佐野正博
「初期量子論の形成と受容 」

下記論稿の初出は、佐野正博(1989)「初期量子論の形成と受容 」『科学における論争・発見(科学見直し叢書 第2巻 科学革命の諸相) 』木鐸社,pp.273-308である。引用の際には、同書を参照して頂ければ幸いです。(ただし2004年9月30日時点で、同書は残念ながら、現在では入手不可となっている。)

なお下記論稿の注に関しては、こちらのファイル(quantum-theory0-note06.htm)を参照されたい。


1.古典論と量子論の間の理論的連続性

 古典論と量子論に関して一般的には両者の理論的断絶や異質性が強調されている。古典論が連続性を基礎としているのに対して量子論は不連続性を基礎としているという意味で、古典論から量子論への移行過程は、天動説から地動説への理論転換に匹敵するような「科学革命」である、という主張がよくなされる。しかしながら実際には、量子論は、その理論内容において古典論と基本的に異なる体系であるにも関わらず、古典論とさまざまな点において強い連続性を持っている。
  例えばアインシュタインが初めて光量子論を主張した1905年の論文では、「空間の点に局在し・・・・分割されることなく運動し、全体としてのみ吸収や発生に関与する」エネルギー量子としての光量子が主張され、光のエネルギーは物質粒子のように不連続的に空間へ配分されていると想定されていた(1)。光のエネルギーに関してこのような空間的局在性を主張する光量子論は、光のエネルギーが空間に連続的に分布しているとする古典論的電磁気学とは両立し得ない。この当時のアインシュタインは、いわば、十九世紀に支配的な見解となった光の波動説を否定し、光の粒子説を復活させようとしていたのである。それにも関わらずアインシュタインは、光量子論に関する1906年の論文の中では、古典論的電磁気学である「マクスウェルの理論は要素共振子に適用できないにも関わらず、輻射空間の中にある一つの要素共振子の平均エネルギーは、マクスウェルの電気理論から計算される値と同じである」(2)として、時間的平均値に関して光量子論は古典論的電磁気学と同一の予測結果を与えるべきだと主張せざるを得なかった。アインシュタインによれば、自らの光量子論と対立するマクスウェル電磁気学が少なくとも時間的平均値だけは正しく与えるということは、「この理論が光学において有効であることを見れば、ほとんど疑いをいれるところがない」のである。(3)というのも、光に関してそれまでになされてきた観測や実験は、光学的現象の素過程としての一個の光量子の運動の瞬間的な変化に関わるものではなく、数多くの光量子の集団的運動の時間的平均値に関わるものと考えられるからである。
  また前期量子論においては、量子論は量子数の大きい極限において古典論と同一の結果を与えるべきだというボーアの対応原理が指導的原理とされた。ボーアによれば、こうした対応原理は、「量子論的仮定と古典理論との間にある根本的な対立には眼をつぶって、古典論のあらゆる特徴を、適当に解釈しなおして、量子論の体系的な発展に役立てていこうとする傾向」(4)として位置づけられるものである。ボーアは、量子論的な基礎運動方程式がハイゼンベルクやシュレディンガーらによって提示される以前の、いわば手探りでさまざまな試行錯誤をくり返しながら量子論的な定式化を明らかにしていった前期量子論の段階において、量子論と古典論がその理論内容において根本的に対立しているにも関わらず、量子論的理論と古典論的理論は近似的には同一の実験結果を与えるということを発見法的な原理として積極的に利用しようとしたのである。後知恵的に言えば、エーレンフェストの定理がこのことの理論的根拠である。エーレンフェストの定理によれば、シュレディンガーの波動方程式をもとにして位置座標に関する期待値を計算すると古典論的な運動方程式F=maが導出される。その意味では古典論は、量子論の統計的近似理論と考えることができるようなものなのである。
  このようにアインシュタインの光量子論の議論、ボーアの対応原理、エーレンフェストの定理において示唆されているように、古典論は量子論の近似的理論と考えることができる。そしてそうしたことを背景として、量子論は古典論の一般化であるというような主張もなされている。例えばプランクは、ハイゼンベルクの行列力学やシュレディンガーの波動力学の理論が提唱されてから四、五年後の1929年の講演において、「古典物理学の完全な崩壊といったことさえ、不可能ではないと思われた時期もあったが、・・・・結局のところ、問題になっているのは単なる破壊作業ではなくて、きわめて徹底的であるにもせよ改良なのであり、それも実は一般化であることが、やはりだんだんと明らかになった」(5)と述べている。またボーアは、量子論は「古典物理学の諸理論の一般化」であると主張している。(6)
  ただし、量子論と古典論に関して主張されているこうした連続性は、理論から予測される実験結果に関する一致であり、結果としての連続性に過ぎない。すなわち出来上がってしまった理論同士の間の連続性や同一性の問題に過ぎない。それゆえボーアの対応原理は、提唱された諸理論を選択・批判するための一つの基準にはなり得たが、新しい理論を実質的に創りあげていく過程における指導原理としては内容的にあいまいなものに留まらざるを得なかった。
  しかし量子論と古典論の間の連続性としては、こうした結果としての連続性だけではなく、形成過程における連続性も存在する。新しい理論である量子論は、実験結果だけから帰納法的に形成されたわけでもないし、天才科学者の知的直観によって無から創造されたわけでもない。歴史的には物理学者は、先行理論における理論的問題意識や理論的手法を受け継ぎ、新しいデータや先行諸理論における内部矛盾や相互矛盾などを考慮しながら、新しい理論である量子論を形成してきた。そうした中で量子論的理論の形成に、古典力学や電磁気学や熱力学などの先行理論が一つの素材として利用されてきた。すなわち量子論は古典論を一つの理論的素材として形成されてきたのである。しかも先行理論のそうした素材性は、量子論の誕生から基本的運動方程式の形成に至るまで、すなわちプランクの量子論からシュレディンガー波動方程式や場の量子論の形成に至るまでの一貫した特徴である。例えばハイゼンベルクは行列力学を最初に提唱した論文において、古典力学のフォーマリズムにできるだけ対応した量子力学的フォーマリズムを構築しようと考えて古典力学的運動方程式を形式的にはそのまま採用している。(7)またシュレディンガーは古典論的な波動方程式を素材としてそれにE=hνとp=h/λという量子論的関係を導入することによって波動方程式を導出している。(8)さらにディラックは場の量子論の先駆となった論文において、シュレディンガーの波動方程式における波動関数自体をいわばq数と見なすことによって場の量子化を行なっている。(9)
  このように先行理論を素材として量子論が形成された結果として、量子論においては数学的定式化が先行した。プランクの量子仮説もハイゼンベルクの行列力学もシュレディンガーの波動力学も、その数学的定式化が先行し、その物理的意味は最初は明確ではなかった。そのことは、黒体輻射に関する古典論的な分布式と今日されているレイリー=ジーンズの式がきちんとした形で定式化された(10)のが1905年であり、量子論的な分布式であるプランクの分布式の5年後であった、ということに象徴的に示されている。観測データを説明する量子論的定式化が先に成立し、その定式化に関する論争を通じてその物理的意味が徐々に明確にされていったのである。量子論において解釈問題が歴史的に重要な位置を占めるのはこのためである。
  本稿においては、プランクの黒体輻射理論を具体例として、古典論的研究プログラムと量子論的研究プログラム相互の理論的問題意識の連関を論じながら、先行理論を一つの素材として実際にどのように量子論的定式化がなされてきたのかを取りあげ、理論物理学に典型的な一分野としての量子力学の歴史的発展の理論的文脈の一面を明らかにすることにしたい。

