ホームページの凝り方・・・

by 夏井高人


 

 先日,某会合で岡村久道先生とお会いすることができた。現実の世界でお会いするのは初めてであったが,バーチャル空間では常に意見交換等を重ねてきたので,まるで初対面ではないような奇妙な錯覚にとらわれもした。ともあれ,予想どおりの立派な方で,岡村先生との会話の中からは非常に多くの貴重な示唆を得ることができた。期待通りに収穫大というところである(私のほうの一方的な輸入超過という説もある。)。

 岡村先生が立派なホームページを作っておられることは,サイバー法に関心を持つ者の間では周知のところであり,とりわけ,同ホームページ内の論文やリンク集にはいつも感心させられているのだが,もう一つ,情報法学日記(http://www.law.co.jp/okamura/nikki.htm)なるページがあり,私は,毎日,このページを読ませていただいている。とにかく情報のキャッチが早い。しかも,適切にセレクトされており,本来なら「法情報学」が担当すべきネットワーク上での法情報の羅針盤としての機能・役割をフルに発揮している。また,このページには,ときおり,深く考えさせられるような岡村先生の独白が掲載されることもある。最近では,情報法学日記の1998年4月21日のところに次のような記述があった。

ところで、遂に

http://www.law.co.jp/okamura/index.html

からグラフィックスを1つ外してしまった。

読者の方から、上記ページはグラフィックスのおかげで使いにくいとのメールを頂いたからだ。

実際のところ、その気持ちはよくわかったので、取りあえず1つ外したのである。

ページを作る側は、少しでも自分のページを華やかなページにしたいと考えるものだ。

しかし、使い勝手がいいページというのは、むしろ不要なグラフィックスがなく、変に時間がかかる仕組みが存在していないページだろう。どうでもいいことで待たなければならないのは耐えられないからだ。

筆者も、早く胸を張って「中身で勝負」と言いたいものだ。

 この岡村先生のご指摘は,非常に正しいものを含んでいるように思われる。

 大学や専門学校などでは,「情報発信」の能力を身に付けさせるということで,学生に対してホームページ作成を推奨しているtころが少なくないし,また,若い人たちの中には,いわば自己実現の一つとしてホームページ作成に挑戦する者も増えている。いろいろと凝ったデザインとかグラフィックとかアニメーションとか音楽とか,とにかく凝りに凝りまくり,専門家でもびっくりするようなものを作りあげてしまう者も決して珍しくはない。しかし,その大半は,長続きしない。それは何故か?

 思うに,どんなにきれいに飾り立てても,それは,所詮虚飾に過ぎないということに(意識的にせよ無意識的にせよ)どこかで気付いてしまうからではないか?あるいは,逆の言い方をすれば,内容としてアップロードすべき手持ちのコンテンツそのものが乏しいということに気付いてしまうからではないか?

 現実の人間でも(男女を問わず)そうであるが,たしかに,見栄えというものは社会の中の重要な要素であり,「見栄えの良い者はより多く注目を集める」ということは「公理」に近い自然現象であると思う。しかし,「見栄えだけの者は,すぐに飽きられる」というのもまた一方の真理であることは疑いない。昔から,「巧言令色鮮し仁」(論語)というが,まさにそのとおりだと思う。

 私は,ゼミの学生とか講義を受講している学生に対しては,1年間の授業を通じて,このことに気付いてもらうこと,そして,自分の内面のコンテンツを充実させるためには真の意味での自発的な勉強の積み重ねが必須であることを理解してもらうことを期待しながら,授業に臨んでいる。そのために,ゼミにおけるプレゼンテーションの作成課題についても,表現よりもまず内容を重視し,そして,その内容を表現するのに最も適した表現形態が採用されているかどうかを重視している。このような考え方は,私だけの独自のものだとは少しも思っていない。むしろ,企業にしろ何にしろ,現実の実務の現場では,当たり前のことである。常識と言ってもいいかもしれない。その意味で,たとえば,法学部の学生であれば,まず,実定法の解釈を含めた法学の基本的な部分をしっかりと身に付けていることが大事であるし,法情報学であれば,情報の検索技術,選択・分析・解析能力,その中から「構造」を発見する能力の錬成というものが何よりも大事なこととなるはずである。逆に,そのような基本的な部分がしっかりしている者は,かなり初歩的な表現技術を習得しただけでも,どのような職業・立場の人からもそれなりに評価してもらえるようなものを外に向かって表現できるはずである。

