裁判プロセスとルールの適用

(研究報告要旨)

by 夏井高人


日時:1989/07/29

場所:明治学院大学法律科学研究所

   法律エキスパートシステム研究会第33回定例研究会


 

1 概  観

 裁判の形成過程は,特定の出発点から特定の目的に達するための合理的かつ論理的過程であり,これをコンピュータ内におけるデータの流れ等と同じ意味でのプロセスとして理解することができる。このプロセスの物理媒体となるものが庁舎としての裁判所といった物的資源,あるいは,裁判官又は裁判所書記官といった人的資源であり,このプロセスを制御するための基本命令は,法によって予め定められた一群のルールである。
 裁判所を構成する資源の配分等に関して適用される基本ルールは,憲法,裁判所法,民事訴訟法,刑事訴訟法等の組織法ないし手続法によって与えられている。配分された資源に対し,データとして与えられる個々の事件(申立・主張・証拠)に対しては,民法,刑法等の実体法のほか,一般人が用いるのと全く同じ意味での常識ないしヒューリスティック,各種専門知識に基づく特殊ルール等も適用される。更に,多くの場合において,裁判官は,同時に複数の事件を平行して処理しなければならず,一般には1個の裁判所(官庁)には複数の裁判官(裁判体)が所属しているので,裁判プロセスを全体として見るとマルチ・タスク処理が実行されていることになろうが,このような処理を円滑に実行し,重要なタスクとそうでないものとを分類したりするために,人事管理,事務分配その他の事項に関する司法行政上のルールも存在する。
 しかしながら,裁判官の独立の原則が存在するため,裁判所というハードウェアは,常に,任意に結合された相互に非従属的な並列処理マシンとならざるを得ないことも必然である。また,裁判官俸給等の予算措置のためのルールも存在するが,これは,コンピュータでは,ファイル領域,使用時間や使用電源の割当等のための処理に相当することになるであろう。
 裁判所組織全体として見た場合の裁判プロセス及びそこで適用されるルールの概要は,上記のとおりである。これら裁判プロセス全体について,ルールの適用を論じたものは皆無であるし,短時間でこれを論ずることも無理である。そこで,ここでは,単独裁判官による民事事件処理の場面に限定して,裁判プロセスにおけるルールの適用のあり方について若干の検討を試みる。

