講 演 「ネットワーク社会の文化と法」

(講演要旨に基づくリフォーム版)

by 夏 井 高 人


1997/11/15

主催:明治大学情報科学センター研究専門部会

共催:情報文化学会

後援:明治大学学長室

場所:明治大学和泉校舎第一校舎第一会議室



◆ はじめに

 ただいまご紹介にあずかりました夏井です。

 私は,この3月まで東京地裁で裁判官をやっておりました。たしかに,裁判という仕事のかたわら「コンピュータ法」に興味を持ち,研究を続け,いくつかの論文とか評論などを書いてもまいりました。しかし,私は,これまでずっと裁判官を天職だと考えておりましたし,また,特に学位なども取得していませんでしたので,まさか,いずれ大学で法を研究したり教えたりすることになろうとは,夢にも考えておりませんでした。

 ところが,明治大学の先生の中に,私の書いてきたものに目をとめてくださった方がおられたようです。思い出してみますと,昨年の8月末ころのことです。かつて人工知能関係の研究会でご一緒させていただいたことのある某先生から,突然,裁判所の私の部屋に電話がかかってまいりました。それは,「明治に来てみませんか」というお誘いの電話でした。明治大学からのお誘いは,私の身に余るありがたいものだと思いましたし,単純に感激もいたしました。でも,裁判官の仕事は私が誇りにしてきた仕事でしたし,家族のことなんかもありますので,あれこれいろいろと悩みました。裁判長や信頼できる友人などに相談したりもしました。それでも,結果として裁判所からスピンアウトすることを決断したのは,折しも,現在の日本(というよりも世界)が置かれている恐るべき時代環境と法の激変という歴史的事態を目の当たりにしながら,「一人の法学研究者として何かしなければならない。このままでは世界から正義が失われてしまう。それなのに,法律実務家と法学研究者とがちっぽけな日本の中でいがみ合いを続けているのは,どう考えてもまずい。」というような一種の焦燥感にかられていたからです。私は,思案の末,明治大学からのお誘いを承ることにいたしました。そして,この4月から明治大学の法学部で「法情報学」と「情報文化論」を教えているという次第です。

 さて,本日お話しさせていただくのは,「ネットワーク社会では文化現象としての法がどのように変化するのか」という問題についての私なりの考察結果と近未来予測です。この問題について,まず,文化論的なアプローチから入りたいと思います。次に,これまでの法学方法論とか法律実務における発想だけでは対応できない構造的問題を検討しながら,さらに,これから考えていかなければならない事柄のいくつかを指摘するという順でお話しお話をしてみようと思います。

 では,本題に入ります。

§1 ネットワーク社会の到来

 現在世界は,ネットワーク社会に入りつつあります。「入りつつある」というのは,地球全体がそのようになってしまっているわけではありませんけれども,地域的あるいは事柄的にものすごい勢いで社会システムのネットワーク化が進んでおり,そのネットワーク環境それ自体の中に一種の社会が形成されつつあることを否定できないように思われる,ということです。

 たとえば,インターネットを見てみますと,インターネットが広範囲に普及しているのは,たしかにアメリカ合衆国,日本,イギリス,ドイツ,フランスなどのいわゆる先進国だけです。コンテンツの分量からしますと,アメリカ合衆国内のサイトが持っているコンテンツがほぼ圧倒的だと見て間違いないと思います。その意味で,インターネットは,地理的な意味でグローバルなものにまで行ってはいません。しかし,事柄別に見てみますと,たとえばシンガポール,韓国,南アフリカ,オーストラリアなどの国々,EUやASEANなどの地域では,裁判関係の非常に重要な情報がインターネットを経由して流通し始めております。この先不透明なところが少なくないですし,シンガポールやマレーシアなどに見られますように国家政策の観点からインターネットの検閲を強化しているところもあるます。しかし,たとえばマレーシアでは,スーパー・コリドール計画というのがあって,すべて電脳化された政府機能を持つ新首都の建設が進められております。アメリカ合衆国やイギリスなどのサイトの中には,ボランティアを含め,インターネットを基盤とするさまざまな種類の人的ネットワークが活発に活動しております。有名なアマゾン書店のように,インターネット上のショッピングとか商品情報の検索もかなり充実してきました。日本でもアマゾン書店をまねて,紀伊国屋とか丸善などが書籍検索サービスを開始しております。インターネット上のジャーナリズムというものかたちも見えてまいりました。日米の大学では,インターネットへの対応が急速に進んでおりまして,我が明治大学でも,すでにMINDというネットワーク・システムを持っておりますが,1998年度には,駿河台に新校舎(リバティー・タワー)が完成し,これまで以上に円滑で充実したネットワーク環境を利用できるようになる予定です。

 他方で,19世紀以来の工業化社会を特徴づける産業は,主要な生産拠点の東南アジア地域へのシフトなどもあって,すでに世界的な規模で飽和的な状況に達しているのでして,いわゆる先進国だけではなく,後から追いかけてきている国々にとっても,今後は,情報ネットワーク・システムそれ自体とかネットワークの中で動くコンテンツへの投資によって利潤を生みだしていくということくらいしか当面見込みのある産業がないという状況もあります。そういう状況変化の中で巧みに投資と利潤の回収に成功している企業こそが現代世界のキーとなる企業です。たとえば,アメリカ合衆国のマイクロソフトとかオラクルなんかをその例に挙げることができましょう。

 このような動きを見てまいりますと,おそらく,地理的な意味での国家毎あるいは文化圏ごとに早い遅いの違いはあっても,いずれ,「ほとんどの国々がインターネットで相互接続されており,その中では国境というものが意味のなくなっているような地球」というものへと移行することは,ほぼ間違いないことだろうと思われます。

§2 起きつつある変化

 1 人と人との接触のグローバル化

 江戸時代の日本では,旅をするということは命がけだったかもしれません。戦国時代以前には,たしかに流刑は禁固刑以上の重い刑罰に相当するものだったと思います。それでも,戦乱の時代が終わりますと,少しは安全な交通と旅行ができるようになりました。たとえば,中里介山の『大菩薩峠』を読みますと,主人公の机竜之介が東海道を行ったり来たりという情景が描かれております。また,松尾芭蕉の『奥の細道』を読んでみますと,奥州街道の旅が結構楽しいものであったかのような錯覚に陥ります。しかし,実際には,お伊勢参りに旅立つために神仏に祈願したり水杯を交わすなんてことがあちこちの村で見られたわけでして,とにかく遠くへ旅をするのは大変なことだったようです。しかも,封建制時代には,あちこちに小さな領主が割拠していて,関所を通る毎に通行税を課したり通行手形をあらためたりもしていたのですから,おそらく,当時は,人生のうちで一度も自分の村を離れたことがない人の数ほうが旅行経験をした人の数よりも圧倒的に多かったのではないでしょうか?

