機械化の進展による小麦粉の変質
小麦粉の色の白さの技術的原因
小麦粉は19世紀中頃より際立って白くなった。その原因はどこにあるのだろうか?
■製粉工程における革命の結果としての色の白さ ---- ローラーによる多段階製粉における、各製粉段階ごとの篩による成分分離
「この白さは異質物(みょうばん、硫酸銅、その他)が入っているからではなく、製粉工程の革命の結果である。碾臼を使うと、穀粒を構成している殿粉質、グルテン質(麩質)中の滋養層、種々の油性の胚や胚珠等の大部分は、製粉される過程で完全に混りあってしまう。したがって胚珠の油成分が小麦粉全体に浸透するため、触れると油っぼく、見た目も悪くなる。そのうえ、貯蔵期間が長くなると油成分が腐敗する恐れがあった。平置式の碾臼では、鋭い溝をつけた石はできる限り近づけられた。
碾臼を使って穀物をできるだけ細かく砕いてしまう初期のやり方は、次に、大きく間隔をとって並ぶローラーで段階的にすり潰す方法にとって代わられた。この方法では、製粉は段階的に行なわれる。一組のローラーを通過するごとに小麦粉は篩にかけられ、種々の成分が分離される。この工程は四、六、八、あるいは一〇回も繰り返される。」
S.ギーディオン(GK研究所・栄久庵祥二訳)『機械化の文化史 --- ものいわぬものの歴史---』鹿島出版会,1977年,p.176
こうした技術的転換はいつ頃始まったのか?
■1834年から1874年にかけての技術的発達
「小麦をローラーを用いて段階的に粉にする方法は「ハンガリアン・システム」と呼ばれた。フランスや他の国々でもこの方法が採用されたが、これを組織的に発達させたのは、大量の小麦を産し、製造に特別きめの細かい小麦粉が必要な、パイの好まれる国――ハンガリーであった。この発達は、一八三四年から一八七四年にかけて進行した(135)。アメリカでは製粉方法の改革は、小麦の育つ中西部(ミネアポリス)で一八七〇年から一八八〇年にかけて達成された。その端緒をつくったのが、穀物の核を薄くとりまいているグルテンの中間層を分離する一八六〇年代後期の試みであった品)。一八七一年には、フランス人が一八六〇年頃試みた精製機が発明され、これによって、従来の下級小麦からも、最高価格の小麦粉がつくられるようになった。ミネソタ粉とは、この「新しい精製工程」、 一般には「新工程」という名で知られた方法で製粉された小粉粉のことである。「ミネソタ粉は、どこの市場でも最高にもてはやされた。それは、今までに生産されたうちで最も見た目によく、白く輝きのある小麦粉という謳い文句で市場に出回った」と当時の無揺名の。パンフレットには書かれている(137)。この精製方法は、ローラー方式がアメリカで試みられた一七八三年以前にすでに工夫されていた。しかしそれ以来、工場規模の拡大と製粉時間の短縮化が非常な勢いで進んだ。 一八八十年頃には、ミネアポリスにある大きな工場はすべて新しい方式に改められ、さらに高度に向動化されていった。」
S.ギーディオン(GK研究所・栄久庵祥二訳)『機械化の文化史 --- ものいわぬものの歴史---』鹿島出版会,1977年,pp.176-178
■一層の白さを求めての小麦粉の人工漂白
「オリバー・エバンスの「自動機械による新しい製粉方法」(138)から「中級粉の新工程」が生まれるまでの一世紀間、根本的な変化が起きたわけではない。同様に、 一八九〇年以降も、製粉機械には特に基本的な改良は加えられていない。その代り、細かな、形式的な点に関心が注がれるようになった。たとえば、いっそうきめ細かくそして白い粉を得ることに関心が集まったり、粉を人工的に漂白するための、精巧で複雑な装置のに大に努力が傾けられるようになった。この点について製粉業者は、大衆が人工的な漂白でしか得られない、純白度の高い粉を要求したからだと主張している。その通りかもしれないが、決定的な理由は他にあった(139)。以前は、粉は数力月の間熟成させる必要があり、この間に、粉はその自然の色(クリーム色)を失い、純白に変化するものと考えられていた。しかし大規模生産では、この熱成に要求する時間が厄介な問題になった。それだけ大きな保存倉庫と、無駄な資本支出を意味するからである。「製粉業者は、この負担を免がれる方法を捜し求めた。彼らが発見したのは、小麦粉の漂白と熟成を人工的に行なう方法であった」(140)。それには、高圧電流を流したり塩素ガスを浸透させるという方法がとられた。販売促進をねらった小麦粉の漂白は、世紀の転換期にフランスで初めて導入され、次いでイギリスで成功をおさめ、最後にアメリカで大規模に実施された(138)。漂白を数分間で済ませるキャビネットは机の抽出しほどの大きさもない。塩素ガスは、管を通して吹きこまれると、回転している粉の微粒子に一瞬にして浸透し、そのあと粉は、下の階におかれた紙袋にまっすぐ落ちていく。
人工漂白が採用される際に異論がなかったわけではない。長期にわたる研究と激しい論戦があった。専門家の意見も真二つにわかれた。漂白は無害だと主張する者(142)と、現在の製粉法は穀物の最も重要な栄養分を奪ってしまうと主張する者とがいた。そのどちらが正しいかを判断する立場にわれわれはいない。ただ、新しい方法が生産増大への要求から起こったもので、人間的な見地からの考慮はほとんど問題にされなかったという点は確認しておく必要がある。製粉工程の機械化は、見た眼によく、多少とも人工的な製品を生み出した。以前、触れると油っぼい感じがあったのは、中に栄養価の高い油性の胚珠が含まれていたからだが、その胚珠が新しい製品では先全に除かれた。最近では、製粉の際に失われた栄養物を、イ―ストや生パンにビタミンを加えることで補っている。したがって小麦粉の白さは損われないが、こうしたやり方は、わぎわざ自然のままの良い歯を抜いて、代りに、見た目によい義歯を入れるに等しい。ビタミンを加える装置は簡単なもので、郵便受けの受け口のような、細い小さな孔をあけた金属製の箱である。ペースト状のビタミンを小さな塊にして粉の中に入れ、オリバー・エバンスが用いたようなスクリュー・コンペアでかき混るだけである。」
S.ギーディオン(GK研究所・栄久庵祥二訳)『機械化の文化史 --- ものいわぬものの歴史---』鹿島出版会,1977年,pp.176-178
「この「ハンガリアン・システム」は一八三四年から七三年にかけて三人のスイスの発明家によってブダペストで開発された。 一八三四年にヤコプ・ザルツパーガーが、また一人五〇年にはアプラハム・ガンツが冷却装置付の鉄製ローラーを導入し、最後に一八七三年、フリードリッヒ・ヴエークマンが、自動式で表面が滑らかな陶器製のローラーを使用するに至った(Wilhelm Glauner, Die Hist。rische Entwicklung der Mullerei, Munich,Berlin, 1989。ローラーは、棚上げされていた発明の典型である。ラメリの発明した移動型のローラー式粉挽き機(一五八八年)が、機械装置に発展するのに二世紀半を要している。十八世紀には、大部分家庭用であったが、この種のさまざまな考案がイギリスとフランスで行なわれた。製パンの全分野においてそうであるように、パン粉の製造法に関しても一八二〇年代には無数の試みが行なわれたが、満足すべき解決は皆無であった。」
S.ギーディオン(GK研究所・栄久庵祥二訳)『機械化の文化史 --- ものいわぬものの歴史---』鹿島出版会,1977年,p.240の原注135