コーネル大学探訪記

(Web version, Rev. 1.2)

by 夏井高人


 2001年3月20日から23日にかけて,アメリカ合衆国ニューヨーク州イサカの町にあるコーネル大学に出向き,同大学ロースクールのマーチン教授らと意見交換をし,同大学の誇る法情報データベース・システムLIIとロースクールの施設等を見学した。

 以下は,この視察旅行の私的レポート(Webバージョン)である。

 


1日目


 

 3月20日朝9時30分。タクシーで成田空港に到着。 

 同行の丸橋氏とは,空港のビジネス・シート乗客用のラウンジで待ち合わせることになっていた。私のほうが先に着いたらしく,彼の姿はどこにも見当たらない。 ラウンジでオレンジ・ジュースを飲みながら待っていると,トルシエ監督以下ご一行様も入ってきた。私が監督本人を直接見るのは初めてだったが,テレビなどで見る印象よりもずっと若い。次第に混み合ってきたなあと思っているうちに丸橋氏も到着。

 午前11時発ANA-NH10便で成田空港を出発。機種は,ボーイングのテクノジャンボB747-400だ。

 離陸後,6時間ほどの間は,自分達の席に座って雑談をしていたが,何となく疲れたので,丸橋氏を誘って,機内のラウンジに降りてみた。飛行機の中はすでに米国時間と同じ状態で19日の夜から20日の夜明け前の状態である。ラウンジには,既に中東あたり出身と思しき髭の濃い男性と妙なサングラスのようなものをかけた日本人男性といかにも米国人らしい男性が3人で何やら真剣に意見を交わしている。私達は,ラウンジのとなりにある食料品倉庫のようなスペースのところで立ち飲みをしながら話しをすることにした。私達は,日本の法制度及び法学方法論の基本的な問題点について意見交換をした。夜状態の機内は静かで,たいていの乗客は眠っている。そのうちに例の3人が客席に戻っていったので,私達は,そこへ移動して腰掛け,さらに語り合うことにした。

 日の出時刻になるころに席に戻り,すでに五大湖近くまで飛んできてしまっている窓の外を見ながら更にフライト。眼下には,白く凍った河川や畑などが続く。昨年夏にシカゴ経由でワシントンDCまで旅行した時には,みずみずしい緑に恵まれて,整然とマトリックスに区画されたコーン・ベルトが延々と続く光景を眺めていたものだが,季節が異なると,これほどまでに異なる装いを見せるものなのか。 やがて五大湖がきらきらと見えてきて,目的地への到着が近いことを告げていた。アパラチアの上空を通過した後,太陽のまなざしを反射してまぶしい大西洋の広がりとニューヨーク州近辺であろう,砂浜とのコントラストが際だった海岸線のラインが見えてきた。飛行機は,一旦西のほうへ大きくやり過ごし,ゆったりと旋回しつつ,降下してからニューヨークのJFケネディ国際空港に着陸した。

 ニューヨークに到着したのは,米国時間で20日午前9時過ぎだった。 

 空港で所定の入国手続きを済ませた後,タクシーでラガーディア空港に移動した。毎度お馴染みの黄色いタクシーで,元気の良い黒人運転手だった。タクシーに乗車する際,旅行用トランクをタクシーのトランクに自分で入れようとすると,「それは自分の仕事だ」と言ってタクシーの運転手に怒られた。アメリカで生活するための感覚を取り戻さないといけない。 ラガーディア空港には,ハイウェーを飛ばして約1時間で到着した。途中で,ハイウェーの増設工事をしているところが続いているのを目にした。随分と簡単な工法で工事をしているようである。橋脚を構築した後,予め工場で作っておいたと思われる橋梁部分のブロックを順にクレーンで吊り上げて連結していくだけの工事だ。こんなに簡単な工事で強度に 心配はないのだろうかとも思ったが,工期は非常に短そうだ。日本でも導入を検討できる部分があるのではないだろうか? また,大きなリムジンのタクシーも何台か見た。1日借り上げても50ドルくらいだそうで,結構安いため,付き合いのある近所の子供たちの誕生パーティなどで借り上げて,家族みんなでレストランに移動したりするのにも使われることもあるそうだ。日本では,とても考えられないことだ。

 ラガーディア空港で更に搭乗手続を済ませた後,空港の出発ロビーで時間調整をし,出発窓口の近くのソファーに移動すると,ちょうどニュース番組の音声が流れていた。日本の裁判関係のニュースだった。アメリカにまで来て日本のニュースを,しかもかなり詳細に,英語で耳にするとは驚きだった。窓の外にはひっきりなしに国内便が発進していく。

 12時過35分発のU.S Airway 機に搭乗した。機種は,濃紺色に塗装された双発プロペラ機であるダッシュ8だ。

 飛行場の建物からは,ワゴンのような自動車で飛行機のところまで移動する。丸橋氏の記憶によると,以前は,もっと小さな機種で運行されていらしい。しかし,私が飛行場を見渡した限りでは,このクラスの大きさの機体は,ほぼ全部ダッシュ8のようだった。 この飛行機は,エンジン部分が第二次世界大戦当時の双発プロペラ戦闘機のそれでもあるかのような一種の凄みがある。機内の窓から見ると,肩持ち型の両主翼に取り付けられたエンジン部分の下部にタイヤを収納するスペースがあり,離陸及び着陸の時には,そこからタイヤが出たり入ったりする。機体を外から見ると10人も座れるのだろうかと思ってしまうが,実際には,37席もある。ただし,この日のこの便の乗客は,たったの6人だけで,とてものどかなものだった。

 エンジンにスイッチが入ると,まず右側のプロペラから回転を始め,一定の速度に達すると,次に,左のプロペラが回り始めた。誘導路をかなりの速度で移動した後に滑走路に入り,あっという間に離陸してしまった。小型のプロペラ機は,離陸距離では断然有利な乗り物だと思う。機体は,急角度で旋回しながら上昇を続け,左手下には,マンハッタンのツイン・タワーやニューヨークの整然と区画された町並みやセントラルパークが見えた。日本のものと比較する相当に広い住宅地の上を過ぎ,どんどん高度をあげながら,ダッシュ8は,軽々と北西方向へと進路を取った。 

 ニューヨークからイサカまで距離は約400マイルだそうだ。日本で言えば東京から仙台あたりまでの距離だろうか。 飛行機は地上から概ね2000メートルないし3000メートルくらいのところを飛行した。時々,はるか眼下に白いセスナ機が飛び交うのが見える。アメリカでは,自家用も含め,飛行機の利用が日常化しているのだろう。のっぺりとしたアパラチアの山々の中に,小さなスキー場も見える。凍結した河川,部分的に氷がとけ出している小さな湖,厚く降り積もった雪の中に無数に立ち並ぶ茶褐色の幹だけの木々が見える。たまに見える町や村もまだ雪の中に釘付けにされているように思えるが,まっすぐに伸び,時折くねくねと折れ曲がり,そして,交差するハイウェーには,豆粒ほどの自動車が行き交っている。

 プロペラ機独特の気持ちの良いエンジン音と付き合いながら,これまた快適なフライトを続け,予定通りに午後2時近くにイサカ上空に達した。飛行機は,急激に高度を下げ,果樹園のようなところへと降りていく。そして,道路が目の前に現れ,そこを走行する自動車と衝突してしまうのではないかと思ったとたんに,雪の中から滑走路が現れ,気づいてみると,我々の機体は,両側の主翼のエンジン部分から下ろされた頑丈そうな車軸と小さなゴム・タイヤとにその身のすべてを任せて,そのコンクリートの平板の上で滑走していた。イサカ空港に到着したのだ。

 飛行機を降り,手荷物鞄から取り出したカメラで私がダッシュ8の機体を正面から撮影していると,空港の職員らしい立派な顎髭をたくわえたおじさんが,「早くこっちに来い」と手招きしている。歩いて空港の建物の中に入った。

 空港の到着出口へ行くと,そこには厚地のトレンチ・コートに身を包んだマーチン教授が出迎えに来てくれていた。もうかなり高齢なのだそうだが,背が高く,いかにも聡明そうな方だった。丸橋氏は,コーネル大学ロースクールの出身であり,マーチン教授は彼の恩師でもある。二人は何年かぶりの再開を喜び合った。私は,その間に入りこむのに若干気が引けたままでいたが,丸橋氏が「This is Professor Natsui.」と紹介してくれたので,マーチン教授に向かって「Nice to meet you.」と,たどたどしい英語で挨拶をし,握手を交わした。

 何歳になっても尊敬できる恩師との再会の光景というものはすがすがしい。私は,心の中で若干の羨望を覚えつつ,自分も教師のはしくれではあるが,いつか誰かと同じような情景を迎える日が来ることがあるのだろうかと,ふと思った。 

 飛行場から,マーチン教授が運転するフォード製の紺色のワゴン車で,イサカの町を観光しながらコーネル大学まで送ってもらった。道路はきれいに除雪されているが,3月下旬なのに,その左右には雪がかなりたくさん残っている。冬にはひどく寒くなるので,相当重装備の防寒具が必要になるそうだ。 灰色の堆積岩のような岩盤を切り取って作った道路を進むと,カユガ湖のほとりに出た。かつてこの地を厚く覆っていた巨大な氷河が時間をかけて削り取った痕跡なのだろう。灰色の岩盤で構成される周囲の縁取りと,そして,あくまでも冷たさを維持しようとする水面の姿には,一種荒涼とした風情のようなものさえ感ずる。カユガというのは,かつてこの地域一帯を支配していたインディアン部族の名前だそうだ。カユガ族の人々は,その後,シラキュースの近くの居留地に強制移住させられたが,現在では,ギャンブル産業などで大いに儲けているらしい。 湖畔にはしゃれた公園もあった。秋にはハイキングなどでにぎわうのだそうだ。今は人気も少ない。そこを過ぎて,途中で,遠くの丘の上に,コーネル大学の時計台がちらりと見えた。交差点に入るたびに,米国では自動車が右側通行になっているために,左右反対の妙な錯覚のような状態に陥る。これも早く慣れないといけない。 

 郡のハイスクールを左手に見ながら市内に入ると,右手に鉄道線路が見えてきた。貨物専用の単線鉄道だ。イサカの町へは鉄道を利用して直接に来ることはできない。市内に入ると,黄色や緑色のペンキで塗られた,半ばビクトリア朝当時のドール・ハウスのような半ば西部開拓時代の映画に出てくる家々のような華奢な造りの木造住宅が続く。どの家にも芝生と生け垣があるが,外壁はない。その中に有名な柱時計の店やショットガンの店が混ざっているのを眺めつつ,その辺りを通り過ぎて,明るい陽射しに微笑むイサカ市役所の見える市の中心街に至る。市庁舎の大きな建物を右手に見ながら,そこを過ぎ,古いイギリス風の赤レンガで造られた遺跡のような家々を目にしつつ直線の長い急坂を登るところまできた。この坂は,冬季に凍ったときには,とても怖そうである。紺色のフォードは,エンジンをふかす。

 この坂を上った丘の上全部がコーネル大学の敷地となる。驚くほどに,かなり広大な敷地だ。 市街と大学の敷地とを隔てる谷にかけられた橋を通った。車はさらに坂を昇る。さっき遠くから見た時計台も大きく見える。そして,ロースクールの建物のあたりを通り過ぎ,大学の幾つかの建物を見ながら,右折したり左折したりした後に,今晩から投宿するホテルに到着した。 