 ところが,その後,近代的な主権国家が成立し,道路網が整備され,鉄道が敷設されるようになりますと,少なくとも国内旅行だけは割合と自由になったのだろうと思います。とは言っても,現代のように新幹線や飛行機を使ってあちこち日帰りでビジネス出張をするようになるのには,交通機関の発達を待たなければなりませんでした。たとえば,私は岩手県の出身なのですが,かつては盛岡から東京まで出てくるのがとっても大変なことでした。一番早い特急列車に乗っても,私の小さいころは蒸気機関車だけでしたから,7時間以上も揺られていなければならなかったんです。今では2時間半くらいで盛岡に行けますし,週末やバカンスを盛岡で過ごす著名文化人とか芸能人なんかも増加しているようです。そのせいかどうか市内中心部の地価が急上昇してしまって,もともと盛岡に住んでいた人たちが郊外の住宅地に追いやられているというようなことまで起きているようです。それでもなお,ごく最近まで,海外へ行くのはハネムーンの時くらいだけでした。私が小さいころは,たしか,海外どころか熱海とか日南海岸あたりに新婚旅行に行くだけでも立派なものだったはずですね。また,日本の学生が海外の学生と交流するためには,ペン・フレンドになることくらいしか方法がなかったと記憶しております。でも,今では,何だかんだと言っても高度経済成長によって日本が豊かになったこともあるのでしょうが,ジェット機でどこへでも飛んで行くことができますし,自分の望む国でホームステイをしながら勉強している学生も決して少なくありません。私の講義を受けている学生の中にも,この夏の休暇期間中にインドネシアに行ってきたとかアフリカに行ってきたとか,そういうのがうじゃうじゃいるわけでして,正直言って,時代の変化というか世代の違いといいますか,そういうものを感じないわけにはまいりません。このように,交通機関の発達は,人類の相互接触の可能性を飛躍的に高めてまいりました。

 しかしながら,現実に人間が移動するのである限り,人と人との接触の分量には限界があります。ところが,インターネット上のWWWとか電子メールとかが出現しますと,この限界がやすやすとクリアされてしまいました。人間の物理的移動がなくても,ネットワークが接続されているところである限り,世界中のどこにでも瞬時に飛んでいくことができます。そういう時代が到来したわけです。

 2 財の移転のグローバル化

 次に「財」という観点から考えてみます。

 財というのは経済学の用語でして,英語で言えば goods に当たるものです。普通の言葉で言えば「財産」を意味するというように考えて差し支えないと思います。
 ところで,これまでの世界では,財というのは実際に目に見えて,現実に手で触れることのできるようなものを中心に考えておりました。今から約200年ないし300年くらい前にできあがった現在の民法のシステムもそのような意味での財をめぐる支配のコントロールを目的とする社会的装置(ツール)として組み立てられております。ですから,たとえば私が学生に民法を教えるときも,私のワイシャツの胸ポケットの中に入れてあるタバコの箱を取り出して見せながら,「え〜,私がJRの駅の売店で店員に対してこれを売ってくれと言ったら,法的にはどういうことになるかな?」なんて質問をすることがあります。これは,タバコという現実的な財産とコインという物体としての金銭との交換という現実的な例を用いて,売買契約(民法555条)を理解するための授業をしていることになります。おそらく,法学部の多くの先生方がそのような説明の仕方で授業をやってこられたと思いますし,それはそれで正しいことです。少なくとも,現在の民法典や商法典の中に電子取引(エレクトロニック・コマース)を前提にした条文が存在しない以上,そのような講義をしていれば,法学部の先生の授業としての必要条件を満たしたことになろうかと思われます。

 ところが,近年の世界状況を見ますと,いま説明したような意味での目で見えて物理的に触わることができる財産の交換ないし移転という方式とはまったく異なるタイプの取引,とりわけ電子的な方法による経済取引や資金決済というようなものが増えてまいりました。

 つい数ヶ月前だったと記憶しておりますが,日本の港湾業務に関して非常に厳しい国際摩擦が発生しそうになった,というかまだ解決していないのですけれど,そういうことがありました。その国際摩擦の主要な原因の一つに,船荷証券とか荷為替なんかの電子化の問題があると言われております。つまり,日本の商法では,そういう証券類は,紙に書かれたものでなければならないことになっておりますし,日本の通関事務もそうした紙に書かれた書類による手続きを前提にしております。しかし,国際海運業務に関しては,先進国だけとはいえ,電子的な決済がかなり実用化されてきておりまして,迅速かつ集中的な流通管理という観点からしますと,そのような傾向が今後ますます拡大していくことになるだろうと予測されます。ところが,日本政府がそのような電子化された海運業務に対応しようとしていないために,まあ一種の「非関税貿易障壁」だと攻撃されてしまうわけです。他方では,海運以外の資金送金とか貿易決済の場面でも電子資金決済が相当広範囲に行われております。こういう電子的なものを別としましても,実際の商取引の基本的な決済手段は,皆様もよくご存じのとおり,現金ではなく約束手形とか小切手のような金銭価値を表す有価証券によってなされております。世の中の大半の売買契約では現金が登場することがないんです。現金の存在が問題化するのは,手形決済の資金がショートした時だけかもしれませんね。普通のサラリーマンにとって一番身近な賃金とか給料だって,銀行の振込送金が原則化しております。クレジット・カードの利用もかなり普及しておりまして,たいていのことはキャッシュとかコインなしでもやれるようになっています。金額の大きい取引で今でも現金の交付を重視しているのは,例の「なにわ金融道」の世界くらいだけかもしれません。

