佐野正博(1987)「科学の連続性と合理性」『科学哲学』20

  1 はじめに
 科学の合理性の問題は、競合する諸理論の中でどれがよりすぐれているのかという理論評価の文脈、新しい理論がいかにして形成されるのかという理論形成の文脈、新しい理論が古い理論にどのように取って代わっていくのかという理論変化の文脈など様々な文脈で論じることができる。(1) 本論稿では、科学の合理性を理論形成の文脈において考えていきたい。
 さて科学がその他の知的活動と決定的に異なっているのは、累積的に発展する点にあると一般に考えられている。例えばJ.D.バナ-ルは、「科学は累積性をもつという点で宗教・法律・哲学・芸術などのような人間のつくった他の偉大な制度から区別される」(2) と述べている。このような累積性の根拠は、科学の連続性である。科学に何らの連続性も存在しないのであれば、科学の進歩ということを主張できず、科学は非合理なものになってしまう。それゆえ、共約不可能性を主張し科学の非連続性を認めるクーンやファイヤアーベントらの革命主義は、科学の進歩を否定する非合理主義であると考えられている。
このように理論形成という観点から科学の合理性を論じる場合に最大の問題となるのは、科学の連続性である。科学の連続性は、科学の合理性や進歩のための必要不可欠な前提条件と考えられている。科学の歴史的変化は、何らかの同一の基準や対象に基づいた合理的判断による連続的な発展なのか、それともゲシュタルト変換や改宗のような心理的飛躍に過ぎない不連続的な変化なのか、ということが大きな問題になっている。科学の連続性の問題をめぐって、連続説と不連続説という二極的対立が展開されている。
 しかし科学が歴史的変化の過程において、連続なのか不連続なのかといえば、「ある意味では連続だが、また別な意味では不連続でもある。」というのが正しい答え方であろう。実際、異なる理論であるかぎりにおいて、科学理論はその差異性ゆえに不連続である。そしてまた、同一の研究分野における、あるいは、同一の研究主題に関する理論変化である限りにおいて、科学理論はその同一性ゆえに連続である。
このことは、科学の歴史記述の中に端的に示されている。科学史学においては、デュエム以来、中世科学と近代科学の連続性と不連続性ということがよく問題にされてきた。その結果として最近では、「中世科学と近代科学の関係も連続と断絶の両面をもつ。問題はいかなる意味で連続し、いかなる意味で断絶しているかである」(3) と一般に考えられている。
  そしてまた後述するように、「合理主義者」ポパーにおいても科学の不連続性が認められているし、「相対主義者」クーンもパラダイム論において科学の全面的不連続性を主張したわけでもない。科学の連続性をめぐる本来的な問題は、科学の連続性や不連続性をどのような意味において主張するのかということにあるのである。

  2 帰納主義と反証主義における科学の連続性と不連続性
 まず帰納主義において科学の連続性がどのように捉えられているか簡単に見てみることにしよう。帰納主義では科学の連続性のみが主張されており科学に不連続性は存在しないされている、と考えられることが多い。しかしこれは、科学の連続性が事実のレベルにおいてしかこれまで論じられてこなかったために生じた誤解である。科学の進歩、特に科学の革命的進歩の存在を認めるとすれば、何らかの不連続性の存在を科学に認めざるを得ない。そして科学の累積的発展を主張する帰納主義においても、科学の不連続性が実際には主張されているのである。
  すなわち帰納主義においては、観察事実の歴史的継承こそが科学の連続性の本質的側面であると考えられている。科学理論の内容的な連続性は、存在しない。観察事実は連続的で累積的拡大を遂げるが、理論は不連続的に変化する、とされている。というのは帰納主義によれば、新しい理論は、それまでに蓄積された観察事実だけを対象として偏見や先入観を持たずに帰納法を適用することによって形成すべきものであるが、偏見や先入観の中には当然のことながら過去の理論も含まれる。したがって偏見や先入観を持たずにということは、過去の理論とはまったく無関係に新しい理論が形成されるべきだということを論理的には意味している。それゆえ帰納主義によれば、過去の理論と現在の理論とは、直接的な連続性を持ってはいないことになる。(4) 過去の科学と現在の科学は、観察事実だけを共有するのであって、理論内容までも共有しているわけではない。帰納主義においては、事実の量的増大と理論の不連続的変化という形で科学の進歩が捉えられているのである。