 なお,ここで述べることは,全て私の個人的見解であって,裁判所の公式見解ではなく,通常の裁判官の多数意見でもない。

2 民事事件処理とルールの適用

2.1 法が先か事実が先か

 一般に,裁判官には2つのタイプがあると言われてきた。一方は,「スジ」型裁判官と呼ばれるものであって,事件全体の流れや主要な事実関係に考察の重点を置き,これにそった解決のために必要な理由を後から探すというタイプである。他方は,「理論」型裁判官と呼ばれるものであって,当事者が設定した訴訟物をあくまでも絶対の前提とし,その訴訟物に関する要件事実その他の理論的な面での検討を先行させ,その限りにおいて必要な事実関係及びその証拠の検討を行うというタイプである。前者は,実体的真実発見主義に淵源を有するものであり,後者は,当事者主義に由来するものであろう。このようなタイプの差が発生する原因は,裁判官個人の生育歴及びそれによって形成されるパーソナリティや世界観の相違にあるものと思われる。とはいっても,このようなタイプの相違は,理念型な区別であり,実際には,各裁判官毎にその傾向に濃淡があるのに過ぎない。
 ところで,このような理念型の存在を一応の前提として考えた場合,裁判官が最初に事件を審理し始める際にどのようなルールを適用するかを考察するための重要な手がかりが与えられる。すなわち,スジ型裁判官は,とりあえず事実関係全体の把握を試み,次に適用されるべき法規を探索する。この場合,最初に重要な意味を持つのは,一般的な意味での経験則ないし常識であり,また,事実認定のための様々な証拠法則である。ただ,スジ型裁判官においても,弁論主義とりわけ処分権主義による拘束はあるので,事件名及び当事者(原告)が仮定的に設定する訴訟物を,一応の所与の環境条件として,必要な審理を開始するし,当該訴えにおいて重要な訴訟要件が完全に欠けていることが明らかな場合には,理論型裁判官と全く同じ行動パターンをとるであろう。しかし,当事者間に自白が成立しているが,その内容が不自然な場合や,単純な自白ルールの適用が正義に反する結果を生じさせるような場合に,職権で釈明を尽くそうとするかどうかという点では,理論型裁判官と顕著に異なった行動パターンをとるであろう。他方,理論型裁判官では,当事者の設定した訴訟物が全てであり,そのシンボルである事件名を見れば適用されるべき法規が直ちに確定されることになるので,最初になされるべき作業は頗る機械的なものとなる。すなわち,先験的に定められている要件事実に適合する主張がなされているかどうか,その主張に対応する認否や反論等が的確になされているかどうかのチェックがまずなされるのである。そして,そこで認定される事実関係は,あくまでも当事者によって主張された事実関係であって,それ以外の事実は無視される。
 このような裁判官において見られるスジ型と理論型の相違は,実は,弁護士においても妥当しており,口頭弁論における主張の仕方等にも,この類別に対応した相違があるように思われる。そのバランスがうまくとれている弁護士は,形式的にも内容的にもすっきりとした分かりやすい訴訟戦略を展開し,裁判所からも(場合によっては,相手方当事者からさえ)好感をもって迎えられやすい。しかし,そのどちらかに偏り過ぎた弁護士は,何か問題のある訴訟戦略にこだわる傾向があるようである。
 しかも,弁護士の場合,訴訟における駆け引きのために,真実とは異なる訴訟上(だけ)の事実を訴状や準備書面に記載して申立や主張をなすことも決してまれではない。たとえば,信頼関係破壊の有無というやや複雑で面倒な問題が争点であるのに,賃料不払いといった単純な債務不履行に基づくものとして不動産明渡請求がなされることがある。もっと分かりやすい例としては,真実は貸金の全部または一部の弁済を受けているのにもかかわらず,何ら弁済がないものとして,元本,利息及び遅延損害金の支払請求がなされることもある。これらいずれの場合でも,相手方が答弁書を提出し,あるいは法廷に出頭して原告の主張を争えば,その訴訟は,結局は本来の争点についての争いに移行するのであるが,何らかの理由で相手方が原告の主張を争わず,法廷にも出頭しなければ,原告は,欠席判決により勝訴判決を得ることが可能である。更に悪質な例として,相続税の脱税のための虚偽の養子縁組をなした後に亡養親との離縁請求の申立をする例とか,家庭裁判所で扱う事件ではあるが,横領の目的で禁治産宣告の申立をなすと同時に,自分自身又はその息のかかった者を後見人に選任するように推薦する例等もある。このような悪用例をよしとするかどうかは,弁護士の倫理観に大きく影響されるところでもあるが,基本的に,スジ型であるか理論型であるかによって決定されるところも少なくないように思われる。

2.2 事件の特定

 申立てられた事件がどのような事件であるかの確定は,一種の事実認定に属する事項である。この作業は,まず,裁判所の受付担当書記官によってなされており,一般的に言えば,かなり妥当に受付事務の処理(事件の選別ないし適法要件の形式審査等)がなされている。この場合に適用されるルールは,法規や判例に関する正確な知識といいうよりも裁判所書記官としての長年の実務経験に基づく一種の経験則として存在する一種のルールであり,また,必要な調査事項を短時間に検索するためのノウハウである。ただ,精神状態が正常でない当事者の場合には,まともに対応することができないことが少なくないし,最初から敗訴を承知で強引に和解に持ち込もうとする弁護士等の申立では,無論,このような選別がまともに機能しない。ことの善悪は別として,この点は,コンピュータによるデータ処理と大きく異なる点である。
 受け付けられた事件がどのような事件であるか,その適法要件が充足されているかどうか等を最終的に審査するのは,裁判長の権限を有する裁判官の法的任務である。ここでも,適用されるべきルールは,まず,書かれた文字の識別及び意味認識という意味での事実認定に関するルールであるが,この場合において,先に述べたスジ型と理論型のタイプの別がその認識作業の経過を大きく左右することはいうまでもない。たいていの場合,訴状をはじめとする申立書の記載は不十分であり,この記載だけで事件の概要を把握することに困難を感ずることも決して珍しいことではない。

