ときどき、カメラのフラッシュが照らし出す光景は赤旗の林立とドス黒い学生の顔々。それらは苦悩に歪んでいた。
一定の手続きを踏まねば、一歩も入ることを許されない国会構内に、大衆の力で入ったことは、国家権力に対する激しい怒りをぶっつけた点で画期的な事件である。実力行使の持つ解放感が顔に滲み出ても当然なのに、何という鎮痛なデモなのか。私には最初に湧いた疑問であった。
....国会構内へ入ったことを高く評価した地方共闘からは、社会党、総評などのとった態度にものすごい不満があった。それは新聞論調に同調することへの不満よりも、構内に入った労働者、学生らのエネルギーを前向きに組織できなかった指導団体への不満であった。....この意味で十一・二七は安保闘争の第一の挫折となった。
市民の高まりといいながら、その実、国会デモに参加した人々は、"孤独な群集"ではなかったろうか。
歴史に参加するには組織が必要だ。組織を作るには真の連帯感が必要である。既成政党、労組はどれだけの連帯意識を持ち得たろうか。学生らの行動さえ大きく包むことが出来ないで、一人の女子学生を殺されたことを、真に反省すべきである。
全学連こそは異物中の異物であり、護憲の論理を採用するあらゆる党派、あらゆる組識、あらゆる機関の非難の的となった。しかし不思議なことに、彼らに対する暗黙の支持はかなり大きかった。護憲の論理で抵抗のすじを通しながら、心情においてはひそかに全学連に共感をよせる、といった人びとが、私の周囲にもまれではなかった。しかも、その人びとのなかには一見反動的と見られる人びともまじっている。ここに一つの問題点がある。
最前衛の全学連も、中衛の安保阻止国民共闘会議も、後衛の護憲的大衆も、農村にアピールする綱領を全く用意していなかった。
理屈としてはともかく、感情としては学生の気持ちはわかる、というのが、六対四、もしくは七対三で多かった。これが当時の人心である。
....ある貿易会社の中堅社員は、これで日米貿易は当分不利な影響をうけるだろうし、困ったことだと嘆いた。「しかしですよ」と彼は眼をパチパチさしてつけ加えた。「正直にいうと、私はやっぱり全学連が、あれをやったのも無理がないと思いますよ。どっちかと言えば、私は学生の方に味方しますね。」