(1) 対話としての歴史認識
対話としての歴史において、その主体を話者、話の中の登場人物、そして聞き手に分け、語りの主体を戦争世代、戦後世代、冷戦後世代の三世代に想定すると、その組み合わせは上記のように合計二七種類となる。ここでは見やすくするため聞き手を簡略化したが、少なくともこの組み合わせの数だけ、語りの可能性があると言える。
責任主体 | 話者 | 聞き手 | |
@ | 戦争世代 | 戦争世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
A | 戦争世代 | 戦後世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
B | 戦争世代 | 冷戦後世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
C | 戦後世代 | 戦争世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
D | 戦後世代 | 戦後世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
E | 戦後世代 | 冷戦後世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
F | 冷戦後世代 | 戦争世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
G | 冷戦後世代 | 戦後世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
H | 冷戦後世代 | 冷戦後世代 | a)戦争、b)戦後、c)冷戦後世代 |
またここから戦争責任や戦後責任という概念を「語り」における主体の属性から分類することが可能となる。つまり@からBが戦争責任、CからEが戦後責任、FからH冷戦後責任(山口定氏が言うところの「未来責任」)となる。従来の戦争の「語り」とは、@―a)、@―b)、A―a)、A―b)、C―a)、C―b)、D―a)、D―b)、F―a)、F―b)、G―a)、G―b)であった。つまり、主体として冷戦後世代は存在しなかった。これに対し、山口定氏の問題提起とは@―c)、A―c)、C―c)、D―c)、F―c)、G―c)の組み合わせにあり、聞き手として新たに登場した冷戦後世代に何を伝えられるのか、何を伝えるべきなのか、という問いであった。
そして、ここで新たに指摘したいのが、「話者」としての冷戦後世代の可能性、つまりB、E、Hの組み合わせである。未だ「書き手」―アカデミズムであれ、ジャーナリズムであれ―としての冷戦後世代は、文筆の世界で一つの世代層を成すに至っていない。しかし、いずれそうした時代がくるだろう。ここでは、その話者としてのこの世代の可能性を検討したい。
(2) 話者としての可能性
戦争の「終った」戦後において、人があの戦争をより強く実感し得るのは、その死者との関わりにおいてであった。この意味において、戦後日本とは戦争の記憶を共有することにより成立していた。しかし、一九九五年の前後、日本の各地で戦死者、戦災死者の五十回忌が執り行われた。物故者の生前を知るものによる法要はこれで最後のとなったわけである。死者の記憶からの決別、それは冷戦後世代の戦争認識においては、常に実感のなさとして現れる。このため、あの戦争について
@ 扇情的な説明に対し「免疫力」がないという相反する二つの傾向が認められる。この双方はその説明が、国粋主義的なものであれ、平和主義的なものであれ、そのいずれにも該当すると考えられる。押し付けがましいのも駄目、感動を伴わないものも駄目ということで、右にでも左にでも傾くような危うさが認められるのである。そもそも何が「右」で、何が「左」かも解からない。このため保革の保と革を一々説明する必要があり、ともすると保革について恐ろしくステレオタイプ化された説明に飛びつく面がある。
A あるいは感情を込めた説明を押し付けがましいとして拒絶する
しかし、既存の知的権威に強いロイヤリティーを持続させるわけでもない。それは一つには、特定の影響力ある観念体系が不在であり、彼等が基本的に諸権威が失墜した時代に生きているためである。また知的な観念体系そのものもまた今日の言論市場においては「賞味期間」が短いということによっている。何も歴史認識だけが「商品」ではない。筆者の学生との対話から個人的な印象として言えば、歴史認識をめぐる論争というのは、彼等にとってこの世にあまた存在する「極論」の一つであると軽く受けとめている節がある。つまり、言論市場の「極論」製品に、どこか、ああまたかと受け流す面があるように感じられる。権威失墜は政治・行政・官僚にも該当し、文部省を中心に公教育の権威は低下し、義務教育はともすると不信の対象ですらある。従って、歴史認識に関する公定の見解というものが権威を持つ可能性もそれほど高くないだろう。
