戦後民主化における秩序意識の形成   天皇システムと戦後デモクラシー

 

川 島 高 峰

 


序 秩序意識と状況主義

 

 本稿は戦後民主化における秩序意識の形成を国民と天皇(制)の関係の再編としてとらえ、これを敗戦直後の民衆意識の展開を通じて考察するものである。分析に際し、より多くの社会、国家、民族にも該当するような分析視角を前提とすることを心掛けた。ここでは多様な政治文化に共通性を持ち民主化の程度を評価するのにより有効な分析枠組みとして秩序意識という概念を想定することにした。秩序意識とは「国民国家体系に対し人々が抱いているイメージ」を意味する。この国民国家体系のイメージは国家機構と国民統合という二つの概念によって構成される。そして、転換期における秩序意識は次の三つの点から分析されるべきである。第一に国家機構の原理と国民統合の理念との関係、第二に対外的視点と国内的視点との関係、第三に秩序意識の連続性・非連続性である。

 第一の国家機構の理念と国民統合の理念との関係は民主化の比較分析に際し一つの有効な尺度となり得るものである。つまり、両者がどの程度混在一体化したものとして理解されているのか、それとも逆にどの程度自覚的に区別されているのかという基準である。一般に国家機構に関するイメージと国民統合に関するイメージの区別は明瞭に自覚されることがなく、両者は混在一体化した曖昧な概念を形成していると言える。この意識の実態に即している点に秩序意識という用語の妥当性もある。このため、より権威主義的な体制では国民統合を形成する理念と国家機構を運営する原理とは相互補完的な結合関係にある。これに対して、より民主的な体制では国家機構に求められるのは司法・立法・行政装置としての機能であり、それ以外の何らかの意味や価値−取り分け、国民統合のためになりそうなこと−が求められる傾向は低い。従って、人々の意識の中で国家機構の原理と国民統合を形成している価値がどのような関係にあり、双方がどの程度に距離を置いたものとして理解されているかは政治文化の民主化を評価する際の有効な尺度と言える。

 秩序意識の形成は国際社会の動向と常に不可分な関係にあり、国民国家体系は対外的視点と国内的視点との相関関係においてより明瞭に認識される。従って、国際社会の動向に対し状況対応的なのか、それとも状況創出的なのかという問題は、その国の政治文化や秩序意識の形成に絶対的な存在拘束を与える。このような分析視角がその最長射程に置くのは非西欧圏における近代化と国民統合の問題に他ならない。近現代における世界システムは西欧中心に展開してきたため、非西欧圏の秩序意識は常に状況対応的な形成を余儀なくされてきた。そこで対応を迫られた世界システムとは主に国際化、近代化、民主化、そして今日における世界化(globalization)という諸段階(順不同)にわたる変化である。この中心−周辺構造は単に政治・経済の問題に止まらず、文化の優秀性や正当性の問題として文明−野蛮という図式を世界システムに構造化したのである。非西欧圏の政治文化の特色として状況主義が指摘されるが、これはその政治文化に固有な問題(臣従型政治文化)のみならず、この文明−野蛮という世界システムへの従属により二重に構造化されているのである。

 こような中心−周辺構造は非西欧圏における国民国家体系の形成を屈折したものとし、その政治文化に連続性・非連続性という分断をもたらす要因であった。一般に国民統合の理念は内発的な価値体系(連続性)に求められるが、その一方で、近代化は外発的な価値の内面化(=西欧化)を意味していた。このため非西欧圏において国家機構の近代化を押し進めると共に、いかにして国民統合の維持をはかるかという問題は、しばしば、政治課題に発展する。この矛盾の政治的克服として国家機構の原理と国民統合の理念を疑似的に結合させることが試みられ、こうして再編された国民国家体系の理念は秩序意識として政治文化に内面化するのである。このような秩序意識の再編は通常、上からの近代化として国家による国民教化の推進という形態をとる。しかし、注意すべきことは、取り分け対外的な緊張関係においてこのような国民教化の理念はエリート・民衆の双方に共有され得るものであり、上からの近代化は下からのナショナリズムと結合する傾向を持つという点である。このような方法には単なる機構としてではなく国民統合のための倫理的存在としての国家を求める傾向が強くあり、このため非西欧圏の近代化に伴う国民国家体系の再編や形成は権威主義的な性格を強めるのである。

 本稿では以上のような視角を踏まえたうえで、まず、連続性としての旧意識についてその単純化されたモデルを示し、次いで、敗戦直後から戦後第2回目の玉音放送となる食料難克服の放送に至るまでの天皇並びに天皇制に対する国民意識の推移を検討する。なお、この国民意識を新聞投稿欄に寄せられた諸見解に拠ることとした。従って、厳密には本分析は新聞投稿者層の意識が中心となる。しかし、彼等の多くは疑似インテリ層もしくは政治的中間層であり、逆に考えれば彼等の見解は庶民指導層やサブ・オピニオンリーダー層の意見とみなすことができる。この点からすれば新聞投稿欄は敗戦直後期の国民意識を知ることができる数少ない手掛かりなのである。

 

T 連続性としての旧意識

 

 明治国家の国民国家体系は富国強兵を目的とした国家機構の建設と臣民化という国民統合の形成により展開した。しかし、この近代化と国民統合は次のような矛盾を包含していた。第一は、臣民や家−村−国という疑似的な伝統概念に依拠することで国民統合を図りながら、国家・社会を近代化してゆくことの矛盾である。第二は、近代化を推進するエリート層には臣民化の理念とは相入れない要素が、教養あるいは密教−天皇機関説−として存在し、むしろ、それは明治国家の前提としてエリートと民衆という二重性をなしていた点である。第一の矛盾は産業化の進展に伴う村落共同体の解体に現れ、近代化に伴うアノミーやマス状況と共に都市問題や労働問題を深刻なものとした。震災後に公布された国民精神作興の詔書はこうした問題に対する上からの克服手段であった。