 このホテルは,コーネル大学のホテル経営学部直営で,創立者の名前にちなんで,シュタットラー・ホテルという。イサカの町には,モーテルはたくさんあるが,ホテルらしいホテルは,これしかないとのことだ。 予め電子メールで打ち合わせをしたとおり,今日は私と丸橋氏だけでゆっくりとくつろぐことにし,明朝正式にマーチン教授とお会いすることを確認した上で,ホテルの前で一旦別れた。明日が楽しみだ。

 ホテルの客室内は豪華ではないが広くて快適だ。バス・ルームも清潔な感じがする。旅行荷物を置き,顔を洗ってから,丸橋氏に案内してもらって,コーネル大学の学内を散策することにした。 

 時期が時期だけに,学生の姿はまばらだ。授業がある時期には,どこにも学生があふれ,大学の売店のあたりではラッシュのようになることもあるという。 最初に立ち寄ったのは,ホテルのすぐ左のところにある労働関係問題を扱う学部の建物だ。コーネル大学のすべての建物には,その建物の名前を示す「**ホール」という大きなプレートが外壁に貼り付けてある。ホールの名前には,建物建築のために寄付をした人や団体の名前が冠されている。多くの篤志家や政府機関などが相当巨額の寄付をしているようだ。日本では,へたに寄付をしても税法上の不備等により,少しも大学に貢献することにならないことが珍しくない。もし日本の学術レベルを増進し,本当に日本国の将来を担う若い世代を育成しようというのであれば,もっと抜本的な法制の改革が必要だろうということを,この最初の建物を見ただけでも痛感したが,この思いは,それに続く建物の群れを順に見るにつれ,ますます強いものとなった。日本は,学術振興のための法制や寄付の奨励措置に関しては,もしかすると世界でも最劣等国に位置しているかもしれない。

 そこから進むと自動車道路と交差するT字路に至る。この場所から左手を見ると時計台が見える。

 ここを右折し,ゆったりとした坂を上りながら歩いていくと,道路の右側にはニューヨーク州の寄付による建物が続き,左側には学生の厚生施設のような建物が見え,啓蒙専制君主の時代のドイツやフランスの建築物の様式を組み合わせ,若干アメリカ風にアレンジした古風な建物が続いている。昔のコーネルには,このような建物が並んでいたのだろうと往事を想像した。 

 そこを過ぎると,赤いテントを張ったテラスのようなものが見える。それは,農学部の学生用レストランへの入口だった。外に置かれたテーブルには,5名ほどの女子学生がくつろいでいた。アイスクリームが美味しいという。私は,「せっかく来たのだから食べていきましょう。」と言って,その中に入った。

 見た目には,普通のアイスクリーム店と何も変わるところがない。他に,ベーグルやスナックやジュースのほか,鍋に入ったままの状態でスープも売っている。どうやらアルバイト学生らしい女性従業員が2人で店の番をしている。丸橋さんのアドバイスに従い,私は,キッズ・サイズのバニラ・アイスクリームを注文した。約90セントだった。焦茶色のコーンにシングルでアイスクリームを押し込み,手渡された。かなり大きい。アメリカでは,キッズ・サイズでもこんなに大きいのかと内心驚いていると,キャッシャー担当の店員がアイスクリームをサーブしてくれた店員に対して,「これ,キッズ・サイズなの?」と大げさに問いただしていた。たぶん,アジアからの旅人だと思って厚遇してくれたのだろうと思った。代金を支払ってから食べてみると,なるほど美味しい。いつのことだったか忘れたが,明治大学で英語を教えている某先生が「アメリカの食べ物ではアイスクリームも美味しいわね。大好き。」とにこやかに話していたのを思い出した。乳脂肪分の多いアイスクリームをほおばりながら,室内の壁面を見ると,ポスターのようなものが貼ってあった。星条旗と乳牛をあしらったデザインだ。おそらく農学部のシンボルなのだろう。 

 そのレストランを出てすぐ上には,農学部の商品即売場がある。入ってみると,コーネル特製のコーネル・ブランドによる乳製品(牛乳,チーズ,アイスクリーム,ヨーグルト等)やシロップ等がずらりと並べられていた。いずれも見ただけで美味しそうなものばかりである。飛行機で持ち帰れないのが残念。 後に知ったことだが,マーチン教授の祖父はコーネル大学農学部の教授だったそうで,マーチン教授が子供のころには,「新しい味付けを考え出したから食べて見ろ」と言って,何度もアイスクリームを試食させられたそうだ。マーチン教授の祖父は,いわば,このアイスクリームの生みの親ともいうべき存在なのだろう。 

 即売場を出て更に坂を上ると,右側に大きな運動施設や雪に覆われたグランドの見えるところに出た。これに続いて農学部の研究施設や温室などが多数並んでいる区画がある。その区画から左手奥のほうには,ずっと農学部関係の農園や樹林等が続いている。おそらく丘陵の北側全部が農学部の敷地なのだろう。道路の右側にも関連施設が連なっている。その中には,薄い水色のペンキで塗られた町工場のような施設もあった。波板トタンで覆われているだけの部分もあり,相当貧弱な施設のように見えた。しかし,その表示を見ると,何とそれは毒物関係の研究施設であった。こんなことで大丈夫なのだろうか?かなり疑問が残った。

  やがて道は丘の一番高いあたりとなり,獣医学部等の建物のあるところとなる。クリーム色を赤く縁取った近代的な建築物が見えたが,丸橋氏は記憶がないという。おそらく,比較的最近建築された獣医学部の病院ではないかと思われる。非常に立派な建物だ。コーネル大学は,獣医の関係でも著名大学となっており,映画の題材にも登場するのだそうだ。なお,丸橋氏の説明によると,コーネル大学は,すべての種類の学部を擁する総合大学なのだそうだが,医学部だけはニューヨーク市内に分離して所在しており,ここにはないという。 

 そこから道は右にぐっとカーブしている。ぐるりと回って,さきほど裏側から見たスポーツ施設の前に出た。この建物だけでも日本の一般的な私立大学の建物の容積を全部合わせたくらいの大きさがある。かなり充実したスポーツ施設のようであり,一般にも開放されているらしい。要するに,大学の教育用施設であると同時に,市民向けのスポーツ・クラブのような機能も持っているようだ。ちょっとだけ中に入ってみると,映画館の切符売場のような窓口が幾つか並んでおり,そこで利用チケットを発行していた。 

 道は,右に曲がりつつ次第に下り坂となる。道路をはさんだ反対側は,すぐに崖になっており,その斜面を利用して,シンクロトロンの施設があった。赤茶色の煉瓦用のタイルで全体をあしらった原子力発電所にも似て,何かしら軍事施設のような趣もある。ずっと向こうには大きな2本の煙突を伸ばし,巨大な重油タンク伴った立派な火力発電施設も見えた。きっと,シンクロトロンを運転する時に必要な電力を供給するための施設だろうと想像した。 

 この建物を少し下がったところには駐車場がある。ワンボックスのバンのような車が停まっていた。屋根の上には「コーネル野外教室」と書いた看板が貼り付けてある。丸橋氏の説明によると,大学外で子供達を対象に出張教育のようなこともしているのだそうだ。

 検問ゲートのようなところを過ぎると,左側に古代ローマの建造物のようなものが見えた。それは,フットボール場への入口となっている回廊のような建物だった。フットボール場は,かなり大きく,客席もたくさんあり,大学リーグの試合もできそうだ。まだ雪も残っていたが,フットボールの服装をした男子学生らしい若者が何故かクリケットのスティックのようなものを持って歩いていた。ラクロスというスポーツだということを後に丸橋氏から教えてもらった。 

 さらに坂を下ると,巨大なチャペルのような建物があった。この建物には,ミリタリー関係の訓練施設であるという趣旨が記載してある。何だろうと思って中に入ってみると,それは,非常に大きな体育館であった。どうしてこれが軍事施設なのかは分からない。ただ,向こうの壁面の右側には「連邦陸軍」と左側には「連邦空軍」と書いた大きな垂れ幕のようなものが並んで下ろされていたので,もしかすると,軍関係のバスケットボールの対抗試合等に用いられるのかもしれない。少なくとも,この建物の施設建築費の寄付者は,軍に違いない。アメリカ合衆国は,強大な軍隊を持つ国なのだということを痛感させられた。 

 この施設のところで大きな灰色のリスが走り去るのと出会った。写真に撮ろうかと思ったが,すばしこく,撮影できなかった。このリスは,日本のエゾリスによく似ているが,もっと図体が大きく,猫ほどの大きさである。丸橋氏の言うところによれば,人間に感染可能性のある病原菌の宿主であるらしく,触ってはいけないとのこと。特に子供が触らないように注意しなければならないらしい。 

 このあと,更に古い協会のような様式の建物(学生の就職斡旋施設のようだ。)をくぐったりした後,ホテルのところまで戻った。途中で,亜細亜大学の町村先生のような立派な髭をたくわえた日本人とその奥様らしい40歳くらいのカップルとすれ違った。どうもコーネルに滞在中の研究者夫妻のようだ。丸橋氏の話しによると,コーネル大学には,日本からも多くの研究者が訪れているようだ。丸橋氏が在学中には,日本法(1セメスター)を教えるために東大から先生が来ていたという。また,企業からも多くの人が派遣されているともいう。しかし,その多くは,日本人以外の人々と親しく交際することもないことが多いらしい。もったいないことをしているものだなあと思う。私の場合,海外での生活経験が少ないせいもあるが,たった2日間の旅行であっても,とても多くの収穫を得ることができるし,普通の英語(のみ)で暮らし,米国人の感覚や生活感情等を直接に触れることのできる生活が非常に貴重に思えるのに,どうしてそのような機会を大いに活用しないのだろう。 

 さて,ホテルのところまで戻ってきはしたものの,夕食時刻までまだ相当時間がある。そこで,私達は,次に,ホテルから市街地のほうへ降りてみることにした。

 ホテルの右手にはホテル経営学部の建物(ホテルスクール)がある。その入口を入ると,同氏のありし日の姿と金言を刻んだ金銅色のレリーフが飾ってあった。そこには,彼の黄金律として,「人生はサービスである。前進する者は,同胞に対し,少しでも多く,少しでも良いサービスを与える(SERVICE : LIFE IS SERVICE. THE ONE WHO PROGRESSES IS ONE WHO GIVE HIS FELLOW MEN A LITTLE MORE, A LITTE BETTER, SERVICE.)」という言葉が刻まれている。たしかに金言である。東洋の「巧言令色鮮なし仁」にも似た趣がある。今後の情報サービスを考える上でも肝に命ずべき言葉であろう。「LIFE IS SERVICE」私は,心の中で,この言葉を何度も復唱した。 

 この建物は斜面上に建築されているので,その場所からドアをくぐってすぐのところにある階段を下ると,反対側の出口のある1階部分に至ることになる。そこには,ホテルスクールのために寄付をした団体や個人を顕彰する金色のレリーフが幾つか飾ってあった。その中で一際目を引く大きなレリーフには,日本の帝国ホテル社長の名前も刻まれていた。丸橋氏の説明によると,このホテルスクールの出身だそうで,帝国ホテル内には,コーネル大学出身者専用のクラブもあるらしい。 

 私達は,そこを出て,コンピュータ及び情報処理関係の黄緑色の学部施設を左手に見ながら坂を下った。左折するために横断歩道を渡り,少し歩くと,ロースクールの建物となる。中庭のようなところに至る階段を降りた。そこは,まだ雪で覆われているが,新入生がやってくる季節になると緑の芝生となり,そこで歓迎のためのバーベキュー・パーティが開かれるのだという。絵に描いたようなキャンパスの風景を想像した。アーチをくぐってテラスのような場所へ至る石畳の床には,丸い金属製のレリーフが埋め込まれている。そのレリーフには,コーネル大学の創立者であるエズラ・コーネルの「私は,いかなる人々もあらゆる講義を受けられる施設を創立しよう(I WOULD FOUND AN INSTITUTE WHERE ANY PEOPLE CAN FIND INSTRUCTION IN ANY STUDY)」という言葉が,本をかたどった枠組みの中に刻み込まれている。