2.3 事実の認定

 事実の認定は,最も困難な作業である。ここでも,法規を先行させる理論型裁判官にあっては,歴史的事実と切り離された法的事実の認定のみが問題となり,スジ型裁判官にあっては,一連の歴史的事実の認定がまず問題になる。
 事実認定において適用されるルールは,一般人が通常の認識作業において適用するものと全く異ならない。裁判における事実認定では特殊なルールが適用されると推測する研究者も数多く存在するが,これは全くの誤りである。ただ,もし異なる点があるとすれば,その適用されるルールが複数である場合に,それらが相互に矛盾しないように理論的整合性の確保に細心の注意が払われること,曖昧さを残さないで証明ができているかどうかが入念にチェックされることであろう。一般人の日常的な判断においては,理論的整合性の確保や認定の厳密さが必ずしも常には要求されないのと比較すると,この点が大きく異なる。しかし,これは,程度の差の問題であって,質的相違を意味するものではない。従って,裁判官の資質としては,このような厳密な作業に耐えられるだけのものが要求されることになるが,このことは,自然科学及び社会科学の両領域を含め,厳密な測定等が必要とされる分野では一般に求められる資質であり,常に全く同じことが言えるのであるから,裁判官が一般人と比較して特別に優れた資質の持ち主であることにはならない。なお,訴訟法上,自白に関するルールその他の一定の証拠法則の適用が強制されているところでは,これらの法則が優先して適用されるべきルールになるので,これら優先ルールに関する知識の有無が一般人と裁判官とを隔てる相違点となるかもしれないが,これとても,本質的なものではなく,知識の多寡という量的な問題に過ぎない。
 優先的な適用の強制が定められている各種証拠法則を含めて,事実認定において適用されるルールは,一般に極めてありふれたものである。また,適用の強制が法定されている各種証拠法則には,ごく単純な常識的ルールから演繹され得るものが少なくない。しかし,「常識」と呼ばれる様々なルールにおいて,相互に矛盾するものが少なくないことは広く知られており,裁判上の事実認定においても,この点が問題となることが決して少なくない。たとえば,「カルテに記載された内容は,一定以上の能力と権限が認められた専門家が記載したものであるから,特別の事情のない限り,真実に合致した事実経過が記載されている」というルールが一般に承認されており,事実,大半のカルテは,そのようなものとして存在している。しかし,「カルテを作成する者も人間である以上,不都合な部分を後から書き換えることもあり得る」というルールや,「人間にとって誤記は不可避である」というようなルールもまた一般に承認されている。これらルールは,ルールの優劣をルールそれ自体から決することはできず,当該ルールが適用されるべき状況との相関関係においてのみ一応の判断が可能であるという宿命を負っている。従って,訴訟上の主張事実からは一応離れた歴史的事実の中においてのみ,当該カルテの記載の合理性を判断せざるを得ないのであって,このことは,理論型の裁判官においても異ならない(ただし,徹底さや程度が異なる。)。

2.4 法の適用

 法の適用は,通常考えられているよりもはるかに複雑な作業である。すなわち,具体的な事件において適用されるのは,形式的な意味での法規そのものではなく,具体的事実関係に即して変形されるように法規から導出された具体的命令である。この導出プロセスは,完全に論理学的な生成経過を辿ることが多い。そして,このような論理学的な生成プロセスを経た具体的な法の生成は,伝統的に,「法の解釈」と呼ばれてきた。このような形での法規の適用は,最もありふれたものに属する。この種の生成プロセスは,それが非常に複雑なものであっても,必ず明確な解法が存在するのであり,従って,トレースが可能である。一般に,Lispやprologその他のプログラム言語を用いた法的ルール探索は,この種のルール探索のうちの比較的単純な部分を扱っているように思われる。しかしながら,先に述べたスジ型裁判官にあっては,基本的事実関係の把握と適用されるべきルール(法)の探索とが相互フィードバックによって,目まぐるしく交互実行され,一定の時点で適用されるべきルールの相対位置が決定されるというプロセスが実行されている。これをコンピュータで実現するためには,かなり高度な自然言語処理,非音声言語処理,文脈理解,状況変数の導入,及びそれらを高度に実行するための技術が必要であろう。
 このような論理学的変形によるルールの生成に対して,裁判官の意欲又は恣意による変形が強く作用する場合もある。後者の場合,上訴審で取消又は変更されることも少なくないが,形式論理による処理過程が破れて,判例による新たな法体系の生成がなされることもある。この場合,多くの法解釈学者や裁判官は,それが「法の解釈」であると説明している。しかし,実際には,「文」としての法規からの変形では生成されないルールの生成がなされているのであるから,それは,一種の立法プロセスである。人身保護法による幼児の引渡請求の容認等がその例としてあげられよう。このようなタイプのルールの生成では,その最も大きな動因は,「意欲」であって,ルールの変形規則ではない。従って,このようなルール生成プロセスは,後から説明を考え,記述することは可能であっても,どのような「意欲」がどのような場面で,どのような強さでルール生成処理過程に作用するのかが予め分かっていない限り,これをコンピュータ処理することは,非常に困難又は不可能である。