 このような非現金化という傾向にさらに拍車をかけるものが現代社会には登場しつつあります。それは,言うまでもなく「電子マネー」です。現在のところ,電子マネーとして実用化されているものは,ICカードを利用した一種の電子財布のようなものでして,電子マネーの発行会社も「電子マネーは通貨ではない」と力説しております。しかし,電子マネーの本来めざしている姿は,ネットワーク上で主権国家の通貨発行権とは無関係に発行・流通するネットワーク型の電子マネーなのです。ところで,「通貨」というのは,ほぼすべての国で中央銀行(日本では日本銀行)だけが発行権を独占していて,それによって,各国の中央銀行が発行するキャッシュやコインに国家的な強制力(通用力)を持たせています。ですから,もし電子マネーが通貨の本質を持っているとすれば,直ちに国家権力との矛盾・衝突というものが発生してしまうんですね。でも,どのような詭弁や弁解的な説明を持ってきたとしても,電子マネーがその本質において「通貨」であることは間違いありません。少なくとも,電子マネーは通貨と同様の事実上の強制通用力を持っている,ということを否定する学者はいないようです。電子マネーの発行会社がうっかり口をすべらせて「実は,電子マネーは通貨なんです」なんて言ってしまいますと,どの国の政府でもたちまち電子マネーの圧殺にかかるだろうということは誰にでも容易に推測できることです。ですから,口が裂けてもそれが通貨だなんて言えない,というところでしょうか。いずれにしても,ICカード型の電子マネーは,いわば過渡的で中途半端な存在だというべきだろうと考えます。

 で,いずれ近い将来,ネットワーク型の電子マネーがネットワーク社会に流通するという仮定の上で考えてみますと,そこに流通している電子マネーは,最も抽象化された観念的な商品である金銭価値を示すための一種のデジタル化された「トークン」であるということになりましょう。電子マネーの本質が金銭価値の電子的な運搬手段としてのトークンであるとするならば,結局,財の移転そのものが直接に電子的な方法でなされるということを意味します。しかも,グローバルなネットワーク社会でネットワーク型の電子マネーを発行するのは,おそらく,どこかの国家とか世界連邦のようなものではなくて,電子マネーに関する事実上の標準(デファクト・スタンダード)を獲得し,かつ,巨額の信用供与力を有する世界企業になるだろうと予測されます。そこでは,個々の主権国家の通貨発行権は無視されます。これが次にお話しする主権国家の崩壊の問題の入口ということになります。

 3 主権国家の希薄化

 主権国家というのは,現在生きている日本人が普通に「国家」だと思っているような国家のことです。そこでは,国家が領土権を持っていて,その領土内で独自に法律を定めたり,裁判をしたり,通貨を発行したり,税金を徴収したりすることができるということになっております。

 しかし,ここまでお話ししたところにもすでに出ておりますように,これまで主権国家が主権国家だというために必要だと思われていた主要な要素のうちのいくつかが崩れ始めております。ネットワークを利用すれば国境と時間の壁を超えて人と人との交流や情報交換が可能になる,ということは,関所や税関なんかを設置して人の移動に伴う情報流通をコントロールしようとする主権国家の支配可能性を根底から崩壊させることになります。これを防ぐための方法は,情報検閲と徹底した情報弾圧しかありません。現在,実際に情報検閲を実施していると公言している国も決して少なくありませんが,情報弾圧まで成功しているかどうかは分かりません。今後,データの暗号化技術が一般人にとっても理解可能で容易に利用できるものになっていくとすれば,情報検閲を漏れなく実行することが難しくなるでしょう。そうなりますと,国家全体としてインターネット接続を禁止するとか,そういう方法を選択するしかないわけですが,現在の世界での貿易の非常に大きな部分がすでにインターネットを中心とするネットワークにもたれかかってしまっている以上,国家的な規模でインターネット接続からの離脱を選択するということは,直ちに国家の滅亡を意味することになろうかと思います。また,もしネットワーク型の電子マネーが本格的にしかも大量に流通し始めますと,主権国家の持っている通貨発行権というものが意味のないものになっていくことになります。現実に,国家の通貨発行量による経済コントロールという手法は,この手法は「孤立した独立国家」などという架空の存在を前提としていたのですが,それは,もうとっくの昔に破綻してしまっています。その原因は,現代世界においては,国際取引と国内経済とが密接不可分な関係になってしまっていて,為替レートの変動とかどこか知らない国の景気動向なんかが直接にどの国の経済状況にも影響を与えるようにまでなっている,ということに求めることができましょう。それゆえ,先進国首脳会議とか国際的な外相会議なんかが頻繁に開催されることにもなるわけですが,世界は,もはや先進国の話し合いだけではどうにもならないところまで来ているように思われます。それでも,各主権国家が通貨発行権を頑固に守り続けている限りは,これまでのような解決手法が全然無意味になるというところまではいかないだろうと思います。しかし,そのような世界の状況の上に主権国家とは無関係なネットワーク社会が形成され,しかも,そこでは主権国家のコントロールとは無関係にネットワーク型の電子マネーが流通するかもしれないんです。通貨のコントロールは,税金の徴収が確実にできるかどうかという問題とも密接な関連がありますから,電子マネーは,伝統的な主権国家の税金徴収権をも脅かす存在だ,ということもできると思います。そうなりますと,主権国家に残されている独自の権限は,いずれ,現在の時点での州とか県の持っている権限かそれ以下のものになっていくことになるだろうと予測できるわけです。

 このように,これまでの国家が持っていたはずのさまざまな機能がうまく動かない,他の国の政策とか経済状況あるいは文化というものとの摩擦を解決したり協調したりすることなしに,それぞれの主権国家が「自分は自分だ」といってそれぞれ勝手にやっていられる部分が少なくなってきた,ということは,経済問題としてだけではなく,法の問題としても同様に起きてきております。これが,次の話題ということになります。

 4 法システムの機能不全

 現在存在している国家は,それぞれ固有の法システムを持っております。

 その法システムは,形式だけに目を奪われますと,非常に立派で完全な構築物のような姿をしています。ですから,法学者の中には,「美しい。ゆえに正しい。」なんてことを平気で言っている人もありましたし,それだけで自己満足している人もいなかったわけではありません。しかも,そのような人々がどこの国にもそれぞれ一定の数存在しておりました。