 テラスからイサカの町を見下ろし,そして,さきほどの中庭に幾つかのベンチが寂しそうに並んでいるのを目にしながら階段のほうへ戻った。窓の中には,ロースクールの図書館の開架式書庫が並んでいるのが見えた。階段を登った道路の前のすぐ右手には,ロースクールの施設内への入口があるが,外側に小さな石の灰皿が置いてある。施設内は禁煙なので,冬のどんなに冷たい風が吹きすさぶ時でも,若き愛煙家達は,ここでオーバーコートの襟をたてながら,かじかむ指でタバコを支えて煙を吸うのだろう。  ロースクールの主要な建物の寄付者であるジェーン・フォスターの栄誉を称えるレリーフのある戸口の前を通り過ぎた。

 そこを過ぎると,谷にかけられた石造りの橋がある。それを渡ると,演劇学部の劇場がある。この施設が大学の敷地の外にあるのは,おそらく市民の娯楽にも用いられているからであろう。かなり大きな本格的な施設だが,見ると,「アマデウス」という劇を上演するという宣伝用垂れ幕がぶら下がっていた。

  そこからは,学生街風の町並みが続いている。のんびりと歩いていると,喫茶店やトラベル・ガイドや飲食店などが続いている。交差点で左折横断してちょっと登ったところにベトナム料理店があるというので,そこへ行ってみた。いくつかのレストランや旅行ガイドの店と並んだ小さな店だった。この店では,きしめんのようなヌードルを食べることができるという。そこで,今晩はこの店で夕食をとることを決め,一旦,ホテルに戻ることにした。まだ,かなり明るい。

  帰路は,先程の橋の少し上流にある吊り橋のような橋を渡った。

 ホテルに帰り着くと,入口の右側のところにあるホテル・ショップに寄ってみた。宿泊用の小間物やカメラのフィルム等のほか,七宝で大学や州のシンボルを焼き付けたスプーン,キーホルダー,三角フラッグ等のお決まりの観光グッズがある。また,コーネル大学のロゴを付けたTシャツ,キャップ,トレーナー等も売っている。店員は,何か電話で話している。私は,丸橋氏と一緒にぐるりと見ながら,コーネル大学のガイドブックを見つけ,購入した。

  部屋に戻って,テレビをつけてみた。アメリカでは,ケーブル・テレビの番組数もすさまじい。おそらく,供給される番組の総時間数を合計すると,それを視聴する人間の視聴可能時間数を総合計した時間数の何万倍にも達するだろう。これにインターネットを介したデジタル・コンテントを加えると,もう人間によっては絶対に消化できない分量のコンテンツが供給され続けているような世界に入ってしまっているように思う。これでは,コンテンツ供給会社が,何も工夫なしでそれをビジネスとして成立させるのは,非常に難しいのではないかと思った。 

 たまたま見つけたディスカッション番組を見ていると,女性が「学校が癌を発生させています。学校施設には,アスベスト以外にもいろんな有害物質が満ちていて,これを早急に除去しないと駄目。癌の発生率が高いことは,統計的にも確証があります。」というようなことを真剣に力説していた。リモート・コントローラを操作してニュース番組専用チャネルに変えてみると,「サイバー窃盗」という報道をしていた。どうやら,ジョージ・ルーカスその他のトップ10の金持ちばかりを狙って,そのクレジット情報等を盗んでいたアブドラ某というサイバー窃盗が検挙されたというような内容の報道のようだった。FBIの担当官らしい紺の制服を着た3人の担当官が,星条旗の前で,深刻な顔でコメントをしている映像が流されていた。

  約束の時刻になったので,部屋を出て,待ち合わせ場所であるロビーまで降り,再び市街に出かけた。さきほどの交差点のところまで来ると,ついでにもう少し坂の下のほうまで足を伸ばしてみようということになった。普通のレストランなどに混じってギリシア料理店や日本料理店もある。丸橋氏が滞在していた当時は,その日本料理店は韓国系の経営の店だったらしいが,私達が見た店は,それとは異なる有名な日本食チェーン店だった。経営者が交代したのに違いない。そのあたりを散策した後,いま来た坂を戻って登り,今度は,交差点を右に渡って更に坂を登り,目的のベトナム料理店に着いた。

 先程寄った時には1人しか客がいなかったが,さすがに夕食時刻とあって,客もだいぶ増えていた。香港のカンフー映画にでも出てきそうな痩せた店長らしいお兄さんがメニューを持ってきた。そのメニューの表紙には,何故か旧南ベトナムの黄色の国旗がはためいている。もしかすると,ベトナム難民の二世なのかもしれない。丸橋氏の勧めで,生春巻のような料理と「レストラン特製何でも入っている暖かいヌードル」という料理を注文した。ちょっと待っていると,巨大な生春巻が出てきた。これは食べきれるのだろうかと内心不安に思いつつ,唐辛子味噌のような感じの濃い目のソースをつけてかじってみると,中身は蒸した海老と春雨のようなものが詰まっているだけであり,そんなに腹にこたえるものではなかった。次にヌードルが出てきた。たしかに,確かにきしめんのように平べったく白い麺だが,きしめんよりも細くて薄い。その上に,野菜,ミートボール,海老,鶏肉等を炒めてかけてある。スープは,鶏肉ベースで,やや酸味がする。結構うまかった。おそらく,普通のアメリカ人の目には,かなりヘルシーな食べ物と写るのではなかろうか。アジア系の客だけではなく,白人の客も結構大勢入店していた。

  午後6時ころ,一旦ホテルの部屋に戻って外套を置いてから,すぐにホテル内のバーに向かった。私達は,カウンターに並んで席を取った。  「お疲れさん」と言って乾杯してから,現在の知的財産法制やプロバイダの責任関連法制などについてかなり深く意見を交わした。

 丸橋氏は,これまで情報産業関係の立法作業にも数多く参画しており,現在の作業進行状況を踏まえた意見を述べた。私は,現状のままで実際に立法をした場合,現実の裁判の場ではどの要件についてどのような立証活動がなされればどのような判断がなされ得るかを説明した。その上で,現在の状況がプロバイダにとって有利な状況か極めて不利な状況であるのかについて意見を述べた。また,この問題に対する他の研究者の意見やアプローチについても意見交換をした。インターネット上のいわゆる有害情報に対する規制の議論にも話題が及んだ。しかし,結局のところ,日本独自のアプローチを維持することは無理だろうというあたりで議論が落ち着いたように思う。飲んだ上での議論なので,正確性が全く担保されていないということは事実だが,かなり有意義な時間だったと思う。また,こういう議論をじっくりとやる機会はめったにないので,私にとっては,とても貴重な時間だった。 

 せっかくの機会なので話したいこともまだまだたくさんあったが,明日はいよいよマーチン教授の研究室を訪問する日でもあり,余力を残しておかないといけない。しかも,だいぶ飲んでいる。そこで,午後9時過ぎころ,清算してバーを出た。 エレベータで3階に行き,部屋の前の廊下で丸橋氏と別れ,そのまま部屋に入って就寝。さすがに疲れた。 

 


2日目


 

 時差の関係で,うまく眠れず,2時間おきに目を覚ましてはまた眠るというような感じでずっと過ごした。 午前5時ころに起床し,一服してから,持参した富士通のLOOXを鞄から取り出し,少しだけレポートを書いた。それから,今日のため準備してきた資料などに目を通していると,午前6時ころに飛行機が通過する音が聞こえた。昨日乗ってきた機種と同じような飛行機だろうか?残念ながらカーテンを閉めていたので,どのような機種なのかを確認できなかったが,おそらく,明朝我々が搭乗する予定の便と同じ飛行機なのだろう。 

 午前7時になり,ホテルのレストランが開店する時刻となったので,朝食をとるため着替えて部屋を出た。レストランはホテルの2階にあり,古いイギリス風の装いを見せている。窓の外には,街路と雪の中で幹だけとなった木々が続き,そこへ時折リスが走り抜けていく。昨日見かけたのと同じ灰色の大きなリスだ。 私は,レストランの窓際に席を取り,メニューをながめた。字面は分かるが,どの程度の分量の料理なのかがさっぱり分からない。そこで,ウェイトレスに尋ねることにした。「このオムレツの大きさはどれくらいかね?大きいのか?それとも,小さいのか?」愛嬌が良く丸々と太った金髪のウェイトレスは,当然という表情で「とっても大きい」と答えた。私は,アメリカ人並みの大食漢ではないので,このチョイスをあきらめ,そして,「イサカ・べーグル」と「フルーツ・スムーシー」という料理を頼むことにした。メニューの記載によれば,イサカ・ベーグルは,燻製の鮭,チェダー・チーズ,野菜等を挟んだ焼いたべーグルとあり,フルーツ・スムーシーは,季節の果物とヨーグルトを混ぜた飲み物とある。べーグルならそんなに大きくはあるまい。しかし,これが大きな誤算だったということを,数分後に思い知らされることになった。 コーヒー・カップを右手に持って,相変わらず窓の外をぼんやりと眺めていると,さきほどのウェイトレスが朝食を運んできた。半分に切られたベーグルの上には,くるくると巻いた山盛りのスモーク・サーモンが乗せられており,チーズと野菜等を混ぜ合わせて造ったペースト状のものがこれまた山のように盛りつけてある。それにレタス,トマト,オニオン等の野菜。私は,大いにイサカ風を楽しむことにしたが,フルーツ・スムーシーには参った。普通,日本で予想する分量の約1・5倍程度なのだ。苺とヨーグルトをミキサーで撹拌したような飲み物だった。にもかかわらず,かのウェイトレスは,何度も「モア・コーヒー?」と言ってコーヒーのお代わりを勧めに来る。アメリカ人がとりわけ大量の水分を必要とする人種であるとは思わないが,これは,どういうことなのだろうか。モア・パワフルな人々になるためには,食欲もまた,モア・アンド・モアでなければならないのかもしれない。

 朝食の精算を済ませ,部屋に戻ると,朝のキャンパスを散歩してみたくなった。そこで,ジャンバーを羽織り,カメラを持って外に出た。

 外は,とてもすがすがしい気分に満ちていた。おそらくホテルで使う食材等を運搬してきたのであろう,トラックが来ていて,ホテルの資材運搬口のようなところへ何かをせっせと運び込んでいた。それを見ながら,昨日寄ったホテルスクールに行ってみると,1つだけガラス戸の入口が空いていたので,中に入った。壁に掛かったレリーフを再びながめる。

 それから,そこを出て,周囲の建物を見て回った。大学のキャンパス内であれば,一人で歩き回っても危険なことはあるまい。昨日と違って若干薄曇りの空の下で,街路樹も,横断歩道も,まばらに通りかかる自動車も,みんな外国映画の中にある世界のように見える。 

 ホテルに帰ると,もう9時を回っており,着替えているうちに予定時刻も間際となった。ロビーに降り,丸橋氏と待っていると,茶色の蝶ネクタイをしめたマーチン教授がにこやかにやってきた。 私達は,挨拶を交わすと,ホテルの入口のすぐ右側にある階段を下り,ロースクールのある建物の方へ向かった。