2.5 量的な判断

 裁判プロセスにおいては,しばしば,量的な判断が求められる。例えば,損害賠償請求権の存在を前提とした慰謝料額の算定,犯罪の成立を前提とした刑の量定,婚姻関係の存在を前提とした婚姻費用分担額の算定等がそうである。
 これら量的判断の中には,結果の算出のための方式が明確に定まっているものと,算出の方式が全く存在しないものとがある。前者の場合,判断プロセスにおいて適用されるべきルールも明確であり,その適用の過程をトレースすることも非常に容易である。例えば,不動産競売における配当計算等がそれに該当する。これに対し,後者では,裁判官の自由裁量的な判断が全てである。慰謝料額の計算等がその例である。ここでは,恣意的な判断又は先例追従的な判断が横行しやすい。たいていの場合,そこでは,「社会的に相当な額」であるかどうかという基準に基づいた判断がなされている。しかし,実際問題として,社会的に相当な額を発見することは不可能である(発見のための手段の不存在)。この「社会的に相当な額」という概念は,出された結果に対する説明をするための概念であるのに過ぎない。とはいえ,既に存在する先例から,重要と思われるファクタを抽出し,これを統計的に処理して,可能な額の範囲を推測することは可能であるし,現にそのような試みが広く行われている。ただ,その重要なファクタが判決書等に過不足なく記載されているかどうか保証されていないので,完全な推測をすることは困難である。一体何が,このような自由裁量的な判断の合理性を担保しているのかを再検討すべき時期に来ているように思われる。少なくとも,一義的に明確なルールの適用という形で判断が形成され,そのプロセスをトレースできるような仕組みを考えることが必要であろう。

2.6 文章作成(判決書の作成)

 事実認定にしろ法の適用にしろ,ルールを適用した結果は,判決書等に「理由」として記載されることになっており,この記述が,裁判の合理性及び検証可能性を担保するものと考えられている。しかし,ここで重要なことは,判決書等に記述されるのがルールの適用の結果であって,適用されたルールの生成過程を記述することは,原則として,必要がないと考えられているということである。従って,判決理由等に記載されている判断過程は,その全貌を示すものではない。
 また,「当然の前提となっている事柄については判決理由に記載しない」という暗黙のルールが存在する。この「当然の前提」の中には,判例法上解釈が固まっている事項とか,判断を必要としないということが(論理必然的に)明らかなものなどが含まれる。ここでは,判断のショートカットが用いられることになるのであるが,これを論理言語で記述しようとするならば,ショートカットされている部分も何らかの探索木で埋める作業を,しかも,何も書かれていないものからの推測によって,延々と続けなければならないことになるであろう。
 更に,文章作成技術の巧拙という問題もある。これは,専ら当該判決書を起案する裁判官の資質に関する問題ではあるが,無視できない問題である。というのは,判断プロセスを検討するための対象となるべき第1次的な資料が,まさにその判決書以外にはあり得ないからである。
 加えて,最もありふれた判決は,全く公表されていないという問題もある。一般に,法律雑誌等に掲載される事例は,特殊な事例であるとか先例のない事例といった,雑誌社にとって掲載価値のあるものが圧倒的多数を占めている。そのようにして掲載された判決等が通常の裁判所の最もオーソドックスな姿勢を反映しているという保証は,どこにも存在しない。世の中に存在する最も普通の典型的な判決は,当事者にのみ知られるだけで,そのまま裁判所の倉庫の中に埋もれているのである。しかし,このような典型例の調査をすることなしに,通常の判決書の作成ルールを認識することはできないし,この点に関するルールの検討を経ることなしには,正確な統計データを得ることができないのはもちろんのこと,当該判決等に記述されているルールを読みとることもできないであろう。通常の裁判官は,このような世間の目に触れない無数の判決文を手本として,裁判所の判決独特の表現技術と他の裁判官に対する情報伝達技術を修得しているのである。

