリズム、調整を欠いた統制の非効率、下意上通が機能していないこと等が挙げられていた。しかし、非合理主義的な国民統合の理念そのものに内在的破綻があった。つまり、巨大化し複雑化した機構の中で個々人が担うべき忠誠は高度に専門化、分化されたが、この「忠誠のタコツボ化」が非効率を生み出していた。目前の持ち場に「戦場」を見いだし「分」に徹する臣民は、愚直で近視眼的な国家主義者となったからである。

 この愚直さの一方で、統制の拡大は民衆の底辺に新たな「役得」や「顔」の増大を生みだしていた。そして「民間の者がこの頃権力を持たされるようになったが、するとこれは官吏よりもひどい官吏風を吹かせる。もとは憤慨していた官尊民卑を発揮」48)するようになっていた。村野良一は当時の世相について頻繁に用いられていた言葉に「嫌になっちゃうよ」というのがあり、これが「銃後の生活のどこにも当てはまるから妙」49)と評している。民衆は疲弊し不満を持っていたが、その表現は諦観的で自嘲的ですらあった。このため、民衆相互での不信と軋轢をいたずらに増大させるのである。村野は「国破れて山河なし。財産なし。生命なし。一億今ぞ必死の時なるに何ぞ。国内体制の整備をそき事よ。英雄出でよ。強力政治出でよ」50)と、総動員体制の中でなお強力政治を求めるようになる。統制の機能不全が逆に強力政治を希求するという悪循環が生じていたのである。

 政府は本土決戦を前にこのような状況を打破すべく国民義勇隊を組織する。国民義勇隊は郡市町村の行政機関単位に全国民を組織化し、食料増産、戦力増強にあたると共に、本土決戦に際しては軍の地区司令官の指揮下で戦闘単位として活動することをねらいとしていた。これにより軍、官、民の一体化を実現し、統制体制の強化をはかろうとしていた。しかし、この全国民の組織化に対し「国民義勇隊ノ中央機構ハ特別ニ之ヲ設ケズ」51)、「情勢窮迫セル場合」には「国民義勇隊ハ軍ノ指揮下ニ入リ夫々郷土ヲ核心トシ防衛、戦闘等ニ任ズル戦闘隊(仮称)ニ転移スルモノトトシ之ガ発動ハ軍管区司令官、鎮守府司令長官、警備府司令長官ノ命令ニ依ル」52)ものとしていた。本土決戦は各地で各個に対応することを前提とせざるを得ず、これは皇軍解体に他ならなかった。国家機構は解体しても、国体護持のために戦えと言うのが国民義勇隊だったのである。

 政府は国民義勇隊の運用の実際を調査すべく昭和二〇年六月に行政査察53)を実施した。その報告書54)によると、特に「査察に随行した随員の等しく痛感せるは軍、官、民の軋轢にして軍は戦局の逼迫と共に事毎に横柄的となり官は法規に拘わり面子を盾に自ら戦力低減の因を為し而も増産阻害は企業家にありとの態度を以てし著しく生産意欲を減退せしめつつある」状態であった。物資をめぐる統制の不公平・不公正はますます拡大し、一部の特権的地位にいるものが不正行為を「闇に葬った事例」が多数ある一方で、「事態は誠に止むに止まれぬ小さい闇行為でもどしどし検挙され昨今は月に八万件の多きに達して居ると云う。俗に弱い者苛じめの施策では決して志気の昂揚は望まれない」(大日本産報調査部長 鈴木公平)と報告された。また国内の駐屯部隊も、複数の部隊が「競争的に農業会に供出を命令」したり、農地を「半ば高圧的に部隊に貸して呉れと申込」という具合で、駐屯地の住民から「あれだから支那人にも嫌はれるのだ。戦争も負けるのは無理はない等蔭口が立つ」程であった。

 六月二三日、政府は本土決戦に備え内閣に独裁的権限を付与する全面的授権立法として戦時緊急措置法を施行した。鈴木貫太郎首相はこの施行につき閣議で次のように述べた。「本法は我が国民官吏を法規の末節に束縛せらるるの桎梏より解放するものであると云ふことが出来るのでありまして、更に申しますれば今後の行政の運営の指針及び国民の行動基準たるべきものは、法令の成文に非ずして実に道義であり条理であると云ふことになると思ひます」55)。この発言は統制の機能不全は為政者にとっても是正の術がない状況にあることをはしなくも露呈するものであった。

 このような行政機能破綻の一方で、国民統合は、経済生活面を中心に利害対立を深め、空襲は世相の悪化に拍車をかけ「以前なら笑ってすませたことが、今はいちいち、いさかいの種子」56)となっていた。アメリカ戦略爆撃調査団の報告はこの戦争中の国民の態度の変化について、被験者の四四%が「団結の気持ちの減少−緊張、利己主義、粗暴、争闘など」をあげており、逆に「協力の増大」を指摘したものは、わずかに一一%にとどまったと報告している57)。国民の相互監視体制は、状況の悪化と共に相互不信を増幅する逆機能を呈した。