 昭和期に入ると軍部を中心として総力戦体制の整備が進められより強力な国民統合が必要とされた。それは国民統合については非合理主義な観念を、国家機構については総力戦体制の効率化という合理主義を求めるものであった。しかし、近代化と臣民化の矛盾がマス状況として現れたことは第二の矛盾であるエリートと民衆という二重性の破綻を意味していた。軍人教育に軍人勅語、民衆教化に教育勅語があったのに対しエリート教育にはこれに相当するものがなかった。かくして、国体明徴運動において天皇機関説は軍部という超法規的存在と民衆という圧倒的多数の挟撃の中で「国体の本義に悖る」と異端の宣告を受けるに至る。

 このように総力戦体制の整備は明治国家の国民国家体系の再編を余儀なくするものであった。公教育においてこれは『国体の本義』(1937年5月)、並びに『臣民の道』(1941年7月)というテキストの編纂に現れた。二重性の破綻という点においてこれら二つのテキストに見られた思考は上からの指導原理ではなく、むしろ、当時の国民意識の集約と言える。ここではこのテキステで基本となっている概念を、日本民族の優秀性と正当性に関する原理、秩序再編の原理、そして国民統合の理念と国家機構とを結合させている原理の三点から言及する。

 日本民族の優秀性並びに正当性に関する原理は「肇国」並びに「醇化」という概念によって表現された。肇国とは日本国並びに日本民族の起源に関する神話世界のことであり、皇祖降臨を史実とみなすことにより皇室は民族の起源に位置付けられた。そして、このような国の始まりを持ち今日に至るまで天皇制を連綿と続けてきたのは日本だけである、という点に日本民族の優秀性と正当性が求められた。しかし、単に特殊であることは必ずしも優秀であることの証明にはならない。それ故、天皇制が「万邦無比」であったとしても、それが後進性において無比なのか、先進性において無比なのかという基準が求められるのである。

 これに対して「醇化」は日本民族の先進性と優秀性を示すとともに秩序再編の原理となる概念であった。それは「外来文化に『国体による醇化』を施して日本独自の新文化を創造する」1)という意味で用いられる。そこでは、「肇国以来一貫せる精神に基づく『結び』こそ、我が国のまことの発展の姿」(『国体の本義』、以下、国体)であり、外来文化は常に日本文化の固有性、独自性と結合することで洗練されてきたと主張される。そして、この結合し、洗練させる巧みさ−「摂取醇化」−に日本民族の先進性と優秀性を見いだそうとしたのである。近代化は欧化、平準化と不可分であり、このため近代化は日本文化の固有性に喪失をもたらすばかりではなく、国民統合に「弊害」をきたすものであった。このため「当面せる思想上社会上の諸弊は個人主義を基調とする欧米近代文化によるもの」2)と理解されていた。そこでは「諸弊」が近代化の必然性としてではなく「欧化」の結果であることが強調され、その醇化(日本化)の必要性が強調されるのである。

 この醇化に相当する概念は世界システムの中心−周辺構造において殆どの周辺国の文化に見いだすことができるであろう。この意味からすれば醇化という発想自体に独自性があるとは思われない。おおよそいかなる国の文化においても外来文化の影響を排除し、固有性の原型を求めればその民族の起源に至らざるを得ない。また、あらゆる変化を醇化とみなすことは伝統の拡大再生産を意味し、国体イデオロギーはそれ自体が疑似的な伝統に過ぎないのである。

 国民統合の理念と国家機構の原理を結びつけた概念は「忠孝一本」という表現に集約された。それによると天皇と国民の関係は「父子と等しき情によって結ばれ」(国体)、「義は君臣にして、情は父子」(『臣民の道』、以下、臣民)にあるとされた。この「君臣」の「忠」、「父子」の「孝」は「国を家として忠は孝となり、家を国として孝は忠」(国体)となり、「忠」の観念と「孝」の観念は一体化する。この「忠孝一本」に家族国家の原理が求められた。さらに、「政治・経済・文化・軍事その他百般の機構は如何に分化しても、すべては天皇に帰一」(臣民)するものとされ、ここにおいて国家機構の原理と国民統合の理念は一致結合するのである。

 国体イデオロギーの狙いは近代化により解体した人間紐帯を総力戦体制における臣民として再編することにあった。しかし、万邦無比の国体というような非合理主義的な観念に正当性の本質をおいたため、逆にその本質は「異端の排除という消極面からしか規定」2)することしかできず、むしろ、国体の定義は非国民の枠を拡大する要因であった。さらに、総力戦体制は「広瀬中佐や木口小平といった固有名詞を持つ特定の人物ではなく、不特定多数者の軍事行動」4)を要求するものであった。このため「我等の祖先は大方は名もなき民として、日に夜に皇国の富強に努めその繁栄に竭し、忠良なる臣民としての生涯を送って来た」(臣民)とされ、個人は兵営国家の「名もなき」歯車となることを求められるのである。このため天皇に対する絶対随順が日本人の国民性でるあことが強調され、「かゝる本質を有することは、全く自然に出づる」、「止み難き自然の心の現れ」(国体)であると規定された。しかし、「全く自然に出づる」ものであればそれを教化すべき理由はない。が、戦争という近代化は個人を徹底的に歯車とすることを要件としたのである。

 このような破綻性にもかかわらず国体イデオロギーが半官半民の運動として展開していったのは、それが当時の国際情勢に位置付けられていたからである。すなわち、西欧本位の世界システムは植民地獲得競争により「世界を修羅道に陥れ、世界大戦という自壊作用」を来たし、「世界人類を個人主義・自由主義・唯物主義等の支配下に置いた旧秩序は、今や崩壊の一途を辿り」(臣民)つつあると認識されていた。そして、この「西洋文明没落」に対し「今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造」(国体)すべき時であると主張された。これは「我が国にして初めて道義的世界建設の使命を果たし得る」(臣民)という世界システムへの状況対応から状況創出への宣言となるのである。このように戦前の秩序意識にはアジアの解放と西欧文明への挑戦という両面があり、この点において「大東亜戦争」はその意義を日中戦争と画していた5)。このような戦前の秩序意識が敗戦と民主化という現実を前にいかに再編されたのかを次に検討してみることにする。