3 裁判官の思考における特殊性と非特殊性

3.1 専門知識

 通常の裁判官は,裁判官として仕事をするのに必要な専門知識を要領よく整理して記憶し,又は,記憶の喚起に便利なように知識を整理してファイリングしている。常に知識が頭脳に格納されているわけではない。むしろ,一種の索引のようなものだけが格納されている場合が多い。専門知識の記憶それ自体は,一般人の記憶と何ら変わりがなく,単に量的な相違があるだけである。従って,専門知識に関しては,質的な意味での特殊性はない。

3.2 経験則

 一般に,「裁判官は多くの経験則を保有している」という経験則は,存在しない。おそらく,一般人とほとんど変わりがないものと思われる。しかし,裁判官は,経験則を1個のルールとして明確に自覚し,他の競合するルール等との論理的整合性を保って,個々の事件に適用しようとする「意欲」においては,まるで比較にならないほどの強さを持っている。これは,知識としての経験則の量の問題ではなく,その質の問題でもない。「意欲」の問題である。そして,この「意欲」が恒常的に発動されている限り,それが質的な問題として認識され得ることになるであろう。

3.3 個人的資質

 個人的資質に関しては,裁判官以外の専門家(法学研究者,人工知能研究者等)と比較して特に優れたものを有しているということを証明する証拠はない。ただ,裁判は,学問ではなく,現実の実践であるので,それに適合するような資質が要求される。また,裁判官は,様々な種類の事件を扱うので,柔軟な姿勢も要求され,しかも,生きた人間を相手にする仕事であるので,柔和な態度も要求され,更に,裁判そのものが伝統的に持っている一種の雰囲気によって,正義に反することを行わず,潔癖であることも要求されている。しかし,このような事柄が要求されているということは,Sollen の世界に属することであって,現実の裁判官が Sein の問題としてそうであるとは限らない。

3.4 特殊な経験の積み重ね

 裁判官又は法律家としての職務経験の積み重ねは,我が国のようなキャリア制を採用しているところでは,非常に重要な要素であると思われる。これは,明らかに一般人と裁判官とを隔てるものである。しかし,陪審員のような素人裁判官を採用しているところでは,あまり重要な要素とはならないかもしれない。

4 ルール適用のシミュレーション

4.1 シミュレートの可能性

 一般に,裁判プロセスにおけるルールの適用をシミュレートすることは不可能なことだとされており,また,そのような作業に対して頭から拒否的であるというのが通常の裁判官の一般的な態度である。しかしながら,いかなる判断(裁判)といえども,それが後からトレース可能なものでなければ合理的な判断であると言えないことは明らかであるし,トレース可能なものである限り,これを何らかの方法で記述し,その記述の蓄積に基づいて一定のシミュレーションを実行することも可能なはずである。逆に言えば,後からシミュレートできない裁判は,恣意的なものであるか又は裁判ではないのかのいずれかである。
 裁判又は判例法は,実定法と同様の意味で法の体系の一部をなすものであり,それゆえに,事前に国民に知られているものでなければならないのであって,裁判の予測不可能又は予測の忌避は,法的安定性の不存在を帰結することになる。無論,具体的な事件について,最終判断がなされる以前の段階でのその漏洩が許されないという原則(ポーカーフェイスの原則)は,現在でもなお一応の合理性を有するものとして維持されている。しかしながら,数多くの和解手続において,裁判官(裁判所)から,当事者に対し,最終判断の見込みが告げられ,これに基づいて和解案の提示がなされるのがむしろ常態となっており,このようなプロセスを経た上での和解による紛争の解決が裁判プロセスの非常に大きな部分を占めている。このことに鑑みると,ポーカーフェイスの原則は,既に破棄されてしまっていると言っても過言ではなかろう。現代においては,標準的な手続に基づいて,予測されたとおりの判断がなされるということが肝要であり,経済原理にも合致しているのであって,これが現代における正義である。
 また,従来,「裁判は全人格的な判断であるから,これを記述することは不可能である」という見解が有力であった。だが,仮にそうであるとすれば,そもそも,判断プロセスの記述としての判決書を作成することができないことになる。あるいは,作成された判決書は,なされた判断とは無縁の単なる作文であることにならざるを得ない。また,仮にそこでいう全人格的判断なるものが無自覚的又は情緒的な判断を意味するのであるとすれば,国民に対する裁判というものを前提とする限り,そのようないいかげんな判断が許容され得るはずがないことも明らかである。「言葉の魔術」や「呪術的要素」あるいは「アニミズム的要素」を取り除いた科学的な裁判を求める限り,このような態度が存立し得る余地はない。そうだとすると,「全人格的判断」とは,先に述べたような意味での,複数の相互に異なるルールの論理矛盾なき総合適用を意味すると定義すべきであろう。そのような定義ないし理解を前提にすれば,いわゆる全人格的判断なるものと判断プロセスの記述というものとが相互に矛盾する概念であることにはならない。そして,どのように複雑なものであるとしても,一義的に明確な解法が存在し,その組み合わせによって構成されるものである限り,裁判における判断プロセスは,記述不可能ではない。「裁判は全人格的な判断であるから,これを記述することは不可能である」という見解は,捨てられなければならない。