 本日の会談では,マーチン教授のほか,LII(Legal Information Institute)の共同主任であるトム・ブルース氏(Tomas R. Bruce)とLIIのシステム運営者であるパトリス・クルックスさん(Patrice Clooks)も同席してくれるらしい。ブルース氏は,法情報学の専門家でXMLの関係の研究もしており,LIIのシステムの内容について詳しく説明でき,パトリスさんは,LIIの運用技術面での説明をしてくれるだろうという。マーチン教授(Peter W. Martin)自身は,法情報学とインターネット法の専門家だ。丸橋氏がマーチン教授に「全米の他の大学もこの時期が休暇なのですか?」と尋ねると,「少しずつ,ずれている。他の大学向けの集中遠隔講義等があり,それが順番にやってくるので,大学は休暇中だけれども休暇が取れない。休暇になっているのは学生だけだ。」と笑っていた。つい先日まで,ノルウェーにも仕事で行っていたらしい。丸橋氏は,マーチン教授の遠隔講義がリアルタイムになされるものなのかを聞いていた。マーチン教授の説明によると,どうやら記録されたデータに基づいて講義のストリームを流し,質問等のやりとりをするらしい。私は,リアルタイムのチャットのことではないように聞こえたので,「それは,電子掲示板のようなものか」と質問すると。そうだという返答だった。マーチン教授の講義は,テープ録音したものを流すのだが,その講義内容は,文字としてもダウンロードできる。録音テープの内容をデジタル文字化する作業は,さぞかし大変なのではないかと思う。 そうこうしている間にロースクールのところまで来た。

 私達は,石の灰皿のある入口から中に入った。そこは,図書館のある建物と研究室等のある建物のある間を素通し屋根で結んだ吹き抜けのようなところだった。クリーム色を基調として柱や桟の部分には濃紺や緑色をあしらった明るいイタリア風のデザインだ。そこには,コーヒー・サーバ等も設置してある。上の階に昇るための螺旋階段が設置されているが,奥の方には,エレベータもある。エレベータに乗って3階まで昇り,赤い絨毯を敷いた廊下を進んだ。両脇の壁が淡いクリーム色で統一されており,重苦しい雰囲気はない。左側には事務室があり,薄い水色のパーティションで区切られたそれぞれのスペースの中で女性スタッフがパソコンに向かっていた。各研究室のドアの右脇には,その部屋の住人を示すプレートと共に,研究奨学金を得ていることを示す金色のプレートも貼り付けてあった。日本では,研究者に対するものとして,科研費等を含む研究補助金や奨励金のシステムがないわけではない。しかし,それを受けることが名誉なこととして明記されることはない。まして,個人寄付財団等からの奨励金を受けた場合に,それを大学ないし学部が顕彰するというような慣行は,ほとんどないと言ってもよいだろう。アメリカでは,一般に,外部から研究資金を導入できるだけの能力と研究成果を有することが研究者としてのレベルを計測するための重要な尺度になっていると聞いていたが,ここまであからさまにやっているとは思っていなかったので,内心,びっくりしてしまった。内気な人の多い日本の学者には,必ずしも快く受け入れられないやり方かもしれない。

 マーチン教授の研究室は,こざっぱりとしていた。広さは,平均的な日本の大学における教員用研究室の3倍ないし4倍程度である。机の上には,大きなディスプレイ装置が置いてある。このコンソールから,有名な遠隔授業をしているのだろうか。私は,マーチン教授に乞うて,部屋の写真を撮らせていただいた。「この写真を理事会に見せたい」と冗談を言うと,「それは,良い考えだ」と笑っていた。

 着席して,昨年8月にコーネル大学で開催された国際コンファレンス(Emerging Gloval Standards Workshop 2000)の説明を受け,SHIPプロジェクトの参考のためにと用意されていた資料を頂戴した。大変参考になる資料であり,帰国後,プロジェクトの研究室に備え置くことにする。 それから,SHIPプロジェクトとLII及びAustLIIとの間の設計思想や基本的姿勢等についてラフな意見交換をしていると,黒の上等なスーツに水玉模様のある蝶ネクタイをしめ,若干の威厳を秘めた髭のあるトム・ブルース氏がやってきた。その少し後になって,パトリスさんもやってきた。パトリスさんは,明るい性格のお嬢さんだった。ブルース氏が「彼女はunicodeを使うしXMLもやっているから日本語ができると。」と言うと,パトリスさんは,恥ずかしそうに首を左右に振った。私は,3人に対し,改めて「I can not speak English so well. Because, I had only poor experience of training for English conversation. But, I would like to speak in English as possible as I can.」と断りを入れてから,英語で続けることにした。大見得を切って始めた英語だけによる意見交換だったが,やってみると,予想通りに非常に辛い。日常英語を使ってものを考えていないため,スムーズに言葉が出てこない。時々,丸橋氏に助けてもらったが,そうでもなければ,会談を続けることは困難だっただろう。そして,どうにかこうにか英語でやり通した。途中でトイレに行った際,ついてきてくれたマーチン教授に「英語で考えるのは難しいです」とこぼすと,教授は,「それは,米国人でも同じだよ。ヨーロッパに仕事で出かけ,イタリア語やフランス語でものを考えるときには,私も全く同じだ。『ボンジュール・ムッシュ』だけでは会談などできない。非常に疲れる。」と言ってなぐさめてくれた。 

 さて,マーチン教授らとの意見交換は,比較的自由な感じになされたが,話題の内容は,基本的には,予め電子メールで送付しておいた論点メモに基づくものだった(論点メモの英訳は,丸橋氏にしてもらった。)。なお,事前に大阪大学の門先生から電子メールで寄せられていた「制定法や判決等の第1次資料の多くは政府機関や裁判所からWeb公開されてきており,そこへのアクセスはハイパーリンクだけで足りると思われるので,アカデミックなデータベースとしては,今後どのようなコンテンツを提供すべきだと思うか」という質問事項も話題に追加された。

 マーチン教授に対して事前に送付されていたメモの内容は,次のとおりである。

1 法情報データベースの社会的役割  法情報データベースは,社会全体の中で,どのような役割を担うべきだと考えているか? 法情報データベースは,それが社会の中で担うべき役割を果たすためにどのような機能を有するべきか? 上記機能を担うために,法情報データベースの運営上,どのようなことが必要か?たとえば,資金面,運用要員の確保,データの更新,ソフトウェアの開発及び改善についてはどうか? 

2 ロースクールにおける利用の実態  法情報データベースは,ロースクールにおいてどのように利用されているか?  紙ベースの法情報と比較して,どのような利点又は欠点があるか?  今後,ロースクールにおいて,法情報データベースはどのような機能を担うべきだと期待されているか? 

3 XML関連   コーネル大学の研究者は,XMLに対してどの程度の関心を持っているか?  Legal XMLを含む法律分野でのXML標準化に関する研究に対して,どのような評価を与えているか?  コーネル大学のシステムでは,XMLの技術を導入しているか?今後,導入する予定はあるか? 

4 法情報の提供に関する協力関係  学術系法情報サイトは,政府系又は商用の法情報サイトとどのような関係を結ぶのが最も合理的だと考えるか? 

5 米国以外の国の法情報に関する関心度  米国以外の国の法情報に対しては,どの程度の関心を持っているか?  日本国の法情報サイトについて,どのような感想を持っているか? 

6 知的財産権  法情報データベースについて,データベースとしての法的保護,コンテンツの著作権の保護は,どうあるべきだと考えているか? 

7 プライバシー 判決情報等に含まれるプライバシー情報について,どのように考えているか? 

8 共同シンポジウム SHIPプロジェクトの共同シンポジウムに何を期待しているか? 何か要望事項はあるか? 

9 その他関連事項

 マーチン教授らとの意見交換は,午前10時ころから始まり,ランチタイムとロースクール施設見学等をはさんで午後5時ころまで続いた。

 最初は,SHIPプロジェクトの説明から始まった。マーチン教授らは,グリーンリーフ教授が先導するAustLIIのような集中型の法情報データベースとは異なるコンセプトを尊重しているため,SHIPプロジェクトが目指すものは何であるのかを知りたがっていたようだ。

 そこで,私は,これまでの経緯とプロジェクトの概要及び開発してきたシステムについて説明をした。その中には,和田先生が開発してきた条文履歴管理システムの説明とその応用可能性,小松先生が開発してきたパラグラフ検索技術及びプライバシー保護技術とその応用可能性についての説明も含まれていた。加えて,日本における研究開発のための資金確保が非常に難しいという現状を説明した。その上で,わがプロジェクトは,分散型の開発・運用環境を重視していることを説明した。すると,マーチン教授らは,問題意識は,米国でも全く同じであり,分散環境を重視して開発・運用するほうが望ましいという意見を述べた上で,SHIPプロジェクトのメンバーが法学者だけではなく,政治・経済分野や情報工学にも及んでいるのは何故かと質問した。私は,このプロジェクトが法学分野のデータベース開発だけを目的とするものではなく,社会科学分野でXMLを応用して構築するデータベース全部のプラットフォームの構築を目指しているのだと説明すると,納得してくれたようだった。

 この点に関して,マーチン教授から,AustLIIでは,全法律のDB化権限を集中させようとしているが,米国では,複雑な立法・裁判の管轄があり,誰も集中して支配していないとの指摘があった。また,法令の条文履歴管理システムに関し,マーチン教授から,LIIも同様のことを指向しており,連邦議会の年報を利用すれば,1980年までさかのぼれる見込みはあるとの説明があった。

 話題は,さらに多岐にわたって展開したが,見解に一致を見た点を中心に,いくつかのトピックを紹介したい。 

1 言語の問題

 米国においては,日本を含む外国の法情報を入手したいという要求がかなりあるが,英語以外の言語の場合には,その意味内容を理解するのが難しいとの説明があった。この点に関して,私から,「分散型データベース構築というアプローチは,相互に異なる言語の翻訳を提供し合うことによって,この問題を解決できるかもしれない。ただし,日本の「漢字」のように近似した文字形が複数存在するところでは,unicodeを用いた場合でも,テキストの正当性を確保する方法を見出すのが困難だという問題がある。」と説明した。

2 第1次ソースの提供

 私から,「日本の最高裁が一部の重要判例をWeb公開し始めたが,それ以外は紙ベースである。公開に値するかどうかを決定するための重要性の判断基準がわからないことが問題である。制定法については,官報に掲載されているものはPDFで提供されているが,これまでは紙媒体のみであったこと,六法は出版社から紙ベースで提供されているが,詳細な法律と政令・省令・告示は,ごく一部の例外を除き,各主管官庁が配下の認可法人に独占出版権を与えていることがよくあること」等々を説明した。ブルース氏から,「同様のもたれあいは,米国にもあり,たとえばニューヨーク州裁判所は,出版社に素材を提供する変わりに,判例集やCD-ROMの無償提供を受けている」等の例が示された。 この議論の結果,議会や裁判所のように第1次情報を提供できるところが,たとえばWESTLAWのような会社にだけ第1次ソースを提供することには問題があり,特に,法令の解釈に欠かせない規則,命令のレベルの法規情報についてはそうであるという点で見解の一致を見た。

3 リアルタイムの情報提供

 判決文が修正なく確定するまでの間(日本の場合,更正決定がないことが確実になるまでの間)は,学術サイト上で判決情報を提供するのは難しい。特に新たな判決全部を網羅的にフォローするのは不可能である。他方で,WESTLAWのような会社は,判決言渡があるとすぐに判決をデータベースに収録している。このため,学術サイトに対してもリアルタイムの対応が求められることが多いが,これは非常に難しい。