 

U 天皇システムへ

 

 戦後改革とは民主化という近代化に対する国民国家体系の再編であった。これを国家機構の再編と国民統合の再編に分けて考えた場合、国家機構の再編は憲法改正とみなすことができる。憲法改正は天皇の神性を規定した大日本帝国憲法から天皇を単に国民統合の象徴とした日本国憲法への改訂であった。これは国家機構の原理と国民統合の理念を制度的に分離−つまり、天皇制を非政治的なもとして制度化すること−したものである。しかし、憲法草案が作られた経緯は日本政府内にせよGHQ内にせよ国民から遠ざかった密室での展開であり、そこに国民的な議論の推移を読み取ることは出来ない。むしろ、玉音放送、天皇の人間宣言、巡幸、戦後第二回目の玉音放送である「食料難克服の御放送」といった天皇体験を通じて、国民は天皇と国民との新しい関係を形成していったのである。なお、玉音放送から食料難克服の放送までを本稿は分析の対象とするが、それは食料難克服の放送以降、天皇並びに天皇制が国民的な議論の対象とはならなくなるからである。国民にとって、この放送が天皇と国民との戦後的な関係の完成を確認する契機となったのである。 戦争末期の流言飛語取り締まりの記録には「敗戦憶測」、「厭戦意識」、「和平希求」といった発言が多数登場し、戦況悪化と生活の逼迫の中で終戦願望が国民意識の底流に形成されていたことを伺わせる6)。しかし、「誰かゞあの時に戦争を止めると云ったならその者は直ちに数千の弾丸がその胸を貫いたであろう」7)とあるように、戦争継続の停止は「天皇陛下の命令」以外にはあり得なかった。従って、天皇の降伏宣言はこうした終戦願望に救済として応えたばかりではなく、戦後という状況創出の契機となることで国民の意識形成の前提となった。戦争に批判的であった人でさえこの例外ではない。ある知識人は次のように告白する。「自分はいはゆる戦争傍観者であったことを告白する。<中略>所詮見込みのない無謀であろうと心痛した。<中略>『そういう考えを持つ者が命を的に所信を表明しなかったから』といわれるが、これは空言にすぎない。命を的にすれば、ただ命が的になるだけであった。まことに、近代の人間にとっては政治が運命であるという言葉を、身に沁みて覚えた。<中略>八月一五日の大詔は闇の中にさした光であった。悲嘆と安堵の交錯した数週はすぎた。これからは自分は傍観者ではない」8)。この戦後状況を天皇からの恩賜とみなす傾向はマッカーサーにより与えられた民主主義とあいまって、戦後の意識形成を「上からの」、「外からの」という二重の意味で状況対応的なものとした。

 「自分は傍観者ではない」と述べた先の例においても、天皇の降伏宣言が主体性と批判精神の契機となっていた。これは「いまこそ日本は真に正しき国体論を勃興大成せねばならなぬ。けだし誤れる国体論を粛正して正しき科学的国体論を勃興せしめざれば真の国体護持は約束し得ぬであろう。迷信的国体論、無頼漢的国体論を一掃せよ」9)、「今後の国体論は、日本に独特な国体を、いかなる外国にも理解と共感とを与えるものでなければならぬ<中略>新たなる意味において、正々堂々と国体観念の明徴に努力すべきだ」10)といった下からの国体論として現れる。しかし、これらの試みは国体論の領域を越えるものではなく、一般に、天皇制を政治的な制度・機構として認識する視点に乏しく、文化的、社会的な文脈からの認識に止まっていた。そもそも、制度的な視点を示す天皇制という用語さえも敗戦後には殆ど用いられておらず国体という言葉が一般的であった。報道等においても天皇制という言葉が一般化したのは進駐・占領政策の進行と共に連合軍が用いていた「TENNO−

SYSTEM」という表現の翻訳からだったのではないかと思われる。

 こうした「国体」論の展開に対し、戦後「国体」が制度として本格的に議論されたのが、11月21日、徳田球一、清瀬一郎、牧野良三による天皇制に関する座談会放送であった。これは日本で初めて天皇制廃止の主張(徳田)が公共の放送で語られた、実に画期的なものであった。この放送に対する反響では圧倒的多数が天皇制擁護の見解を唱えていた11)。この天皇制に関する議論にさらに大きな弾みをつけこれを国民的論争へと高めたのは天皇の人間宣言に外ならなかった12)。読売新聞では1946年1月1日から11日までの投書369通のうち天皇制に関するものが62通でその第1位を占めたと報告している13)。天皇の人間宣言は国民の天皇制に関する言論の自己規制を解放し、言論の自由の後見的な後押しとなったのである。ここでも天皇制擁護が圧倒的多数を占めたが、「肯定と否定との両面の議論が大いに湧き起こってほしいと思います。それに伴う混乱は避くべきではありません。」14)、「『天皇制支持は国民の感情だ』という点で一致していますが、今日の日本人が単なる国民的感情などという言葉で納得してよいものでしょうか」15)というような理由の追及が散見したことは注目に値する。しかし、この国民的な論争が国民感情を越えることは困難であった。特に敗戦後行われた巡幸で多くの国民が天皇を間近に迎える体験をする。巡幸は日本人にとって天皇制とは自の皮膚感覚との葛藤を意味し、それが感情の領域を越えることが出来ないことを再確認する場となっていた。