 政府は七月から一〇月にかけての臨時措置として主要食料配給量の一割減配を発表した。七月六日、石黒農相は「食料に関して消費者及び生産者諸君に愬ふ」と題した放送を行い、「『腹が減っては戦はできぬ』という語は真実を率直に表したものであるが、今は本土敵襲の最中である。腹が減っても戦わねばならない」58)と国民に呼びかけた。しかし、食料をめぐる「戦」は銃後の世相悪化を治安悪化へと発展させていた。七月二日、横浜市南区において馬鈴薯を畑から盗み出そうとした男性が、見張りをしていた警防団員三名に取り押さえられ、男性は後頭部を棍棒で殴打され内出血で絶命するという事件が起きた59)。七月八日、横浜地検はこの警防団員を正当防衛に当たるとして起訴猶予した60)。この処置は、もはや、銃後の社会秩序は暴力の行使がなければ保てないことを公認したも同然であった。戦後、連続殺人事件として知られた小平事件も、その犠牲者十名の内、七名に対する犯行が敗戦直前の時期に行われていたのである61)

 先の査察報告は「斯かる現状を以てしては如何なる手段を以てしても本土決戦には間に合はぬ」「現情勢下に於ける国民士気の昂揚は相当至難」と分析していた。本土決戦体制は「郷土ヲ核心」とする皇軍分裂を前提とする一方で内閣に権限を集中し、その法令の説明は「国民の行動基準」は「法令の成文に非ず」とされていた。

六 決死から必死へ

 内閣情報局は、七月二六日、「国民士気昂揚ニ関スル啓発宣伝実施要領」62)を出し、その実行説明につき報国文学会等の文化芸能団体の会員を集めた。本土決戦は「大軍集中及ビ補給ノ点ニ有利ナリ」、「日本的特攻兵器ノ活躍ニ期待スル所大ナリ」等、いずれもこれまで言い尽くされたことであり、これで戦意を昂揚できたとは到底考えられない。この要領発表における次の発言には驚かされる。「敵の空襲で、損害だ損害だというが、頭の考え方をちょっと変えて見ると、焼跡から何万貫という銅が出てくる。銅山で必至の増産をやっても、おっつかない多量の銅が家の焼けた跡から出てくる。そうなると空襲はむしろありがたい。損害どころかすこぶるありがたい話なのだ。−−栗原部長は昨日こういった。家を焼かれた国民はまことに気の毒だが……そういう一言が今出るか今出るかと待っていたが、絶対いわなかった」63)。政府は腹が減っても戦えと言い、空襲はありがたいとまで言うようになった。民衆は積極的な意味での戦意を喪失していたが、その主体性や自発性の欠如は消極的な戦意として十五年戦争の体制を支え続けてきたのである。この敗戦直前の日本人の継戦意識を橋川文三は次のように表現する。「普通の意味での政治的意識とはもはやいえなくなっている。政治の次元というより、信仰の次元、迷信の次元としかいいようのない状況におかれていた。全部が滅びれば負けないというんですから、政治的発想とはいえない。つまり、あの段階では日本人の政治意識は消滅していた」64)

 戦況悪化と共に本土全体が玉砕戦術へと向かい、もはや、戦争遂行は国民統合の唯一の決め手であることを越え、「死」を制度化するものとなっていた。この決死(死を覚悟すること)から必死(必ず死ぬ)への変化の中で、自らの死の意味を問う主体的な営為さえも、「米鬼」を相手にした戦争では無意味に思われたのであろう。玉砕戦術という残虐な自国と、絨毯爆撃という残虐な敵国の狭間で銃後の思考は停止状態となった。原爆投下とソ連の対日参戦はこの停止状態の上になされた。「新型爆弾でも十四、五個投下せられたら日本全土灰じんだ。斯うなつては天命を待つより外方法はない。お互に逢つた時が別れだ」(農民芳野喜太郎)、「電車の中等で『斯うなつては戦いは負け』と云ふ声を聞き一般に日ソ開戦により必勝の信念に亀裂を生じて来ている事が窺われます」(旧日本婦人会福岡支部長畑山静子)等々65)、国民は総じて日本民族の最期を覚悟し、状況に対し全く受身となったのである。

 

二 敗戦と民衆意識

 

1 敗戦に見る忠誠と反逆

 日本敗戦は天皇制ファシズムの敗北であった。統制の機能不全、アメリカの科学と物量、銃後社会の秩序の崩壊と、一元主義的な世界観は随所で瓦解していた。民衆の敗戦意識もこの一元主義の解体と再編から始まる。

 鈴木貫太郎は敗戦の日の放送で「国民悉く心より 陛下に御詫び申上げる次第であります」、「臣子の本分は生きるにつけ死ぬにつけ如何なる場合にも天壌無窮の皇運を扶翼し奉ることであります」66)と述べた。早くも国体護持と一億総懺悔という秩序ある降伏の原則が提出されたのである。東久迩稔彦も組閣後の総理談話で、「聖断一度下らばわれら臣民己を捨てゝ翕然これに帰一し奉る事実こそわが国体の精華といふべきであります」67)と述べた。これまで「生死一如」こそ「国体の精華」であったが、今度は命を捨てることをやめ、己を捨てることが求められたのである。

 国民に求められたのは詔書必勤であり徹底抗戦や自決は勅命への反逆であった。この「終戦詔勅」に対する反逆は国民のごく一部で試みられたに過ぎなかった。当時、「七生義軍」と称する軍の一部が全国的各地で檄文の散布を行っていた。それによると「勅命」とは「単なる個人たる天皇の御心といふことではありません。それは皇祖皇宗より万世一系連綿として紹述され承け継ぎ承け継ぎ来った精髄としての即ち祖宗の神霊と天皇と一体となった大御心のことでありそういふ大御心より発せられた御意志が皇国に於ける『勅命』なのであります」68)。ポツダム宣言の受諾は「天皇の御意志によって国体を滅ぼすということ」であり、「祖宗の神霊や天壌無窮の到底許さざるところ」と訴えている。従って、「終戦」の詔勅は「如何にそれが『勅命』の形をとりましても断じて『勅命』ではなく大御心より発せられたものではありません」とし、「直ちに起って国体破却の虚妄なる勅命に抗し真の勅命を仰ぐまで一死只大国難を突破せんのみ」と訴えるのであった。