 実際,私のホームページ内には,学生が作成したプレゼンテーションやら答案やらレポートやらがたくさん掲載されているが,その見栄え上の良し悪しとは関係なく,また,その学生が1部の学生であるか2部の学生であるかとも全く関係なく,内容的に良いもので,しかも,その良さがうまく表現されているものについては,このホームページを訪問する企業担当者の方々等から好感をもって迎えられ,その学生に対し,(どこでどうやって調べたのかは分からないが)就職案内とか面接勧誘とかの電子メールやら何やらが送られてきている。こんな就職状況の厳しい折には,とてもありがたいことである。私自身もまた,時折,お褒めのメールを頂戴することがあるし,また,さまざまなアドバイスのメールを頂戴することもある。本当にありがたいことである。人生の中のほんのひとときといえども,一緒に同じ場所の空気を吸い同じ時間を過ごした若い人が,外部の人々からも一定の評価をしてもらえるということは,その学生がまるで自分の子供たちの中の一人であるかのような一種不思議な感激と喜びを感じさせるものである。これがいわゆる「教師冥利」というものなのか・・・?

 いずれにせよ,ホームページにせよメーリング・リストにせよ,どうせ凝るなら,コンテンツとしてアップするものの表現そのものよりもその内容(正確に言えば,その内容を表現するのに最も適した表現形態を採っているかどうかも含む。)に凝るのが一番良いということになりそうである。ただ,コンテンツ産業あるいはグラフィック関係の専門家とかネットワーク上で動作するプログラムの専門家をめざす学生だけは,それ自体が自分の能力とセンスを直接に示すものであるだけに,異なる存在だということになろうか。

 さて,この「法情報学ゼミ」ホームページは,CGIで動いているアクセス・カウンタを唯一の例外として,ほぼ全部がテキストだけで構成されている。写真も乏しい。アニメーションと音楽は皆無である。リンクをはりにくくなったりディスプレイやブラウザの制約に左右されやすいフレームも採用していない。プログラムの起動時間が大幅に改善されない限り,JavaやActive-X等も今後採用することはないと思う。これは,「大学のサーバの乏しい資源を効率的・経済的に活用して,提供可能な情報量を極大化させる,そのために,テキストのみのコンテンツを重視し,どのコンテントに対しても他から自由にリンクをはりったりブックマークをつけたりしやすいようにできるだけ配慮する」というこのホームページの基本方針に基づくものである。私は,今後も,この基本方針を堅持したい。

 とは言っても,我がゼミ生の中には,なんでもいいから就職したいという者もいるが,司法試験や司法書士試験などの資格試験をめざしている者とか,電脳警察官だけを考えている強情者などいろんなタイプの学生がいる。法学部生でありながらSEやソフトウェア製作あるいはディレクター等をめざす者もあり,それぞれ,それなりの実力とセンスも持っている(1回だけの適正テストでは分からないかもしれないが・・・)。そのような学生を抱えているゼミの指導者として,私のプログラム技術が恐ろしく乏しいと思われたのでは,そういう学生に対して気の毒である。一種の見栄かもしれないし虚栄心なのかもしれないし,自己過信またはドンキホーテと非難されるかもしれないが,いやしくも法と情報を教えている者としては,何やら義務めいたものを感じてしまうのである。というわけで,いずれ,このホームページの片隅のほうにでも,技術的に凝りに凝ったページを作ってみようかとも思っている。また,将来SEをめざしている学生に対しては,「HTMLの可能性を究極まで探求した実のある作品を1つ作って見ろ。」と指導している。この「実のある」というのは,その学生が「部品屋さん」(ホームページやグラフィック・モジュールの作成下請のみの仕事のことだろうか?)にはなりたくないと言っているからである。もしも掲載に値すると評価可能な作品が提出されたときは,このホームページ内で紹介してみたいと思う。

 


Copyright (C) 1998 Takato Natsui, All rights reserved.

Last modified : Apr/23/1998

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