 ところで,そういう人々がなぜ自国の法システムを「美しい」と感ずることができるかというと,それは,「それぞれの法システムを支えている文化的基盤と同じ社会的ないし外的な文化的基盤の中で育ち生活することによって培われた内的文化環境を持っているからだ」と言ってほぼ間違いないと思われます。昔,ヘーゲルというたいへん偉い哲学者がおりまして,「法は,民族精神の現れである」と主張しておりました。これは,まさに,ほとんど正確に,こういう意味での法システムの本質を言い当てた表現だと思います。

 ですが,そうした「美しい。ゆえに正しい。」と言って感激の余り目に涙するような類の学者の多くは,そこでいう「正しさ」なるものの持つ極端な主観性とかローカルな文化性というものを真正面からは承認しておりません。そのことから,異なる国の間で異なる法システムどうしの摩擦とか衝突が起きますと,その解決には大変な苦労が必要になるわけです。でも,これまでの世界では,人類は,長い時間をかけでてもどうにか問題を解決しようとしてきましたし,そういう努力の中から,グロティウスというこれまたとても偉い哲学者が出てまいりまして,その後,国際法とか国際私法というような学問も発達してきたわけです。

 しかしながら,現実に国境を超えて世界的な展開を見せている国際取引の世界では,すでに国家間の調整とかそういう伝統的な方法が捨てられ始めております。どういうことかというと,後で§3のところでお話しいたしますように,プラグマティックな世界では,「法」は,それが正義に適ったものであるかどうかとはまったく無関係に,目的合理性を追求し,自己のアプローチを合理的に説明するための素材あるいはツールの一つとして存在するのに過ぎないのです。そのために,国際取引上のトラブルを避けるため,あるいは,トラブルを可能な限り早期に解決するために,それぞれの国の弁護士とか法律家は,一所懸命知恵をしぼって,とにかく当事者双方にとって最も多く満足できて,しかもすぐに裁判をしてくれるような国の法律はどれか,ということを常に考えております。そして,そのような国とか法律とかが発見されますと,国際的な裁判管轄とか適用法に関する合意を契約書の中に予め盛り込んでしまったり,そういう内容の示談をさっさとやってしまっておいて,とにかく都合のいい裁判を受けることができるようにと奔走するんですね。そういうわけで,日本国内でもアメリカ国籍とかイギリス国籍とかの弁護士がものすごくたくさん働いております。そして,それが失敗したときだけ,「貧乏くじを引いた」と言うんでしょうか,どこかの国のどこかの裁判所が冷や汗をかきながら必死になって裁判をすることになるんです。が,私のこれまでの経験を踏まえた実感といたしましては,経済的な視点から見て意味のあるような重要な案件のほとんどすべてが日本国の裁判所から逃げてしまっているように思われます。正確には,全然事件がないわけではありませんが,日本の裁判所には,基本的に,いわゆる「屑事件」しか来ません。私は,その原因について,かなり多数の企業の法務部長さんとか弁護士さんとか,まあいろんな方々と意見交換をしてまいりました。 そして,たいての場合一致する意見というのは,要するに,「日本の裁判所の裁判が非常に時間がかかる」ということよりも,むしろ,「日本国において適用される法というものがさっぱり見えないことに一番大きな原因がある」というあたりに要約できそうです。ここで「適用される法が見えない」ということは,「紛争の解決に向けた将来予測が非常に困難になる」ということと同じことです。
 法律というものは,それ自体で正義を実現するための力を持っているわけではありません。その法律が前提としている社会システムとか経済システムとうまくマッチしている時においてのみ,法律は,社会コントロールのためのツールとしてうまく機能し得るものです。ところが,さっきお話ししましたとおり,民法にしろ刑法にしろ,かなり昔の社会システムとか経済システムの上に乗っかって機能するように設計されておりますので,グローバルでボーダーレスな現代社会では,うまく機能しないところが随所に出てきてしまいます。たとえて言えば,現在「法律」という形式で存在しているものは,いわばセミの抜け殻みたいなもので,裁判官も検察官も弁護士も,それぞれしがみつき方が異なるとはいえ,必死になってそのセミの抜け殻にしがみついているというのが真実の姿だと思います。セミの抜け殻は,要するに実質のない形式だけですが,現実の裁判では,まさにその実質部分が問題となります。そして,その抜け殻にどのような実質を押し込むかについての最終的な決定権を持っているのは裁判官だけです。ですから,「たしかに形式は明確だけれども,その実質がどうなるかのが全然見えない」というようなことになってしまうわけです。これが,司法システムの機能不全の一つの根元ではないかと考えられます。

 他方で,ネットワーク社会は,もう一つの重要な問題を提起しております。それは,文化としての法と法との衝突という問題です。

 これまでの世界では,文化現象としての法と法との衝突が起きた場合,外交ルートを通じた交渉によって問題の解決を図ってまいりました。主権国家の内部にいる個々の国民が直接に他の国との間で交渉するということはほとんどなかったしありませんでしたし,国際法の専門家の間でも,国際社会における個人の交渉権を認めるという立場をとる人は少なかったのです。
 ところが,国と国との交渉という手続きや国際法上のルールとは無関係に,インターネットをはじめとするグローバルなネットワーク空間では,個人の文化と個人の文化とが直接にぶつかり合います。幸か不幸か,現在までのところ,インターネットが広範に普及しているのはいわゆる西欧的な文化圏に属する国々だけです。しかし,今後もしインターネットがさらに拡張するとすれば,非西欧的な文化圏に属する国々にもグローバルなネットワークが拡張いたします。正確に言うと言いますと,現在でも,国内に多様な民族や宗教をかかえて政治的な不安定要素を持つ国々では,情報検閲などを含めて,インターネットへの対応に苦慮しているというのが実状です。しかし,このような地球全体から見ると比較的小規模のエリアに限定されていた問題が,次第に地球全体の問題となっていくのに違いありません。