 国体観念において個人としての天皇と制度としての天皇制は不可分の関係にあり、個人としての天皇は万世一系たる制度としての天皇制を具現する「現人神」でなければならなかった。天皇個人もまた「天壌無窮の御神勅」に規制されなければならないのである。戦中体制を支えた理念への忠誠と聖断への忠誠は敗戦において鋭く対立する。理念への忠誠をとれば個人としての天皇は国体に対する反逆者となり、天皇への忠誠をとれば国体への反逆となるのである。このようにより徹底した積極的な思考において、敗戦は曖昧な国体観念に分化をもたらす契機となった。しかし、敗戦時、陸軍士官学校に在学していたある士官候補生69)は、徹底抗戦を主張し行動に出たのは、ほとんどが幼年学校組であったと回想している。彼らは八月一五日の数日前からいつのまにか学校からいなくなっていたという。士官候補生においてさえ幼年学校組とそうでないものとの間にこのような相違があった。丸山眞男は「一九四五年以降の『変革期』において、忠誠と反逆の交錯や矛盾の力学を自我の内側から照し出してくれる資料、あるいはその問題を自覚化しようとする試みがあまりにも乏しい」70)と指摘している。確かに、これを民衆意識の底流に問うたとすれば、それはさらに乏しいものとなる。しかし、支配層においてさえ「国体護持」をめぐりその護持すべき内容について意見の相違があった。この「クニ」意識をめぐる相克や多様性の端緒は民衆意識の底流にも読みとることができる。むしろ、問題なのはそれが戦後の知識人の思想や民衆の意識形成にどう継承されたのかにある。

 

2 虚脱

 敗戦直後の国民の反応については「虚脱」という表現が最も頻繁に使われてきた。「虚脱」という言葉は敗戦直後の国民的反応を示す表現として定着した観がある。しかし、筆者は次の二点において「虚脱」という表現に疑問を持ってきた。第一は「虚脱」という表現は、強烈な国民的体験を集約した表現として敗戦直後から用いられてきたが、それは実感的な表現であるために体験した者にしか理解不能なところがある。つまり、余りにも同時代史的な表現なので、戦争体験のない世代へ敗戦意識を批判的に継承するためには、この言葉の「翻訳」が必要である。第二は、国民的反応としての「虚脱」を事実として否定するものではないが、筆者はかねてから、敗戦意識が虚脱という一点に集約されてしまうと、失われてしまう本質があるのではないかと考えてきた。第二点については次節で検討する

 おおよそ、転換期・移行期と称される時代には過去の回顧が未来への展望として行われるものである。この意味で「玉音放送」は戦後という状況創出の契機であり、戦後になされた最初の、そして、最も影響力ある回顧と展望となった。これに対し、敗戦直後の民衆の虚脱は国民の主体性や自発性の著しい欠如を表現していた。ある者は敗戦を「それは戦争も『やめられる』ものであったのかという発見であった。私には戦争というものが永久につづく冬のような天然現象であり、人間の力ではやめられないもののような気がしていた」71)と回想する。国民には戦争の敗北はもちろんのこと、戦争の終結自体が「発見」となっていた。積極的な意味での戦争支持の意識が極小化し、予想外の天皇の降伏宣言に接し、虚脱に陥ったのはむしろ当然であったといえるかもしれない。

 これについて次の二つの左右両極からの回想はさらに示唆に富む。降伏文書調印式で外務省随員を務めた加瀬俊一は、調印式の当日、「あるいは生きて帰れまい、という気持だった」72)。それは降伏使節が途中で襲撃されることが予想されたからである。しかし、加瀬氏は「もしそうなっても、いっこうに差し支えない」と考えていた。「敗残の祖国を再興する民族的原動力は、唯ひとつ愛国心だけである。その愛国心は敗戦によって、恐らく、希薄となろう。この際、我々が愛国者の手にかかって果てるのは、必ずしも無意味ではあるまい」と考えたからである。また、二・一ストの前後に革命の可能性が信じられなかったという久野収は、その理由として次のような国民の敗戦意識を語っている。「軍隊と労働者がどこかで結合して新しい状況を生み出すのだが、実際には、兵隊は武器を捨て、配給物をもらって帰ってくる状態で、僕はこの状況を見てああだめだと思った」73)。十五年戦争の結果、民衆意識には状況追随的な思考が蓄積され、敗戦にともなう状況停止は思考停止となって現れた。そこでは「新しい状況」も、「愛国者」による「民族的原動力」も観察されることがなかったのである。

 

3 否定と肯定

 天皇による降伏宣言の直後に日本人がどのような反応を示したかについては、アメリカ戦略爆撃調査団の調査結果がよく知られている。この表にある様々な反応のタイプと数値のいずれに着目し、どれを重視するかにその評者の視点が現れる。しかし、筆者がかつてこの表を敗戦体験のある人74)に示しその感想を求めたところ、興味深い回答が帰ってきた。その人物は、いずれも当時の自分の気持ちに該当すると答えたのである。「玉音放送」直後の反応は驚きと残念であったが、敗戦後、時日の経