  反証主義者のポパーも、科学の連続性と不連続性に関しては帰納主義と同じ立場に立っている。ポパーは、理論負荷性を認め、「理論が、実験の仕事をその当初の計画から実験室での最後の仕上げにいたるまで、支配する。」とし、「観察言明は理論の光に照らされた解釈である」と考えているが(5) 、理論変化に伴なう観察事実の意味変化は否定している。基礎言明としての観察事実は理論変化の過程においても不変である、とポパーは考えている。ポパーにおいては、バケツ理論とサ-チライト理論との対比に示されているように、解釈の素材としての事実の不変性は前提されているのである。
  一方、科学の発展観の中において、ポパーは科学理論の不連続性を強調している。ポパーによれば、科学の発展は「観察事実の蓄積」においてではなく、「科学理論を次々とくつがえし、よりよい、満足できる理論で置き換える」(6) ということにおいて理解すべきなのである。さらにまたポパーは、「科学は、蓄積によってではなく、むしろ革命的方法によってーーーー進歩する。」(7) と述べ、科学の累積性ではなく、科学における革命を強調している。
  ポパーは、事実の連続性を認めながらも、科学理論の不連続性を主張するという意味で、科学革命論者なのである。ポパーは、科学革命の存在を主張したということでクーンを批判したのではない。ポパーは、通常科学の安定性を主張し革命を例外的なものとしたことでクーンを批判したのである。ポパーによれば、科学は「推測と反駁」の過程なのであり、科学革命は日常的なことがらである。このように不断の科学革命を主張するという意味において、ポパーはクーンよりもラジカルなのである。実際、クーンやラカトシュも、ポパーを科学革命論者としたうえで、科学革命の性格をどのように規定するのかの違いとして両者の差異を論じている。(8)
  このように帰納主義や反証主義においては、科学の歴史的進歩の過程について、事実の連続性とともに、理論の不連続性ということが主張されている。しかし、このことは何ら論理的な矛盾ではない。あるものの変化を語るためには、変化するものとともに、変化しないものがなければならないのである。どちらの立場においても、事実の量的拡大やそれまで正しいとされていた事実の訂正などを原因として、科学理論の革命的進歩すなわち不連続的な変化が起こると考えられている。(理論レベルの不連続性を強調するのかどうかということに両者の違いがあるに過ぎない。)言いかえれば、事実の連続性を基礎として、科学理論の不連続的な変化(科学革命)、すなわち、科学の進歩が起こるとされている。


  3 対応原理と理論の連続性
 しかし一般には、帰納主義や反証主義において理論の不連続性が主張されているとは考えられていない。新しい理論は古い理論を近似として含んでいなければならないという「対応原理」を根拠として、帰納主義や反証主義では科学理論が連続的とされていると考えられている。けれども、「対応原理」で主張されている科学理論の連続性は、実際は事実の連続性であって、理論の内容的な連続性を意味しているわけではない。理論を用いて予測される実験数値の連続性に過ぎない。新しい理論と古い理論の持つ記述的意味や構造の関係が直接に問題にされているわけではない。
  このことは、事実の連続性と対応原理をともに認めるポパーが前述のように科学における革命を強調していることに象徴的に示されている。(9) ポパーは、「古い理論の経験的成功が新しい理論を裏付けるものとなる」ということに対応原理の意味を認めているに過ぎない。(10)すなわちポパーは、先行理論がうまく説明したすべての事実を新しい理論が説明しなければならないという形で対応原理を定式化している。このように定式化された対応原理において包摂関係が問題にされているのは、理論が説明すべき対象である経験的事実のレベルにおいてに過ぎない。決して理論相互の間の内的関係において包摂関係が問題にされているわけではない。理論評価のための基盤としての経験的事実の連続性が問題にされているだけである。対応原理が主張している連続性は、新しい理論が形成された後の事後的な関係においての事実的レベルの連続性であり、理論形成の過程における理論的レベルの連続性ではない。
  しかし科学の実際の歴史に示されているように、新しい理論が形成されるための出発点とされるのは、先行する経験的事実だけではない。先行理論自体も新しい理論形成のための素材として用いられるのである。例えば、天動説から地動説へのコペルニクス革命においても、先行理論である円運動の理論が地動説を構成する素材として用いられている。また古典力学から量子力学への革命的変化の過程においても、古典力学が量子化の出発点を与えるものとして用いられている。(例えば、電磁場の量子力学的取り扱いのための出発点として、マックスウェルの電磁気学が用いられている。すなわち、電磁場の量子化のための出発点としての場の方程式は、マックスウェル方程式で与えられる。)このように理論の連続性は、経験事実との関係においてだけではなく、先行する理論と新しい理論との直接的関係において論じることができる。すなわち、科学理論の意味は、理論同士の関係という非経験的レベルにおいても論じることことができるのである。(11)