2.ボルツマンとプランクとエネルギーの不連続性

 量子論の誕生の年は、ε=hνというエネルギー量子仮説をプランクがはじめて提唱した1900年であると一般に考えられている。しかしエネルギー値に不連続性を導入し、何らかのかたまりを単位としてエネルギーを分割して考えるという数学的手法そのものはプランクの独創ではない。1872年にすでにボルツマンがそうした手法を用いている。ボルツマンは、単位体積中での分子の衝突回数の計算のために、「分子は連続的な値の運動エネルギーをもつことはできず、ある量εの整数倍にあたる運動エネルギーしか持つことができない」(11)と仮定したのである。天野清が指摘しているように(12)、プランクの不連続なエネルギーという構想はボルツマンから示唆を受けたものと考えられる。実際にこれから論じるように、数学的手法という点においても、理論的問題意識という点においても、プランクの量子論的アプローチは先行する古典論的なアプローチの中から生み出されたものと考えられる。
  プランクがボルツマン的アプローチを採用しエネルギー値に不連続性を導入するようになったのは、輻射現象に対する熱力学的研究の結果としてである。最初プランクは、熱力学第二法則だけによって熱平衡状態にある輻射のエネルギー分布が一義的に決定できると考えていた。すなわちプランクは、ウィーンの分布式と異なる形のエネルギー分布式から出発して輻射のエントロピーを算出した場合にはエントロピー増大の原理と必ず矛盾することになるのであり、ウィーンの分布式は「エントロピー増大の原理を電磁的な輻射理論に適用したことの必然的な結果である」(13)と考えていた。しかし輻射のエントロピーに関する研究をさらに続ける中でプランクは、より大きな波長領域においてはウィーンの分布式が間違っているというルンマーとプリングスハイムの最新の測定結果を説明するものとしてティーゼンが新たに発表した分布式がウィーンの分布式と同じくエントロピー増大の法則を満たすことを見出した。その結果としてプランクは、「エントロピーの表式をエネルギーの関数として算出するためには、エントロピー増大の法則そのものでは十分ではなく、この目的のためにむしろエントロピー関数の物理的な意味についてさらに詳しい考察が必要だという、重要な結論」(14)に到達した。そしてプランクは1900年10月には、エントロピーSをエネルギーUで二階微分した式がエネルギーUを用いてどのように表わせるのかということの考察から出発して、短い波長域においてはウィーンの分布式を「一つの極限法則」として含みながらも、長い波長域においてはウィーンの分布式と「著しい偏差」を示す新たな測定結果を説明できるような分布式に到達した。1920年6月にプランクが行なったノーベル賞受賞記念講演によれば、プランクはこの分布式を「立てたその日から、それにほんとうの物理学的な意義を付与するという課題に没頭したのであり、そしてこの問題は、私をおのずからエントロピーと確率の関係についての考察に、そうしてまた、ボルツマンの思考過程に導くことになった」(15)のである。それまでプランクは熱力学的研究を続ける中で、エントロピーと確率の関係に注意を払ってはこなかった。というのも、確率の法則には例外が常に存在するが、それまでプランクは熱力学第二法則に対して例外が存在しないような絶対的な妥当性を与えていたためである。(16)ところが系のエントロピーとエネルギーの関係を導出するために熱力学第二法則以外のものをどうしても必要としたプランクは、熱力学第二法則は最も基本的な法則の一つでありそれ以上の理論的基礎づけを必要としないとするそれまでの立場を捨て、系の物理的構造の分析を通して熱力学第二法則を統計的に基礎づけようとするボルツマンの立場に移行せざるを得なかった。そしてプランクは、「エントロピー関数の物理的意味」を明らかにするために、気体分子に対してボルツマンが想定した「分子的無秩序」という理論的概念に対応するものとして「自然輻射」を想定することによって、「ボルツマンが熱力学第二法則についてその意義を明らかにした確率論的考察を輻射の電磁理論に導入」(17)し、共鳴子のエントロピーを計算した。すなわちエントロピーが、S=klogWという式によって規定されると考えるようになった。