 1945年11月12日から15日にかけて、天皇は伊勢神宮・畝傍山陵に終戦奉告のため巡幸を行うが、このときの国民の様子は次のように観察されている。「なんと静かな行幸だろう、淋しいほど静かなしかも厳粛なこの行事はわれわれとしても尊重しなければならない」16)、「日本人は実におとなしい、あんなに敬愛している陛下を眼の前に拝し何故熱狂してお迎へしないのだろうか」17)。戦前では巡幸に際し、声をあげたり、手を振ったりせずに「おとなしく」しているのは天皇に対する常識的な儀礼であった。しかし、長い戦争を経た戦後では、外見上はともかく、天皇を目前にした人々には多くの思いと葛藤が存在していた。1946年2月19日から20日にかけて行われ神奈川県下の巡幸で、天皇体験をした者はそうした心情を次のように告白している。「陛下を迎えて一同皆たしかに大きな感動にひたりました。<中略>実際のところをいえば、あの日あゝもいおう、こうもいおう、という人は多かったのではないでしょうか、ところがその場に陛下から御下問を受けると言葉がなかった。たヾハイと答えるしかスベがなかったのです。」18)、「終戦後陛下に対する絶対の忠の観念に懐疑を持った。自我の覚醒があったからだ。その自分が陛下を眼前に見て、どんな態度をとるか試みたかったのだ。だが陛下がお通過になった時には知らず頭が下ってしまった。陛下の御答礼があった。私は涙ぐんでしまった。なぜだか判らぬ」19)。このように国民は天皇を前にするとその感情を素直に表現することすら満足にできなかったのである。この民衆の天皇に対する緊張に満ちた態度は1946年2月28日から3月1日にかけて行われた都下巡幸で初めて破られる。それは新宿伊勢丹前の出来事であった。「堵列していた黒山の民衆は逐に感激の堰をきって 『天皇陛下万歳』を絶叫してしまった」のである20)。「民衆は誰が音頭をとるともなく『天皇陛下万歳』を絶叫したのだ、警官の制止もきかず民衆は両手をあげ、帽子をふり 『天皇陛下万歳、天皇陛下万歳』の鯨波をつくった」とし、取材記者は感激を込め次のように報告する。「あゝこの民衆の自然な『天皇陛下万歳』の爆発が過去において一度でもあったであろうか」。実に、この新宿での『天皇陛下万歳』が戦後の天皇と国民の関係の原点となったのである。

 3月28日、埼玉県下の巡幸でも同様に期せずしての『天皇陛下万歳』が行われる。この巡幸を取材したマーク・ゲインは「政治勢力回復の一幕を見た」21)と評したが、ここで「回復」したものの内容とは何であろうか。勿論、それは旧意識の連続性の上に位置するものであるが、他方、それは「過去において一度」も見られなかったものでもあった。戦前の秩序理念において天皇を規定した概念は神性と父性の二つであった。このうち神性は天皇の人間宣言により否定され、国民の殆どがこれを歓迎したと言える。一般に、天皇の臣民からわれらの陛下へという天皇制の民衆化22)が指向されたが、そこには民族の家長として天皇の父性を求める国民感情があった。例えば、天皇の浦賀の復員兵収容所への行幸について「天皇はわれわれの前に立ち止まつた時、何故か落ち着きがなくわれわれの顔をまともによう見ない」23)との投書には強い批判が寄せられている。この投稿者は天皇を「神様扱い」することを止め「新聞はもつともつと人間としての天皇を描いて貰いたい」、「天皇も人間であることは彼自らも認めている」と主張していたが、これに対する批判はこうした主張を全く無視するものであった。すなわち、「陛下に対し『いった』だの『彼自ら』だのと貴方の文章はいかにも教養の無い人間が、時代の急激な変化を聞きかじって一人えらがっている」24)、「天皇制には絶対反対ですし、また天皇の戦争責任に対しても絶対にこれを認めるものですが『人間としての天皇』に対しての貴方の態度にも絶対反対です」25)。これらの批判は天皇に対していかなる態度を以て接すべきかという観点から出ている。そして、人間天皇に戦争責任を認める一方で、それでもなおかつ、民族の家長としてその父性に払われるべき敬意があることを主張するのである。しかし、民族の家長としての天皇をどう規定すべきかは極めて主観的な判断に委ねられる問題である。

 さらに天皇の神格化が否定されたとしても、それでは人として、民族の家長として天皇が政治的にどのような存在であるべきかという問題が残る。神性の否定は必ずしも政治的関与の否定を意味するものではない。戦前的な秩序意識の再編において国民統合の理念としての天皇制と国家機構の原理としての天皇制を区別するという考え方は希薄であり、民衆が求めていた天皇制が非政治化された象徴天皇制と同一のものであったかどうかは疑問である。1945年12月から翌年1月にかけて行われた輿論調査研究所の報告26)によれば、憲法改正方法につき53%の人が「憲法改正委員会を国民より選出」と答えてはいるものの、20%もの人が「現憲法の所定どおり天皇が提出」することを求めていた。また、同調査では天皇制について45.5%の人が「政治の圏外に去り民族の総家長として道義的中心として」支持しているのに対し、15.9%の人が「現状を支持」し、さらに28.4%の人が「君民一体の見地より政権を議会と共に共有」することを支持していた。つまり、全体の44.3%の人は天皇が何らかの政治的権力を持つことを肯定しているのである。同様の傾向は他の調査にも見られ、むしろ、天皇の政治権力を認める傾向がこれよりも強い結果を示している27)。従って、象徴天皇制(非政治化により権力と権威を分化する)という発想が必ずしも民衆の側にもあったとは言えず、むしろ、天皇(制)に政治的なものを期待する願望は強かった。この国民の天皇への期待は食糧危機という極限状態においてさらに強く現れるようになる。

 

V 食糧危機と天皇

 

 戦後の食糧危機におきた世田谷事件から天皇の食料難克服の放送までの経緯は、民衆が現実的な救済(何らかの権力の行使)を天皇に求めそれを求め得ず、むしろ、天皇(制)が政治権力の圏外にあることが望ましいことを確認して行く過程であった。先ず、世田谷事件から食料難克服の放送までの概要を述べておく28)。