  こうした意味において、ポパーのように理解された対応原理は、理論の内的な連続性を主張しているものではない。ファイヤアーベントが言うように、そうした対応原理は、「概念のではなく、数値の一致を主張している」(12)に過ぎないのであり、理論的内容の連続性を主張するものではない。こうした観点から見た連続性の問題は、観察事実に還元されない理論独自の意味を認めるかどうかということに焦点がある。
  科学における連続性がこのように観察事実のレベルにおいてしか論じられないのは、科学理論の意味を経験的事実の総和と考える還元主義的発想が帰納主義や反証主義の根底にあるためである。すなわち科学理論が、「すべてのカラスは黒い」というような普遍言明という形で理解されているためである。このことは、観察事実という単称言明をどんなに数多く集めても普遍言明である科学理論を論理的には正当化できないという形の帰納主義批判にも見ることができる。こうした帰納主義批判は、経験的一般化(empirical generalizations )の実行不可能性を論じたものであり、科学理論が経験的一般化と等置できるという前提に立っているのである。科学理論を経験的一般化と等値するならば、事実の増大や訂正に伴って理論が変化すことは当然であるし、理論どうしの直接的連続性ということはまったく問題にならない。
  しかしすべての科学理論を、「すべてのカラスは黒い」という言明のような経験的事実の一般化と考えることはできない。(13)一般相対性理論や場の量子論に見られるように、科学理論の意味は経験事実の総和には還元できない。理論レベルの連続性と不連続性は、経験的事実とは異なるレベルにおいて考えなければならない。帰納主義や反証主義に対する革命主義の批判の意味は、こうした観点から捉えることもできるのである。
  例えば、革命主義における理論負荷性の主張は、帰納主義や反証主義の中に含まれている還元主義を批判したものとして位置づけることができる。理論負荷性の主張は、理論と事実の絶対的区別の否定ということだけに意味があるのではない。理論負荷性は、事実に対する理論の相対的な自立性をも意味しているのである。というのは、観察事実の意味が理論負荷的であるという主張の前提には、観察事実に還元されない意味を理論に認めるということがあるからである。
  ファイヤアーベントはまた、このことを科学理論の実在論的解釈として論じている。「理論をそれ自身の用語の中で理解しようと試みる」実在論的解釈によってのみ共約不可能性は成立する。(14)理論の道具主義的解釈を取るならば、理論の意味が観察事実のレベルに還元されることによって、理論は互いに共約可能になってしまう。というのは道具主義的な立場においては、事実の説明や予測といった機能にしか科学理論の意味が認められないからである。科学理論をめぐる道具主義的解釈と実在論的解釈の対立は、科学理論に独立な意味を認めるかどうかということにある。(15)科学理論に独立な記述的意味を認める実在論的立場に立つならば、科学理論の連続性も、事実のレベルに還元せずに論じることが必要になる。理論に「記述的意味」を認め本質主義を主張するポパーが理論の不連続性を強調したことは、暗にそのことを示しているのである。(16)
  理論に独自な意味を認めるのかどうかということは、カルナップにおいてすでに論じられている。カルナップは、「事実の一般化」や「観察からの一般化」によっては理論法則を導出できないし、逆にまた理論法則から経験法則を直接に導出することもできない、という形でそのことを論じている。
(17)理論法則と経験法則を結びつけるのに、理論語と観察語の対応規則が必要であるとされていることは、理論の意味を経験的事実とは独立に論議できるということを暗に意味している。ただしカルナップ自身は、理論語を消去しようとするラムゼイ文の試みに対する肯定的評価にも示されているように、理論に関する完全に「独立な」解釈を認めず、理論に独自な意味を認めなかった。(18)この点にファイヤアーベントとの違いがある。ファイヤアーベントは、理論を実在論的に解釈するという立場から理論語の独立した解釈を認めているのである。