 法が法として力を持っているのは,その法が正義に適っていると信じる人々が存在するからです。人々が,ある法が正義に適っているとは思わなくなったり,司法システムが正義を守るための装置であるとは信じなくなったとき,その法システムは,名実共に生命を終えるものです。その意味でも,法は,まさしく文化現象の一つなのです。そして,グローバルなネットワーク空間の中で,相互に異なる様々な国々の法が衝突し矛盾を起こすとき,そこに出現している現象は,法律の専門家から見ると単なる「法の抵触」だけかもしれませんが,文化論的に見れば,文化と文化との衝突なのです。しかも,たいていの場合,あるエリアの文化は,そのエリアに住む人々のアイデンティティを保障するものであったり,存在意義を直接に担保するものです。したがって,根本的なところでの「法の抵触」が起きているところでは,非常に深刻なレベルでの文化の衝突が起きているのだ,と考えていいでしょう。これからのネットワーク社会では,そのようなことが現実に起きる可能性があります。そして,主権国家の地理的な領土範囲とは無関係に,ある文化を共通にする人々と異なる文化を共通にする人々との間で,ネットワーク上の紛争が起きるかもしれません。その紛争が極限まで達した場合,それは,組織的な電子テロすなわちネットワーク上の戦争へと発展する危険性があります。もし現実の世界で戦争が起きるとすれば,その戦争に関する国際法もありますし,何らかのかたちでの裁判も不可能ではないでしょう。国連軍の出動による紛争解決や国際的な仲裁の支援というものもあります。しかし,ネットワーク空間には,軍隊も警察も裁判所もないのです。

 このように,ネットワーク社会は,法的トラブルの解決という問題に関しては,かなり無力であり無防備でもあります。要するに,司法が機能しない,ということになります。この問題は,かなり深刻な問題であるにもかかわらず,私がこういうことを主張しましても,残念ながら,かなり多くの方々から「そりゃSFだよ」と言われます。たしかにそうかもしれません。しかし,悲しいことですが,そういう問題が本当に起きてしまってからでは,もうどうにもならないのです。私の仮説が単なる仮説のままに終わってしまうことこそあるべき将来像なのでして,私の仮説は絶対に実証されてはいけないのです。ですから,まだ対処可能な今のうちから世界中のすべての知性と知能を結集して,この問題の解決に臨んで欲しいと切望する次第です。

§3 法学方法論及び法学教育の再検討

 さて,この講演は,明治大学情報科学センター主催の研究会「インターネット社会における大学の取組み」の中の1コマでありますし,私が法律でメシを食っている人間である以上,ここまで話してきたことを踏まえて,「大学の法学部が今後何をしたらいいのか」というややミクロな観点から,さらにお話を進めてみたいと思います。

 1 トップダウン:伝統的な法解釈論−法律は常に正しい

 「法」というものの理解には,2つのアプローチがあるように思われます。その一つは,いわばトップダウンによるアプローチとも言うべきものです。これは,西洋の巨大な教会建築物(カテドラル)のような完全で壮大で実に美しい法体系という論理の組織を作りあげるという作業と,その作業によって構築された法システムの承継・伝授というプロセスによって維持されるものです。おそらく,これまでの日本の大学における法学教育は,このようなアプローチに依拠して存在していましたし,現に存在しているのだと思われます。日本だけではなくかなり多くの国々において,法律関係の学者の多くは,こういうアプローチを採ってきました。また,このような理解は,19世紀的な意味での「産業国家」という社会システムに非常にうまく適合するものだと思います。とりわけ,当時の西欧列強による植民地支配を避けるべく必死になって日本国の近代化を押し進め,富国強兵策をとるしかほかに途のなかった明治維新政府にとっては,このようなアプローチ以外のアプローチを選択する余地などなかったのかもしれません。

 このような世界では,構築された法システムの組織それ自体が「美しい。ゆえに正しい。」のでなければなりません。つまり,「法は常に正しい」という前提を絶対的な命題として,あとは,この一種の公理から出発した論理展開としてのみ法学が存在することになります。したがって,法学教育の具体的なあり方も,美しく構成された法のシステムを教授から学生へと「伝授」するというやり方になります。いきおい大規模教室での講義中心の授業ということになるのは,むしろ必然的なことではないでしょうか。

 2 ボトムアップ:文化的ツールとしての法の理解−最適解の追求

 ところが,法律実務家とりわけ弁護士やビジネス法務などの世界では,まったく異なる理解に基づく法の世界も存在します。そこにあるのは,「目的合理性」です。

 ここでは,法は,追求すべき目的を達成するための道具の一つに過ぎません。「ある法的結論を導くために最も都合の良い理屈は何か?」そういう世界です。したがって,トップダウンの世界とは異なり,ここでは,法理論の整合性とか理論的な美しさなんかは問題になりません。要するに,より効果的な説得材料であるかどうかだけがテストされるわけです。こういうアプローチをボトムアップと名付けてみました。もうお気づきのように,ここでいう「トップダウン」と「ボトムアップ」は,情報理論とか経営理論などにおける「トップダウン」とか「ボトムアップ」という用語の使い方とは全く異なるものです。

 さて,ここでいうボトムアップの世界では,目的合理性だけがすべてですから,より適切な法の選択が常にテストされます。ある問題を解決するために複数の法が必要な場合,ある部分ではAという哲学や文化に基づく法を利用しながら,それと連続している別の部分ではAとは矛盾するBという哲学や文化に基づく法が利用されたりもします。まるで「木に竹を接ぐ」ようなことが平気で行われているわけでして,そのきわみは,日本の司法試験予備校のテキストの中に最も多く発見することができます。たとえば,実名をあげるのは差し支えがあるので控えますが,ある司法試験予備校のテキストの論文問題に対する解法の説明の中には「この問題の中のこの論点に関してはC説に従って書くと書きやすいが,そこから先はD説のほうが書きやすいからそうすべきだ。」というようなことが平然と書かれておりました。果たしてそんなテキストを信じて勉強した受験生が司法試験に合格するかどうか,仮に合格したとしても,司法研修所を卒業後にまともな法律家になることができるのかどうか,私は,極めて疑問だと思っておりますし,たぶん長い目で見ると,そのような人が人生に成功することはないであろうと思います。こういうのは,「木に竹」どころか「木にアルミ」を接ぐようなものです。しかし,書きやすさという目的からの合理性という観点だけから見ますと,たしかにそのテキストの記述は正しいのかもしれません。実際,明治の学生だけではなく東大の学生でも早稲田や慶応の学生でも,「分かりやすいテキストだ」と言って,大学の先生方のきちんとした授業や教科書ではなく,そうした受験予備校テキストに飛びついてしまう学生がかなり多数おります。これもまた厳然たる事実です。たぶん,ここでいう「分かりやすさ」というのが,かなり表層的でスカスカの意味での「分かりやすさ」だというところに問題があるのだろうと思いますが,それにしても,要するに,このような世界では,問題に対する最適解の探求こそがスタートでありゴールであり,そして,すべてなわけです。しかも,実際に法律実務にたずさわり,大量の事件を処理しなければならない立場に置かれますと,こういうアプローチが身にしみついてしまうのもやむを得ないことかもしれません。少なくとも,アメリカの巨大弁護士事務所(ロー・ファーム)の多くがこのような意味でのボトムアップのアプローチを採り,強靱で傲慢なディベート技術を競い合っていることも事実ですから。