 1946年5月19日の食料メーデーを目前にした、5月12日、世田谷区下馬では食糧危機突破世田谷区民大会が開催されていた。世田谷区内に仮宿していた引揚者・復員者、下馬町の新生活集団(戦災町会)、そして教職員労組、東宝労組等の区内の各労組といった面々が大会の参加者である。大会は遅配米の即時配給などを決議し終了になるはずであった。しかし、この時、野坂参三が会場に突然現れ会場は大きな拍手に包まれた。そして、東宝の山田典吾が「天皇への抗議」の緊急動議を出した。この動議に会衆は賛意を示したが、その決議に際し「司会者は三度念を押して手をあげるようにいったら全会衆九割五分までが手をあげた」29)。かくして、宮城内隠匿米の放出、幣原内閣奏薦権拒否、社会・共産党政権の樹立の三項目の奏上とその回答を求め、宮城坂下門に800人30)の区民が詰め掛けた。デモ隊はさらに宮城内に入り、この時の宮城の台所の様子、皇族の献立31)などが各紙に報道され国民に大きな反響を呼んだ。この事件は「侍從職を通じて陛下の御耳に達せられ」、14日その回答を行うことを宮内省は約束した。しかし、14日当日、宮城内に入る代表者の数を巡り双方の意見が合わず、結局、19日の食料メーデー32)当日に改めて回答をもらうこととなった。食料メーデー当日には25万の都民が都心に結集し、首相官邸では食料危機打開と人民政府樹立を求め吉田首相に会見を求め、宮城前では食糧危機の打開を求めた上奏文が提出された。デモ隊は首相官邸を座り込み戦術で包囲し、吉田は一時、組閣を断念する。しかし、この翌日、マッカーサーの「暴民デモを許さず」との警告声明がなされ、大衆運動は後退と鎮静を余儀なくされた。このマッカーサーの声明の後の5月24日、天皇は国民に食料難克服について呼びかける放送を行った。

 次に世田谷事件に対する反響を検討してみる。信濃毎日新聞には5月22日までの間に世田谷事件への賛否をめぐって約35通の投書が33)、朝日新聞には5月17日までの5日間に56通が寄せられていた34)。朝日では56通のうち50通がこれに反対を表明し、総じて事件に対する批判が大勢を占めていた。いずれにせよ、この事件への反響は極めて大きくその評価を巡り投稿欄上で次のような論争が展開されていた。「『衣食足らずして礼節地に堕つ』のがいまの日本の現状<中略>自由を無秩序と混同したり放埒な自我の主張と誤認してはならない」35)。この宮城デモへの批判に「東京都民に一片の同情さへもたぬ無知さを却って嘲りたい<中略>きみだって勿論いまの殺人的配給ぶりで生きてはいまい、しかしこのすさまじい世にも『自己を抑制』し『私利を抑止』している君はまさに神か仏か化物だ<中略>世に礼節をつくして餓死を待つほどの阿呆がこの世にありはしない」36)との強い反論が寄せられていた。こうしたデモを擁護する見解は主に「飢餓線上においつめられている欠配・遅配地帯の人々」によって主張されていた37)。

 宮城デモへの批判は、最も多いのが@民族の家長である天皇に対しとるべき態度として礼節に欠けるという発想、次いでA「人民を利用した共産党の党勢拡大運動」38)といった「共産党に対する理屈抜きの反感」39)、そしてB「天皇に政治的責任や解決を迫ることは大権を認めることで民主的天皇制と反する」40)といった天皇制の非政治化という観点からの批判が散見された。Bの観点は象徴天皇制へつながるものであったが、「陛下は決して神ではない、人であらせられる。また陛下は行政官ではない、立憲君主にして国家の象徴であらせられる。もしも陛下に個々の具体的政策まで要求するならば独裁君主と化してしまう」41)というように、心情的には@の立場を合わせ持つものが多かった。この意味に限れば世田谷事件は「あゝいうことのできることを示しただけでも時代の核心を衝いている」42)ものであった。

 しかし、この「核心」とは何かがさらに問われるべきである。確かに権利の主張が天皇への集団的な直訴として行われたことは画期的であったが、その心理には天皇の大権に対する請願という性格が認められるからである。このような欲求は敗戦後の比較的早い時期から発言されており、「国民が直接陛下に請願した場合、陛下がこれを議会に回附されたら議会は先議の義務を負う旨の規定を憲法にいれてもらいたい。<中略>これによって陛下と国民を直結することが出来る」43)といった提言が見られた。同様のことが世田谷事件にも当てはまるのではいないだろうか44)。というのは、天皇は都下巡幸に際し、2月28日、世田谷下馬の戦災復興町会に巡幸し、ここでもあの『万歳』が叫ばれていたからである。その様子を新聞報道は次のように伝えている。「陛下は一体何度お手を上げ下げされたことであろう、一人々々に対して−といっていゝ程、一々帽子をとって御会釈遊ばされる、愈々お帰りだ、人々がどつとお車の廻りを取囲んだ、期せずして万歳の声があがる」45)。この巡幸の約2カ月後、飯米に窮した下馬の住民が宮城に赴いたのは単なる偶然とは言えない。現に世田谷区民代表永野あやめは「私達の親である天皇陛下に私達の窮状を聞いて頂く」と述べている46)。また、このデモに同情する者も「『朕は国民と共にあり』といわれるわれわれの家長たる天皇に訴えてよりよき方策をとって戴くことが何の不思議がありましょう」47)と主張する。野坂昭如は敗戦直後の飢餓線上におけるこのような心理を次のように回顧している。氏は当時から「天皇を嫌ってはいた」が、それでも「至尊が、お椀を差し出し、平伏してぼくが頂戴する光景を、いくたび思いえがいたことか」と述べ、こうした「妄想を、しごく現実的に抱いた」48)という。野坂氏は「陛下は国民のお父様、ならばこんな風に腹の減っている子供たちを、救けて下さって当然」と思ったのである。このような心理は家族国家観に基づく国民教化の結果であった。こうした心情は食料メーデーの大会決議による上奏文にも現れている。「わが日本の元首にして統治権の総攬者たる(原文はここで改行)  天皇陛下の前に謹んで申上げます」で始まり「人民の総意をお汲みとりの上、最高権力者たる陛下において適切な御処置をお願い致します」で結ばれるのである。共産党細胞松島松太郎によるプラカード、「國體はゴジされたぞ  朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」とは実に対象的である。 世田谷事件そのものは800名前後のデモであったが、食料メーデーには25万の民衆が詰め掛けたのである。もはや「天皇は国民の声を聴こうとされている。中間で邪魔だてする者があっては天皇も満足できまいし、人民の気持もおさまらない」49)状態にあった。その心情を次の投書は余すところなく伝えている。「陛下のそのお気持ちを直接知りたいのです。そして、それが何らかのかたちで現れることを期待する以外に、この行きづまりを打開する道はないと真剣に考えているのです。<中略>もしラジオなどで陛下の直接の御回答をきけたら国民はどれほど安心するか知れません。」50)。