  ファイヤアーベントの共約不可能性の主張は、理論の実在論的解釈ということから生じた問題なのである。ただファイヤアーベントは、理論の実在論的解釈と理論の歴史的変化から理論の不連続性は論理的に自明だと考えている。この点に関してファイヤアーベントは不十分である。例えばファイヤアーベントは、彼が共約不可能性を見いだす場面に、「数多くの類似性と連続性とを」見いだすシャピアを批判しながらも、「確かに共約不可能な枠組みと共約不可能な概念は、多くの構造的な類似性を持つことができるであろう」と言わざるを得なかった。(19)
  以上述べてきたように、科学理論の連続性をめぐる問題は、事実から独立な記述的意味を理論に認めるのかどうかという問題でもある。理論を道具主義的に解釈するならば、理論に記述的意味は存在せず、科学理論の内容的な不連続性という問題意識がそもそも成立しないことになる。これに対して理論を実在論的に解釈するならば、科学の歴史的進歩における科学理論の内容的な連続性と不連続性を論じなければならないことになる。
科学理論の連続性をこのように実在論的に論じることは、帰納主義や反証主義において科学の連続性が反省的にのみ捉えられ事後的な関係としてしか論じられていないことへの批判でもある。科学の連続性を、既に出来上がった理論のための事後的な「正当化の文脈」のみで論じることは不十分である。科学の連続性とは、それまでの科学が不断に新しい科学を歴史的に生み出している過程それ自体を指すものである。すなわち科学の連続性は、科学の形成過程の歴史的連続性の結果として社会的に生み出されるものに他ならない。
科学の歴史的連続性を科学の内容的関係においてだけではなく、新しい科学が生み出されてくる科学活動のレベルにおいてまで広げて考えたのがクーンやローダンである。次に、そうした観点から科学の連続性の問題がどのように論じられているか見ていくことにしよう。


  4 クーンにおける科学の歴史的連続性
 帰納主義と反証主義が科学の連続性のみを主張していると一般に考えられているのに対し、クーンは科学の不連続性のみを主張していると考えられることが多い。そのためクーンは、古典論から量子論へというような理論変化の歴史的連続性さえ語ることができないし、科学の歴史的発展という事実を説明することができない、というような批判がなされている。しかし、科学の連続性のみを主張すると考えられている帰納主義や反証主義においても科学の不連続性が認められていたように、科学の不連続性のみを主張していると考えられているクーンにおいても科学の連続性が認められている。
  けれども、クーンは科学の不連続性のみを主張しているという解釈に根拠がないわけではない。クーンは、事実の理論負荷性を理由として観察事実の不連続性を主張している。すなわち理論負荷性を認めるならば、観察語の意味は、理論によって規定されている。したがって理論変化とともに、観察語の意味は変化する。それゆえ、異なる二つの理論のあいだで同じ観察語が使われていたとしても、その意味が異なることになり、観察事実のレベルにおける連続性は存在しない。言いかえれば、理論変化に対応して観察事実が変化すことになり、観察事実は不連続だということになる。このようにクーンは、理論のレベルにおいてだけではなく、観察事実のレベルにおいても、科学は完全に不連続だとしている。そして科学における累積的発展を否定している。しかしそれにも関わらず、クーンは科学が歴史的に進歩するものであると主張している。クーンは、なぜこのような一見したところ明白な矛盾と思われる主張をするのであろうか。これは、クーンの自己矛盾に過ぎないのであろうか。
  そう簡単に断定することは誤りである。というのは、観察事実のレベルにおいても理論のレベルにおいても共通の要素がまったく存在しないという革命主義の主張から、科学の全面的不連続性が論理的に帰結される、と単純に言うことはできないからである。観察事実と理論のレベルにおける完全な不連続性を認めたとしても、科学の連続性を主張することがなお可能なのである。
  科学の連続性は、観察事実や科学理論というような内容のレベルにおいてだけではなく、科学活動を支える価値観や方法論という活動形式のレベルにおいても考えることができる。そして実際に、科学の内容的な連続性を否定するクーンやローダンも、具体的な科学活動のレベルにおける科学の連続性は認めている。例えばクーンは、科学史家として、アリストテレスの力学もフロジストン説も熱素説も「現在の科学的知識に導くものと同じ方法で形成されたものである」として科学的知識の形成方法のレベルにおける科学の歴史的連続性を主張している。(20)またローダンは、存在論、方法論、価値という三つのレベルで科学の連続性を論じている。(21)このようにクーンやローダンは、科学の活動形式の構造的同一性が科学の歴史的連続性を与えると考えているのである。
