井上ひさしの読書眼鏡 
『読売新聞』2003年1月26日 
覆った日中戦争の常識

 たとえば、太平洋戦争前夜の昭和十六年(一九四一)六月ごろの日本の事情について、わたしたちは次のような「常識」を共有しているのではないでしょうか。

 そのころ、五年目を迎えた日中戦争はいよいよ行き詰まっていた。日本の軍隊は中国大陸に釘づけにされたままヽ戦いはすっかり泥沼化していた。それなのに、日本の支配層は、米国の出方にぴくぴくしながらも、南進(南部仏印進駐方針)を決めようとしていた。軍事力が消耗しつつあるときに、なんておろかな決定をしようとするのだろう。

 ところが、この「常識」は、昨年のピュリッツアー賞を受賞したハーバート・ビックス(ニューヨーク州立大学)教授の『昭和天皇』(吉田裕監修、上下二巻、講談社刊)によって、簡単に覆されてしまいました。ビックス教授は、この泥沼化していた日中戦争こそが、じつは日本の軍事力を充実に向かわせていたというのです。具体的な数字を上げればこうです。

 〈中国での四年と五力月におよぶ戦争によって、陸軍は一九三七年七月には一七個師団ヽ兵員二五万人であったのが、一九四一年一二月八日には、五一個師団、兵員二一○万人へと拡大していた。〉
 中国大陸で兵員と物資を消耗していたはずなのに、なぜこんなふしぎな算術が成立するのか。各種資料を駆使しながら、教授はその種明かしをしています。
 〈中国での軍事作戦は補給が極端に少なかったため、強奪・略奪が広範に行われ、占領地では直接軍政を敷くより、むしろ日本が後押しする「傀儡」政権が設立されていた。その間、毎年、本来は対中国戦争のための戦費である臨時軍事費のうち大きな部分が基本的な戦力の充実に転用された。こうして日本の軍備は陸海軍が太平洋戦争を敢行することができると判断する水準にまで達していた。この意味からすると、中国は日本の軍事支出の抑制要因を除去したことになる。日中戦争は軍事予算の拡大を正当化し、さらに軍事予算そのものの源泉ともなったのである。日中戦争がなけれぱ、陸軍も海軍も、たとえそれを望んだとしても、一九四一年遅くに、南方に軍を進出させるという賭けにでることはできなかつたであろう。〉

 「現地調達で軍費を賄うやり方」は、ナポレオンの得意手でしたが、日本軍もこれを採用したわけです。「とにかく今は戦争中なんだ」と云って膨大な予算を分捕る。たしかに戦争していることには違いないから、だれも反対できない。分捕った予算の大部分を「現地調達」で節約する。そしてぞの節約分を戦力整備に回す。このようにして、ある意味では「ごく自然に」南方進出の体力がついて行ったと、教授は云うのです。

 なるほど。

 じつは、この「なるほど」が連続して登場するのがこの本で、しかも訳文は堅実、そ のためにじつにおもしろく読めます。「昭和天皇の言動を通して見た昭和の日本」とい拵(コシラ)えですから、昭和史の勉強にも、もってこいでしょう。ただし、戦前の天皇が常に「領土の拡大」と「戦争への情熱」に燃えていたという、教授の仮説には、多少の疑義があります。わたしの意見では、天皇は「好機便乗態度」で一貫していました。

 同じ時期の陸軍省の時局処理案に見える好機便乗態度(北に出てソ連を叩くか、南に出て南部仏印を獲るかは全く今後の欧州情勢任せ)、これがじつは天皇の態度でもあった。そして天皇は常にそうであった。日本人には優れたところがいくつもありますが、しかし、この無方向な好機便乗主義は、いまだにわたしたちの、天皇譲りの痼疾(コシツ)となっているような気がいたします。

fffff