過とともに表にある事項のすべてを感じたという。もちろん、敗戦の受けとめ方には個人差があること、敗戦後四十数年を経過した回想であることも考慮に入れる必要がある。しかし、表の注に「二つ以上の反応を示した人もいた」とあるように、民衆の敗戦意識は一言では形容しがたいものがあり、敗戦意識は「玉音放送」直後の反応には収まりきらない、時日の経過の中でとらえるべきものがあった。

 

  降伏直後の反応  アメリカ戦略爆撃調査団調べ

   後悔・悲嘆・残念三〇%

   驚き・衝撃・困惑二三%

   戦争が終わり、苦しみも終わりだという安堵感または

   幸福感     二二%

   占領下の扱いに対する危惧・心配     一三%

   幻滅・苦しさ・空虚感・勝利のために全てを犠牲にし

   たが、全て無駄だった    一三%

   恥ずかしさとそれに続く安心感、後悔しながらも受容、

   予想されたが国史上における汚点と感じる 一〇%

   予期していた、こうなるとわかっていたとの観念     四%

   天皇陛下のことが心配、天皇陛下に恥ずかしい、

   天皇陛下に申し訳ない     四%

   回答なし、またはその他の反応 六%

 

 敗戦に対する国民の態度は、事態を肯定的に受け入れる態度と否定的に認めまいとする態度の両面から考えるべきである。一般に、「玉音放送」直後においてはより否定的な態度が強く、事態の進展と共に少しづつ肯定的な態度へ変わってゆく。「現状の日本人、歴史に汚点を残せし日本人不忠極まりなき日本人、いかでかよく、これらの苦境をのりきり得るか。しかしおれは神州、否すでにかゝる言葉を使ふだに申し訳ない。おれは日本帝国の不滅を信ずる」76)とあるように、むしろ、否定は肯定への過程として機能した。特に東久迩内閣による敗戦実相の発表により敗戦・降伏が否定しがたかったことが判明し、さらに占領政策が日本人にとって否定すべきものではなく、むしろ、歓迎すべきものであることが判るにつれ、この否定から肯定への変化は加速していった。

そして、個人差はあるものの「ある相当の時間を経てはじめて霧の晴れるような感じで感じ得た本能的な喜び」77)を実感したのである。おそらく、殆どの日本人の反応にはこのような否定、肯定の双方が両義的に存在し、敗戦体験には「不忠」者の自覚と「本能的な喜び」との葛藤があったと言える。

 

4 総懺悔をめぐる相克

 八月二八日、東久迩首相は記者会見をしその所信を表明した。東久迩は「この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならなぬと思ふ。全国民総懺悔することが、わが国再建第一歩であり、わが国内団結の第一歩であると信ずる」78)と発言し一億総懺悔を主張した。さらに、九月五日、東久迩は施政方針演説で敗戦の実相を陸海軍の損害累計、空襲被害、空襲による生産能力損失等の実数を詳細に発表した。そして、「我々が徒らに過去に遡って、誰を責め、何を咎むることもないのでありますが、前線も銃後も軍も官も民も国民悉く静かに反省する所がなければなりませぬ。我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗ひ浄め〈中略〉帝国将来の進運を開くべきであると思ひます」79)と述べた。これは敗戦原因の発表に過ぎず戦争責任はおろか、敗戦責任を問うものですらなかった。

 一億総懺悔論に対し「今更民衆に敗戦責任を論ずるは不都合だ」、「敗戦責任は為政者だ。今後は首脳の入替が必要だ」80)と国民の中には強い批判を持つ者がいた。

実際、敗戦直後の反応に懺悔に相当する項目を求めても、わずかに「天皇陛下のことが心配、天皇陛下に恥ずかしい、天皇陛下に申し訳ない」の四%があるに過ぎない。強いて「恥ずかしさとそれに続く安心感、後悔しながらも受容、予想されたが、国史上における汚点と感じる」を加えても両者で一四%となるに過ぎなかった。これらの批判は「国民全員の懺悔を強調されて居るが、之は一応国民として必要と思ふが、然し国民に強調する前に中央地方を問はず指導者は戦争の責任を取て貰はねばならぬ」81)とあるように指導者の責任を第一に問うものではあったが、国民の懺悔そのものを全面的に否定するものでもなかった。総懺悔をめぐる反響で重要なことはこれを鵜呑みにするような見解が少なかった点にある。軍官民の摩擦軋轢が動員体制の機能不全をもたらしていたため、懺悔の主体として「軍官民、国民全体」を一緒にされることには強い抵抗感があったのである。しかし、東久迩は施政演説で「深く宸襟を悩し奉りましたことは臣子と致しまして、誠に申訳なき極みであります」と述べ、また鈴木貫太郎も敗戦の日に「国民悉く心より 陛下に御詫び申上げる」と述べていた。このように一億総懺悔論とは、国民の天皇に対する態度を意味していたため、圧倒的多数が天皇もしくは天皇制を支持していた国民は、これに有効な反論を持ち得なかったのである。