  そしてクーンは、科学の活動形式というレベルにおける連続性を根拠として、科学の新しい発展観を提唱している。すなわちクーンは、科学の累積的発展という従来の考え方を否定し、科学の「累積なき発展」という考え方を主張しているのである。この点に関しても、ローダンはクーンと同じ見解を取っている。ローダンも、科学の内容的連続性を否定し科学の累積的発展を認めないが、問題解決能力を規準として科学の歴史的発展を語りうると考えている。(22)
  クーンによれば、観察事実のレベルにおいても理論のレベルにおいてもまったく連続性が存在しないので、理論変化の前後において共通なものが存在せず、科学においては何も累積しない。しかし、このように累積するものが何もないにも関わらず、科学の歴史的発展を定式化しうる。科学は、単線的かつ累積的に発展する訳ではないが、とにかく長期的にみれば歴史的に発展している。クーンは、予測の正確さ、解かれた問題の数、単純性、他の専門分野との両立可能性など様々な規準を並べ立てることによって、「定向的で不可逆的な過程」として科学の発展を語りうると考えている。(23)言いかえれば、クーンは、科学活動の「規準」や「目的」の組合せが全体としては歴史的に変化しないという点に、科学の歴史的連続性を認めているのである。
  このようにクーンは、科学の活動形式のレベルにおける連続性を主張し、科学の「累積なき発展」を認めている。このことは、科学性の規定を経験的事実との連関以外でも考えるべきことを意味している。すなわち科学における累積性の否定は、科学ということの規定を知識の真偽と同一視する立場の拒否を意味している。クーンも、ポパーと同じように科学の境界設定問題を扱っているのである。(24)ポパーとクーンの対立点は、科学性の規定を論理的なものと考えるのか、社会的なものと考えるのかということにある。
5 終わりに
 科学理論の連続性は、先行理論を前提として新しい理論がどのように形成されるのかという科学活動の歴史的連続性の問題であった。クーンにおいて科学の「累積なき発展」観として論じられていたのも、科学活動の歴史的連続性である。このように科学の連続性と不連続性は、科学が自らを歴史的に再生産していく過程との連関で論じるべきなのである。
  言いかえれば、これまで科学の連続性は、理論評価の視点から事後的な問題としてしか論じられてこなかった。科学史と科学哲学の結合が、理論評価という視点からしか実行されていないのである。しかし本来的問題は、結果としての事後的な連続性も含めて、科学がどのように歴史的・社会的に形成されるのかという視点から、科学の連続性と不連続性を論じることである。すなわち科学の連続性は、理論形成の視点から論じるべきなのである。


(1) 筆者は、「理論比較と共約不可能性」『科学基礎論研究』第62号(1984)pp.25-32において、理論評価の観点から科学の合理性の問題を論じた。参照されたい。
(2) J.D.Bernal,Science in History,Vol.1,C.A.Watts,1954(鎮目恭夫訳『歴史における科学』みすず書房,1966,p.16)
(3) 伊東俊太郎『近代科学の源流』中央公論社,p.305
(4) J.Agassiも Science and Society,ch.22,D.Reidel,1981において帰納主義者 F.Baconを科学の不連続性を主張する人物として位置づけている。
ヒュウーエルもまた、理論レベルのこうした不連続性を意識していたと思われる。Selected Writings on the History of Science,William Whewell,p.xxiii
(5) K.R.Popper,The Logic of Scientific Discovery,1st.1959,2nd. Harper Torchbook ed.1968,p.107(大内義一・森博訳『科学的発見の論理』恒星社厚生閣,1971,上,pp.133ー134)
(6) K.R.Popper,Conjectures and Refutations,RKP,1963,4th ed. 1972,p.215(藤本隆志・石垣壽郎・森博訳『推測と反駁』法政大学出版局,1980,p.362)
(7) Ibid.,p.129(邦訳p.210)