4,2 シミュレーションの方法

 シミュレーションを実行するためには,様々な技術的問題を解決しなければならないが,シミュレータそれ自体を人間の振る舞いに近似させて構築するのが最も合理的であると思われる。
 まず,判断に至るプロセスは,多くの場合,それぞれ小さな部分問題の場面において,比較的単純なルールを,場面に応じて変形させ,それを積み重ねるところから始まる。積み重ねられたルールの変形物は,全体としてみると一種のリカーシブな構造の外観を有する。ただ,この場合のルールの適用は,探索木の探索というよりも,各事件毎に,その都度手続向き言語を用いて逐次コーディングをする作業に似ている。従って,ここでいう裁判シミュレータは,リスト表現のみを扱うことのできる言語処理系では実現不可能であるから,もし,最終的なコードをリスト表現にしようと固執するのであれば,汎用的なジェネレータの構築を考えなければならない。このジェネレータは,かなり大規模なものにならざるを得ず,しかも,普通の人間の個々の判断活動を部分問題として個別にシミュレートするための元のコードを,共通のリスト表現に変換するようなものであることが必要となる。逆に言えば,普通の人間の個々の判断活動をシミュレートするためのコーディング手段が開発されれば,それを共通のリスト表現に変換するためのジェネレータが完成していなくても,エキスパート・システムの99%が完成したものとみなしても構わないと思われる。
 次に,現在の文字コード体系は,便宜的なものであり,隣合ったビットを割り当てられている文字コードが相互に何らの関連性も持っていない。このことは,裁判シミュレータを構築する場合には,大きな不便をもたらすであろう。人間の通常の発想は,同種のもので距離的に近いものは,意味的に近似し又は形状的に近似するというものである。この人間の発想に近い文字コードの体系を予め準備しておき,コードとコードとのビット間の距離の計算によって近似の度合いを測定するという処理のみによって,意味的な近似も計算できるようにすべきである。このような文字コードの再編成がなされなければ,事実認定に関連するルールの記述の場面でも,非常に多くの困難がもたらされることになるであろう。逆に,意味的に近似して配列がなされるように再編成されたコード体系では,ファジー理論の応用等も比較的容易になるのではないかと思われる。そして,このようにして整理されたコード体系は,固定的なものとして存在するのではなく,そのコード・データの使用頻度に応じて,常に更新され,並べ替えされるものでなければならない。このような自動更新は,生体の脳内では,ニューロン結合の切り替え・再配置によってなされているのであろうが,コンピュータ上の最も小さなモデルとしては,テーブル更新用のスタックを2つ準備しておくだけで実現可能ではないかと思われる。
 第3に,現在のコンピュータは,触覚しかないという致命的な欠陥がある。キーボードにしろマウスにしろ,処理そのものという観点からすると,生物で言えば触覚に相当するものであって,それ以上のものではない。しかし,人間にとって最も重要な感覚器官は,触覚ではなく,むしろ,視覚なのであって,多くの「概念」や「知識」がイメージ・データと不可分に結合されたものとして存在している。従来の記号論理学は,ここでの分脈に即して言うと,触覚のみを前提にするものであるが,これのみでは,暗い洞窟の中の原始的な昆虫より以上の知的な作業を実行することはできない。さらに加えれば,聴覚(音声)の獲得も重要である。これらの領域に属する問題は,現実の裁判では,昔から採り入れられている。すなわち,印影の対照による判断とか声紋の鑑定による判断等がそうである。先に述べたとおり,裁判所における事件処理は,事件の受付に始まるが,そこでなされている作業は,印象のパターン・マッチングによる一種の鑑定的作業による文字列の認識,認識された文字列の概念テーブルとのマッチングによる判定という対照作業が,非常に高速になされているのである。審理開始後の事実認定には欠かせない証拠評価の段階においても,そこで実際になされている処理の多くは,形式論理の操作ではなく,検証的な作業に費やされているのであり,そのためになされている実際の処理は,画像処理と音声処理に属するものである。従って,この分野における今後の成果は,直ちに,ここでいいうシミュレータの実現可能性の増減に直結するものと思われる。