 天皇の「食料難克服の御放送」はこの国民感情に答えるものとして行われた。この玉音放送以来の天皇の肉声による声明の発表は、5月24日の正午、午後7時、午後9時の3回にわたって放送された。同日、正午の東京銀座の様子は次のように伝えられている。「ご放送が始まる直前男は一人二人と脱帽する、通りがかった看護婦も脱帽、直立不動の姿勢」51)とある一方、「御放送に対する準備は一つも見られなかった。<中略>陛下のお声が流れ始めたが巷の雑音に消されて聞こえない」52)。このような無関心な一面は、一つには戦時の動員体制が解除され事前の告知が徹底しなかったためである。しかし、やはり天皇の権威の低下がこのような無関心を引き起こしていたと言える。この放送で天皇は「この際にあたって国民が家族国家のうるわしい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうちかち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつこれを期待する」53)と訴えた。

 この放送に対する反響は降伏宣言と比べると遥かに小さなものであった。それは「飽食三昧にふけっている特権階級の人非人どもをきつくおとがめになって、そのイントク食料を洗いざらい飢えたる人民の前にさらけ出せと命令されるだろうと期待していた」54)、「おそらくは農民に感激する程のものを与えまいと思う、むしろ皇室の財産を払下げるとでもいわれた方がうけた」55)とあるように一般に食糧危機という切迫した現実に対し効力ある具体的な施策を期待していたからである。宮城デモの中心となった世田谷下馬の住民は「この詔書を聞いた位で親しみは持てませんやっぱり私達の陛下になっていただかねば」、「心構え丈けでは腹はふくれません、もっと我々の米よこせ区民大会で決議した具体的な事項に対する御回答を我々は欲しいのです」56)と感想を述べていた。しかし、この国民の期待に実際に応えたのはアメリカからの救援物資であった。このため、“マッカーサーの母親は日本人である”といった話題が国民の間で1946年5月から7月にかけて熱心に議論されるようになったのである57)。これは天皇に求め得なかった父性のイメージがマッカーサーの出自に願望として投影されたためであろう。

 世田谷事件以後、国民が現実的な要求を求めて天皇に請願や訴えを集団的に行うことはみられなくなる。「家族国家なるものは一つの理想であるかもしれぬが、残念ながらわが国では『区々の利害』相対立し、無産大衆はあしたの生命すら保証されていない有様である。『区々の利害』は双方完全な一致を見るか、互いに歩み寄るか、どちらかが折れるほかはいつまでも対立するにきまっている」58)との指摘は食糧危機を前に家族国家という国民統合の理念が全く説得力を失ったことを示している。「忠孝一本」の原理はここにおいて分離し、上からの一方的な支配原理である「忠」の観念は戦後の意識形成の中でほぼ消滅した。食糧危機は家族国家への幻滅とその時代錯誤から天皇制の非政治化を国民の間で確認する契機となったのである。

 『民報』は社説「神秘はあばかれた」で当時の日本人の意識を「『天皇陛下』が放送されたということに対して何かしら特別な感情をもつのである。それだけで、ありがたいというような感じをもつのである」と述べている。しかし、この国民感情に対し「一国の元首の公式の大声明のうちこんな空虚なものがどこにあろうか?」59)と疑問を投げかけ、「国民大衆は、毎日毎日覚醒し、事実の本質を見きわめて行く」と結んでいる。しかし、この「特別な感情」は天皇制が民主主義に全く必然性のない制度であることを覚醒するには至らなかった。永末世論調査研究所はこの天皇制と民主制について次のような結論を下している。「天皇制に如何に封建的なる臭味が漂っていようとも、国民の多数がそれを必要とするならば、その統制力が最もよく国民社会の秩序を保持するものなのであって、此の多数の意志を合理的なりとしてそのままに容認する処に、デモクラシーの本質が存する」60)。天皇制と民主主義は国民統合と多数統治において相互補完的に戦後体制の正当性を構築したのである。

 

W 冷戦後デモクラシーに向けて

 

 戦後民主化は上から与えられた戦後といい、外から与えられた民主主義といい、国民の主体的な意志の下に形成されたものではなかった。この意味で東京裁判は主体的な批判への契機となるはずであったが、実際にはこの裁判自体の持つ虚構性が意識形成をさらに状況対応的にする結果となった。その虚構性とは、第一に国民自身の手による主体的な裁判という性格の欠如、第二に天皇の不起訴、第三にアジアの被侵略国の多くが検事団に代表すら送っていないこと、第四に自らの植民地主義を払拭し得ない戦勝国が日本の西欧本位の世界システムへの挑戦を文明の名の下に「野蛮」として断罪した点である。取り分け、天皇が不起訴になったことの意味は重大である。戦争の最高責任者であると同時に戦前・戦後を通じ国民統合の中心となっていた人物が免罪とされたことは、戦前・戦後を通じ天皇のためという思いを通じてなされた国民各人の行為をも免罪としたことになる。この結果、加害という側面から戦前の日本を直視し、そこから戦後を展望をするという主体的で批判的な意識が形成される余地はなくなったと言える。