4 紙ベースの法情報の提供 

紙ベースの法情報をデジタル化するために用いられるOCR等の精度があまり良くないため,結局,手入力でデータを生成したほうが良い場合が多いかもしれない。 なお,ブルース氏の説明によれば,現状では,OCRでスキャンして編集するのはコストが高く($10/page)タイピングしたほうが安い($2-3/page)とのこと。OCRの読み取り率が99.4%だったとしても結果的には高くついてしまうらしい。私からは,SHIPプロジェクトでは,古い判例と明治時代の制定法をXMLベースで作成中であるが,昔の紙媒体なので,スキャンしてもノイズが多く,その部分については画像データで収録していることを説明した。

5 知的財産権

 ブルース氏から,「最近,WESTLAW等の会社が,オーダーメイドで法学教科書を作成すること(カスタマイズされた教科書)が一般化してきているため,著作権の管理等が複雑になっており,誰に対し,どの部分の許諾を得ればデータベースに収録可能であるのかが分かりにくくなってしまっている」との説明があった。
 マーチン教授から,「判例等の著作権の処理について米国では,選択や配列について出版社が著作権を主張していて問題となっているが,日本ではどうなっているか」と質問があった。私から,「日本の出版社も同様に選択や配列についての主張をすることがあり,さらに論評をつけることで全体としての著作権保護を画している」と説明した。 

6 Web上の論文等の一部に対するハイパーリンク

 Web上のコンテントは,そもそも永続性に問題があり,デッド・リンク等の問題が発生しやすい。それだけではなく,現在のHTMLでは,論文等の必要箇所だけにリンクを設定することについて,技術上及び法律上の問題が存在する。この点については,XMLを用いてコンテンツを作成する場合には,少なくとも技術上の問題は解決できるだろうということで見解の一致を見た。

7 学術サイトの存在意義

 政府や裁判所では,政策遂行上の必要性や重要性の大きな法領域の法情報に関しては抱負に情報提供をするが,そうでないものについては冷淡である。このため,重要な法令や判決が抜け落ちてしまう危険性があり,情報提供の継続性も保たれない。商用サイトについては,倒産を含め,企業としての情報提供の継続性が担保されていない。また,政府・裁判所及び企業は,中立性を維持しているとは限らない。 これに対し,学術サイトの利点は,中立的性と継続性を維持できるところにある。このことは,法情報データベースの目的が,法を知る権利を充足するところにあるということと適合する。
 ただし,政府との密接な関係は重要である。マーチン教授から,オスロ大学とノルウェー法務省の良好な関係が例として示された。
 また,マーチン教授から,「LIIでは,研究開発をし,先進的テストシステムを世に出すことが一番の目標と考えている。その上で,裁判所や政府が後追いをしてくれれば良いと考えている。たとえば,LIIでは,連邦最高裁に使用料を支払って,裁判例の収録をしているが,2年前に最高裁もWebで判決の公開をはじめた。その時点では,LIIでの判決公開を中止することも考えたが,タイミングの問題があり,LIIのほうがより早く公開することもあるので,存続を決めている。」との説明があった。
 さらに,マーチン教授及びブルース氏から,「LIIのゴールは,政府にとってデータの統合が容易になることと,研究者や小規模弁護士事務所,法律の素人,学生にとってアクセスがし易いことであり,政府のためにDBを完成させることでもなく,WESTLAWやLEXISと真っ向から競合することでもない。最近のニューヨーク州弁護士会のアンケートでも大規模事務所はWESTLAWやLEXISを利用しているが,小規模の事務所はLIIを利用している,との結果だった。なお,この中小規模弁護士事務所市場を狙って,最近,ドイツ資本がより検索機能が少ないが安価なDBサービスを開始して,米国市場に参入してきている。」「WESTLAWやLEXISは,州の弁護士会との共同市場開拓という市場戦略をとっており,かなり安く州法のDBは提供している一方,他州の法律については別料金であり,一種の価格差別である。両社とも,商業データベースの優位性という幻想を抱かせようと必死になっている。」「政府に関しては,DB整備についての省庁間の温度差は大きいが,内国歳入庁のように,早くからすべての納税関係様式を公開する積極的なところもあり,競争状態にはあるといえる。」との説明があった。

8 プライバシー保護

 上記小松弁護士が開発したシステムのように,私から,XML技術を応用すれば,プライバシー保護の目的を果たすことができることを説明したところ,賞賛を得た。ただし,マーチン教授によれば,米国では,判決データ中のプライバシーの問題は,それほど深刻には問題視されていないが,そういう指摘が無い訳では無いとのこと。

 このほか,話題は,日本のロースクールの問題にも及んだ。私は,日本におけるロースクール議論の経過と概要を説明し,マーチン教授から,コーネル大学における概況の説明を受けた。マーチン教授から,明治大学では「弁護士資格を有する教員は何人いるのか,裁判官出身の教員は何名いるのか」と質問を受け,「弁護士資格登録をしている教員は結構たくさんおり,裁判官出身の教員は私を含めて2名だ」と答えた。コーネル大学の常勤教員の多くは弁護士出身だが,現役の裁判官が非常勤講師のような感じで授業を担当している科目はかなりあるようだ。ロースクールは,実務法律家を養成する教育機関なのだから,弁護士出身の教員が多数を占めること,そして,現役の裁判官多数の協力を得ることという要件を満たすことなしには決して成立し得ないのだということを悟った。しかし,日本の現状を考えた場合,報酬額や待遇等を含めた諸条件を考慮に入れると,実際に弁護士から転職して専任の教員になる者の数がそう多くはないのではないか,従って,日本でロースクールを実現するのは無理ではないかという疑問が残る。司法研修所の弁護士教員だけでも必要数を確保するのが大変なのに,各大学でそれを実現することが可能なのだろうか。現在,日本で真の意味で「ロースクール」として機能しているのは,最高裁の司法研修所のみであるが,司法研修所の規模・機能を拡張するという程度が,残念ながら,現状における日本の最大限の実力ではないかと思う。

 このあとで,マーチン教授から,インターネットを活用した遠隔講義システムを実際に運用して見せていただいた。マーチン教授によれば,コーネル大学ロースクールでは,マーチン教授が全米の5大学に遠隔教育講座を提供しており,秋のセメスターでは著作権法で,春のセメスターでは社会保険法でそれを実施しているとの説明があった。このシステムは,BBSソフトのWebクロッシングをカスタマイズして使用しており,マクロメディアのドリーム・ウィーバで画面を設計し,学生の本人確認や課金のモジュールは手作りだとのことだった。コース管理ソフトにはブラックボードという有名なソフトもあるが,これは学部全体を管理するような大掛かりなもので,ロースクールの遠隔教育には使っていないようだ。

  話しは前後するかもしれないが,2時間ほど意見交換をすると,ランチタイムとなり,5人一緒に外に出た。やや曇り空になってきている。ホテルのレストランに5人分のテーブル席が予約してあった。着席し,めいめい自由に好きな料理を注文する。私は,ターキーのクラブハウス・サンドとコーヒーを注文した。そして,今朝のベーグルの一件を話すと,みんな笑っていた。あのウェイトレスは,あいかわらず「コーヒーのお代わりはいりませんか?」と勧めてくる。食事をしながら,しばらく歓談した。

  ランチタイムが終わると,また5人でぶらぶら歩いた。西側の空が少しだけよどんでいる。マーチン教授は,それを見て,「じきに雪が来るよ」と言った。

  教会の前を通る。赤い煉瓦造りだ。マーチン教授のご両親が挙式した教会だという。丸橋氏の言葉を借りると,マーチン教授は,親子3代にわたる「生粋のイサカっ子」ということになろうか。いずれにしても,マーチン教授にとっては,特別の思いのある教会なのかもしれない。そこから更にぶらぶらと歩くと,30人ほどの観光客風の一団が時計台の方へ歩いていくのが見えた。コーネル大学の入学志望高校生とその家族のための見学会だ。時計台の脇のテラスでイサカの町を眺めた。そのテラスの石壁には,寄付者の名前が刻んである。マーチン教授からの「日本では寄付というものはないのか」という問いに対し,丸橋氏は,「創立何周年かの記念行事でもないと寄付しないことが多いのではないか」と答えていた。

  時計台のところを左折すると,ロースクールの建物が見える。中央図書館の前を通り,ロースクールの中庭へ降りる階段のところまで戻った。そこで,パトリスさんと一旦別れた。あとでLIIシステムのある部屋に行き,そこでパトリスさんからシステムの説明を受けることになっている。そして,階段を降り,アーチの下まで来た。そこで,しばし,「ときめきメモリアル事件」最高裁判決についてマーチン教授からご意見を伺ったりした後,私達は,再びロースクールの建物の中に入った。

 開架式書庫の間をくぐってマーチン教授とブルース氏のあとを着いていくと,非常階段のところに行き着いた。マーチン教授は,「ここは極秘だ」と冗談を言う。それを最上階まで昇ると,簡単なドアのある部屋に行き着いた。パトリスさんが追いついて来ていて,そのドアの鍵を開けようとするので,私は,「この中には,何か良いものが隠してあるんじゃないの。山ほどのウイスキーとか・・・」と冗談を言うと,彼女は,笑いながら「そのとおりよ」と言って,そのドアを開けた。中は,LIIのシステム・ルームだった。そこで,ブルース氏も追いつき,一緒に説明を受けた。 

 LIIのシステムは,unixをベースにして,主にフリーウェアだけで構築されている。商用アプリケーションでシステム構築をすると,知的財産権や課金の問題が発生するのでうまくないのだという。データベース・サーバは,SUN等の数台のワークステーションに分割して格納されており,それぞれ法令データベース,判例データベースといったように機能を分担させている。WWWサーバは,数台のパソコンに分散させている。大学のメイン・システムには太い回線で接続されている。LIIシステムの構築とメンテナンスは,主に彼女とブルース氏だけで担当している。そのためのワークステーションは1台で,デルのマシンだった。このマシンの前に50センチくらいの高さの脚立が置いてあったので,パトリスさんに「これは,椅子ですか」と尋ねると,笑いながら,「天井裏の配線や高いところにある装置をいじるときに使うのよ。でも,椅子にも使っているけどね」とのこと。そして,この部屋で記念写真を撮影しようとすると,パトリスさんは,棚の上から銀色の色紙を巻き付けた杖のようなものを取り出した。そこで,私が「それは,魔女の棒ですか」とふざけてみると,「そうよ。これでLIIを創っているの。」と答えた。愉快な女性だ。それにしても,長時間にわたる英語の議論に疲れ果てて,まともなことを考える能力が枯渇してしまっている。アメリカに来てまで駄洒落を飛ばすとは,もう末期症状に違いない。

 パトリスさんとは,そこで別れた。ブルース氏も一旦自室に戻り,私達は,マーチン教授に案内されてロースクールの内部を見学させていただいた。 

 最初に見せていただいたのは,ロースクールの図書館だった。欧州のカテドラル内のような高く広い空間の中に書架が並んでいる。私がこれまで見たことのある大学図書館の中でも最も豪華なものに属すると思う。ただし,時期が時期であるため利用している学生の姿はほとんどない。入口付近には,ライブラリアンらしい2人の女性が何やら話し合っていた。これが,WESTLAWの利用方法ばかり教えているライブラリアンなのかと思うと,ちょっと複雑な気持ちになってしまった。彼女達は,非常に優秀なのだろう。しかし,ロースクールにおける法学教育や法情報の持つ社会的意味については何も興味を持っていないのかもしれない。しかも,悪いことには,自信があり,実績もある。法学に限らず,専門職というもののもつ様々な難しさを痛感した。図書館の入口脇には,コンピュータが置いてあった。デジタル資料の検索用のものであろうか。