3.ボルツマンとプランクの理論的問題意識の連関と差異

 ボルツマンもプランクもともに、熱力学第二法則の統計的解釈の立場から系の状態に関する場合の数を導出するためにエネルギーをεという単位ごとに分割して考えたのであるが、当然のことながら両者にはいくつかの理論的相違がある。
 まず形式的な差異としては、数学的な意味での確率を論じるための基礎となる「場合の数」の計算の際に、プランクがカノニカル・アンサンブルにおいて考えていたのに対し、ボルツマンはミクロカノニカル・アンサンブルにおいて考えていたということがある。すなわち、両者が想定していた統計的な母集団は異なっていた。そして熱平衡状態のエントロピーを規定する場合の数として、プランクがεを配分するすべての可能なエネルギー状態分布の場合の数の総和を問題としたのに対し、ボルツマンはエネルギー状態分布の場合の数の最大値、すなわち、最大確率の状態分布の場合の数を問題としていた。この違いについてはプランク自身も第一回ソルベイ会議報告の中で論じている。しかしプランクは、自らのように全体の場合の数を考えるにしろ、ボルツマンのように最大確率の状態分布の場合の数を考えるにしろ、最大確率の状態分布の場合の数に比較すると他の状態分布の場合の数は無視しうるような数にしかならないので結果的には同じになると述べて、場合の数の大きさに関して結果としての数学的一致を強調している。(18)
  ボルツマンとプランクの違いの中で歴史的に見て最も重要なのは、エネルギーを構成する基本単位εに対するその後の取り扱い方の差異である。エネルギーの不連続性という仮定に関してボルツマンは、「物理的な過程の計算を容易にするための手段以上のものではない」(19)とし、最終的にはεを無限小へと極限移行させることによってマックスウェルの速度分布則を理論的に導出した。これに対してプランクは、共鳴子のエネルギーすべてが「一定数の有限な部分からなる」という仮定を「全計算の最も大切な点である」(20)と考え、ボルツマンとは違ってエネルギー要素εをゼロに極限移行させることはしなかった(21)。両者の間のこうした差異は、エントロピーをどのようなものとして理解するのかということの考察を通して理解することができる。
  ボルツマンは、エントロピーを状態の確率と結びつけて理解していた。ボルツマンによれば、「普通エントロピーとよんでいる量を、問題にしている状態の確率と同一視できる」(22)のである。熱平衡状態を「最も確からしい状態」であると考えたボルツマンは、「最も確からしい状態分布」を求めるための中間的な数学的手続きとして各状態分布の場合の数を求めた。彼の最終目標は、あくまでも各状態分布の確率を求めることであった。それゆえボルツマンにあっては、εをゼロに極限移行させることが何らかの理論的困難を引き起こすようなことはない。εをゼロに極限移行させると場合の数は無限大に発散してしまうが、ある特定の状態分布に対応する場合の数を全体の場合の数で割ったものである状態分布の確率は有限値にとどまる。各状態分布の確率の大きさを比較することは可能であり、「最も確からしい状態分布」ということの物理的意味は失われない。
  これに対してプランクは、先に述べたように、エントロピーの定義式S=klogWにおけるWをすべての場合の数として規定した。すなわちプランクは、共鳴子のエントロピーをボルツマンのように数学的確率の対数に等しいとはしていない。プランクにとって黒体輻射すなわち輻射場の熱平衡状態は、ボルツマンのそれとは異なり、最も確率の高い分布として定義されているわけではない。ただし注意しなければならないことに、プランク自身は熱力学第二法則に対するボルツマン的立場の継承性を強調するために、1900年より後の論文や解説の中でS=klogWというエントロピーの定義式におけるWを「状態の確率」という言葉で呼んでいる。しかし上でも述べたようにそのWは、全体の場合の数、すなわち、彼の表現では「与えられた状態が含む組み合わせ(Komplexion)の数」のことであり、普通に用いられている確率の定義とは異なっている。実際プランク自らも認めているように(23)、彼が「状態の確率」と呼んでいるものの値は大きな整数となるのに対し、一般に確率と呼ばれているものの値はゼロから1までの範囲内の実数である。
  もっとも、何に関する場合の数であるかを別にして、ボルツマン的なエントロピーの定義においてある系に関するWとして確率を考えるのか場合の数を考えるのかの違いを単に数学的形式においてだけ考察するとすれば、エントロピーの定義式において負の付加定数を付け加えるのかどうかということにあるだけである。そのためプランク自身は、エントロピー定義式に関するボルツマンとの違いについて「エントロピーの計算にとっては・・・・さ細なこと」(24)に過ぎないと述べている。実際、エントロピー変化を考察する限りにおいては、エントロピーの絶対的な値ではなく、エントロピー量の差が問題になるだけなのであるから、エントロピーの定義式に付加定数が付け加わるのかどうかはまったく問題にならない。
  しかしながらプランクが後に論じているように、プランク的なエントロピー定義においては、量子論的アプローチはエントロピーの絶対的な値ということと結びついていた。古典論的には状態の連続性のために「可能な状態の数」は無限大になり、プランクが定義する意味でのエントロピーに絶対的な値を割り当てることはできない。(25)プランク的な意味でS=klogWとして定義されるエントロピーが絶対的な値を持つとするためには、ある一定の条件の下での「可能な状態の数」Wが有限になることがどうしても必要である。そしてWがそのように有限になるためには量子論的な構造が前提となる。プランクのようにエントロピーを定義する場合には、ボルツマンとは異なり、εをゼロに極限移行させることはできないのである。すなわち、共鳴子のエネルギーを「制限なしに分割可能な連続なものと考えるのではなく、離散的な、整数個の有限な等しい部分からなる」(26)と考え続けることがどうしても必要になる。というのも、εをゼロに極限移行させてしまうと、全体の場合の数WそしてエントロピーSが無限大になってしまうという物理的におかしな結果を招くことになり、プランクが想定した物理量としてのエントロピーの意味は失われることになるからである。