 法律エキスパートシステムとか法的推論なんかを研究している人工知能学者の中で研究には,もちろん成功する人もあれば成功しない人もあります。成功しない場合の大きな要因,それは,法学者と実務家とでは相互にまったく異なる発想と思考プロセスを採っていることがあるということを,その人工知能研究者が考慮していないためではないかと考えられます。法律実務家の世界では,理論的に美しく整合された論理の探索よりも,手っとり早く使えるツールの山があればいいのです。そのツールの山を「探索木 Tree」で記述することは不可能です。こんなふうに言ってしまいますと,おそらく理工系の先生方にとっては,少しもうまみのない,おもしろくない世界になってしまうだろうと思います。でも,もし仮に何か必要であるとしても,法律実務家にとっては,ベタ打ちのテキストだけのデータの山と高速の全文検索エンジンだけがあれば足ります。そういうのは,人工知能とは少しも関係ありません。

 誤解のないように言っておきますが,私は,そういうあり方が正しいとか好ましいと言っているわけではありません。でも,事実は,そうなのです。そういうアプローチしかできない(しかも若い)法律家が近年非常に多くなってしまったこと,そうした嘆かわしい事態が現実に広範に存在すること,そのこともまた,私が裁判官の仕事をなげうってまでして,大学の研究者そして教育者としての道を選んだ大きな理由の一つになっています。

 3 ソリューション:リバーシブルな発想への転換

 さて,時間の関係もありますので話を先に進めますと,このような目的合理性を追求する世界では,基本的に,仮に目の前にある目的を達成するための最適解としての法の選択に成功したとしても,その選択によって常に正義が担保されているという保障など全然ありません。世の中には,科学至上主義を信奉し,人類の幸福などほとんど考慮せずに,たとえそれが人類を滅亡させかねない技術であったとしても,ただひたすら目前にある技術の開発だけに没頭するようなタイプの科学者やエンジニアがたくさんおりますが,それとまったく同じことです。そこに大きな問題があります。

 さりとて,理論的な美しさだけを追求するような悪い意味での伝統的な法学のままでいいかというと,そうも言えません。ただ,これまでの法学は,その根底においてきちんとした哲学的な裏付けというものを持っていたのでして,そのことが,単に形式的な美しさだけにはとどまらない「法システム」の構造的美しさを感じさせる大きな要因となっていたのだろうと思いますし,また,そうした哲学的な裏付けがあればこそ,仮に世界のすべての人々に通用する正義ではなく,ローカルなレベルでの正義かもしれませんけれども,そのエリア内に住む人々にとっては「なるほど,これが正義だ」と思わせることができていたのだろうと思います。そのこと自体は,社会コントロールのための文化的ツールとしての法というものを考える場合,非常に大事なことです。

 しかも,ネットワーク化されつつある社会の中で,ローカルなルールだけに固執していては,絶対に世界平和の達成へと近づくことができませんし,人類の進歩にも寄与いたしません。やはり,ことがら次第ではありますが,目的合理性というものそれ自体がもつ合理性にも目を向けなければならないでしょう。

 そこで,考えてみたのが,正義のカテゴリーとか理論体系などからトップダウンに考えることと目的合理性に従って最適解を見つけることの両方を行き来できるリバーシブルな発想,そうした柔軟な発想をする力を持った学生を育てることが重要なのではないか,ということです。そのためには,大学の法学部においては,もっと法律実務寄りの科目とか授業とかが増えなければなりません。他面で,大学から法律実務家の側に対しては,大局的な見地から「正義に反しない」法律実務家であることを維持するための方策を強く求めていくということになりましょう。

 大学の側での対応だけに限定して言いますと,そのようなリバーシブルな発想を持った人材を育てるための教育を同一の教授の一つの授業の中で実現するのは,不可能ではないにしても,かなり困難です。ですから,これこそインターネットを利用して,テクニカルな意味でも人的な意味でも実質を伴ったネットワークを構成し,それ活用した共同授業というようなものをどんどん取り入れて行くということが必要ではないかと思われます。ただ,大学の授業でとても大切なことの一つに,ゼミやその他の機会に優れた教授と学生とが直接に触れあうことによって,次第に学生と教授双方の人格陶冶がなされるということもあります。これは個々の教授の資質の問題でもありますが,いずれにしても,何でもかんでも同じやり方をすればいいというのではなく,柔軟に対応すべき部分はそうすべきで,ネットワークを活用した共同化を推進してみるのも一つの方法ですが,別の場面では,あえて「古色蒼然」たる授業形式を頑固に堅持することも絶対に必要なのではないかと考えるわけです。とかく日本人は,マスコミの影響かどうか,流行に押し流されやすい種族になってしまいました。社会のネットワーク化は,それをさらに推進するような一種の力を持っております。私は,これを「単一化」と命名しております。ですが,社会のすべての部面において,それぞれの多様性を維持することもまた非常に重要だということを常に肝に銘じておくべきでしょう。

 このようにして,トップダウンによってもボトムアップによっても思考できる法律家を育成することには大きな意味があります。今後ますますボーダーレス化するネットワーク社会の中で生起するさまざまな法的トラブルを,世界中の大方の人々が納得するようなやり方と内容で,実際に解決することのできる人材を大量に育成すること,それこそが真の意味での国際貢献なのでして,我々がそうした良い人材を一人でも多く育て上げることによって,真の意味で,人種偏見とか未だに残る植民地主義的な発想なんかを壊していくことができるのではないか,それこそが,法なきネットワーク社会に真の法をもたらす大きな原動力になるのではないか,と考えるからです。

§4 今後検討すべき課題

 この問題は,ここらへんで終わりにして,時間の関係もありますので,先に進みましょう。とは言っても,§4の「今後検討すべき課題」は,いまお話ししたことと密接な関連があります。

