人間の脳内の情報に対する処罰

by 夏井高人


 情報ネットワークとりわけWWW上のわいせつ画像をはじめとするわいせつコンテンツに対する処罰の是非については,様々な議論があり,また,様々な立場からの意見が表明されている。判決例も少なくない。この問題を専門に扱うサイトも存在する。たとえば,関西大学法学部園田寿先生の「電脳世界の刑法学」<http://w3.scan.or.jp/sonoda/>がその代表例である。このサイトには,未公刊のものも含め,ネットワー・ポルノ関係のほぼすべての判決が収められている。そして,刑法学という地味な学問領域に属するWebページとしては信じられないほどの驚異的なアクセス・カウントを記録している(1998年12月9日現在で約9万5000カウント)のもこのサイトである。

 ところで,私は,裁判官であった当時,ネットワーク上のわいせつコンテンツに対する法的評価に関して,某裁判官と議論したことがある。その裁判官(以下「彼」と呼ぶことにする。)は,刑事事件の経験が長く,勉強家でもあり,周囲からは優秀な裁判官であり謹厳実直な人物であると考えられていた。

 彼との議論においては,当然のことながら,まず,刑法175条における「わいせつ物」の解釈論が議論の中心課題となった。

 私は,わいせつコンテンツの本質は,記憶媒体との結合関係が希薄な単なるデータそのものであり,そうであるがゆえに,ネットワーク上の様々なタイプの媒体上に存在することができるし,転送中のデータを含め,ケーブルの中のデータとか電波とか光の状態といったような異なる「状態」をとることも可能なのだ,ということを論拠に,これは,「有体物」としての「わいせつ物」ではない,と主張した。これに対し,彼は,「わいせつ物」を「有体物」に限る必要はないと主張した。その論拠は,分からなかった。もしかすると,私には理解できない論拠が示されていたのかもしれないが,今となってはまるで分からない。いずれにしても,この点に関する議論は,最後までかみあうことがなかった。

 他方,その裁判官との議論の中では,海外のサイトにおけるわいせつコンテンツの問題も議論の対象となった。私は,何らかの要素によって国内犯(刑法1条)または国外犯(刑法2条ないし刑法4条の2)の規定に該当するのでない限り,国内法である日本の刑法175条により処罰することはできないと主張した。彼も,その点には異論がなかった。しかし,彼の意見によると,日本国内で閲覧可能なものは,すべて国内犯であるという。私には,とても理解できない主張であった。理解できない私の能力が著しく劣っているのかもしれないが,とにかく,理解できないものはできない。

 もし,彼の意見が正しいとすれば,たとえば,アメリカのアダルトサイトの経営者は,危なくて日本旅行などできないことになる。なぜなら,その経営者がアメリカ国内でアダルトサイトを経営してるとしても,そのサイトのコンテンツを日本国内で閲覧可能である以上,日本国内で罪を犯したことになり(刑法1条1項),日本国の警察権が及ぶ日本国領土内では逮捕可能であるし処罰可能でもあるからである。その経営者が飛行機のタラップを降りたとたんに,警察官がにこにこ笑いながら近づき,「日本の留置場へようこそ」と告げられるに違いない。

 しかし,日本国内で適法な行為を日本で行った者が,たまたま,それを違法とする国家に旅行したとたんに逮捕される可能性があることを全面的に承認するような考え方を許容することはできない。もし,そのような考えが正しいとすれば,たとえば,日本では女性が顔を出して日常生活を送ることができるのは当然のことであるが,厳格にイスラム教の戒律を守っている国家に旅行し,その国の領土内に入ったとたんに,その国の警察官によって逮捕されてしまうということも(理論上は)全くないとはいえない(現実には,イスラム教徒ではない外国人に対してイスラム法がストレートに適用されるというようなことは,滅多にない。ただし,経済的な制裁を含めた事実上のサンクションが加えられることは,必ずしも珍しいことであるとは言えないようである。)。しかし,そのようなことがあっていいと考える者は,希有であろう。