4.プランクの研究は古典論的であったのか?

 しかしプランクは、共鳴子のエネルギー値が不連続的になると仮定したが、アインシュタインとは異なり光のエネルギーが空間的に局在しているとは考えてはいない。例えばプランクはアインシュタインに宛てた1907年7月6日付けの手紙の中で、「私は基本的作用量子(光量子)の重要性を真空中にではなく、吸収と放射の際に求めた。そして真空中の出来事はマクスウェル方程式によって正確に表わされると仮定した。さしあたり最も単純と思われるこの仮定をすて去るべき・・・・動かすべからざる証拠なるものは少なくとも今のところ私には見出せない」(27)と書いている。またプランクによれば、「量子仮説は空間内でのエネルギー量子の局在については何も述べて」(28)はいない。プランクは、アインシュタインの相対性理論にはいち早く賛成したが、光量子論に対しては空間的に局在する光量子によっては光の干渉という現象がどうしても説明できないということなどを根拠として否定的な態度を取り続けたのである。例えばプランクは1919年の講演において、光そのものが量子化されるのか、それとも、量子化されているのは物質だけなのかという問題は、「おそらく量子理論があげてその前に立たされている、最初にして最大のディレンマであり、その答えはこの理論の発展をさらにまって始めて示されるべきもの」(29)であり、アインシュタインのように明確な結論を下すべきものではないと主張している。またプランクは、ハイゼンベルク、ボルン、ヨルダンの行列力学が提唱された翌年である1926年の講演の中でも、「実際、物理学のいくつかの分野、特に干渉の現象という広い領域においては、古典理論はどれほど精密な測定に対しても詳細に実証されているのに、量子の仮説はそこで、少なくともその現在の形ではまったく役に立たず、しかもそれは単に適用ができないということではなくて、その一定の結論がそこでは経験と一致しないのである」と主張して光量子論に反対している。(30)
  さらにまたプランクは、共鳴子が持つエネルギー値を不連続とする1900年の論文の考え方を修正し、連続性を復活させようと試みている。例えば1911年の第1回ソルベイ会議報告では、共鳴子による電磁的エネルギーの放出過程は不連続であるが吸収過程は連続的であるという前提のもとに自らの分布式を説明している。(31)さらに1914年の論文では、放出過程も吸収過程も共に連続的であると仮定して自らの分布式を導出しようとしている(32)
  さて、これまで述べてきたようなエントロピーに関するボルツマン的アプローチとの共通性や、光量子論への否定的態度、共鳴子のエネルギー値の不連続性に関する修正の試みなどから判断すれば、プランクは連続性の物理学である古典論の立場を墨守しようとしていたと結論すべきであろう。実際そうしたことを根拠として、多くの科学史家はプランクの立場があくまでも古典論的なものであるとしている。例えば、天野清は、プランクが「エネルギー要素を導入した方法はどこまでも形式的であって、決してエネルギー粒子の像などは予想して居ない」(33)ということを強調し、プランクの「功績の核心をなすエネルギー要素の仮説に至っては、学会一般はもちろん、Planck自身にもその革命的意義が隠されていたかのようである」(34)と述べている。また辻哲夫は、プランクにとって量子仮説は「やはり計算の手続上苦しまぎれにもちこんだ着想であって、結局その物理的内容にはなじみきれないものであった。のちに量子仮説を古典理論によって解釈しようとするいくつかの試みに熱中したとおり、かれには古典理論をみだす飛躍的な思考法には、ついに転換できなかった。だから量子仮説の新しい物理的意義を適確に理解し、それをあらたな理論的開拓の軌道にのせたのは、プランクではなくアインシュタインであった。」(35)と述べている。さらにまたクーンは、「プランクが自分の理論とボルツマンの理論との間の密接な類似を引き続いて強調したことに示されているように、輻射の問題に関するプランクの見解は1906年の『熱輻射論講義』においても完全に古典論的なものであった。・・・・分布式を導出した彼の元々の論文においても、そしてもっと明確には『熱輻射論講義』においても、プランクの輻射理論は共鳴子のエネルギーの量子化とは両立しない。」(36)としている。
  確かにプランク自身も晩年の回想録の中で、「私は何年もの間、作用量子を古典物理学の体系の中に組み込もうとくり返し試みたが、それは成功しなかった。むしろ、量子物理学の建設という課題は若い世代の人たちに残された」と書き、自らの研究を古典論的理論の枠内で進めようとしていたことを認めている。そして、量子物理学の建設という課題を担った人々としてアインシュタイン、ボーア、ボルン、ヨルダン、ハイゼンベルク、ドゥ・ブロイ、シュレディンガー、ディラックの名前を挙げている。(37)
  ただし、晩年の回想録の中でこのように述べているにしても、古典論が基本的なレベルにおいてはまったく修正する必要のない正しいものだとプランクが考えていたわけではないということには注意しなければならない。まず第一に、熱力学第二法則をきわめて重要視していたプランクにとってエントロピーの統計的解釈の立場から非可逆的過程を理論的にどのように扱うのかということはきわめて重要な問題であった。というのも古典的電磁気学や古典論的力学の基礎となる運動方程式はともに時間反転を許すものであり、エントロピー増大の原理とは全く矛盾するものであったからである。第二に、エントロピーの定義式との関係ですでに見たように、プランクの理論は不連続性をまったく排除した議論ではなかった。そしてプランク自身もそのことを認識していた。
  そもそも、古典論=連続性の物理学、量子論=不連続性の物理学というように単純に規定することが誤りなのである。実際、古典論の中にも不連続性は登場する。例えば、両端を固定した弦に生じる定常波が取りうる振動数の値は連続的ではなく基本振動数の整数倍だけである。また古典論的な原子論では、自然の中にはそれ以上分割不可能な基本単位という不連続性の存在が主張されている。ボルツマンが1896年の論文で主張しているように、原子論的に思考するならば「連続体という表象は事実を超えるもののように映ずる」(38)ことになるのである。そして逆にまた、量子論においても、連続性がまったく締めだされているわけではない。微分方程式は連続性を前提としているが、量子力学の基本的運動方程式であるシュレディンガーの波動方程式も微分方程式であるからには、量子力学の基本的対象である波動関数(あるいは状態ベクトル)それ自体は波動方程式に従う限りにおいて時間的および空間的に連続的であることになる。そのためシュレディンガーは最初、「波動力学は・・・・古典力学から連続体の理論のほうへ一歩あゆみ寄るものといえる」(39)と考えたのである。
  このように、その理論的基礎が不連続性であるか連続性であるかという単純な区別によって量子論と古典論の本質的差異を与えるのは不適当なのである。問題は不連続性の内容とその位置づけにある。したがって量子論的研究プログラムの特徴づけのためには、古典論的研究プログラムにおいて認められている不連続性とは異なるどのような形態の不連続性が、歴史的にいかに追求されてきたのかを見なければならない。