 しかし、ここで個人としての天皇が突出することは、これまでの国体観念と矛盾が生じる可能性があった。国体は、天皇並に天皇制を中心に国家、国民、国土、郷土を含んでおり、さらに万世一系や肇国といった「国史」や、大和魂、日本精神といった国民性をも含んでいた。つまり、国体とは日本的なものの概念の本質を示すと思われる事柄についての曖昧で包括的な観念であった。このような国体概念の多義性は、総懺悔が、誰が何に対し懺悔するのかという、懺悔の主体とその対象の規定をめぐる問題を惹起するものであり、この点に総懺悔論の破綻性があった。例えば、国民すべてが懺悔すべきものとされるのであれば、その国民の枠に一日本人として、個人として天皇個人が入ってこなければならない。そうでないならば、天皇は非国民ということになる。しかし、総懺悔論は、天皇個人の「皇祖皇宗」に対する懺悔を問うものではなかった。民衆はあくまで臣民であり、国民であってはならないのである。総懺悔をめぐる相克は無条件降伏と戦争責任問題に及ぶことでさらに深化する。

 

5 無条件降伏と天皇の戦争責任

 降伏文書の調印については、例えば広島では、総じて「諦観的態度を持する向多く」、予想以上に厳しい条件と受けとめている者が多かった。また、「戦争に負けても独乙の場合とは違つて日本は共同宣言を受諾したのだと言つても事実は無条件降伏だ」(左翼関係者、青山大學)とあるように、国民の圧倒的多数はこれを無条件降伏と受けとめていた82)。そして、「杞憂する点は天皇の統治権が連合国最高司令官の制限の下に置かれると言ふ事実である。察するに要は畏くも天皇主権たる御地位を聯合国利益の為に機関として利用せんとする意図に外ならず、然れば帝国の将来は何うなるか。皇国護持と言ふ唯一の信念さへ抹殺さされるのではあるまいか」(特要他甲 小森武雄)とあるように、降伏文書の内容に対し国民の間では国体の危機を感じる者もあった。

 東久迩の記者会見に対する反響の中でも「首相宮殿下も国体護持を強調されて居られるか既に憲法第三条の 天皇 は神聖にして侵すべからずか我国体の根本になつて居るのに其の上にマツカーサーと云ふ支配者があるのだから既に国体は変革されて居り、又彼等は政治は国民の自由意志に依ると云つて居り 天皇 は名のみとなり結局民主々義的国家となつて行くものと考へられる」(共乙、樋口幸吉)83)とあった。

 これらの発言は無条件降伏に際し国民の間では国体の変革が余儀なくされるという予測が広範化していたことを物語る。この変革の予想の中で単に国体護持を主張することは余り意味を持たない。国体の何がどう変革されるのか、という国体の再規定、再概念化が必要となるのである。この問題は戦争責任の議論と複合することにより、天皇個人と天皇制度を分けて考えようとする傾向を生み出すものであった。この文脈の限りで言えば戦後国民の間で国体観念に変革が生じていた。内務省警保局では天皇の退位に関する「憶測的言動が或程度相当広範囲に亘り流布せられつヽある」状況にあるとし、言論機関の指導者を中心にこれに付いて意見徴集をしている84)。これによると、北越工業株式会社社長田辺雅勇は「終戦後天皇に対する国民の考へ、信念が非常に変つて来た事は事実である。天皇機関説も古くなつた。今後天皇は政治には全く関係なく祭事をのみ営まれる明治維新前の御存在に戻る訳である」と述べ、また朝日新聞中部総局岡田丈夫は「最近軍部官僚の一部には米国と開戦したのも終戦したのも陛下の御命令であつた。従って首相以下の指導者が戦争犯罪人として処断されるのは不合理であるといふ声が台頭してきた。而もポツダム宣言受諾の際陛下御自ら御退位を仰出されたと洩れ承つてゐる。兎に角当時の官僚軍部指導者の処罰のみでは連合国側ては満足せず」と発言している。このように戦争責任について国民の間でも昭和天皇個人に責任があると考える傾向がある一方で、天皇制の擁護は国民の圧倒的多数がこれを支持するものであった。このため、戦争責任問題は天皇個人の擁護と天皇制度の擁護とを自覚的に区別する契機であり、責任問題として天皇退位説が浮上したのは制度としての天皇制は存続させたいという願望の現れであった。

 

6 原爆と国体

  国体観念の変換は、国体に対する批判と国体の新たな正当性の確立という二面があった。鈴木貫太郎は「大東亜戦争終結に当つて鈴木内閣総理大臣放送」の中で「国民が自治、創造、勤労の生活新精神を涵養して新日本建設に発足し特に今回戦争における最大欠陥であつた科学技術の振興に努めるの外ないのであります。而してやがて世界人類の文明に貢献すべき文化を築き上げなくてはなりません。それこそ 陛下の広大無辺なる御仁愛に応へ奉る唯一の途なのであります」と述べた85)。この敗戦原因が科学の差にあったという理解は、民衆に相当に広範に受け入れられていた。和歌山県からは敗戦後間もない八月三十日に戦後経営についての県民の意見を集めているが、ここにも科学重視をみることができる86)。農業については「科学的機械的農業経営に移行さすべく措置」が求められ、工業については「科学的基礎の下に再編成し優秀なる技術者及優秀なる技倆を有する工員等は飽く迄も其の地位に於て優遇」する方針が述べられていた。ここで注意すべき点は科学が技術と理解され科学精神として把握されていない点である。これは次の教育についての意見に現れている。「科学日本の興隆は国体護持の強靭なる信念の中から生まれしめねばならぬ。従而自由主義教育の功罪に深甚なる考察を加えへ科学的国学の抬頭を促さねばならぬ」。かつての「教学」が、ここでは「科学的国学」へと転換されたのである。