この点で先のアンケート調査で注目されるのは過去の評価を、現在の価値観に基づいて判断すべきなのか、それとも、過去の評価に今日的な価値観を持ち込むのは無理があると考えるのかが、彼等の判断のにおいて一つの分水嶺を構成している点である。過去の否定は、戦争そのものの罪悪視、そして過去の日本の行為に対する人間としての憤りに根ざしているのに対し、「当時の常識」を考慮したものは当時の世界情勢において戦争はある程度やむを得ない面もあったのではないかという見解を示した。そして、全体として、過去の常識と現在の常識の双方からとらえる、つまりはより複眼的な思考が多いと言える。このことは史観論争においてステレオタイプ化された、「聖戦か」、「侵略か」といった二者択一的な主張に、若い世代は意外と冷静にあることを示しているのではないだろうか。この傾向は、明らかに従来の世代の知的権威の後退―左右両翼を問わず―と同じ機軸の上にあると考えて良いだろう。
このような評価の傾向は、彼等の歴史認識がダブルバインドから解放されていることを示している。「孝ならんとすれば忠ならず、忠ならんとすれば孝ならず」というような苦悩、つまり、天皇の名の下に戦地に狩り出され戦死した肉親への想いと天皇への忠誠心の間での葛藤から、彼等は自由である。かつて、天皇制国家のイデオロギーは「忠孝一本」の概念によりこの葛藤を原理的に解決済みとしていたが、遺族の底流には常にこの葛藤が存在した。表面化しないのは本音と建前の使い分けに過ぎない。はしなくも、小林よしのり『戦争論』は、「じっちゃんのために」を標榜しているが、昭和天皇を差し置いて個人(=じっちゃん)がこれほどまでに突出した価値観による歴史認識は、反動的な歴史観においても前代未聞ではないか。実際、「じっちゃん」の世代においてもあのマンガに感動した読者が少なからずいるようだか、天皇抜きのナショナリズムについて、わが民族は免疫がないのである。冷戦後世代の問題提起もまんざらではないということになろう。
このような反動史観の台頭の背景に、日本の揺らぎがあげられるだろう。山口定氏は、一九七〇年代以降、高度経済成長を背景とした日本文化論のブームが「日本優秀論」の台頭を招き、その他方、責任問題を曖昧にしたと指摘したが7)、私がここで指摘する「揺らぎ」とは、バブル崩壊と冷戦崩壊以降における自身とアイデンティティーの喪失を意味している。現在の自己への評価に際し、その負の側面の原因を過去にさかのぼり、失敗の現状の全てを過去における特定の論調のせいにしてしまおうという発想である。
過去への解釈を変えたからといって、それだけで現状の何かが変わるということはまずあり得ない。現状の変化は、選挙デモクラシーにおける投票行動の変化によってしか変わらないのである。この意味に限って言えば、歴史認識をめぐる運動は、所詮、日本の政治社会状況の変化に対し殆ど効果はない。歴史は票にならないのである。それにもかかわらず執拗に繰り返される反動化した歴史運動は、現状変革における歴史認識の比重を過剰に評価するのである。しかし、このような「歴史主義」もまた、今日言論市場を漂流する数多ある極論の一つであることに留意すべきであろう。
それでは、死者への評価と天皇への評価の葛藤や、死者との同時代性の共有という観点から、解放された世代において、戦争責任・戦後責任の批判継承にはどのような展望があり得るのか?。最後に両世代の境界にいる筆者の見解を示すことにする。それは、死者への評価という観点からの思考錯誤である。
(3) 残虐性における民族性
私はここで「殺し方」は明らかに一つの文化であるということを強調しておきたい。
昨今の世界の紛争地の報道から、戦争になれば残虐さはどこの民族も同じであるということが、「お茶の間のブラウン管」を通じて明らかになりつつある。なぜ日本の加害行為やその残虐性ばかりが問題とされるのかという疑問に、一定の回答を用意する必要がある。私が民族と残虐さを結びつけて戦争責任を考えるのは、そこに戦争と文化の問題があり、この点において過去の責任主体の位置づけがより明確となるのである。