5.アインシュタイン的アプローチとプランク的アプローチ
・・・・ エネルギー量子と作用量子の理論的位置について ・・・・

 今日では量子論的不連続性を代表するとされているエネルギー量子εや作用量子hが、最初から古典論的には説明不可能であると考えられていたわけではない。プランクが1900年に定式化した黒体輻射に関する分布式の理論的基礎づけのために導入したエネルギー要素εや作用量子hの物理的意味およびそれらの古典論との関係は最初は明確ではなかった。論争を通じて徐々に今日的な解釈が形成されていったのである。それらを先行する古典論的諸理論との関係でどのように位置づけるかをめぐって歴史的には様々な対応が存在した。ここでは、物理理論の構成としてエネルギー量子εと作用量子hのどちらがより基本的なものなのかという論争を通して分析を進めることにしよう。こうした視点からは、アインシュタインに代表される対応とプランクに代表される対応の二つが問題となる。
  アインシュタインは、プランクのエネルギー要素εという仮説に示されたエネルギー値の不連続性をより基本的なものとして重視した。アインシュタインの光量子を実在的なものと考えるならば、電磁場の量子化はエネルギーの空間的局在性を意味することになる。そしてそのことの帰結の一般化としてアインシュタインは、ミクロの領域においては古典論が成立しないのであり、基本方程式というレベルにおいて古典論に代わる新しい物理理論を創造することが必要だと主張したのである。
  アインシュタインの考えでは、プランクの理論におけるエネルギー要素εは、エントロピー計算のために共鳴子に関して要請されたものとして登場したに過ぎず、理論的基礎づけを必要とするものであった。そこでアインシュタインは、光量子論の提唱者として、電磁場が光量子ε=hνからなる系であるということが、プランクの共鳴子のエネルギー値がε=hνの整数倍になることの理論的基礎づけになると考えた。アインシュタインは、1905年に光量子論の立場から古典論的電磁気学の成立の限界を最初に指摘した後、1906年には、「最近よく考えてみたところによると、プランクの輻射理論が基づいている基礎は、マクスウェルの理論や電子論から出てくるものとは違っている。しかもまさしく、プランクの理論はまさに・・・・光量子仮説を用いているという点で違っているのである。」(40)と述べて、プランクの分布式の理論的基礎の中に光量子論すなわち光のエネルギーの空間的局所性という不連続性が含意されているという指摘を行っている。さらに1907年の論文では、固体の比熱を量子論的に取り扱う中でアインシュタインは、「輻射の理論 ・・ とりわけプランクの理論 ・・ が分子運動論的熱理論の変革に通ずる」ことを示した。アインシュタインはその論文において、「これまでは、われわれの感覚の世界での物体に対してあてはまる法則性とまったく同じ法則性が分子運動を支配する」と考えられてきたが、これからは「要素的実体のエネルギーが排他的に0、R/Nβν(=hν)、2R/Nβν(=2hν)などの値だけをとりうる機構を考え」(41)なければならなくなったとして、固体内部の熱運動に対しても古典論の非成立を述べ、エネルギー値の不連続性を主張している。
  これに対してプランクは、エネルギー要素εではなく作用量子hの方が物理的により基本的なものであるとした。そして古典論的枠組を保持しながらも、黒体輻射という新しい分野の登場に対応した修正を先行する古典論的諸理論に加えるべきだと考えた。プランクにとってε=hνという式の物理的意味はhという普遍定数の新しい側面を明らかにするものとして重要だったのであって、エネルギー値の不連続性を示すものとして重要であったわけではない。