  複雑な階段を幾つか渡って,模擬法廷のある部屋に着いた。その部屋の前の壁面には,模擬裁判での優勝者の氏名を顕彰する木製のプレートがかけてあった。模擬裁判は,一種のコンペであり,そこで優勝した者は栄誉を称えられ,また,就職が有利になるらしい。模擬法廷に入ってみると,裁判官席が5席あり,陪審員席もきちんと設置され,かなり多数の傍聴席を持ち,裁判官席に対面して証言台が設置してあった。法廷と傍聴席との間を仕切る柵のところには,双方の当事者及び代理人が着席する席が証言台の左右に別れて設置されていた。天井には,古風だが非常に豪華なシャンデリアがぶらさがっている。もしかすると本当の裁判所の法廷よりも立派なのではないかと思われる。少なくとも,カウンティの裁判所だと,この程度の立派さを持っているところはないと思う。裁判官席に向かって左手のほうには,模擬裁判で用いるのだろう,プロジェクタの投影装置等も設置されていた。傍聴席は,可動式であり,階段状になった傍聴席全体が後方へ移動可能となっている。私達が見学した時点では,傍聴席が前のほうへ移動していたため,傍聴席の後側に移動用レールが見えていた。

  模擬法廷を出て多数の教室が並ぶ区画へ移動した。異なるサイズと構造を持つ教室がいくつも用意されている。どの教室の机と椅子も木製で,かなり頑丈な造りになっている。どの教室でも,原則として,ソクラテス・メソッドによる授業がなされているとのことだった。そのために,20人以上収容可能な教室では,どの教室でも,後列のほうが前列よりも高くなるようにゆるやかに斜面になった床の上に学生席が設けられている。 最初に見た教室は,約60人収容可能な教室だった。この規模の教室が幾つかあるという。

 次に,150人程度まで収容可能な大教室に入った。そこでは,それぞれの席にマイクを設置する作業がなされているところだった。教室の背後のところにプロジェクタが設置されており,吊り下げ式のスクリーンに画像が投影される。各机には,電源コンセントと情報端末ジャックが設置されている。これらの機器は,教卓の近くにある制御パネルによってコントロールされているらしい。このような大きな教室でソクラテス・メソッドによる授業が本当に実施可能なのか疑問であったが,質問してみると,各机にはそれぞれ番号が付されており,どの番号の席に誰が着席しているかが分かるようになっているので,何も問題はないとのことだった。

 更に別の中規模の教室に入った。この教室には,プロジェクタ用の装置のほか,ネットワーク管理用の設備も設置されている。2000年度のセメスターにおいて,マーチン教授は,この教室の設備を用いて,法廷の実況中継を見せた上で学生に討論をさせるという授業を実施したそうだ。題材に選ばれたのは,ブッシュ氏対ゴア氏の間で争われた大統領選挙関係事件の連邦最高裁における弁論の実況中継とNapster事件の控訴審における弁論の実況中継ということだった。実況中継と言っても,授業時間割の関係もあるので,一旦ディスクに記録した映像をストリームで流すというやり方がとられている。ディスカッションは,かなり白熱し,すさまじい議論がなされたらしい。ここで,丸橋氏が,「コーネル・ロースクールの学生では,Napsterのような音楽コンテンツの無料配信サービスにより,消費行動はどう変化したと事実評価していたか」と質問した。マーチン教授の返答によれば,「サンプリング視聴のために使うとする者が半分,CDを買わなくなったとする者が半分」とのことだった(実際の判決では,視聴用としての利用についての証拠は,根拠に乏しいとされていた。)。それよりも考えなければならないことは,このような授業を可能にしている合衆国裁判所の情報公開のことである。そもそも法廷の弁論が実況中継されていなければ,授業の素材としての映像を入手することができない。驚くべきことだ。私は,マーチン教授に対し,「日本では,法廷内撮影が制限されており,ビデオで撮影することは許されていないから,このような授業を実施することは不可能だ」と説明した。しかし,このような最新の生きた教材が入手できないところで,どうして良い法学教育を実現することができようか。日本においても,真剣に考えなければならないことだろう。もちろん,プライバシーの問題はある。しかし,プライバシーが全く問題にならない事件もたくさんある。特に社会の耳目を引く重要事件はそうかもしれない。法情報学の課題がさらに一つ積み重ねられたように思った。

  そこを出ると,廊下の壁面に,クレタ島の碑文の大きなレプリカが飾ってあった。古いギリシア文字のような文字で記述されていたため,その内容が何であるかは分からなかった。元は別の校舎に置いてあったものが,ここに移設されたのだという。

  別の区画に移動すると,小グループによるディスカッションのための部屋がいくつかあった。10名から15名程度の討論に適しているという。日本の大学におけるゼミ用の教室に似ている。

  その近くの廊下には,ガラスのショーウインドウのようなものがあり,カリキュラム等が掲示されていた。そして,その奥のほうには,学生用のロッカー室があった。紺色に塗られた縦長のロッカーがびっしりと並んでいる。各ロッカーには番号が降られており,300人程度の学生が利用できるようになっている。おそらく,これが物理的な学生の定員数なのであろう。そこには,飲料の自動販売機も設置されていた。 

 最後に見せていただいたのは,40人程度まで収容可能な不思議な形をした教室だった。そこは,コの字形の学生席が2列設置されており,後列の席は前列の席を取り囲むようにしつつ,約50センチ程度高くなっている。私が「どうして後列が高くなっているのですか」と質問すると,学生の顔がよく見え,ディスカッションが円滑になされるようにするための工夫だということだった。たしかに,同一の高さに平面的に席を配置した場合,後列の席の者は,怠けがちになりやすいだろうし,ソクラテス・メソッドによる授業の場合,教員が学生の理解度等を正確に測定しながら授業を進めなければならないため,このような工夫が必須だと痛感した。というよりも,非常に厳しいといわれるロースクールでの教育におけるその恐ろしいまでの意気込みのようなものを感じないわけにはいかなかった。

  このようにして見学を終え,研究室に戻り,マーチン教授との意見交換を続けた。すこしたって,ブルース氏も再び合流した。そこから後は,主にブルース氏が意見を述べていた。ブルース氏は,法律情報のXML化について,最初からXMLになっていれば非常に合理的だが,紙媒体の法情報をデジタル化するのは大変だと言う。また,OCR等でデジタル化するよりも手作業で入力したほうが,結局は,安上がりになるのではないかとも言う。確かにそうだ。このやりとりの中で,ブルース氏は,タスマニアの例を引き合いに出した。タスマニアでは,法律や規則等が最初からSGML化されている。「そのような場合には,XMLデータベースの構築も非常に楽になるだろう。法律情報のXML化について研究をしたいのであれば,タスマニアに行って見るといいよ」とのこと。しかし,ブルース氏は,「でもね,タスマニアでは,もともとSGMLで法令を記述しているから,XML化も簡単にできるんだよ。」と皮肉を付け加えることも忘れなかった。

  途中で,副学長であり不法行為法の教員であるシリシアーノ氏(John A. Siliciano)が顔を出してくださったので,挨拶をした。40代くらいのように見える。後に丸橋氏から聞いた話しでは,ロースクールで一番元気に授業を担当しているのは,この世代の教員が多いのではないかという。 

 しばらくすると,ブルース氏は,所用で退席した。私達は,SHIPプロジェクトで2001年5月19日に予定している共同シンポジウムに関連する打ち合わせなどをした。かなり細かいところまで打ち合わせをしたのだが,その詳細は省略する。そして,私は,正式にマーチン氏を講師及びパネリストとして招聘したいとの申し出をし,その了解を得た。 以上の公式予定を全部終えると,マーチン教授から夕食をご馳走したいとの申し出を受けた。午後6時にホテルまで迎えにくるという。もちろん,私達は,その招待を受けると返事をした。それから,マーチン教授に先導されてロースクールの出口まで来た。そこで,学生らしい若い男女とすれ違うと,外は,いつの間にか雨になっていた。 

 少し歩いたところに大学の購買部のようなところがある。半地下式の建物だ。衣類売場には,かなりの数と種類のトレーナーやキャップやTシャツなどが展示されている。いずれもコーネル大学のロゴが刷り込まれている。

 ホテルに戻り,私は,テレビの天気予報の番組をつけてみた。男性と女性の解説者が交互に画面上に現れ,デジタル画像の天気図を用いて現在の気象状況を説明し,明日の天候予測をしている。米国の東部地方は,大きな前線が通過中で,アパラチア等の高地では雪になるだろうという。時々,降雪量のグラフのような画面に切り替わる。明朝の降雪予測は50%以上のようだ。降雪がひどいと飛行機は飛べない。大丈夫だろうか。 

 約束の時間にロビーで待っていると,マーチン教授がやってきた。明朝のためにタクシーを予約しておいたほうが良いという。丸橋氏がタクシーの予約をしてくれた。マーチン教授は,「もし雪で飛行機が飛ばない時は,シラキュースまで車で送ってあげるから電話しなさい。」と言う。ありがたいことだ。こうした心配りは,私も学ばなければならない。 表に出ると,マーチン教授の車は,白いボルボ940GLだった。その車に乗せられてイサカの市街地まで降りると,すでに霙混じりの雨になっており,周囲も暗くなり始めていた。 マーチン教授から,そこは,市内で一番立派なレストランなのだとの説明を受けた。ボーイに尋ねると,フランス料理の店だという。落ち着いた雰囲気で,天井には大きな扇風機がゆったりと回転している。マネージャーのような紳士にコートを預けてから,たぶんマーチン教授が予約して下さったものと推測される席についた。3人分の白いナプキンやグラスなどがセットしてあった。 

 メニューを見ると,やはり書かれている文字の意味は理解できるが,どんな料理なのかをイメージできない。そこで,ボーイに,「どれがお勧め料理か」と聞くと,「どれも美味しい」との返答。愚問だった。結局,私は,ダックの骨付股肉と薄切肉のオレンジ・ソース和えという料理を,マーチン教授と丸橋氏は,ラム肉の葡萄酒煮込みという料理を注文し,ワインで乾杯した。とても美味しかった。ワインも良かった。カユガ湖の湖畔には,ワイナリーが沢山ある。秋になると,ワイナリーめぐりのようなことをするのが年中行事になっているとのことだった。 食事をしながら,丸橋氏は,Legal-XMLに関しては意見交換するのを忘れていたことを思い出したらしく,マーチン教授にそのことを質問した。Legal-XML関係の団体とは一定の関係を持ってはいるが,それほど深い関係を維持しているわけではないようだ。酔いが回るに連れ,いろんなことを話し合ったように思うが,細かいことは覚えていない。ただ,マーチン教授から日本でいう「はしご」のことを英語では何というかを教えてもらったことだけを覚えている。「Bar Hopping」というらしい。要するに,バッタのように次々と飲み屋をはしごする様子をたとえている表現のようだ。思わず,ファームや裁判所等を転々としながらスキルアップをする米国の弁護士達のことを連想してしまった。

 夕食を終えると,マーチン教授に送ってもらった。私は,ホテルの入口の前で御礼を言い,「5月に東京で再会しましょう。」と言って,かたく握手をした後,白いボルボがコーナーを回って霙のぱらつく暗がりの中へと見えなくなるまで見送った。ホテルのボーイ達が不思議そうな顔で私達を見ていた。時刻は,午後9時過ぎになっていた。