 1 ネットワーク社会の単一化による実定法システムの崩壊

 ネットワーク社会がどんどん拡張してまいりますと,各主権国家のローカルな法がそのまま適用できないというようなことが頻繁に起きてまいります。仮にそのまま適用しようとしましても,ネットワーク社会には国境がないのですから,主権国家とは関係のない文化的エリア毎に分かれてそれぞれの価値観や文化を共有する人々どうしの間で,ネットワーク環境に最も適合したようなやり方で議論がされることになるでしょう。そこでは,ローカルな法システムが「美しい」と言ってみても何の役にも立ちません。

 他方では,グローバル・スタンダードといいましょうか,いずれ,現実に実力のある超国家企業がネットワーク上の一定の行動基準をそれこそ「事実上」決めてしまうというようなことも十分にあり得ることです。ここでいう事実上の行動基準は,機能論的な意味での「法」の機能を十分に果たすものかもしれません。そこでは,主権国家の実定法は,事実上崩壊してしまいます。

 崩壊するなら崩壊するでかまわないのですが,問題は,「何が法であるのか」がまったく見えなくなってしまったのでは,人類にとって大きなマイナスだということです。また,前にもお話しいたしましたとおり,それぞれの主権国家の実定法は,それぞれの文化的または経済的基盤の上に構築された社会的ツールなわけですから,異なる文化と文化どうしで,あるいは,個々の文化とグローバル・スタンダードとしての「法」的なものとの間で相当激烈な闘いが繰り広げられる可能性があります。

 人類は,この難しい問題を乗り越えていかなければなりません。

 2 ツールとしての法の単一化

 仮に人類がちょっとは賢くて,一つ前の問題(実定法システムの崩壊)をどうにかクリアしたと仮定いたしましょう。次に発生する問題は,ツールとしての法の「単一化」です。

 現在の日本の法学では,実体法と手続法とが厳然と区別されております。しかし,もともと「法」というものは,その現実化の手続きと内容とが不可分一体のものとして存在しているものでありまして,強制可能性のない法などというものは自己矛盾以外のなにものでもありません。古代ローマ法の時代には,実体法と訴訟法とがまさに一体化しておりました。すなわち,「権利のないところには訴権がない」のと同時に「訴権のないところには権利がない」というのがノーマルな状態だったわけです。古代ローマ帝国が滅び去って以来,人類は,長らく停滞時期を経験したものの,いわゆる産業革命以降には急激な文明の発展を見ましたし,工業社会の実現によって古代ローマ帝国の持っていた文明をはるかに凌駕するような繁栄を築いてきたと勝手に信じ込んでいます。ですが,おそらく,ネットワーク社会では,古代ローマ法で見られたような実体法と手続法とが不可分に結びついたようなものでなければ,法としての意味をなさないと思われます。そして,それが達成可能になったとき,人類は,はじめて古代ローマ帝国と同じ水準にまで戻ることができたと言うことができるのではないかと思うのです。昔の哲学者でフッサールという人がおります。これまたどえらく凄い哲学者なのですが,その人の見解によれば,「本質とその表現形態とを分離することはできない」ということです。私には難し過ぎてよく分かりません。でも,形式を伴わない法を認識することは不可能ですし,実質を欠いた形式が空虚であることも真実であると考えます。ネットワーク社会における法が見えるものになるためには,それに適合した形式が要求されますし,その形式が確定してはじめてツールとしての法の状態に至るのではないでしょうか。

 しかし,形式や方法は,その内容と同様に,文化そのものでもあります。たとえば,あるエリアに属する人々の生活スタイルとか服装といったものは,単に社会的生存のための形式とか方式であるというだけではなく,それこそがまさにそのエリアに住む人々の持つ文化そのものであるのと同じことです。だとしますと,方式における単一化は,文化の単一化と価値的に同等のできごとだということにもなります。要するに,法の執行のあり方は,その法を持つ人々における文化そのものなのです。イスラムの人々の中でも最も厳格な人々にとっては,コーランと文化と法とが一体のものになっております。他の国々や人々の間ではもう少しあいまいかもしれませんが,本質的には何ら変わるところがないでしょう。

 このことによってもまた,ネットワーク社会の中における文化摩擦がもたらされる可能性があります。

 人類は,このシビアな問題も乗り越えていかなければなりません。

 3 単一化と複数の「正義」の衝突

 仮に人類が意外と賢くて,一つ前の問題(法の単一化)をクリアする手順を見つけた,たとえば,国際的な機関での討論と合意のシステムを確立したと仮定いたしましょう。しかし,それだけでは問題の解決にはなっておりません。というのは,法の本質が実は文化そのものであるということを法哲学的に表現すると表現しますと,それぞれの国の法は,その国の持っている正義感情の表現形式だということになるからです。

 すると,ネットワーク社会において相互に異なるさまざまな法がぶつかり合うということは,この文脈では,それぞれが信ずる正義と正義との対決をもたらすということを意味します。

 もし仮にネットワーク上の戦争が起きてしまうとすれば,それぞれの戦争当事者は,間違いなく「正義のため」であることを戦争行為の正当化根拠として掲げるでしょう。それは,しごく当然のことでして,ネットワーク上の戦争の原因の本質的な部分が文化摩擦であるとするならば,その法的表現形式は,正義のための闘いにならざるを得ないのです。

 仮にネットワーク上の戦争が起きてしまった場合に,その解決のための最大の障害になるのは,このことだろうと予測されます。たいていの場合,それぞれの正義は,その正義を信ずる人々が住むエリアで最も有力な宗教の教義を直接に背景に持っていたり,あるいは,歴史的な経緯で文化の深層部分に沈殿しているとしても,何らかの意味でそれをバックボーンとしていることが多いようです。それゆえ,かつてのヨーロッパの宗教戦争とか日本のキリシタン狩りあるいは一向宗徒弾圧などが凄惨を極めたのだと思います。たまたま生き残ったほうが,本当に正義の側に立つ唯一の当事者であったかどうかは,一概に決することができません。