  というのもまず第一に、そのエネルギー値がε=hνの整数倍になると考えられたプランクの共鳴子は、「ほとんど等しい周期と一定の振幅および位相をもつ、ひじょうに多くの小さな固有振動の重ね合わせ」(42)であり、エントロピーの定義可能性を根拠づけるための「自然輻射」という無秩序性のメカニズムと結びつけて理解されていた仮想的なものであった。それゆえ1900年当時のプランクは、共鳴子のエネルギー値にε=hνの整数倍というような制約を付加することが直接的に古典電磁気学との深刻な矛盾をもたらすとは想定していなかったと思われる。そしてそのことはプランクだけにとどまらず他の物理学者にも共通していた。例えばローレンツは、アインシュタインの光量子論よりも早い1903年の時点ですでに、黒体輻射に関するプランクの理論における本質的な部分がエネルギー量子仮説にあるとしていたが、まだその時点においては古典論的な電磁気学によって黒体輻射が説明できると考えていた。(43)プランクにとってε=hνという定式と古典電磁気学が矛盾するかどうかが問題になったのは、アインシュタインの光量子論が登場してから後のことであったと考えられる。アインシュタイン的アプローチとの対決の過程において自らの議論の理論的基礎の整合性がはじめて取り上げられることになったのである。
  第二に、プランクは黒体輻射に関する自らの分布式の理論的基礎づけの過程においてボルツマン的な原子論の立場に移行したわけであるが、彼のエネルギー要素εは「エネルギー原子」すなわちエネルギーの実在的な最小構成単位とは考えにくいものであった。というのもエネルギー要素εは、ε=hνという定義に示されているように、その大きさが振動数νとともに連続的に変化するものであり、不変の定数ではない。プランクによれば、電気素量eや光速度cや重力定数Gやボルツマン定数kなどの普遍定数と同列に扱うべきなのは、エネルギー要素εではなくプランク定数hであった。すなわちエネルギー要素の定義式ε=hνをε/ν=hという式に変形して考えればわかるように、エネルギー値εや振動数νの連続的変化を通じて変化しないものが作用量子hである。hこそが普遍定数なのである。しかもプランクは黒体輻射に関する自らの分布式の理論的基礎づけのためにε=hνという関係式を導入する少なくとも1年前にすでに、共鳴子の電磁的エントロピーの定義式の中でhを普遍定数として導入すべきだと考えていた。(44)すなわち歴史的には、プランク定数hは、量子論との関係よりも前に、電磁的輻射のエントロピーとの関係ですでに登場していたのである。
  確かに、熱力学第二法則をボルツマン的に解釈することによって1900年の段階でそれまで反対してきた原子論の立場へと移行したプランクにとって、ボルツマンが主張していたような原子論的意味での不連続性を基礎理論の中に導入することは自然なことであった。ただしプランクによれば彼の原子論は、「ボルツマンをはじめとする他の原子論者たちのものとは、決定的な点で、すなわち要素的作用量子hを考慮するという点で、相違して」いた(45)。すなわちプランクにとって原子論的な意味での不連続性は、エネルギーの大きさではなく、普遍定数hに示されていたのである。
  プランクによれば、普遍定数hは、「共鳴子の状態平面における要素領域の大きさ」、すなわち、エントロピー計算において場合の数を数える際の基本となる同一の物理的状態を示す「確率の素領域」の大きさの有限性を示すものとして意味があった。そして量子仮説は「エネルギーについての仮説」ではなくむしろ「作用についての仮説」として理解すべきものであった。というのも、エネルギー量子εは作用量子hから導かれる派生的なものであるとともに「一定の振動数νを持つ周期的現象にたいしてだけ意味を持つ」に過ぎないのに対して、作用量子hは「非周期的かつ非定常的な現象にも基本的な重要性をもっている」からである。(46)
  このようにプランクが光量子論に対して否定的であったことだけでは、彼の研究の立場が古典論的であったとするには不十分である。プランク的立場からすれば、量子論的不連続性は、エネルギー値の不連続性であるεではなく、「確率の素領域」の不連続性であるhに示されているということになるからである。そしてまたプランクは、以下に述べるように彼以前の古典論が限界を持っていることは認めていた。