 また,彼は,日本の刑法において「わいせつ物」を処罰対象としている以上,どんなことがあっても処罰するのが裁判官の任務だ,とも主張していた。このような考え方は,刑事裁判の経験の長い裁判官(私は,そうした裁判官多数と交際があった。)の中でも比較的珍しい極端な考え方だった。もしかすると,彼は,非常に潔癖すぎる裁判官だったのかもしれない。

 私は,時間があれば夜も昼も遊び回るほうであり,私が直接交際していた裁判官の多くも,相互に囲碁の腕前を競い合ったり,パソコン通信等でネットワーキングを楽しんだり,BASICやC等のコンピュータ・プログラムの優劣を威張り合ったり,モーツアルトやブルックナーやペンデレツキやバッハ等を論じ合ったりする仲であったし,とりわけ酒飲み仲間では,いわゆる「馴染みの店」をそれぞれ持っていて,カラオケ・マイクを奪い合ったり,べろべろになるまで飲み明かしたり,酔った勢いでゲイバーに行ったり,愛車をころがして何千キロもドライブをしたりなんてこともあった。そういうわけで,私は,裁判官という仕事にありながらも,庶民的な楽しみを思う存分に享受しながら生活していたのである。酒量や走行距離の点を除くと,私のような裁判官は,決して珍しくなかった。というよりも,私の知っている普通の裁判官中のほとんどの者は,ごく当たり前の日常生活を送っており,家庭生活も(平均的な日本人の夫婦よりもおそらく円満すぎるという違いはあるかもしれないが)いずれも円満であった。また,転勤や師弟の教育など,抱えている悩みもまた,ごく普通の人々と異なるところはなかった。

 このような経験からすると,「潔癖過ぎる裁判官」というものが日本の裁判官の中の多数派であるとはとても信じがたい。しかし,その人数が多いか少ないかは別として,潔癖過ぎる裁判官が存在すること,そのこと自体は,事実であり,否定はできない。

 いずれにしても,全体として見ると,彼との議論は,あまり有意義な議論ではなかった。後味の悪さだけが今でも記憶に残っている。厳密に言うと,私のほうも,つい感情的になり(たしか,ビールを飲みながらの議論だったと思う。),きつい表現で議論をしてしまったことを覚えている。いつか再会する機会があったら,その点だけは謝りたいと思いつつ,ついつい月日だけを重ねてしまった。そういう状況の中での議論だったので,もしかすると,彼のほうでも感情的になり,ムキになって極論を展開していたのかもしれない・・・

 ところで,最近,「わいせつ罪の本質はわいせつな内容の情報であり,その情報を固定している媒体が問題なのではない」との趣旨の学説がある。

 わいせつコンテンツの本質が,その情報を受容する人間によってわいせつな意味づけをすることの可能な情報そのものであることは,私の昔からの持論でもあるし,特に反論する気もない。しかし,「わいせつ罪」として処罰可能な対象が「情報」そのものであり,媒体に固定されていることを要しないとの考え方には,徹底して反対したい。その論拠は,次のとおりである。

1 立法者は,わいせつ情報の処罰など全く考えていなかった。

 刑法は,もともと明治時代に立法された法律であるから,当然のことである。昨今の刑法改正(直近の改正は,平成7年)においても,この点に関しては何も議論されていない。要するに,立法者は,裸のわいせつ情報を処罰しようとする立法意思を全く持っていない。法解釈において,立法者意思説が全面的に妥当すべきだとは考えないが,少なくとも,国民の権利保障に対し重大な影響を及ぼす刑罰法令の解釈に関する限り,立法者意思を基本的に無視することは許されないのではないか。

 その生命をかけて「犯罪と刑罰」を著したベッカリーアは,現在の日本の状況を見ながら,きっと天国のどこかで涙を流しているに違いない。

2 仮にわいせつ罪の本質が「わいせつな情報」の処罰にあるという理論が正しいとすれば,思想信条の自由も表現の自由も,根底から覆されてしまう。

 人間は,遺伝的要素とか器質的要素だけではなく,後天的な経験を情報化し,これを大脳内に格納し,再利用する巧妙な仕組みを発達させることによって,他の動物とは全く異なる進化を遂げてきた動物である。その意味で,人間は,情報を処理する装置そのものであり,その情報は,脳という記憶装置に「固定」され「格納」されており,音声その他の形式で外部に送信され,あるいは,外部から受診しつつ,情報処理をしているのである。

