政治の混沌

乗り越える知恵を

安定した未来社会を手にするために

by 大六野 耕作


Professor of Comparative Politics

School of Political Science & Economics

Meiji University

1-1 Kanda-Surugadai, Chiyoda-Ku

Tokyo 101 Japan

E-mail : ac00021@isc.meiji.ac.jp


初出 : 政経週報 1998年4月6日 4頁


 グローバルな経済構造の変動が国民生舌を足元から揺さぶっている。世紀末の混とんを抜け出したとき、われわれが当然の前提としてきた社会・経済的条件はもはや存在しない。予兆は既に現れている。国内総生産に匹敵する膨大な長期債務。急速な高齢化に伴う年金・健康保険制度の動揺。戦後経済を支えてきた「護送船団方式」や終身雇用・年功序列賃金の崩壊。日本の繁栄を支えてきた構造自体の組み替えが求められている。しかし組み替えの後にどのような社会が訪れるのか。これを見据えた議論なしには、将来の安定した杜会を手にすることはできない。

 

 最近、どうにも気に掛かることがある。将来に対する不透明感が現状に対するいら立ちを生み、これに対処できない政冶への不信が高まる一方で、「改革」という言葉がもたらすイメージ(改革によって現状が改善される)ヘのあいまいな期待感が醸成されている。しかも、愛想をつかしたはずの当の政治に、自らの将来をゆだねてしまおうとする「お上」への依存心も抜き難く存在している。

失われた政治の目的設定能力

 ある意味では、当然のことかもしれない。バブル崩壊後、日本経済は長期低迷から抜け出せす、その一方でグローバルな価格競争に対応した企業のリストラ、雇用慣行の見直しが着実に進行してい る。安定した労働慣行に慣れてきた人々が、突然、先の見えない不透明な環境に追いやられたのである。従来の生き方や価値観が通用しないという意味では、まさに「危機的」状況の到来である。

 この間、日本の政治は何をしてきたのか。時代の変化に対応した抜本的改革が喫緊の課題に掲げられ、選挙制度改革、規制緩和、金融ビッグバン、中央省庁再編、地方分権など、一連の改革も行われてきている。しかし、自己責任という言葉を除いては、将来の国民生活の指針となるものは見いだせない。何がどう変わり、国民はどう対応すればよいのか。繰り返される政党の合従連衡も、次第に目的があいまいになり、政治の主導権をめぐる権力闘争という性格すら失っているように見える。

危機のパラドックス

 実のところ、政治の側(マスコミも含め)もソフトランディングする地点(目標)を見失っているのではないか。アメリカをモデルとした財政構造改革法が成立するや否や、今度はこれと対立する景気対策と同法の改正が俎上にのぼりつつある。アメリカの構造改革を成功と見なすか否かはともかく、アメリカ経済がその活力を回復するまでには、十年以上の時間 がかかっている。

 アメリカのような個人主義の伝統がない日本では、国民が自己責任で動くインセンティブは生まれにくい。政治に愛想をつかしながらも、心のどこかで政治に依存し、改革という言葉のもたらすあいまいなイメージにそれぞれの思いを込めるという奇妙な現象が生しる。自らの運命が決まろうとするときに、信じてもいない他人にその決断をゆだねることなど日常生活ではあり得ない。しかし、まさにそうした関係が、政治との間では生じているのである。政治の側にもこうした認識がないわけではない。小沢一郎が強調する自己責任、菅直人が提唱する市民中心杜会なども、従来までの国民と政治との関係を構造的に変革しようとする意思表明だといえる。ただ、それがどのように可能なのか、そのための条件は何か、条件整備の政策手法はどう変わるぺきかといった、政策のフィージビリティー(実現可能性)をめぐる詰めが欠けている。

 2年ほど前、筆者はある新聞杜から規制緩和が杜会に与える影響についてインタビューを受けた。そのときの筆者の質問に対する記者の答えが興味深い。「規制緩和は構造的に避け得ないでしょう。でも、個人的には自己責任の杜会なんかには住みたくありませんね」

米国はモデルになるのか

 この記者の発言は二重の意味で興味深い。記者の指摘のように、 規制緩和をはじめとする日本杜会の構造改革は、どうにも避け得ない現実である。経済の自己組織化のダイナミックスから経済活動はグローバル化し、この動きを国家単位でコントロールすることはもはやできない。外国の格付け会杜による投資格付けが、山一証券の経営破たんを決定的なものにし、大蔵省にはなす術もなかった。

 こうした経済のグローバル化は、必然的に各国の杜会・経済・政治さらには文化構造にまで変革を迫る。変革に失敗すれば、国民生活の基盤である経済の活力そのものが失われる危険性もある。この意味で、構造改革はどうしても避け得ない選択なのである。

 しかし、アメリカ杜会を下敷きにした自己責任というキーワードについては、熟慮してみる必要が・ある。日本人にとっても「自分のことは自分で」という考え方は不自然なものではない。しかし、あらゆる問題について、個人の権利や責任を原理的に優先するアメリ力的観念にはなじめないのではないか。文化的になじめないものを前提にしても、果たしてうまくいくものか。要は、日本の文化の中にもある《けじめ》の感覚を軸に、グローバル化の現実に対応し得る「公」と「私」の再組織化を構想することである。この意味での自己責任を可能にする社会的条件整備が何にもまして求められている。

真の意味の「自己責任」

 グローバル化のもたらす影響については、既に述ぺた。長期安定 的な雇用形態から短期流動的な雇用形態ヘ、年功序列的な賃金体系から職種・職能・能力を基礎とした賃金体系ヘ、規制経済から市場経済ヘ、福祉国家から自助社会ヘ。各国の歴史や文化の違いから生まれる濃淡はあるにせよ、構造的には同様の傾向がアメリカやヨーロッパにも見られる。

 問題は、こうした変化に対応し得る政策の在り方そのものである。自己責任とは、単に改革に伴う「痛み」を引き受けることでない。国民が新たな《生き方》を模索する責任を背負うことを意味する。そのための条件整備が、政治に与えられた最大の課題だ。これに失敗すれぱ、経済の活力は回復しても国民生活の安定にはつながらない。アメリカにおける所得格差の拡大、麻薬のまん延・凶悪暴力の増加など、社会間題の深刻化がこのことを証明している。

安定した社会の実現のために

 終身雇用や年功序列賃金がなくなるのであれぱ、会社中心主義的な《生き方》を変え、そのための制度的裏付けを用意してはどうか。再教育のための休職制度や長期休暇制度、職業訓練の高度化、職業斡旋制度の充実。公的福祉に限界があるなら、自分の親や近隣の老齢者介護のため休暇・休職制度を導入してはどうか。老齢者・身障者が自立して活動できる条件整備、ボランティア活動の促進を図る施策の展開も欠かせない。物質的インフラではなく、ソフトなインフラが求められている。

 国民の側も《豊かさ》に関する考え方を変える必要がある。可処分所得の増加だけを豊かさと捉えず、老後も一人の人間として通常の生活ができることを豊かさと考えてはどうか。既成観念にとらわれず、新たな状況に対応した豊かさを目指す必要がある。本当の自己責任とは新たな《生き方》を可能にする条件を見いだす責任を負うことであり、政治の役割とはそうした個人の積極的な姿勢を引き出し得る条件整備を行うことにある。改革というあいまいな言葉に期待を込めてはならない。将来の自らの在り方を自己責任で選択し、その条件整備を政治に求める必要がある。果たして各政党には国民の選択にこたえる準備があるのだろうか。


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Uploaded (on the Web) : May/01/1998

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