 ですから,ネットワーク上の文化摩擦を乗り越えることは,たいへんなことなのですが,それでもなお,人類は,この高い壁を乗り越えていかなければなりません。

 4 ネットワーク上の法の民主的コントロール可能性

 仮に人類が心配したよりはもっと賢くて,ここまでお話ししたような障害(正義の衝突)を乗り越えてしまったといたしましょう。そして,人類が共通に承認し合えるというか承認し合わざるを得ないような法システムが構築されたと仮定いたしましょう。また,この段階での「正義」とは,それぞれの宗教的な立場とか歴史的あるいは文化的な桎梏を乗り越えて,おおかたの人々がまあ良いと考えるような価値基準が「正義」であると理解できるようになっていることを意味すると仮定いたしましょう。

 そこで問題となるのは,ネットワーク社会における法が民主的なコントロールの下にあるのかどうか,ということです。

 およそ何らかの意味で「法」とされているものが民主的な生まれを持たない場合,その「法」の改正とか修正もまた民主的にはなされ得ません。ですから,ネットワーク社会における法もその生まれからして民主的な手順を経なければならないと考えます。

 しかし,これには2つの障害があります。

 一つは,何十億もいる人類がどのようにしてその立法過程に参加するのか,という問題です。人類は,これまで狭苦しい領土国家の中でのみ生きてきたのでして,すべての地球人が対等に交際するというような社会を経験したことがありません。したがって,そのための具体的な方法論もまともに考えられてはいない,というのが現状です。たしかに,インターネットは,そのための一つの手段になり得るかもしれません。けれども,インターネットは,現在,世界で約5000万人くらいのユーザが使っている状態でもすでに飽和状態に近づいております。この問題をどうしたらいいのか,単にネットワークのハードウェア的な部分だけではなく,真の意味で民主的な世界連邦をどのようにして形成・組織するのかというような大きな議論が必要ではないか,と痛感いたします。

 もう一つは,ネットワーク社会における「法」がデファクト・スタンダードとして成長した場合には,それがどこかの世界企業の持つデファクト・スタンダードであるがゆえに,少しも民主的なものにはならないかもしれないという問題です。おそらく,平和的に世界連邦が形成されて世界立法が進むというようなシナリオよりは,逆に,特定の世界企業によってデファクト・スタンダードとしての「法」が強制されることになるというようなシナリオのほうが,よほど現実的な予測と言えるだろうと思います。そして,後者のシナリオによって形成された「法」は,改正や修正を加えることも,もちろん廃止することも非常に困難になっているかもしれません。

 それでも,人類は,このほとんど解決不可能なように見える問題をしっかりと乗り越えていかなければなりません。

 5 サイバー・コート

 仮に人類が予想以上にずっと賢くて,これまでお話ししたような問題を全部クリアし,世界全体をカバーするような真の意味でのネットワーク社会の民主的な法とその法の執行のためのネットワーク上のデジタル裁判所すなわち「サイバー・コート」を持つことに成功したと仮定いたしましょう。

 さきほど,法律エキスパートシステムを成功させることの難しさについてちょっと触れましたし,ネットワーク上の各種エージェントの開発が思うように進んでいないこともまた事実です。現在,ネットワーク上の司法的システムで現実に存在し機能していると見て良いものは,ネットワークを利用した「調停」または「仲裁」だけのようです。シンガポールの「サイバー・コート」にしても,現段階では,シンガポールの最高裁判所内部限りでの電脳化にとどまっております。それは,実際には人間がやっていることです。しかし,100年後あるいは200年後のことは誰にも予測できません。ネットワーク上で自動的に裁判を実行する高度な知的リーガル・エージェントが開発されているかもしれません。

 で,そうしたサイバー・コートができるとして,おそらく,サイバー・コートの第一審判決に不服のある者に対しては,控訴や上告という手段も準備されることになるでしょう。そこが問題になります。というのは,おそらく,控訴審も上告審も控訴審エージェントとか上告審エージェントによって「公平」かつ「合理的」に処理されることになるのでしょうが,仮にそうだとして,同じプログラムであるのに,どうして第一審エージェントよりも控訴審エージェントのほうが正義に近く,さらに,控訴審エージェントよりも上告審エージェントのほうがより正義に近いと言えるのか,そこらへんの説明をどうしたらいいのでしょうか?

 仮に人類が最も平和的で友好的に未来社会を迎えることができたとしても,このような本質的で哲学的な問題は,やはり残ってしまうのです。おそらく,そもそも「法によって人を裁くこと」がなぜ正義に適っているのか,という最も本質的な問題からの派生問題として,この問題は,人類ある限り永遠に残らざるを得ないのだろうと思います。

§5 まとめ

 以上が本日お話ししようと考えていたことの全部です。

 私が危惧するようなネットワーク社会の予測については,消極的なご意見とか反対のご意見も多いだろうと思います。「複雑系」じゃありませんが,人間はそんなに単純じゃないと思われるほうがむしろ健全なんだろうとも思います。しかし,ネットワーク社会は,標準化されたネットワーク技術を絶対の前提にした社会です。この標準化された技術を否定するのは,個人の力だけでは無理です。
 本日の私のお話を要約いたしますと,「電子ネットワークで相互接続され,それにもたれかかって生き始めた人類は,そういう危険な状況の中にあるのだ」ということをきちんと認識・理解した上で,「人類にとって非常にまずい結果をもたらすような社会環境に至らないように,何らかの工夫を考え続けなければならない」ということに尽きます。
 時間に限りがある関係上,大急ぎでお話しいたしましたので,まるで消化不良だという方もあるかもしれません。また,いちいち論拠をあげたりすることもできませんでしたので,夏井の言うことは単なるジャーナリズムに過ぎないじゃあないか,と思われる方もあろうかと思います。けれども,もし少しでもご興味を持っていただけたならば,図書館などで本日の講演と同じタイトルの著書『ネットワーク社会の文化と法』をお読みいただき,今後の研究と教育のための何かの参考にしていただければ幸いです。

 本日は,ご静聴ありがとうございました。

以 上

<会場との質疑応答は省略します>


<参考文献>

ヘーゲル(武市健人訳)『哲学入門』(岩波文庫)

フッサール(細谷恒夫・木田元訳)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)

モンテスキュー(野田良之ほか訳)『法の精神』(岩波文庫)

カント(宇都宮芳明訳)『永遠平和のために』(岩波文庫)

中村雄二郎『臨床の知とは何か』(岩波新書)


Copyright (C) 1997 Takato Natsui, All rights reserved.

最終更新日:1997/12/19

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