 ところで,「わいせつな情報」は,電子データという形式をとることもあるが,もちろん音声データその他の形式をとることもできる。そして,音声データや文字データの多くは,人間の脳という記憶装置に格納され得るものである。格納されたデータそれ自体は,一定の電気信号の形式をとっていると推定されており,むしろ,コンピュータ・システム内の電子データに近似しているかもしれない。

 そうだとすると,およそ「わいせつ情報」を処罰可能であると仮定した場合,人間の脳の中に記憶されている「わいせつ情報」であるわいせつな思想とか感情もまた処罰可能であることになる。しかも,脳という有体物に固定されているのであるから,何らかの媒体に固定されていることを要件とする説によっても,実は,わいせつな思想やわいせつな感情は処罰可能であることになる。要するに,「わいせつな情報」が処罰対象であるとする説は,結果的に,人間の自由な思考を禁止する説であることになる。

 なお,念のために言っておくと,私が言いたいのは,「わいせつなことを考えれば自由である」という趣旨ではない。そうではなく,わいせつなことを含め,およそどのようなことを考えるとしても,考えることそれ自体は自由でなければならない,ということを言いたいだけである。たしかに,世の中には,わいせつな思想や感情それ自体を許し難いものだと感ずる者もあるかもしれない。だが,そのように考える者は,要するに,「潔癖すぎる裁判官」の一員なのである。

3 有体物に限定することは,大事な安全装置である。

 処罰対象である「わいせつ物」を一定の形式を備えた有体物に固定することは,たしかに,時代の流れに応じた柔軟な警察政策の遂行に対する阻害要因となる。しかし,これを「有体物」(人間の生体内の脳内の情報を除く。)に限定することは,実は,以上のような重大な人権侵害の発生を防止するための人類の知恵そのものであり,無差別的な処罰を避けるためになくてはならない必須の法的仕組みであるというべきである。

 もともと,わいせつな情報は,わいせつな図書とか図画等の中だけに存在したわけではない。わいせつな情報は,落語,小話,都々逸等の中,あるいは,歌舞伎や狂言等の演劇の中にも存在していた。前者は,音声情報としてのみ伝達され,後者は,実演中に巧妙に組み込まれた音声情報としてのみ伝達されるものである。これらの情報は,有体物に固定された情報ではないが,わいせつ情報であり,明治時代の立法者達は,そのことを熟知しておりながら,あえて「わいせつ物」の所持,頒布等の罪に該当する行為としては処罰対象とはしなかったのである。

 要するに,有体物に固定されたわいせつ情報以外の裸のわいせつ情報をもって「わいせつ物」として処罰することなど,現行刑法は予定していないのである。

4 条文の構造を無視しており,罪刑法定主義に反する結果となる。

 刑法174条は,公然となされる「わいせつ行為」を処罰対象としている。この行為の中に「わいせつな情報」の伝達行為を含ませることは全く不可能ではない。

 しかし,仮にそうだとすると,およそすべてのわいせつ物は「わいせつ情報」の存在を示す証憑に過ぎず,それは,すべて人間によってなされるのであり,結果的に,「わいせつ物」に関連するすべての人間の行為が「わいせつな情報に関連する行為」に還元されることになる以上,「公然」となれる行為については,刑法174条のほかに刑法175が存在すべき意味はないことになる。

 しかし,そのような解釈は,一般的な行為禁止を命ずる刑罰法規の存在を承認することになり,極めて危険である。要するに,刑法には,「悪いことをしたら処罰する」という法規1条だけで足りるというような考え方と同じ考えであるが,このような種類の考え方は,長い人類の歴史の中で,人類に対して与える危害と弊害が余りに多すぎることが実証されているために,とっくの昔に否定されているのである。

 この議論には賛否両論あるであろうが,情報ネットワークと情報論に関する生半可な理解に基づいて,人類の歴史をじっくりと顧みることなく,その場しのぎの口当たりの良い議論を持ち出すことが,どれだけ大きく人類全体に迷惑をかけることになるのか,ということだけは指摘しておきたいと思う。


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Last modified Dec/10/1998

Error corrected : May/28/2001

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