6.エネルギー等分配則の非成立と古典論の崩壊の理論的関係

 古典論の崩壊は、レイリー=ジーンズの式と観測値との不一致と結びつけて一般には理解されている。というのもレイリー=ジーンズの式はエネルギー等分配則を前提しているが、エネルギー等分配則は古典力学からの必然的帰結であると考えられているからである。そのためレイリー=ジーンズの式が成り立たないとすれば、エネルギー等分配則が、そしてそのことからの論理的帰結として、古典力学が黒体輻射においては成立しないことになる。
ただしエネルギー等分配則に対する疑義自体は、1900年のプランクの理論以前にすでに、低温領域における固体の比熱の問題などを通じて知られていた。しかもエネルギー等分配則の非成立の問題は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて古典力学の妥当性の問題と関連させて論じられていた。例えばケルビンは、1900年4月27日にロイヤル・インスティテューションで行った講演の中で、古典力学を覆う「二つの雲」の内の二番目の雲としてそのことを取り挙げている。(47)またレイリーは、エネルギー等分配則の破れということによって、我々は「単に気体理論に関連するというよりも、一般力学に関連する基本的困難に直面」させられていると述べている。(48)
またレイリーは、黒体輻射を論じた1900年の論文の中で「まだ説明されていないある理由から」エネルギー等分配則は「一般には成り立たない」と主張しているが(49)、彼がその論文の中でわざわざそのように主張したのは、黒体輻射に対する測定結果と合わせることを目的としていわゆるレイリー=ジーンズの形の式に恣意的な形で指数項を付加した自らの行為に対する理論的正当化のためであると考えられる。
  黒体輻射すなわち物体と輻射の熱平衡状態にエネルギー等分配則を適用した際の理論的困難については、ジーンズも1900年6月になされた講演の中で論じている。ジーンズによれば、エーテルの自由度が無限大であるので物質とエーテルの間にエネルギー等分配則を適用すると、両者が熱平衡状態に達するまでに、物質のエネルギーは輻射によってすべてエーテル中に移動してしまわねければならないことになる。(50)しかしジーンズは、こうした理論的困難が直接的にエネルギー等分配則の非成立を意味するとは考えなかった。例えばジーンズは、はっきりと今日的な形でレイリー=ジーンズの式を定式化した1905年の論文(51)の中では、観測の対象となっている黒体輻射が実際には熱平衡状態ではないと主張した。ジーンズによれば、物質と輻射場の間に熱平衡状態が成立するまでにはきわめて長い時間がかかるのであり、現時点ではまだ熱平衡が成立していないため、レイリー=ジーンズの式が黒体輻射に関して成立していないのだと説明した。
  さてプランクも1906年に出版された『熱輻射論講義』の中で、レイリー=ジーンズの式ではエネルギー密度が振動数とともに無限大に増大するという困難を理由としてレイリー=ジーンズの式が成立しないと述べたのに続いて、黒体輻射に関してはエネルギー等分配則が成立しないと述べている。しかしプランクの理論は、黒体輻射に関してまさに熱平衡状態が成立していることを前提としていたので、上述のようなジーンズの主張を採用してエネルギー等分配則に関する困難から逃れることはできなかった。そのためプランクは、エネルギー等分配則の破れの問題も作用量子hを基礎として説明しようとした。彼によれば、作用量子hを無限小と見なせばエネルギー等分配則が成立する。しかし黒体輻射においては系の状態空間の要素領域が「任意に小さいものとはみなされず、要素的作用量hの値によってきめられる有限量でなければならない」ために、エネルギー等分配則が成立しないのである(52)。
  作用量子hの物理的意味をこのように考え進む中でプランクは、アインシュタイン的なアプローチとは異なる意味においてではあるが、彼以前の古典論の普遍妥当性に対して徐々に疑問を抱くようになったと考えられる。例えばプランクは、ギッブスと自らの方法との違いに触れ、ギッブスが位相空間の要素を無限小としているのに対し、自らはそれが作用量子hという有限の値になるとしていることを本質的な差異として挙げた上で、位相空間の要素が無限小でないとすることによって「ハミルトンの方程式に無制限の妥当性を与えることはできなくなる」(53)と述べている。