 周知のように「東京裁判は事実上米国の日本占領政策の一環として遂行」61)され、そこにはアメリカの対日基本政策における非軍事化・民主化と、極東政策における日本の位置付けというダブル・スタンダードがあった。しかし、その一方でこのアメリカの極東政策と日本人の「内なる冷戦思考」が合致した面を見逃すことはできない。このことをある者はマッカーサーへの投書で次のようにに述べている。「共産運動者ガ跋扈スレバ必ズ我国ニ於テハソノ反動団体トシテ国粋主義団体ガ育成セラルナリ。共産主義者ト国粋主義者トノ闘争ガ各所ニ展開セラルヽ場合ニハ国粋主義ノ運動ハ必ズヤ軍国化、フツアシヨ化スル恐レアリ。故ニ日本ヲ真ニ平静裡ニ民主化セントスルナラバ共産主義運動ハ単ナル理論又ハ言論ノ空論ニ止メ実践運動ヲ禁ズルナラバ国民ハ反動的ナル国粋運動ニ共鳴セザルデアロウ。」62)。世論の圧倒的多数が天皇制を擁護していたということは、逆に見れば共産主義に対する反感もまた国民意識を形成していたということである。国民感情における天皇制擁護と反共主義が、国際秩序における冷戦構造と合致していたことをこの投書は明確に示している。この意味で象徴天皇制は、冷戦構造と国民感情の合作であり両者は相互補完的に天皇制と民主制の両立を正当化したのである。

 このように戦後民主主義は世界システムと国内システムの均衡点に位置付けられる。このため、戦後思想は戦後民主主義を「下から」の「内から」の民主主義へ読み変えようとする極めて困難で苦渋に満ちた作業を余儀なくされてきた。例えばそれは、次のような日本人にとって極めて良心的と思われるような総括に読み取ることができる。戦争に赴いた若者は「生き残った人達が協力して今までと違う日本を造って欲しい」という思いを抱いて戦場に向かったのであり、「断じて『侵略の加担者』ではない」、戦争犠牲者は「『日本国憲法』に化身して、平和の礎となった」63)という主張である。このような戦争犠牲者の死を悼む気持ちを以て民主主義の「生みの苦しみ」としようとする試みは『国民感情』に強く訴えるものがある。確かに我が国ではあの戦争を回顧し展望する度に、戦後の平和と民主主義を守ることが誓われ、それは戦争犠牲者への何よりもの「供養」として受け止められてきた。実に戦後民主主義を支えて来た民衆意識の底流には常にこの国民感情があり、この被害者意識において我々は戦後民主化を内からの下からのデモクラシーとして正当化することができたのである。

 しかし、アメリカ軍人の遺族にとって特攻隊はアメリカの艦船に体当たりすることで戦後の平和とデモクラシーに転生したという日本人の総括は果たして容易に受け入れられるものであろうか?。戦後補償や戦争責任についても、従来、これを日本の侵略を直接に受けた東アジア・東南アジアに対する問題として認識してきたが、昨今、オーストラリアやイギリスの元捕虜からも彼らが被った虐待について日本の戦後補償を求める声があがってきている64)。我々は同胞の戦争犠牲者の戦争責任を犠牲者ゆえに免罪しようとする心情を持って来たが、それは戦勝国の戦争犠牲を戦勝国であるがゆえに過小に評価してきた考え方と会い通じるものがあったのではないか?。戦争被害の重みはその当事者にとって戦争の勝敗とは全く関係がない問題である。従って、ここで引用した良心的と思われる回顧と展望もまた虚構性を前提としているのである。ここで改めて日本の戦争犠牲者は戦中どのような戦後社会を意図していたのか、そして、彼等にとって戦争目的とは何であったのかが、問い直されなければならない。重要なことは、戦前の日本人が戦後民主主義のために行った努力や犠牲はなかったという厳然たる事実を認めることである。天皇の名の下に「死の美学」を敢行する日本人は、戦後日本の国民統合には天皇が不可欠であることをマッカーサーに強く印象づけたはずである。この意味において戦争犠牲の代価は象徴天皇制に払われたのである。それ故、「与えられた民主主義」という虚構を「『日本国憲法』に化身」という虚構により克服しようとする試みには同意しかねる。

 冷戦後デモクラシーにおいて我々は戦後民主主義を支えてきた虚構性−与えられた民主主義と戦後状況、被害者意識による戦後の正当化、象徴天皇制、冷戦構造−にどう答えてゆくべきかという問題に突き当たらざるを得ない。それは過去を複眼的に、批判的に再認識することであり、安易にその虚構性を克服したり、清算したりするようなものであってはならない。このような過去(戦前)から現在(戦後)、未来(冷戦後)へむけた視座の構築は、自ずから、我々の目指すべきものが国内システムに止まらず国際システムの民主化をも視野に入れたものでなければならいことを示すであろう。それは単に大国本位の国際システムの改革に止まらず「歴史の民主化」を意味する。そこではいかなる運命、いかなる法則、いかなる政治力学の支配でもなく、我々の「状況に対する責任」が常に問われ続けるのである。

 

注 記

 

