ロースクール構想をめぐる雑感

by 夏井高人


 政府の司法制度改革審議の中だけではなく,現場の大学でも新聞の社会面などでもロースクールに関連する話題提供が増えてきている。

 私は,それが合理的なものであり,実現可能なものであり,かつ,社会に貢献するものである限り,ロースクール制度を創設することそれ自体には反対ではない。

 しかし,ロースクールも人間によって運営されるものである以上,その担い手が誰であるのかということを不問に付すことは許されないと考える。従前のような大学法学部の講義方式によっては良き法曹を育成できないというような趣旨の議論もまやかしだと思う。
 大学法学部や司法研修所において,これまできちんと「良き法曹」を育成できなかった者が仮に存在するとして,そのような者が,その講義の場所をロースクールに移したとたんに,その日から立派な教育者に変身するなどということはあり得ない。法学部の学生がロースクールの学生に移籍したとたんに,突如として能力アップするなんてことも考えられない。もし,心理学,社会学,語学,経済学,経営学その他もろもろ実務法曹に必要な一般常識的な科目を増やせば,人格的に問題のない法曹を育成できるというのであれば,そのような目的は,とっくの昔に大学法学部によって実現できていたはずだ。でも,そうではないというのであれば,やはり,それは,その方法によっては達成できないことだということが証明されていることになる。また,もっと法律科目を増加させ,法学の基本をきちんと修得させるべきだというのであれば,そのような目的は,とっくの昔に大学法学部によって実現できていたはずだ。でも,そうではないというのであれば,やはり,それも,その方法によっては達成できないことだということが証明されていることになる。現在の大学では,必修科目ではなくとも,非常に多くの法学科目や一般教養科目が開講されているのだから,学生は,死ぬほど法律を勉強する権利を今でも持っている。そして,その権利を目一杯行使する学生もいるし,そうでない学生もいる。大学法学部がロースクールになったとたんに,その比率が劇的に変化するであろうと考える者は,愚かであるか嘘つきであるかのいずれかである。

 現在ある法学教育システムは,現在の社会における最適解である。大学も司法研修所も,これまで何もしてこなかったのではなく,幾多の工夫・改善を重ね,そして,努力をし続けてきたのだ。最適解以上の解を求めることは,そもそもできない。現在の社会は,既にマキシマムのものを手にしているとも言える。

 無論,司法試験制度そのものを廃止又は大幅に改変するとか,法律の知識が乏しくても弁護士になれるようなシステムを選択するとかいうのであれば,それは,別の話しである。

 しかし,社会の人々は,本当に,法的知識を確実に習得しているとは限らず,専門技能を有しているとも限らないような法律家を求めているのであろうか?

 世の中には,企業や官庁や大学だけではなく,道路にも,山にも,田畑にも,空にも,海にも,どこにでも人格の優れた人材はいくらでも存在する。私も多くの立派な先達に教えられつつ今日に至っている。しかし,単に優れた人材であるというだけでは,その者が法学分野の知識もなく専門技能もない場合であっても,立派に裁判官や検察官や弁護士の仕事がつとまるとは思われない。また,社会は,そのような裁判官や検察官や弁護士を本当に求めているとも思われない。法律専門家でない者が実務法律家として仕事をこなすためには,たとえば,最高裁判事における最高裁調査官のような専門補助者を添付するような制度的仕組みを確立する必要がある。しかし,社会経済全体の運営という観点から見た場合,そのようなシステムは,果たして合理的だと言えるだろうか?

 どんな専門領域であっても,その専門領域において専門家として生きていくのに必要な知識・技能というものが存在する。釘1本打つこともできない者がスキルの高い大工であるとは誰も認めないだろう。卵焼きもろくに焼けない者を一人前の板前であるとは誰も考えないだろう。土のことを知らない者が田畑に豊かに作物を実らせることなどできるわけがない。逆に,「立派な人材」であるかどうかが分からないとしても,当該分野における専門技能・知識をきちんと身につけており,なすべき仕事を誠実に遂行し,そして,深く信頼することができる者は,その領域における専門家である。そして,その分野における深い洞察力は,その分野における日々の努力・精進によって,あるいは,老若男女を問わず,人生の中で優れた人々と出会い,交際し,そして,その感化を受けることによって培われるものであって,形式的な教育によって達成できる種類の問題ではない。
 法律家もまた,法律分野における職人の一種にすぎないのであるから,同じことである。

 ロースクールは,手段又は道具にすぎない。その手段ないし道具を使う者が根本的に変わらないことを前提として,どうして「よき法曹」をより多く生み出すことができるということができるのか,私には全く理解できない。

 ロースクールに関連する多くの議論は,人々に甘い幻影を与えるものではある。しかし,それゆえに,事の本質から目をそらさせるような,そして,詐欺的でもあるような要素を多分に含んでいると評価せざるを得ない。こういうことは,まともな大人のすべきことではない。しかし,現実にそういうことがまことしやかに横行しているから,子供達も立派な大人に成長していくことを阻害されてしまうのだ。そのようにして成長を阻害された子供達が将来ロースクールに入ってきたとしても,決して「よき法曹」としての人材資源になることはないのである。


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Last modified :Apr/27/2000

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