私は、特定の民族と比べて特に残虐であるということはあり得ないと考える。単にこの点にだけ限定して考えるのであれば、残虐さを民族性と結び付けて考える必要はなく、それは戦争が人間にもたらす悲劇的で不可避的な現象として説明されればよい。従来の戦後責任、戦争責任の議論においてもこれと同様の論理に立脚しており、残虐行為における民族性を話題とすることは一つのタブーであった。しかし、いみじくも陸軍パンフレットがその冒頭で宣言したように「たたかひは創造の父、文化の母」なのである。当時においても戦争行為が、総体として日本文化の表現であるとの認識は、明瞭に自覚されていたと考えるべきである。それでは、この当時の戦争=文化という認識を、今日、改めてどう日本の戦争に対する認識をより深めるためにどうとらえればよいだろうか。
ここで、神風特別攻撃隊に対する日本人の理解を取り上げたい。特攻に対する理解には戦争認識に関する「日本的な」特質が強く現れており、ことこの点については左右を問わないからである。
愛媛県西条市に楢本神社という小さな神社がある。この神社では毎年十月二十五日に、神風特攻隊の「第一号」敷島隊の五軍神を奉賛する慰霊祭が盛大に行われる。「盛大」というのは、何しろ、当日は自衛隊の各航空隊による慰霊飛行、護衛艦隊の西条港入港、呉音楽隊の派遣と全く靖国の公式参拝の是非を越えているのである。一体、何故、この小さな神社でかくも盛大に慰霊祭が行われるのか。ことの発端は先代神主の石川梅蔵氏(元江田島海兵学校教官)にある。石川(以下、敬称略)は敷島隊の隊長関行男を幼少の頃から知っており、楢本神社は関の故郷にある神社であった。関の母サカエは、敗戦後、赤貧の内に生活していたが、愛息であった関の墓石を建立することを悲願としていた。かつての軍神の母に近隣は冷たかったが、サカエは軍神の母として生き抜いたのである。しかし、一九五三年逝去し関家は断絶となった。石川は当時、関の慰霊碑を建立しようと各方面に懸命に協力を求めたが、独立講和直後とはいえ、戦争の記憶への否定的感情が強い当時の日本において実現できるはずもなかった。かくして約二十年ばかりを経た頃、どういうわけか一九七四年五月七日、フィリピンのマバラカットにカミカゼ記念協会会長ダニエル・H・デイゾン(フィリピン歴史会会員)により「神風特攻全戦没者の碑」が建立されたことを知った。石川はこれに驚嘆し、「日本国民として恥ずかしい思い」をしたという。かくしてその翌年三月には神社社頭に関行男の慰霊碑が立ったのである。この楢本神社の隣に(正確には、隣に西条神社、そして西条出身の力士の記念碑、忠霊塔の順)、西条市長が肝煎りで建立したという忠霊塔がある。その西条市民の遺族の間から、なぜ「何故に関さん許り斯くの如くに盛大に追悼式をやるのであろうか。あれは関さんが中佐であるからだ」といった批判があった。石川はこの批判を「霧散させるには特攻の先陣第一号の敷島隊の五軍神を奉斎」する事を思い立つ。遺族の中で合斎に応じない家があったため、その説得に三年を要し、一九八一年四月、五軍神の碑を建立することとなったのである。
この話の異様さには興味を引かれる点が多い。被害国フィリピンの碑が「特攻全戦没者の碑」であるのに対し、楢本神社のは関個人の碑として建立された。石川のためにも改めて断っておくが、これは石川が関を幼少の頃から知っており、その特別な死と母サカエの敗戦後の生活苦を目の当たりにしていたからである。その関を石川は特別に慰霊したかったのであろう。ところが、西条市の忠霊塔の遺族から批判が出ると今度は「五軍神」へと慰霊の対象が拡大する。しかし、こうなるとなぜ特攻のなかでも最初の部隊だけが奉られるのかということになる。同じ戦争のために倒れた者であるならば死なばみな平等ではないかということになる。ところが石川にとって、慰霊の対象はあくまで最初の特攻の「軍神」でなければならないのである。そのことは、関の碑の後に立てられた五つの碑が、特攻当時の二五〇キロ爆弾と同形同重量の石材であり、突入時を模して垂直に立てられていることからもわかる。関の慰霊碑の碑文(源田実)は「人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。『壮烈鬼心を哭かしむ』とはまさにこのことである。この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当たらない」で始まる。つまり、ここに慰霊されているのは戦死者だけではなく、特攻という必死の攻撃方法が、日本国民の固有性として奉賛されているのである。
「死に方」とは、つまり「名誉の戦死」である。そこには歴然とした序列があった。一般に航空関係の戦死者は二階級特進する扱いが取られたが、一九四四年一二月の海軍特殊任用令により、特攻攻撃により偉勲をたて、全軍布告の対象となったものについて、特に下士官については小尉に、兵は准士官に特別任用することとなった。この結果、「五軍神」の一中で作戦時最も階級が低かった大黒繁男上等飛行兵は、五階級特進し飛行兵曹長となる。同様に永峰肇飛行兵長も四階級特進し飛行兵曹長に、谷暢夫・中野磐雄一等飛行兵曹は三階級特進して小尉となる。特攻で全軍布告になれば同じ死に対しても、軍人恩給等の扱いは格段の差がでてくる。この限りで比較すれば「普通の」戦死こそ「犬死」ではないか。