4.3 シミュレーションの限界

 裁判シミュレータの限界は,「意欲に基づく判断にかかわる部分は実現できない」というところにある。無論,将来,一定の意欲を持ったロボット又はアンドロイドが実現されれば,この限界もなくなるのであるが,そのような事態は,近い将来にはありそうもない。しかし,ここまで述べてきたように,裁判プロセスにおいて,「意欲」というものが果たしている役割の大きさを無視することはできない。この「意欲」は,個々の裁判官の政治的立場,宗教的立場,あるいは,単なる個人的生活慣習に由来するものかもしれない。このような場合には,特定の意欲の発生確率をある程度まで定式化することも不可能ではなかろう。しかし,現実の生きた裁判官にあっては,全くの気まぐれということもあり得ないわけではないし,何か理解できない意欲というようなものも存在する。もちろん,相互に矛盾する複数の意欲が同居し,葛藤する場面もしばしば経験するところである。このような場合には,現在のところ,いかなる意味での定式化も無理である。したがって,この種の要素がからむ問題については,シミュレーションが不可能となる。
 また,全く法規が存在しない問題についても,コンピュータによるシミュレーションができない。このような場合でも,仮に「法の不存在」として,提起された訴訟が常に請求棄却になるという立場を採るとすれば,そのためのシミュレータの構築も不可能ではないかもしれない。しかし,多くの裁判官は,「法が存在しないということはなく,それを発見できないでいるだけだ」と考えている。要するに,多くの裁判官は,「法の発見」又は「法の解釈」という説明概念で自己を納得させながら,一種の立法をなすことを選択するであろう。しかし,この場合において,裁判官によってどのような法が「発見」されるのかは,常に未知数である。したがって,このような場面にも,シミュレーションの限界が存在することになる。
 更に,コンピュータによるシミュレーションが可能なのは,先に述べた論理型の裁判官までであって,スジ型の裁判官のシミュレートは,非常に困難又は不可能であろうと思われる。なぜなら,一体何をもって「重要な(基本的な)事実関係」であると認識するかを予め想定することができないからであるし,また,そのような重要度の識別を可能とするような汎用的で一義的明確な定式が存在しないからである。

5 まとめ

 現時点における人工知能の領域では,「静的な思考」についての考察はなされているが,「意欲」や「意志」といった「動的な思考」についての考察はほとんどなされておらず,これが人工知能の学問としての決定的な欠陥となっている。この問題が解決されない限り,真に生産的な学問領域としての人工知能を確立することはできないであろう。
 しかしながら,法律エキスパート・システムの研究が,人工知能の一領域内にあるものとして裁判を扱うのである以上,この問題を避けて通ることはできない。裁判とは,極めて人間的な営みが,尋常ではない徹底さをもって日々実行されているところである。従って,それに対する人工知能の側からのアプローチは,人間そのものに関する基本的理解を抜きにすることができない。これなしには,実りある成果も期待できるはずがない。だが,その裏面として,裁判を科学的・客観的に観察し,認識し,記述することは,人工知能の研究一般にとって必要な最も重要な要素の幾つかを発見し,発展させる契機となり得るものである。そして,もし,そのようにして得られた成果を,現実の裁判にフィードバックさせることができるとするならば,それによって,真に民主的で正義に適った裁判を実現させることもできるであろう。


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最終更新日:1998/01/21

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