 確かに精神主義が払拭されたことの意義は大きいが、そこにどんな内容の変化があったのかが、問われなければならない。この変化で最も大きいのは命がけの否定であろう。例えば、戦後民主主義は人権尊重以前の、人命尊重を出発点とした。このことは、一方においてその次元の低さを、他方ではより根本的な思考の出発点を意味している。しかし、この「命がけの否定」という状況を日本国民が主体的に獲得し得ず、天皇の降伏宣言により「賜った」という点に一つの限界があった。実際、「終戦詔書」にはこの転換を可能とした最大の要因である「残虐ナル爆弾」が指摘され、国体はもちろんのこと日本の全てを滅ぼすものが、「天皇の御意志」ではなく、「残虐ナル爆弾」であることに国民は異論がなかったのである。このことは日本は科学に負けたのであり、その精神の根本が負けたのではないという認識を生む要因であった。かつて和魂漢才、そして和魂洋才と称された外来文化の「摂取醇化」の方式は、戦後においては言わば和魂米才として復活する。象徴天皇制を体制の正当性とした戦後日本の復興は、西欧近代文明を「醇化」した科学技術によることが志向されたのである。敗戦後の科学重視は、精神主義の否定と日本精神の継承という極めて両義的な性格を有した。

 戦争末期の戦況と戦意を通観していえることであるが、中国大陸の戦況が戦意への影響要因として殆ど観察されなかったことである。これとは対照的に太平洋地域の戦況悪化は対米敗戦観を、空襲の激化は被害者意識を決定づけていた。実際、敗戦後、「台湾、満州ノ宝庫ヲ取リ上ゲラレルト思フト全ク先行キガ心配デナラン」87)、「支那ヤ朝鮮ニ威張ラレルノガ癪ダカラ、イッソノコト子供ヲ道連レニ死ンダ方ガマシカモシレナイ」88)といった発言が散見され、公定イデオロギーによる「大東亜戦争」の戦争目的は名文に過ぎなかったことを示していた。しかし、このことは単に公定イデオロギーが民衆に浸透していなかったという事実を示すだけのものではない。問題とすべきは、戦中の日本人が、大東亜戦争は欧米からの解放に名を借りたアジアの植民地化のための帝国主義戦争であることを薄々自覚していながら、それを八紘一宇といった公定イデオロギーに総括することで自己欺瞞を積み重ねてきた点にある。同様のことは政治指導層にも該当する。天皇の降伏宣言は「宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」と述べていた。「固ヨリ」は「もともと、元来」、あるいは「言うまでもなく、もちろん」といった意味を持つが、日本の戦争目的が「他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵ス」ことではなかったことを、何故、「終戦詔書」で言明する必要があったのであろうか。真に「帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾」することにあったのであれば、このようなことを述べる必要はない。この自己欺瞞の構造は官民共有のものであり、敗戦の総括にも繰り返されたのである。もちろん、欧米からのアジア解放という考えそのものに否定すべき価値はないとしても、なぜ日本がその中心でなければならないのかという、日本本位の独善主義的なアジア観に真摯な自己批判が加えられることはなかった。対欧米に対しては「文明の衝突」としての、そして、対アジアには「欧米からの解放」という「太平洋戦争」観は戦後にも連続したのであった。

 かつて戦争は「世界大戦という自壊作用」に瀕した「西洋文明没落」に対し「道義的世界建設」を掲げ正当化された。この戦争の「終結」は「残虐ナル爆弾」のために「交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ」とされ、「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と正当化されたのである。原爆は、一方では「残虐ナル爆弾」として戦争の被害者意識と戦後における「万世ノ為」の平和を正当化し、他方では戦後の「科学と物量」に対する国民的欲求を象徴するものとなった。この総括と転換は戦後の民衆意識を先行するものとして、天皇の降伏宣言によりなされた。この意味で、原爆と国体は日本敗戦、最大のイデオロギーである。

 

注 記

 

 1) 日本政治学会編『一九九四年度 政治学年報』岩 波書店、一三五〜五一頁。

 2) 山口定『ファシズム』有斐閣(一九七九)

 3)  藤井忠敏編『季刊現代史』以下の各号を参考。一九七三年春季特別号「日本

   ファシズムその民衆動員の前提」、一九七四年冬季号「ファシズム形

   成と権力による民衆の組織化」、一九七五年夏季号「日中戦争の全面拡大と

   民衆動員の展開’37〜38」

 4) 浅沼和典「ファシズムの原理」、『比較ファシズム研究』成文堂(一九八二)、

二一頁。

 5)  文部省「『国体の本義』の編纂配布に就て」、近    代日本教育制度史料

   編纂会編『近代日本教育制度史料集第一三巻』講談社(一九六四)、

   三五一頁。

 6) Samuel.P.Huntington,THE CLASH OF CIVILIZATIONS?,FOREIGN AFFAIRS,

   SUMMER 1993.