  エレベータで部屋に戻り,私の部屋の前で丸橋氏と別れようと思ったが,まだ話し足りないような気がした。そこで,私から丸橋氏を誘ってバーに降りた。昨晩と全く異なり,米国人の団体がカウンターのあたりを占領していた。どこかの教員グループのようだった。カウンターに腰掛けたり,立ったままだったり,テーブル席に着席したり,めいめい勝手気ままに語りあっている。料理は何もなく,飲み物だけだ。パーティではないようだ。 私達は,飲み物を受け取ると,奥のテーブル席に腰掛け,蝋燭の明かりのようにくすんだ空気の中で,お互いの家族のことや仕事のことや将来のことなど,いろんなことを語り合った。しみじみと夜が更けていく。窓の外は真っ暗で,雪になっているのかどうかもよく分からない。気づくと,もう午後11時を過ぎていた。 私達は,飲むのをやめ,部屋に戻った。 戻ると,念のために,フロントに電話をかけ,明朝午前4時にモーニング・コールを依頼した。

 


3日目


 

  時差の関係もあるのだろう。なかなか寝つかれず,1時間おきぐらいに目を覚ましてしまう。夢の途中で目を覚ます。再び眠って別の夢を見る。そんなことが何度も続いた。やはり,これは現実世界ではなく,ギブソンのサイバースペースの中なのかもしれない。そうだとすると,私は,マーチン教授が作ったシステムの中のデータに過ぎないのか?マトリックスのエージェントが監視する世界の中にいるのか?そうだとすると,私の本体は,発電装置につながれたカプセルの中で眠っているのか?そんなことを思いながら,ひどく浅い眠りに苦しみ続けた。だが,午前2時過ぎころからは深い眠りについてしまった。

  午前4時頃,ベッドのかたわらにある電話機のベルの音で起こされた。急に目を覚ましたので心臓がひどくどきどきする。受話器を取ると,録音テープらしい女性の英語の声によるモーニング・コールだった。フロントで設定してくれたのだろう。私は,ベッドから出て顔を洗った。シャワーを浴びる元気はない。自分でも動作の緩慢さが尋常ではないことを感じながら荷物をまとめ,飛行機のチケットやパスポート等を確認し,枕のところにチップの紙幣を置き,忘れ物がないかどうか見回してから,午前4時40分ころに部屋を出た。

  エレベータで3階から1階のロビーまで降り,旅行トランクを引きずりながらフロントまで歩いた。ロビーは暗く,ガラス戸から見える外の様子は,もっと暗い。まだ深夜の雰囲気だ。フロントには誰もいなかったので,カウンターの上に置いてあるベルを鳴らすと,空軍のパイロットのような感じに短く髪を刈った若い男性が出てきた。「2泊だね。どうだった?」と尋ねられ,「とても良かったよ」と答えながら,請求書の金額に目を通し,精算を終えた。それから,ホテルの入口にある風除室のようなところへ移動した。壁面にそって長椅子が2脚置いてある。雑談をしながら2人でタクシーを待っていると,GMの白いワゴンがやってきた。どうもタクシーのようには見えないと思っていると,黒人の太った男性が降りてきた。片手に新聞の束をかかえている。新聞配達のようだ。通り過ぎる際,互いに「おはよう」と言って挨拶をした。その新聞配達も去り,予約した時刻が迫ってきた。外の雪は,そんなにひどくはない。しかし,飛行場の様子は分からない。もし飛行機が飛ばない場合には,どうしたらいいのか?

 そんなことを考えながら待っていると,朝5時15分ころ約束通りにやってきた。タクシーには既に若いアジア人男性が乗車していた。運転手が手招きをして呼び寄せるので,間違いないと思い,この車に乗った。同乗していたのは,コーネル大学の学生らしい。コーネルのロゴの入った黒いジャンバーを着ている。様子から見て日本人留学生のようだが何も話さない。 

 車は,深い霧と粉雪が降り続き,300メートル先くらいまでしか見えない中をゆっくりと走った。まるで水っぽい乳酸飲料の中をもがきながら泳いでいるような感じだ。それでいて,何度も左右にカーブする道路は,除雪されているとはいうものの,黒くナイフのように鋭角的に光り,どうやら凍結しているらしい。よく見ると,1日目にマーチン教授の紺色のフォードで通った道とは違う道のようだ。コーネル大学のある丘の稜線をそのまま北のほうへ向けて走っている。途中で,サンタクロースの家のような感じの煉瓦作りの家が何軒か建っていた。後に丸橋氏から聞いたところによると,クリスマスのシーズンには,家の周囲にあるモミの木にイルミネーションが飾り付けられ,それが雪の中で光っている様子がとってもきれいなのだそうだ。やがてタクシーは,飛行場の近くにある見覚えのある道路に出た。

 運転手は,無線で同僚と何か話し合っている。「飛行場の具合はどうだい?」「1マイルくらいしか見えないよ。」「そうか。じゃあ,行ってみないと分からないな。」「ははは,じゃあな。」再び不安が胸をよぎった。 かなりゆっくりと走ったのにもかかわらず,タクシーは,約10分ほどで飛行場に着いた。コーネル大学から飛行場へは,こちらのほうが近道らしい。運転手に約18ドルを支払い,私達は,車を降りた。周囲は,まだ暗黒の状態で,空港施設だけが明るく浮かび上がっている。 

 搭乗手続のコーナーには,若い女性が2人いた。そこで搭乗手続を済ませた。やがて,飛行機のクルーと思われる黒い制服に身を包んだ一群の人々がやってきて,搭乗手続カウンターの中に消えた。どうやら飛ぶらしい。ほっと一安心。 空港施設の中央には,ホールのような場所があり,そこの天井から,第一次世界大戦当時の名機ソッピース・キャメルによく似た複葉軍用機の大きな模型が吊され,ゆっくりと回転していた。運転席には,皮の飛行帽と飛行士用眼鏡をつけたパイロットが笑顔で手を振っている。2日前にイサカ空港に到着した時には,このようなものがあるとは気づかなかった。おそらくトランクを見失ったために狼狽していたためだろう。機体には米国空軍のマークが描かれているので,おそらく米国製の飛行機の模型に違いない。H.G.ウェルズの小説の中で原子爆弾を手動で投下する爆撃機は,このような複葉飛行機がイメージされていたのだろうか。 

 そのホールに接続して,待合室と土産物店がある。搭乗口には,まだ,アルミ製のブラインドのような素通しシャッターが降ろされたままだ。私達は,土産物店に寄ってみた。世界中どこでも同じなのだろうが,土産物店の商品の価格は,いずれも高い。ただひたすらウインドー・ショッピングに徹する。いろいろと見ていると,イサカの近辺の地図をあしらったイラスト・ポスターが壁に掛けてあった。そこには,「Finger Lakes」と書いてある。私が不思議そうに見ていると,丸橋氏は,この近辺には氷河で削られて形成された細長い湖が何個かあり,全体として見ると人間の手の先に指が並んでいるように見えるので,このように命名されているのだとのこと。カユガ湖は,その中で一番西に位置する湖のようだ。それから,カユガ湖に流れ落ちる河川に所在する大小の滝の写真集もあった。丸橋氏がコーネルに滞在していた当時,長男であるお子さんがまだ小さく,夏のキャンプ・シーズンには日帰りで自然観察教室のようなものがあって,これらの滝巡りをしたのだそうだ。丸橋氏のお子さんは,とても幸福だと思う。

 そうこうしている間に,午前6時近くとなり,搭乗口のシャッターも開けられた。異常に背の高い老人が荷物のチェックをしている。搭乗口の中の待合室は,日本の光景でいうと,長距離バスの待合室に似ている。おそらく,近隣住民が日常的に飛行機を利用しているために,そのような雰囲気が生まれるようになったのだろう。外は,ようやく白み始めたが,依然として霧と降雪のために視界が悪い。約500メートル程度の視界しかない。飛行場には既に2機のダッシュ8が待機しているのが見える。もしかすると,昨晩到着した便がそのまま飛行場で一夜を超したのかもしれない。しかし,こんな状態で本当に飛ぶことができるのだろうか? 

 やがて出発案内の放送があり,最初の1機に搭乗する乗客が待合室から出ていった。間もなく,ニューヨーク便の出発案内があり,私達も手荷物を持って席を立った。 乗客は14人で来たときよりも少し多い。しばらく待機した後,2日前にラガーディア空港で見たのと同じような手順でプロペラ・エンジンが順番に回転を始めた。そして,ゆっくりと動き始めたのだが,100メートルくらい誘導路上を移動したところで止まってしまった。これは飛行中止になってしまったのかと思っていると,やがて,ハシゴ車のような自動車がやって来て,機体の上に張り付いた氷を削り落とし始めた。ガリガリと凄い音がして,窓の外に固まったシャーベットの破片がバラバラと無数に落ちていくのが見える。仕上げに,融雪剤のような液体シャワーが振りかけられ,それが窓をつたって流れ落ちていく。このハシゴ車のような自動車は,このような作業のための専用車らしい。作業は,機首部分から胴体上部,主翼と順に進められていった。

 この作業を見ながら,私は,リンドバーグの「翼よあれが巴里の灯だ」を思い出した。リンドバーグの競争者達は,次々と大西洋の藻くずと消え去ってしまっていたのだが,その原因の多くは,翼に張り付いた氷の重さで墜落したものと推定されている。丸橋氏にこのことを話しながら,「ところで,スピリット・オブ・セントルイス号っていうのは,直訳するとどうなるんだろうね?セントルイス魂という感じかなあ?」ともちかけてみた。彼は,「セントルイスっ子だい!という感じじゃないですか?」と答えた。要するに,「こちとら江戸っ子だい!」というのと似た感じではないかという。私は,なるほどと思った。それと同時に,巴里に向けて飛び立つリンドバーグを見た当時の人々は,もしかすると,ひどくいたずら坊主であるかのような感想を持ったかもしれないなあと思い,内心でくすくすと笑ってしまった。それから,話題は,スミソニアン博物館となった。そこには,スピリット・オブ・セントルイス号が保存されている。丸橋氏が「たしか零戦もありましたよね。あれは,本物でしょうか?」と尋ねてきたので,私は,「うん。昨年見てきたけど,本物だと思う。スピットファイヤとメッサーシュミットもあった。たぶん,戦利品だと思う。」と答えた。昨年スミソニアンを訪問した時には,時間がなくて十分に見ることができなかった。いつか機会があったら,また行ってみたいと思う。 

 氷の掻き落とし作業が終わると,再びエンジンがかけられ,滑走路へと移動を始めた。ダッシュ8は,そのまま滑走路で加速し,ミルクのような雲の中を上昇し続けた。さきほどの融雪剤のような液体だけが斜めに窓を流れていく。普通の水分は,窓の外側で結晶して張り付いている。それと雲以外には,何も見えない。 機内では,飲み物のサービスがあった。隣の席では,50歳くらいの茶色いオーバーに身を包んだ婦人が,揺れる機内でコンタクト・レンズの洗浄と交換をしている。よほど慣れているのに違いない。その婦人は,機内に持ち込んだ「イサカ・ジャーナル」という地方紙を読み終えると,斜め前に座っていた老男性にそれを手渡した。新聞を回し読みするくらいだから,顔見知りらしい。何か冗談を言い合っていた。それから,その婦人は,前の席の背もたれにあるトレーを倒して,何かレポートのようなものを書き始めた。黄色の用紙に万年筆で丁寧に書いている。これでは,本当に,乗り合いバスと変わらない。あるいは,現代の駅馬車とでもいうべきか。