(8) I.Lakatos and A.Musgrave(eds.)Criticism and the Growth of Knowledge ,Cambridge U.P.,1970,p.6,p.92(邦訳『批判と知識の成長』木鐸社,1985,pp.16―17,p.133)
(9) 事実の連続性と理論の不連続性というこうした考え方はポパーにのみ見られる考え方であるわけではない。例えばI.Schefflerも、Science and Subjectivity,p.9 において「理論レベルの累積性の欠如にも関わらず、観察や実験のレベルにおいて科学は累積的である」と述べている。
(10) K.Popper,Objective Knowledge,Oxford U.P.,1972,Revised ed. 1979,p.202(森博訳『客観的知識』木鐸社,1974,p.229)
(11) ローダンは、理論同士の整合性など理論評価という視点からではあるが、概念的問題ということでこのことを論じている。L.Laudan,Progress and Its Problems,California U.P.,1977。ただしポパーにおいても、このことは科学と形而上学の関係として論じられている。ポパーは、Conjectures and Refutations,pp.186-189(邦訳p.311-315)においてコペルニクスやケプラ-を取り上げ、形而上学が科学理論の起源となることを認めている。こうした意味では、形而上学という非経験的レベルにおける科学の連続性をポパーも認めていることになる。
(12) P.K.Feyerabend,Against Method,Verso,1975,p276 n132(村上陽一郎・渡辺博訳『方法への挑戦』新曜社,1981,p.397)
(13) ラカトシュとファイヤアーベントも、経験的一般化と理論を同一視すべきではないとしている。ラカトシュ『批判と知識の成長』訳書p.169 注108、P.K.Feyerabend"Explanation,Reduction,and Empiricism",Minesota Studies in the Philosophy of Science,Vol.Ⅲ,p.28 n1
(14) P.K.Feyerabend,Against Method,pp.274ー279(邦訳 pp.366ー372)
(15) こうした観点からの道具主義批判としては拙稿「物理学における主観と客観の問題」(『看護研究』65(1983)pp.7-13 )を参照されたい。
(16) ポパーは、Conjectures and Refutations,p.109(邦訳p.174)において科学理論の記述的意味を認め、道具主義を批判している。ただしポパーは、科学理論を事実の総和と考えるような還元主義的発想を一面では持っているため、「科学理論の記述的意味」を明確には語りえていない。そのため、ポパーの道具主義批判は弱いものとなっている。
(17) R.Carnap,Philosophical Foundations of Physics,ch.23,Basic Books,1966(沢田允茂、中山浩二朗、持丸悦朗訳『物理学の哲学的基礎』第23章、岩波書店、1968)
(18) R.Carnap,'The Methodological Character of Theoretical Concepts',Minesota Studies in the Philosophy of Science,Vol.1,p.47(竹尾治一郎訳「理論的概念の方法論的性格」『カルナップ哲学論集』紀伊国屋書店、1977、p.202)
(19) P.K.Feyerabend,op cit.,p.277(邦訳p.369)
(20) T.S.Kuhn,The Structure of Scientific Revolution,Chicago U.P.,1970,2nd. ed.,p.2(中山茂訳『科学革命の構造』みすず書房,1971,p.3)
(21) L.Laudan,Science and Value,ch.4,California U.P.,1984
(22) L.Laudan,"Two Dogmas of Methodology",Philosophy of Science,43(1976)
(23) T.Kuhn,op cit.,p.206(邦訳p.236)
(24) こうした点に関するポパーとクーンの共通性に関しては、P.M.Quay"Progress as a Demaracation Criterion for the Sciences" Philosohy of Science,1974でも論じられている。