 7)  一九四三年五月から四四年五月までの銃後の民衆意識については、拙稿「太

   平洋戦争における戦意動揺期の民衆意識」『明治大学大学院紀要第三〇集政

   治経済学編』(一九九三)で検証した。

 8) 前掲『太平洋戦争日記(二)』、二月一日付。

 9) 「5月中ニ於ケル造言飛語」、憲兵司令部、南博編『近代庶民生活誌C』三

   一書房(一九八五)。

10) 「最近に於ける不敬、反戦、反軍其の他不穏言動の概要」警保局保安課(一

   九四三年八月〜一九四四年二月)、前掲『近代庶民生活誌C』、四三五頁。

   例えば、「戦争は陛下が勝手にやつてゐるのである。やるなら市民大会でも

   やつてから始める可きである」(職工)、「『ニ児を失ひたるは天皇陛下の

   為なり』とて畏くも陛下の御肖像及掛軸を取外し、之を足蹴にす」(戦死者

   母)等。この前の半年間、一九四三年三月から八月までに、不敬罪で検挙送

   局したものは二二件であったが、この時期にはその約二倍の三八件に急増し

   た。

11)  サイパン政変前後からB29による東京空爆前夜   までの民衆意識につ

   いては、拙稿「サイパン政変前後における銃後の民衆意識」『明治大学大学

   院紀要第三一集政治経済学編』(一九九四)で検証した。

12) 六月一七日付の『朝日新聞』では、B29の性能について「爆弾二トン積載

   した場合」、「行動半径二七〇〇キロ」であり、「爆弾四トン」の場合には

   「行動半径二二〇〇キロ」と報道されていた。同日の新聞は、米軍のサイパ

   ン上陸を伝えていた。

13) 前掲、憲兵司令部「六月中ニ於ケル造言飛語」。

14) 『特高月報昭和十九年7月分』。

15) アメリカ戦略爆撃団調査報告「戦略爆撃が日本人   の戦意におよぼした

   効果」、前掲『横浜の空襲と戦災  第4巻』、二八一頁。

16)  『朝日新聞』八月四日。

17)  アメリカ戦略爆撃調査団「国民全体としての戦意の変化」、前掲『東京大空

   襲』、四〇九頁。他は一〇%が「どんなこどがおこる知らなかった」、九%

   が「敗戦を予期しなかった」、四%が「よい取り扱い」、「その他」五%、

   「無回答」が四%。

18) 憲兵司令部「九月中ニ於ケル造言飛語」によれば、七月中に察知したこの種

   の流言(東條首相ハ、憲兵ヲGPUノ様ニ用イタ、殺サレタ、家ヲ焼カレタ、

   切腹シタ、金ヲ沢山貯メテ取調ヲ受ケテイル等)は、全国で三二件にも及ぶ。

19)  清沢洌『暗黒日記』評論社(一九八一)、七月二二日。

20)  「村野良一日記」七月二〇日、八王子市郷土資料館『八王子の空襲と戦災の

   記録 市民の記録編』(一九八五)。村野は当時38才のインテリ郵便局長。

   日記から私信等に目を通していたと思われる。

21) 前掲、憲兵司令部「八月中ニ於ケル造言飛語」。

22) 前掲「小長谷三郎日記」、七月二〇日。

23) これら大戦果は意図的な操作ではなく、「技量の未熟な搭乗員が戦果の判断

   を誤った」ものもあった。なお、戦果の数値については木坂順一郎『昭和の

   歴史第七巻』小学館(一九八九)を参考。

24) 『資料日本現代史 第十三巻』、一八〇頁。

25)  伊藤整『太平洋戦争日記』十月一日。

26) 前掲、ロベール・ギラン『日本人と戦争』、二〇九頁。

27) 東京空襲を記録する会『東京大空襲・戦災誌第五巻』(一九七四)、四一一

   頁。他は、軍事的、政治的指導者に対する信頼一%、上司に対する服従一%、

   日本は強い点を持たなかった七%、分からない二〇%、その他三%、無回答

   五%。

28)  『横浜の空襲と戦災4』、三三七頁。

29) 「警視庁事務成績」、『東京大空襲・戦災史第五巻』、三二七頁。

30) ロベール・ギラン『日本人と戦争』、二六二頁。

31) 一色次郎『日本空襲記』一二月七日付。

32) 前掲、憲兵司令部「一二月中ニ於ケル造言飛語」

33) 一色次郎『日本空襲記』二月二十日付

34) 内務省警保局保安課「空襲激化に伴う民心の動向」     (一九四五年七月)、

   『東京大空襲・戦災史第五巻』、三六四頁。

35) 『東京大空襲・戦災誌 第二巻』、一六頁。話者は原文兵衛で当時、警視庁

   警務課長を務めていた。

36) 前掲、東京憲兵隊「流言蜚語流布状況ニ関スル件(三月分)」。

37) 前掲、憲兵司令部「四月中ニ於ケル造言飛語」

38) 『東京大空襲戦災史第五巻』、四一一頁。

39) 前掲『高見順日記』四月二四日付、他に、らっきょうを食べると爆弾に当たらないとか、玉ねぎで頭をこすると爆弾に当たらない等があった。

40) 東京憲兵隊資料「流言蜚語流布状況ニ関スル件  (五月分)」。同資料(四月分)によれば、沖縄戦に関し「近ク戦捷の提灯行列アリ」といった流言が「全国的ニ波及」していた。