実際、源田の碑文の指摘にもあるように、あのような戦闘方法を組織化し、常套手段化した軍隊は近代史上、殆ど他に例を見ることができない。決死隊というのはよく聞くが、必死隊というのは希有であり、この特殊性に日本的な性格を読みとることができる。その突出した特殊性にある悲劇性を認めたからこそ、被侵略国フィリピンにおいてさえもそれは慰霊の対象なのである。
もちろん、特攻の特殊性と他の非戦闘員に対する皇軍による加害行為―例えば、南京事件のような―を同一なものとみなすことはできない。具体的には、戦争行為における非戦闘員に対する軍事的行動にはよらない加害行為が、最も焦点とされている。しかし、それは非軍事的行動であるが故に、その「殺し方」には、より一層、その民族の文化が投影されるのである。この件について西尾幹二の一連の所論*は、逆説的に日本の国民性による加害行為を浮き彫りにするものである。同氏はユダヤ人に対する加害行為との比較から次のように主張する。
ドイツのユダヤ人虐殺は戦争目的を越えた政策による明確な国家意志によっていたのに対し、日本の加害行為は政策に基づくものではなく一連の戦争行為の中で発生したものである。そして、ドイツの加害行為は通常の「人道に対する罪」などというものではなく、「文明の破壊」であり、ドイツと日本をその犯した罪の性格において同一視することはできない。特定の人種の抹殺を目的としたナチスのユダヤ政策と日本の加害行為とはその動機において全く異質なものであり、両者を混同し、日本もドイツのように戦争責任をとるべきだというのはおかしいというのが氏の主張である。同氏の日独比較には問題があることは言うまでもない。確かに日本は特定民族の肉体的抹殺を政策として掲げたことはないまでも、創氏改名に代表される皇民化政策は、まさに特定民族の民族文化抹殺を意図したものであり、これは「生き地獄」である。文明の破壊と文化の抹殺を、どちらがより悪質なのかと、その程度を問うのであるならば、まずそのような問い自体が無為だろう。しかし、仮に西尾氏の枠組みで日本の加害行為を考えた場合、そこにのっぺきならない問題が生じる。
それは加害行為の主体となった将兵の動機の問題である。ドイツの場合、ユダヤ人に対する加害行為は、国家意志であり、政策であり、ヒトラーの命令であったという「弁解」がなりたつ。しかし、日本の将兵の場合はどうなるのであろうか。確かに日本の場合、特定人種の抹殺を国家政策に掲げたり、それを天皇が命令したという事例はない。個々の部隊で捕虜の処分について命令があったことが確認されてはいるものの、むしろ、その種の命令は捜さなければならないのが実情である。むしろ、日本の戦争の大義名分は欧米支配からのアジアの解放だったのである。こうなると国家意志もなく、政策もなく、そのような命令もないのにもかかわらず、南京事件に代表される虐殺行為がアジア全域で展開したということになる。命令や政策によるものではないとしたならば、一体、なぜ日本の将兵はあのように残虐な殺戮行為を繰り返したのであろうか。食料の現地調達主義、戦線拡大に伴う兵の士気の低下等、作戦上の問題もあろうが、この場合、やはり、残虐行為の主体性が追求されなければならないのではないか。新兵の度胸づけに行う捕虜刺殺などは典型であるが、「皇軍」ではそのような虐殺行為は、政策、命令という次元ではなく、「慣例」として行われていたという点に、日本の加害行為の責任問題の重大性がある。ドイツのユダヤ人虐殺が、計画的な国家犯罪であるならば、日本のアジアにおける数々の残虐行為は、無計画な慣習による国民犯罪であったと言わざるを得ない。西尾氏の枠で考えたとすれば、日本の道義的責任はますます、逃れようのないものとなる。
以上の考察から、私は、日本の過去について次のような結論に至ることを余儀なくされた。日本の過去を見つめれば見つめるほど、当時の日本の戦争行為における日本的な性格を見逃すことができない。日本の戦争犯罪には明らかに当時の国民性による加害行為があったということを、戦争とは「殺し方」の文化であるという驚くべき事実を、私は「人間として」今後も語り継がねばならないと考える。
(4) 戦後民主主義と戦後責任
