憲法公布前後の国民意識の状況
共著『日本国憲法を国民はどう迎えたか』歴史教育者協議会編(高文研)より、
私の担当箇所「新憲法公布前後の国民の意識状況」の抄録
一九四六年一一月三日の情景
敗戦後、日本人は民主的な日本国憲法を熱狂的に受け入れたかのが如き印象を持たれているが...
この日、東京では午後二時より、皇居前で、東京都主催による祝賀会が開催され約一〇万人が参集した。同様の祝賀会は全国各地で開催されていたが、東京都の祝賀会には天皇夫妻が参加していたため、全国の新聞はその多くが東京の模様を報道していた。、
一一月三日は明治節(明治天皇の誕生日)の祝日にあたり、憲法公布の日の紙面はそれだけを見ると日本国憲法があたかも「恩賜」の欽定憲法かの如き印象を与えるものがある。
当日は、三笠宮、閑院宮等の皇族、吉田首相、両院の議長、安井東京都長官による祝辞が行われた。天皇、皇后は、午後二時三二分、「君が代」の演奏と共に会場に馬車で訪れた。会場ではたちまち、拍手と歓声がわき起こり、さらに、天皇が馬車からソフト帽をあげ会衆に会釈をすると、万歳の声がこだました。同三四分、天皇が登壇すると壇上の左右から鳩二五〇羽が放たれた。天皇は三五分に壇を降り閉式となったが、群衆は「両陛下」の周りに「殺到」、帰りの馬車は群衆の中を左右に迂回しつつ二重橋に向かった。天皇が実際に登壇していたのはたかだか六〇秒に過ぎなかったのであるが、この様子を伝えた紙面のほとんどは会場での天皇を写した写真を大きく掲載していた。
恩賜とは
実際、天皇、皇后の写真の一般への「下賜」が三日を期して行われることとなっていた。この写真はこれまでのいかめしい軍服姿の「御真影」と異なり、「平和日本国の象徴たる天皇の民主的なお姿として天皇御服常装」の天皇と通常服の皇后が写っているものであった。この「恩賜」は演出にとどまるものではなかった。日本国憲法の発布の日に大規模な恩赦の「御大詔」が「渙発」され、約三三万人に免罪、刑の免除、減刑、復権等が与えられた。これは最後の大権の行使に他ならない。
他方では、労働争議はいよいよ激しさを増し、新聞紙上においても、争議手段の是非や、ストか復興かをめぐる議論が頻繁に展開していた。労働者が権利を主張してゆく姿は戦前とまさに隔世の感がある。しかし、そうであればこそ、逆に憲法をめぐる議論が低調であったことが疑問に思われるのである。
『アカハタ』文化部長を務めていた中野重治は、宮城前の祝賀会に参加。その模様を『五勺の酒』で次のように記している。
「メーデーは五十万人召集した。食糧メーデーは二十五万人召集した。憲法は天皇、皇后、総理大臣、警察、学校、鳩まで動員してやつと十万人かきあつめて一分で忘れた」と、評していた。天皇が会場にいたのは僅か六〇秒、そのことを中野は「正味一分で、全てが終わつた。そして終つたとき始まつたことが僕をおどろかした」、「散つて行く十万人、その姿、足並み、連れとする会話、僕の耳のかぎり誰ひとり憲法のケンの字も口にしていなかつた。あらゆることがあつてそれがなかつた。たぶん天皇たちも、あれから帰つて憲法のケンの字でも話題にしたかよほど疑わしい」。
中野は「憲法よりメシだ」という経済的現実の対極に”憲法より陛下”という政治的理念がいまだ民衆意識に潜在していることを指摘したのである。
この戦後状況を天皇からの恩賜とみなす傾向はマッカーサーにより与えられた民主主義とあいまって、政治意識を「上からの」、「外からの」という二重の意味で状況対応的なものとしたのである。
敗戦前後、日本人の政治意識を規定していた国体観念の中心には天皇(制)がおかれていた。このため、敗戦直後から、戦後日本の政治体制をどのようにすべきかという議論は、いかなる憲法を制定すべきかという改憲の議論として展開した形跡は弱く、国体をどうするのかという天皇制の可否をめぐる議論として展開してきた。
憲法公布の日の対談で金森国務大臣は「国民から手紙がきますが、大体の気持ちは天皇制が確実な基礎の上に憲法に織り込まれたといふところに最大の満足をもつてゐる、そのほかの点はほとんど批評してきませんよ」(『読売新聞』一九四六年一一月四日)と述べているが、天皇制こそ改憲問題の焦点であった。
憲法草案への反響
草案提出前
民衆が求めていた天皇制が非政治化された、つまり完全に脱権力化された象徴天皇制と同一のものであったかどうかは疑問である。
永末輿論研究所によると、一九四六年二月の調査で天皇制について全体(二九三七人)の僅か一六%が「政治に無関係なら支持」を選んだに過ぎず、三一%が「絶対支持」、四二・四%が「修正して支持」を選んでいた。「支持せず」は四・一%い過ぎない。四割りの人は大権の縮小を志向するものの脱政治化に至ってはいない。
このように象徴天皇制(非政治化により脱権力化する)という発想はこの時点では必ずしも民衆の側にあったとは言えず、むしろ、天皇(制)に政治的なものを期待する傾向は強かった。それを仮に、少ないと見積もったとしても、天皇へ何がしかの政治的権能な期待をする傾向と天皇制の非政治化を求める傾向は拮抗状態にあり、さらにそれは個々人の内面においては両義的な、葛藤状態にあったと判断するのが妥当であろう。
憲法草案の民衆への影響とその評価
三月六日、政府は新憲法の草案を発表しマッカーサーはこれに「深き満足の意」を表明した。この声明からある者は「名称は草案であつても、その本質は確定したものではないか」(『毎日新聞』投稿欄一九四六年三月一〇日)と寄せている。