 30分ほど飛行していると,西の方向が明るくなってきた。夜明けというよりも,低気圧による降雪地帯を抜け出したような感じだ。何となく「風の谷のナウシカ」に出てくる雲の上の飛行シーンに似ているような気がする。たぶんニューヨークも大丈夫だろうと思いつつ,順調にフライトが続く。そして,午前7時30分過ぎころ,私達が乗った機体は,ラガーディア空港に到着した。 

 ラガーディア空港からJFケネディ空港までは,タクシーで移動した。運転手は,大きな声で,トランクを開けながら,「マンハッタン?」と尋ねていくる。何のことか分からなくて困惑していると,丸橋氏は,「JFK」とだけ答えた。要するに行き先を尋ねていたらしい。こうした普通の当たり前のやりとりができないのは,とても辛い。

  トルコ人だというその浅黒い運転手は,盛んに日本人のことを誉める。彼が言うには,昨日乗せた米国人弁護士の妻が日本人だそうで,その米国人は,日本で2年ほど働いている間に知り合った日本人女性と結婚し,その女性を連れて米国に帰国したらしい。「妻は,朝起きるとちゃんと食事を作ってくれる」と絶賛していたとのこと。その運転手の見解によれば,トルコ人と日本人とは同じように素晴らしいのだという。何度も同じことを口走る。そして,アラーの神の教えが書いてあるコーランの記述によると,「小さな人々が世界を支配することになる」のだそうだが,その小さな人々とは日本人に違いないという。その論拠を示すために彼は,周りに走っている自動車を指指し,「あれはトヨタ,これはホンダ,みんな日本車だ!」と叫んでいた。論拠としては非常に薄弱ではないかと思うのだが,要するに日本人を誉めちぎりたいようだ。そこで,私が「あなたの妻はすばらしい女性か?」と尋ねると,待ってましたとばかりに,「そのとおりだ。ちゃんと家を守るすばらしい女性だ」と威張っていた。彼の世界観によれば,しっかりと家を守り,朝早く起きて食事を作る専業主婦が一番素晴らしい女性だということになるのだろう。コーランにもそう書いてあるのかもしれないが,私には,よく分からない。

 JFケネディ空港につながるハイウェイは,少し混雑していたが渋滞はしていない。天候は曇りだったが,飛行に差し支えのある天候ではない。幾つかの案内標識を見ながらゲート3に進み,全日空の出発ロビーのある建物のところでタクシーを降りた。外観から想像すると,基本的にはデルタ航空が使用している建物らしい。

  搭乗手続を済ませ,旅行トランクを預けた後,いかにもアメリカの国際空港らしい通路を通ってANAの待合いラウンジに移動した。ラウンジに入ると,白人の女性が「おはようございます」と日本語で声をかけてくれた。何となく嬉しい気分がする。

 朝食抜きだったので,カウンターのところへ行って軽い朝食をとり,それから,免税店で日本へのおみやげを買って回った後,ラウンジに戻り,テレビを見ていると,女性のキャスターが一人で仕切っているワイド・ショーのような番組だった。どうやら道路に関連する話題で何人かのゲストが次々と登場し,2人で軽く会話を交わしている。コメディ俳優らしい若い女性が登場し,ハイウェイで酒飲み運転をした時の話しをしていた。キャスターが後ろにちょっと身を引いて「それは違法なことじゃないの?」と言うと,その俳優らしい女性は,早口でつべこべ言いまくり,うまくごまかし切ったようだった。

 ラウンジを出る時,私がさきほど日本語で挨拶してくれた女性に「Thank you」と言うと,彼女は,笑顔で「Take care」と言って手を振ってくれた。日本語に直訳すると「お気をつけて」くらいの感じだろうか。丸橋氏によると,「Take care」は,「女性だけが使う表現ではないでしょうか,男性がそう言うのは聞いたことがないですね」という。 

 帰路は,米国時間3月22日午前11時発ANA-NH09で,機種は,往路で乗ったのと同じB747-400テクノジャンボだ。 

 通路を通って機内に入り,2階席への階段に差しかかると,往路の機内で会ったスチュワーデスと目が合った。何と同じクルーではないか。驚くべきことである。しかし,本当に,これは,現実なのだろうか。やはり,これはバーチャル世界の出来事で,私はサーバースペースの中のデータに過ぎないのではないか,などとくだらないことを考えている間に,飛行機は,さっさと離陸してしまっていた。 飛行機は,約9000メートルのところまで上昇して雲の上に出た。アパラチアに雪を降らせ,イサカの町を霧で覆い隠した低気圧は,この雲の下にある。まだ気流が乱れているらしく,クルーも離陸後すぐに着席し,気流が安定するのを待っている。ニューヨークからは,まっすぐ北上した。五大湖の西側あたりを通過するころには気流も安定し,外は快晴状態となって,眼下には地上の様子がはっきりと見える。

 機内食を終えると,カナダのオタワのあたりを通過するところだった。丸橋氏によると,オタワでは頻繁に重要な国際会議が開催されるという。おそらく,それは,国策として,カナダの国際的地位を高めるためになされているのではないかとも言う。カナダでは,1本の令状の発付を受けると,それだけで州にまたがって執行できる捜索令状というものがあるということで,そのような現実の実現例が存在することが欧州サイバー犯罪条約中の捜索関係の規定に見える裁判管轄権の規定にも影響を与えているのではないかというのが丸橋氏の意見だった。たしかに,カナダは,世界的に有名な「サイバー犯罪法」という制定法を既に持っているし,しかも,同条約の欧州委員会メンバー国以外の起草国として加わっている。

 その後,睡魔に勝てずにうとうとしながら,時折目を覚まして窓の外を見ると,テクノジャンボは,五大湖の北部に広がるローレンシア台地の上空1万メートルくらいのところをゆっくりと通過していた。窓の右後ろには,すぐに大きなジェット・エンジンが2つ連なって見える。眼下に見えるのは,太古の昔に巨大な氷河が削りに削った後にできあがった平原だけ。しかも,荒涼としてなだらかなその平原は,土壌の深部まで凍り付き永遠に融解することはないのではないかと思われるまでに厳しい装いを見せている。白と灰色と黒しか存在しない世界。人類は,自然を征服したと自惚れている。たしかに,この機体は,厳冬の凍結した大地という障壁などかまわずに,そのはるか上空を飛行している。空間の移動には,何らの支障も存在しない。エスキモーのガイドも必要ない。食料の不足を気にしながら,凍傷にかかった手足を気に掛ける余裕もなく,ソリを引くオオカミの仲間のような犬達に鞭をくれる必要もない。だが,そんな自惚れが何になろうか。地球という巨大な生命体の営みに比較して,人類の営みなど,どれほどのものなのか。人類は,困難を克服したのではなく,単に,自然という脅威に見つかって捕まらないように,おそるおそる様子をうかがいながら,姑息に回避をし続けているだけに過ぎないのではないのか。 やがて,眼下に,小さな町のような場所が見えた。短い2本の滑走路とヘリポートのような四角い区画も見える。機内の各席に置いてある雑誌の中の地図を見て,それが,ムースニーの町だと分かった。ハドソン湾の南に位置するジェームズ湾にさしかかっているのだ。もう北極圏だ。

 丸橋氏は,地図を見ながら,町々の名前の中に,「フォートジョージ」など「フォート」という名称が多く含まれているのを発見した。そして,「誰に対するフォートなのでしょうね」と尋ねてきた。フォート(fort)というのは,英語で,城塞のことを意味する。私は,その歴史のことはよく分からない。その場では「アラスカ州がかつてはロシア領だったことから考えると,ロシアのことじゃないの」と,かなりいい加減な返答をしてみたが,おそらく,もっと複雑な歴史があるのに違いない。いつか機会があったら調べてみようと思う。帰国後に辞書を引いてみたら「北米辺境の交易市場」と書いてあった。やはり,これだけでは歴史を知ることはできない。しかし,東西冷戦の時代には,確かに,北辺の前線基地として電子的な戦闘を常時継続していたのに違いない。そして,今でも。 

 飛行機の窓を閉じ,擬似的に夜の世界を作り出すころ,機体は,ハドソン湾に入った。

 私達は,席を離れ,1階のラウンジに行ってみた。それから,私達は,そこに腰掛けて,日本のロースクール問題について,いろいろと議論をした。米国と日本とでは,大学のありようが全く異なっている。日本でロースクールとソクラテス・メソッドを導入するためには,個々の学生がそれに耐えられるように幼少時から鍛えられている必要はないのか。現在の司法試験制度のままでは,どうしていけないのか。いろんな議論をした。マーチン教授のすばらしい教育実践を教えられ,コーネル大学の実績ある法曹教育システムをより深く認識するにつれ,次から次へと疑問がわいてくる。米国の様式を形だけ導入しただけでは,何にもならないだけではなく,ひどい混乱と惨めな結末しか来ないのではないか。 

 何時間経過したのだろうか,スチュワーデスに声をかけられて,近くの窓のところに行ってみた。客室の窓は全部閉じられているのだが,非常出口のところにあるその窓は,客室に影響を与えない場所であり,特別に開いてくれたもののようだった。アラスカの山々が紺碧の空の下で銀色に輝き,その間を奪うようにあまりにも巨大な氷河が広がっているのが見えた。「機長が,マッキンリーが見えると言っていますよ。こんなにきれいに見えることは珍しいって」と彼女は言う。だが,私にはどれがその山なのか分からなかった。しばらく見とれた後,私達は,更に議論を進めた。そのうちに,丸橋氏がかなり疲労してきているのが分かった。そこで,私達は,ラウンジで飲むのをやめ,席に戻った。 丸橋氏は,席で眠り始めた。だいぶお疲れのようだ。

 私は,座席に装備されている液晶テレビをセットして,「X-MEN」というエスパー映画を見た。この映画のテレビ広告は見たことがあるが,本物を見るのは初めてである。しかし,どうもB級娯楽映画のように思えた。期待はずれ。昨年,渡米した帰路には,AAAのB-777機内で「Angel」というロボット映画を見た記憶がある。どうも飛行機の中では,SFものの映画を見るくせがあるようだ。映画を見終わった後,私は,座席のすぐ後ろにあるパソコン用デスク・コーナーに席を変えた。隣の席では,ノート・パソコンの画面上にExcelを開き,机の上に会議用の資料のようなものを開いたままで,30代くらいの男性が眠りこけている。何という無警戒。セキュリティという文字を知らないのだろうか。私は,その右に座り,LOOXを取り出して,この探訪記の1日目の残りを打ち込み始めた。機内で仕事をしないつもりで出た旅だったが,日本に近づくにつれ,いつもの生活に戻りつつあるようだ。 飛行機は,その後も順調にフライトを続け,日付変更の関係で日本時間3月23日午後2時ころ,霞ヶ浦の上空あたりから旋回しつつ成田空港に静かに着陸した。

 成田空港では,問題なく私の旅行カバンを受け取ることができた。丸橋氏とは,バス乗り場のあたりで少しくつろいだ後に,御礼を言って分かれた。

 


 

  このようにして,短いながらも愉快で有益だったコーネル行き旅行は,平穏に幕を閉じた。コーネル大学は,あれだけの少ない人員と小規模な設備だけで,世界に冠たる法情報システムを構築し,有意義なサービスを提供し続けている。我々のSHIPプロジェクトも学ぶべきところが多かった。マーチン教授は,遠いアジアから来た一学生に過ぎなかったはずの丸橋氏を覚えていて,私達に対し,可能な限りの心温まる対応をしてくれた。一人の学者として,いや一人の人間として,これを学ばないわけにはいかない。今回の旅は,私にとって,もしかすると,人生の中でも最高の旅だったのかもしれない。

 


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Published on the Web : Apr/09/2001

Error corrected : Apr/13/2001 (Rev. 1.2)