ある質問
by 夏井高人
私は,大酒飲みで有名です。
学生が編集・発行している某情報誌によると,私は「大酒のみ」だけれどもそのゼミはいわゆる「飲みゼミ」ではない,と書いてありますので,第三者による認証もあることになります。
ところで,先日,某学生から,こんな質問を受けました。
「先生は,すごく忙しいんでしょ?学生と付き合って飲んでるよりも,本当は,弁護士として仕事をしてばりばり稼いでいたいんじゃないですか?どうして学生と付き合って飲みに行くんですか?」
「まだまだ真意を分かってもらえていないなあ」という何やら寂しい気持ちにもさせられる質問ではありましたが,私は,率直に答えることにしました。
「私は,どうせ同じ時間を使うなら,より有意義なことに使いたい。私が学生と付き合って酒を飲んだとしても,それによって何かが大幅に良くなるなんてことはあり得ないし,たしかに,私の出費も増えるだけだ。でも,こうした付き合いの中から,人間として必要な何かを学び取ってもらいたいと思っている。そして,いまは学生である君たちが,将来社会に出て家庭を持ち,そして子供を育てるようになったときに,若い世代に何をかけて生きるべきかを少しでも考えるような人間になっていたら,何も考えないで本能だけで結婚し,ろくに子供の悩みも聞いてやれない親になっていくよりもずっといいだろ?そうやって,少しでも良い家庭が増えれば,ちょっとだけでも社会のどこかが良くなっていくわけだし,そうしたちょっとだけの良いことの積み重ねがなければ,社会全体が良くなるなんてことはないんだよ。だから,私が,こうして学生と付き合う時間を多くすることだけで,そのちょっとだけの良いことを増やすことに役立てるんであれば,それは,私にとって,良い時間の使い方だと思う。」
その学生は,それを聞いて,何か考えておりましたが,飲み会を終わって解散するときに,「先生,今日は,来てよかったと思いました」と言って頭を下げておりました。内心でちょっとだけ感激しました。
私は,教育学部の出身ではないし,教職課程を履修したこともないので,教育に関しては全くの素人です。教育心理学を学んだこともないし,いわゆるFD(ファカルティ・デベロップメント)の研修を受けたこともディベート技法の研修を受けたこともありません。何も分からないから,毎日,自分のやったことを反省し,まずかったと思う点について,どのようにしたら改善できるかを考えています。たいていの場合,自分の心に余裕がないために,意図せずして学生の意欲を殺ぐような発言をしてしまったり,準備不足のためにうまく説明できなかったり,きちんと注意すべきタイミングで気合いを入れて注意しなかったためにわがままな学生の行動を許してしまったり・・・という具合に,私自身の「心」の持ち方に問題がある場合が多いことに気づいております。これは,もう教育学とかそういう方法論の領域に属する問題ではなく,私自身の人間としての修練の問題ではないかと思います。
おそらく,一生かけて最大限の努力を尽くしても人間として完成されることはおろか,大幅な進歩も夢のまた夢,ちょっとだけの改善ができれば大いにラッキーという程度のことなんでしょうが,でも,せっかく若い人たちと近くに接触できる機会を与えられたのだから,その人生の機会を最大限に活かそうと思います。
とはいっても,時として,返答に困る質問や要望もあります。
私は,講義やゼミは,自分の最も優先すべき仕事だと思っているので,他のことを犠牲にしてでも自分のリソースをそれに向けるようにしています。そして,そのような毎日の中から少しずつ時間を盗んで,SHIPプロジェクトでの研究に従事し,サイバー法研究会や法情報学研究会などの世話役もしています。後者の2つの研究会はボランティアの研究会です。そこでの研究成果は,寝る時間を削ってファイル化したり印刷したりし,Webでも公開しています。この公開をする場合のファイル形式は,私がWindowsユーザであることもあって,MS-Word形式にしている場合が多いです。
ある時,ある人から,「PDFファイルで公開してほしい」という内容の質問のような要望のようなメールをもらいました。
その要望内容それ自体は,まことにもっともだと思います。MicrosoftのWordがなければ読めないのでは,たしかに,読めるユーザが限定されてしまうかもしれない。特にMacユーザは一方的に不利になります。しかも,私は,AdobeのAcrobatの正規ユーザであり,PDFファイルを作る技術も持っています。しかし,それを作るための時間的余裕がない。そこで,私は,その人に対し,「PDFファイルを作るのを手伝ってくれないか」というような趣旨の返事を書きました。でも,そのメールに対する返事はまだありません。私のメールの書き方も悪かったのかもしれませんが,少しだけ残念です。
この社会には,ボランティアと貢献によって支えられている部分が沢山あります。営利を目的とする事業だけではないし,国や公共団体の政策実行だけでもありません。
そして,そのボランティアに参加し,自らも貢献する側に回る人もあれば,その成果を奪い取るだけの人もいます。中には,他人が「額に汗して」やっと作り上げた成果を,Webロボットを使ってかたっぱしから収集した上で,あたかも自分が独自に作成したものであるかのように再構成して公開する人もいます。その中には,そのような行動を非難されても,「Webで公開されているものは複製してほしいと言っているのだから,法律上何も問題などあるわけがない」と豪語して何も恥じることのない(恥ずべき)法律家さえいると聞いています。ある人間の行動について,それが法律上問題ないということは,そのような行動をする者の人間性や社会性にも全く問題がないということの証明にはなりません。たしかに,このような例は,非常に特異な例外でしょう。しかし,分かってもらいたいこともあります。ボランティアによる行動における様々な「思い」や「努力」を尊重してもらえるのでなければ,いずれボランティアというものそれ自体を大幅に萎縮させてしまうということです。そのようにして,ボランティアが大幅に萎縮してしまった社会には,営利企業か国家権力しか存在しないことになります。果たして,それが人間にとって住みやすい社会なのでしょうか?
私は,ボランティアに加わることを強要するつもりは全くありませんし,推奨もしません。学生と一緒に私費を割いて酒を飲むことが最善の教育であるとも思っていません。義務(業務命令を含む。)として酒飲みを強要することにも強く反対します。私自身,それが命令であるのであれば,学生と酒を飲むことを拒絶するでしょう。私が学生と酒を飲むのは,あくまでも,私と学生との人間関係という一種の心のつながりの上での,そして,ボランティア行動の一種としての,一つのできごとに過ぎません。
しかし,ボランティアで何かをする者の心だけは尊重してほしいと思うのです。
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Last modified :May/23/2000