1) 浅沼和典「ファシズムの原理」、『比較ファシズム研究』成文堂(1982)、21頁。

2) 『文部省発表「国体の本義」の編纂配布に就て』、近代日本教育制度史料編纂会編『近

  代日本教育制度史料集第13巻』講談社(1964)、351頁。

3) 久保義三「国民学校教育における矛盾の諸相」、前掲『講座日本教育史』155頁。

4) 中内敏夫『軍国美談と教科書』岩波書店(1988)、28頁。

5) この点について太平洋戦争勃発時の国民の反応については、拙稿「開戦と日本人 ―

  12月8日の記憶−」『明治大学大学院紀要第27集』(1990)を参考。

6) 南博編『近代庶民生活誌4流言』三一書房(1985)。

7) 『東京新聞』投稿欄、1945年12月3日。

8) 『朝日新聞』投稿欄、1945年9月27日。

9) 『朝日新聞』投稿欄、1945年9月7日。

10) 『毎日新聞』投稿欄、1945年11月2日。

11) 日本世論調査研究所がラジオ放送座談会直後(推定11月21〜12月22日)に調査。『日

   本週報』第三号(1945年12月23日)、部分的に読売新聞(1945年12月9日)に掲載。

  総数3,348人中、天皇制支持3,174(94.8%)、天皇制否定164(5.2%)、中立10(0.3%)。世

   代別では、支持は19才以下97%、20代94%、30代90%、40代93%、50代96%、60代以

   上98%。不支持は、30代が一番高く9%。また、同放送への反響は各紙投稿欄(毎日

   新聞11月24日、朝日新聞11月28日、12月12日、東京新聞12月3日)に散見できる。

12) 天皇の人間宣言に対する国民の反応については、拙稿「マッカーサー元帥と天皇ヒロ

   ヒト−民衆に君臨する二つの権威と象徴−」、『明治大学大学院紀要第28集』(1991)

   を参考。

13) 『読売新聞』投稿欄、1946年1月19日。

14) 『毎日新聞』投稿欄、1946年1月22日。

15) 『読売新聞』投稿欄、1946年1月4日。

16) 『朝日新聞』1945年11月13日、アメリカ軍憲兵の印象談。

17) 『毎日新聞』1945年11月14日、外人カメラマンの感想。

18) 『民報』1946年2月28日。

19) 『朝日新聞』投稿欄、1946年3月2日。

20) 『毎日新聞』1946年3月1日。

21) マーク・ゲイン『ニッポン日記』筑摩書房(1963)、井本威夫訳、3月28日。

22) 「天皇制の民主化」とは形容矛盾であるが、当時は、このような表現を用いた。例え

   ば、人間宣言で詔書に初めて句読点が用いられたことは「詔書の民主化」と評されて

   いた。

23) 『読売新聞』投稿欄、1946年3月3日。

24) 『読売新聞』投稿欄、1946年3月7日。

25) 同上。

26) 『研究所だより』輿論調査研究所(1946年2月15日)、GHQ/CIE(民間情報教育

   局)、同調査は一部、大阪毎日に記載。調査表5000を配布、内回収2400。

27) 例えば、永末世論研究所『サーベイ』創刊号(1946年4月1日)、GHQ/CIEによる

   と、1946年2月の調査で全体(2937人)の僅か16%が「政治に無関係なら支持」を選

   んだに過ぎず、31%が「絶対支持」、42.4%が「修正して支持」を選んでいる。また、

   大阪世論研究所(GHQ/CIE、一部『大阪毎日新聞』1946年3月9日に掲載)が2

   月20〜28日にかけて大阪府高槻市で行った調査では、全体(387人)の54.5%が「天

   皇は大権を持つが、実際の政務は内閣が責任を持ち、内閣は国民から選出された議会

   に責任を持つ」を支持し、「天皇は儀礼的なことにのみ義務を持つ」を選んだのは3

   7.2%であった。

28) この間の経緯については前掲「マッカーサー元帥と天皇ヒロヒト」で検討した。ここ

   ではこの事件の反響と事件の当時者の意識についてさらに踏みこんだ分析を試みる。

29) 『読売新聞』投稿欄、1946年5月19日。

30) 毎日600、朝日800、読売2000人と報じている。

31) お通しものに平貝、胡瓜、ノリの酢の物。おでん種にまぐろ、ハンペン、つみれ、大

   根わさび。まぐろのさしみ。平目のから揚げ。他4品。

32) メーデー実行委員会は既に19日に飯米確保の運動を行うことを決定していた。

33) 『信濃毎日新聞』投稿欄、1946年5月22日。

34) 『朝日新聞』1946年5月19日、「デモに反対するもの五十通、これを是とするもの六

   通」であった。

35) 『信濃毎日新聞』投稿欄、1946年5月19日。

36) 『信濃毎日新聞』投稿欄、1946年5月22日。

37) 34)に同じ。

38) 『朝日新聞』投稿欄、1946年5月18日。

39) 34)に同じ。

40) 同上。

41) 『朝日新聞』投稿欄、1946年5月29日。

42) 34)に同じ。

43) 『毎日新聞』投稿欄、1945年12月22日。

44) この事件は共産党により指導されていた側面を持つので、その参加者の全てがこのよ

   うな心情を持っていたと断言することはできない。しかし、戦後、共産党に入党した

   人の中にはこのような心情があり、それ故、内面に葛藤を持った人も多くいるのでは

   ないかと思う。

45) 『朝日新聞』1946年3月1日。

46) 『民報』1946年5月21日。

47) 『信濃毎日』投稿欄、1946年5月22日。

48) 『天皇と日本人』朝日ジャーナル緊急増刊号(1989年1月25日)、27〜8頁。

49) 34)に同じ。

50) 『読売新聞』投稿欄、1946年5月21日。

51) 『東京新聞』1946年5月25日。

52) 『毎日新聞』1946年5月25日。

53) 放送での天皇のコメントは5月25日の各紙に原稿を持ってマイクの前に立つ天皇の写

   真と共に掲載された。

54) 『朝日新聞』1946年5月29日。

55) 52)に同じ。

56) 51)に同じ。

57) シブタニ・タモツ『流言と社会』東京創元社(1985)、広井脩、橋元良明、後藤将之訳、

   117〜20頁。

58) 『読売新聞』投書欄、1946年5月28日。

59) 『民報』社説、1946年5月26日。

60) 前掲、永末世論研究所『サーベイ』。

61) 大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』東信堂(1987)、149頁。

62) 拙稿「マッカーサーへの投書に見る敗戦直後の民衆意識」、『明治大学社会科学研究

   所紀要』第31巻第2号、30頁。この投稿は敗戦後間もない1945年11月5日付に書かれて

   いる。

63) 作間忠雄「論壇」、『朝日新聞』1993年9月11日。

64) 粟屋憲太郎「今、戦争犯罪を考える」、『史苑』立教大学史学会第52巻1号(1991.8)、

   1〜10頁。