この発言にも見られるように当時、憲法の自主的な制定という気概は全く感じられない。この草案をめぐる民衆の反響を分析してみることにする。
内閣審議室世論調査班では政府の憲法草案について、新聞・ラジオを通じて投書を求め、その分析結果をGHQに提出していた。それによると放送日(三月八日?)から同月末までに総計一七七七通の投書が寄せられた。残念ながら、投書はその集計結果が残っているのみで、その個々の内容を知ることはできない。しかし、この一七七七通のうちで試案草稿を記したものはわずかに五通であり、自由民権期における多様な憲法草案の存在を思う、質的には低調と言わざるを得ない。
一九四六年八月、時事通信社は全国二四五三名に対する調査で「今議会に提出されている憲法改正案をどう思いますか」という設問を設定している(注13)。「ゆきすぎである」と回答した者が一四二名(五・八%)、「満足に思う」が一〇五三名(四二・九%)、「不満足に思う」が七五八名(三〇・九%)、「わからない」五〇〇名(二〇・四%)という結果を出している。つまり、「ゆきすぎ」と「不満足」を合わせると全体の三六・七%が草案に対して批判的である。「満足に思う」との差は僅かに六・二%なのである。
永末輿論調査研究所では憲法公布後、象徴天皇制について世論調査を行っている。それによると調査対象者二七一七名のうち、八六九名(三二%)が「天皇にもっと政治の権能を与えた方がよい」を選択している。草案の支持は一四一九名で五二・二%。「天皇の憲法上の権能をもっと少なくした方がよい」が一九〇名で七%。天皇制廃止が九〇名で三・五%である。象徴天皇制の支持並により共和主義的な見解を総計すると五九・二%となり、反動化への有効な拮抗を形成していると言える。しかし、この段階で依然、大権を志向するものが三割り以上いるのである。
さらにこの調査結果を同研究所の二月の調査と比較すると天皇制についての意見分布にはさして変化が起きていないことがわかる。二月の調査で三四%であった「絶対支持」は二%減少して「権能をもっと与えよ」に移行し、「修正して支持」と「政治に無関係なら支持」を合わせた五八・四%が、一一月の「草案支持」と「権能を縮小」を合わせた五九・二%に相当し、「支持せず」の四・一%は若干減少している。これを見ると、一般の民衆の間での「国体」観念の変革は、八月一五日に一つの大きな転機があり、それ以降、日本国憲法の草案提出からその審議、公布に至るまで余り大きな変革はなかったと言える。
憲法実施へ 一九四七年五月三日の情景
一九四七年五月三日、日本国憲法は実施されることとなった。当日は雨。午前一〇時、憲法普及会主催による記念式典が、宮城前広場で開催された。この日の永井荷風の日記は「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑う可し。」(「断腸亭日乗第三一」五月三日付、『荷風全集』第24巻、岩波書店)と、荷風らしく醒めた筆である。金森国務大臣の閉式の辞が「終わらんとするとき、とつぜん『君が代』が奏され、雨で御臨席をお取止めとなっていた天皇陛下がにわかに御出席になられた」(『読売新聞』一九四七年五月四日付)。傘を持ち壇上に登った天皇に、「天皇陛下万歳」が渦のようにわき起こった。新聞各紙は宮城前の「天皇陛下万歳」の模様と壇上の天皇の写真を伝えると共に、各地の慶祝ぶりを報道している。しかし、『朝日新聞』によればこの日、宮城前に参集したのは約一万、公布の日の一〇分の一程であった。
横浜の一市民、小長谷三郎は、この日、「民主主義憲法の発足を喜び大いに祝賀すべきであるのに、どうしたものか自分には他人事の様に思われてならない。従って今の自分にはこれに対する何の感想もない。直接身近に感ずる事も無いし、また新憲法が発布されたからと言って吾々の生活が楽になると言うわけのものでもないからだ」と記している。憲法実施に対しこれを祝賀する実感がないのである。作家、高見順はこのことをこう自問自答する。「今日は新憲法発布という歴史的な日である。一つの政治的な事件である。しかし、私は全く無関心である。私だけのことか?否、日本の精神世界にとって、それは関心の外にある『画期的な事象』である。天降りのものだから? 闘いとったものでなく、与えられたものだから?」(『高見順日記』五月三日付、勁草書房)。
果たして、これは高見順の「私だけのこと」ではなかった。一九四七年七月、時事通信社は全国四〇〇〇名に対し「あなたは新憲法の条文とか説明などを一とおり読んだか聞いたことがありますか」という世論調査を行った。「読んだ」と回答した者は五九・三%、「読まない」と回答した者が四〇・七%であった。
仮に当時、日本国憲法を支持していたものを八割とし、さらにそれが憲法を「読んだ」ものの八割りであったとしたら、それは全体の四七・四%であり半数にも満たないことになる。かなり多めに見積もって九割りとして、やっと五三・四%となり過半数を越えるのである。「読まない」けど賛成する人もいるという想定をとると、今度は賛成の人の約四割は”読みもしないのに賛成した”と言うことになる。憲法支持に対する「国民的」合意の形成は、五五体制以降、六〇年代に定型化されたものであり(注19)、制定時の民衆の憲法に対する理解には相当にあやふや、もしくは、危うげな点があったのである。