特攻を組織化した大西龍次郎は「特攻は統率の外道」と自ら言ったというが、その「外道」に反抗が表面化したことはなかった。内面にいかなる葛藤があろうとも、結局は従順に、そして、しばしば、従容としてさえ任務に就いたのである。そこに当時の日本人の国民性や文化を見ないわけにはゆかない。こうした見方には異論もあろうが、より重要なことは、当時においても、今日においても、一般に多くの人が、特攻をそのようなものとして理解しているという事実である。特攻という異常な攻撃方法に託された日本人の特攻観は、これを異常なものとしてではなく、悲劇と死の美学の結合という観点から理解されがちなのである。こうした一般の特攻に対する理解で最も欠落しているのは、特攻がまさに「攻撃」であり、それが「死に方」であると同時に「殺し方」でもあるという事実認識なのである。それはステレオタイプ化された武士道のイメージである「ハラキリ」とすら、根本的に性格を異にする。そして、その「死に方」が日本的なものであればあるほど、その「殺し方」もまた日本的といわざるを得ない。そのような観点から最後に「わだつみ史観」に対する筆者の批判継承を述べておきたい。
作間忠雄氏が『朝日新聞』(一九九三年九月一一日付)の『論壇』に寄せた見解にあった。この論壇に筆者は一つの反論を同新聞社に投稿したが、その書簡を紹介する。
氏(作間忠雄)は、細川総理が先の大戦を侵略戦争と認めた発言に対し、遺族から「夫や息子の死は犬死であったのか」という声があり、これが「あの戦争について」再考する一つの契機であったとしています。そして、戦死した兵士たちは「断じて『侵略の加担者』ではない」、「『日本国憲法に化身して、平和の礎となった」と述べています。これは同じ時代に、同じ死線を乗り越え、戦後に生き残った人々にも該等する言葉なのでしょうか?。戦死者が「断じて侵略の加担者ではない」以上、生き残った者も加担者ではなかったということを意味しなければなりません。また、この言葉は当時の日本人全てに該当するのでしょうか?。そうなると、逆説的にはアジア・太平洋戦争の戦争目的は日本が平和国家に転生することだったということになってしまいます。好むと好まざると戦争協力をした日本人は、戦死したものも、生き残ったものも皆等しく「侵略の加担者」であったはずです。犠牲という事実故に、戦争犠牲者は戦争責任を免罪される訳にはゆきません。そう呼ばれることに抵抗感があるとすれば、そこには犠牲者への弔いや供養だけではなく、生き残った者にとっての戦争の意味が含まれているはずです。この点について、氏は特攻に赴いた若者は「生き残った人達が協力して今までと違う日本を造って欲しい」という思いを抱いて戦場に向かったと述べています。私は日本人として感銘を受ける反面、次の二点において異論を持ちました。第一に戦ったのは何も作間氏のようなインテリ兵士だけではありません。「いやおうなく」という点にのみ戦争協力の心情を規定してしまうと、正義日本と皇国必勝を信じ戦場に赴いた他の多くの民衆兵士の純忠愛国と誠心誠意を冒涜したことになります。第二に、これは突っ込む側の独善的な論理であり、突っ込まれる側の心理には受け入れ難いものがあります。アメリカ軍人の遺族が特攻隊はアメリカの艦船に体当たりすることで、戦後の平和とデモクラシーに転生したときけば何と思うでしょうか。そして、「いやおうなく戦場に狩り出され」た日本兵に殺戮されたアジア・太平洋地域の民衆は、一体何に転生すればよいのでしょうか。
私が特になじめないと感じたのは、あの戦争を侵略戦争と認める=戦争犠牲者は犬死か?という思考や、戦争犠牲者=平和国家の礎といった考え方です。どうして個人の存在価値が国家との「命懸け」の関係において位置付けられなければならないのでしょうか?。そういう時代だったと言われればそれまでですが、やはり、そういう思考方法そのものを問題としなければいけません。つまり、「死」というものを物事を推し量るための分銅にしてしまうことの問題です。例えば、戦後の平和と民主主義が「戦死者」の化身であるとするならば、我々戦後世代は冷戦後の世界平和と民主化のために再び「化身」となる覚悟が必要であると主張された時に、有効な反論を構築し得なくなってしまいます。戦後デモクラシーが価値を持ち得たのは、「命懸けの否定」が規範として広く一般に受け入れられたからです。私は以上の理由から「与えられた民主主義」という虚構を「平和国家に生まれ変わる先導役」という虚構により克服しようとすることには同意しかねるのです。
冷戦後世代の筆者には『きけわだつみのこえ』をどう読み、どう解釈しても、そこから日本国憲法の草案を引き出すことは出来なかった。全く出来ないとは言わないまでも、両者の距離は余りにも大きい。絶望的抗戦の中でも、なおかつ、彼らは帝国日本の勝利に一縷の希望を託していたのではないか。「むしろ天皇の名の下に『死の美学』を敢行する日本人は、戦後日本の国民統合には天皇が不可欠であることをマッカーサーに強く印象づけたはず」であり、「戦争犠牲の代価は象徴天皇制に払われた」10)と考えた方が自然である。