41) 伊藤整『太平洋戦争日記』五月二八日付。

42) 一色次郎『日本空襲記』五月二七日付。

43) 前掲、東京憲兵隊資料「流言蜚語流布状況ニ関スル件(五月分)」。

44) 内務省警保局「空襲激化に伴ふ民心の動向」(一九四五年七月)、前掲『東京大空襲』三六四頁。

45) 東京空襲を記録する会編「日本本土空襲概説」、日本の空襲編集委員会編『日本の空襲第十巻、補巻資料編』三省堂(一九八一)、一四九−七二頁。

46)  『高見順日記』六月二七日付。

47) 内務省警保局「沖縄島失陥に伴ふ民心の動向」、『東京大空襲・戦災史第五巻』、三六五頁。

48)  『高見順日記』一月十五日付。

49) 前掲「村野良一日記」二月一六日付。

50)  同上、二月二八日付

51) 閣議決定「国民義勇隊組織ニ関スル件」、『資料日本現代史 第一三巻』五二七頁。

52) 閣議決定「状勢急迫セル場合ニ応ズル国民戦闘組織ニ関スル件」、同上。

53) 「行政査察規定」は一九四三年三月公布、施行した(勅令第一三五号)。これは「国務大臣及内閣顧問の中より」勅命により任命された行政査察使が「実地に就き行政の実績就中生産力拡充に関する重要政策の浸透具現の状況を査察する」ものであった。その随員と行政査察委員は「各庁高等官又は学識経験ある者」から内閣が任命し、民間の者が任命された場合は「勅任官又は奏任官の待遇」     とされた。

54) 「行政査察員の感想に就て」提出主体不明、(一九四五年七月二四日)、前掲『敗戦時全国治安情報第一巻』。

55) 前掲、『内閣制度九十年資料集』七七六頁。

56)  一色次郎『日本空襲記』二月一日付。

57) 『東京大空襲戦災史第五巻』、四〇九頁。

58) 一色次郎『日本空襲記』七月六日付。

59)  『朝日新聞』七月五日付

60) 『神奈川新聞』

61) 『真相 第七号』人民社によると、初犯は五月二二日、次いで六月二二日、

   六月三一日、七月一二日、七月一五日、七月二二日、八月六日。戦後の各紙

   記事にも詳しい。犯行の手口は食料購入の斡旋を口実に女性を誘い出すとい

   うものであった。

62) 『資料日本現代史 第十三巻』、二〇五頁。

63) 『高見順日記』、七月二七日付。

64) 高畠通敏編『討論・戦後日本の政治思想』三一書房(一九七七)、九頁。

65) 福岡県知事山田俊介「ソ聯の対日宣戦布告並びに新型爆弾に対する民心の動

   向に関する件」(一九四五年八月十一日)、粟屋憲太郎・川島高峰編  『敗

   戦時全国治安情報  第七巻』

66) 「大東亜戦争終結に当たって鈴木内閣総理大臣放送」(一九四五年八月一五

   日)、内閣官房編『内閣制度九十年資料集』(一九七五)。

67) 「東久迩総理談」(一九四五年八月一七日)、内閣官房編『内閣制度九十

   年資料集』(一九七五)。

68) 「不穏文書貼付事件発生検挙に関する件」富山県知事岡本茂 一九四五年八

   月二四日、前掲『敗戦時全国治安情報 第四巻』。

69) 匿名K.S氏、陸軍士官学校六十一期生。同氏は広島出身で新型爆弾の噂を

   聞いて早く帰郷したかったという。

70) 丸山眞男「忠誠と反逆」、『忠誠と反逆』筑摩書房(一九九二)、一〇七頁。

71) 北山みね「人間の魂は滅びない」、『世界』第一一五号(一九五五年八月)、

   七四頁。

72) 加瀬俊一『加瀬俊一回想録(下)』山手書房(一九八六)、八〇〜八一頁。

73) 久野収「敗戦の思想史的意味」、藤井忠俊編『季刊現代史B』(一九七三)、

   三三〜三四頁。

74) 匿名K.T氏、陸軍士官学校六十一期生で卒業を前に敗戦を迎える。

75) 前掲『資料日本現代史2』、一二二頁。

76) 「八木純一日記」一九四五年八月二二日付、八王子市郷土資料館編『八王子

   の空襲と戦災の記録』(一九八五)、三一〇頁。

77) 宮沢信子「地下工場の私たち」、前掲『世界』、七六頁。

78) 『朝日新聞』

79) 東久迩首相施政方針演説

80) 佐賀県知事「終戦後に於ける部民の言動に関する件」(一九四五年九月十一

   日)、粟屋憲太郎編『資料日本現代史2 敗戦直後の政治と社会@』大月書

   店(一九八〇)。

81) 愛媛県知事「議会に於ける首相宮殿下の演説に対する反響に関する件」(一

   九四五年九月八日)、前掲『資料日本現代史 2』。

82) 広島県警察部長「降伏文書調印に対する各方面の意嚮に関する件」(一九四

   五年九月六日)、前掲『敗戦時治安情報第七巻』。

83) 新潟県警察部長「タイトルなし(終戦に伴う各種事象)」、前掲『敗戦時治

   安情報  第四巻』。

84) 内務省保警保局「天皇陛下御退位説其の他の言動」(一九四五年十月三日)、

   前掲『敗戦時治安情報第二巻』。

85)   66)に同じ。

86) 和歌山県知事「新事態に対する国民の要望事項に関する件」(一九四五年八

   月三〇日)、前掲『敗戦時治安情報第六巻』。

87) 警視庁「街ノ声」九月二五日、粟屋憲太郎編『資料日本現代史2−A』二二

   五頁。

88) 同上、九月五日、二二三頁。