7.おわりに

 よく知られているように、古典論の根本的矛盾が多くの物理学者にはっきりと意識されるようになったのは第一回ソルヴェイ会議においてであった。例えばアインシュタインは、「現在の形式の量子論は有用ではありますが、通常の言葉の意味での真の理論、ともかく今後一貫性のある仕方で展開しうる理論、を構成していないということでは全員の意見は一致しております」と述べて首尾一貫した量子論的理論である量子力学の構築を訴える一方で、「古典力学は、もはやあらゆる物理現象の理論的表現に対して満足すべき図式を提供するものとは考えられないということもまた十分に確認されております」(54)とまで主張している。
  第一回ソルヴェイ会議におけるプランクも、振動子のエネルギー値に関しては連続性を復活させようと試みる一方で、古典論の限界を積極的に認めている。プランクはその意味で彼の晩年の証言にも関わらず、単純に古典論的であったわけではない。例えばプランクは、古典力学の枠組は「たとえLorentz-Einsteinの相対性原理がもたらした拡張を考慮したとしても、われわれの粗大な知覚の手段で直接的に近づくことのできない物質現象を包含するには狭すぎる」ということは「今日ではほとんど議論の余地のない」事実である(55)と主張するとともに、レイリー=ジーンズの式を避けるためには「古典力学の根本的な修正が避けられない」(56)、言い換えれば、プランクの分布式を説明するためには「基本的な点で古典力学と矛盾する特別な物理的仮説」(57)を導入しなければならないとしている。
  そしてまたプランクは、アインシュタインの光量子論は否定しながらも、マクスウェルの古典電磁気学がミクロの領域では成立しないと考えている。例えばプランクは、「振動子の放射が量子によって行なわれる時」に、古典電磁気学の方程式が「振動子から十分に離れた周囲の空間」では成立しているにしても、「振動子の内部およびすぐその近くでは修正」しなければならないとして、振動子の内部での輻射の伝播速度は真空中に比べてきわめて小さいとも考えられると述べている(58)。
  ただし当時のプランクは、アインシュタイン的アプローチとは異なり、こうした古典力学の困難を法則の階層性と結びつけて理解しようとしていた。すなわちプランクは、「古典力学にしたがって連続的に展開する現象」と「作用量子によって起こされる現象」との本質的な差異を、物理現象と化学現象の違いとして理解しようとしている。プランクは、個々の分子や原子あるいは自由電子の運動は古典力学の法則に従うのに対し、分子的結合をしている原子や電子は量子理論の法則に従うと考えようとしたのである。(59)
  プランクの研究アプローチに対する歴史的評価のためには、ハイゼンベルクやシュレディンガーらによって量子論的な基本運動方程式の定式化がなされる以前の段階においては、物理理論体系の最も基本的なレベルに属する基本運動方程式というような所においてまで古典論的研究プログラムを変革すべきなのかどうか、古典論的諸理論と量子論的関係が絶対的にまったく和解不可能なものなのかどうかということは歴史的には明確であった、ということに注意しなければならない。しかも古典論的諸理論と量子論的関係の矛盾は物理学者同士のさまざまな論争や研究を通じてしだいに明らかになっていったのである。それゆえ、アインシュタインのように、ミクロのレベルにおいては古典論的研究プログラムをまったく捨て去るべきなのであり、光量子論のような不連続性を基礎とした基本理論を物質に関しても電磁場に関しても新たに創造すべきだという主張だけを古典論に対抗する研究プログラムと規定することは歴史的観点からは必ずしも正しくない。
  量子論的研究プログラムが歴史的には古典論的研究プログラムの中から生み出されてきたことの結果として、量子論的関係式と古典論の絶対的対立が多くの物理学者に意識されるにはある程度の時間がかかった。しかもその過程は、古典論から量子論への単なる革命的移行だったわけではない。すべてをそれまでの古典論的理論によって説明しようとする初期のジーンズのような古典論的研究プログラムと、先行の古典論的理論とは異質な量子論的関係式を追求しようとする研究プログラムとの対抗関係の中で、量子論と古典論の両方の意味が徐々に明らかにされていった。すなわち古典論との対比の中で量子論の意味が明確にされただけではなく、その逆に量子論との対比の中で古典論の意味が明らかにされたのである。
   こうした観点からプランクの立場を歴史的に評価するとすれば、それは古典論的研究プログラムに属するものというよりも、前期量子論的研究プログラムに属するもの、あるいは、少なくともその先駆的形態として理解すべきなのである。前期量子論的研究プログラムは、古典論的理論体系と、それとは異質で無縁な条件である量子条件の二つを統合することによって量子論的定式化を導き出そうする「折衷」的研究プログラムであったが、プランクの研究プログラムもまた古典的電磁気学にε=hνという「量子条件」を適用して量子論的定式化を導出したものととらえることができるようなものであった。そういう意味において前期量子論的研究プログラムとプランク的研究プログラムは同型的な構造を持っているのである。
  例えばプランクは、エーレンフェストへ宛てて書いた1905年7月6日付けの手紙の中で、「共鳴子理論(自然輻射の仮説も含めて)は、通常のスペクトルにおけるエネルギー分布の法則を導出するのに十分ではない」として「共鳴子理論自身とは無縁な新しい仮説(eine neue,der Resonatorentheorie an sich fremden,Hypothese)」として「有限なエネルギー量子ε=hνの導入」が必要であると述べている(60)。また1911年の第一回ソルベイ会議報告において、「定数hとは何の関係もない(fremd)マクスウェルの方程式」(61)とも書いている。それゆえプランク自身も、遅くとも1905年頃には、彼の分布式の理論的基礎が、古典電磁気学であるマクスウェル方程式と、作用量子hという二つの異質なものの総合から構成されていたことは意識していたと言えよう。
  すなわちプランクは、先行の古典論的諸理論(特に古典電磁気学と古典的熱力学)を基礎的理論として用いながら、上述したようにアインシュタインとは異なる意味においてではあるが、先行の古典論的諸理論とは異質な不連続性を意識的に追求していたのである。
  プランクが追求していたその不連続性が、ハミルトンの微分方程式というような古典論の基本的理論と最終的に両立し得ないものであるかどうかについての判断はあいまいなままであったが、少なくともそれとは異質な不連続性を追求していたことに関しては何らのあいまいさもない。
 事実からの帰納によって理論が形成されるという面が科学活動の中にあるということは当然のことである。観測や実験によって得られたデータの一般化としての法則(経験的一般化としての法則)ということが、科学的知識の一側面をなすことは言うまでもない。確かにプランクの分布式も数多くの測定結果に基づくものであった。
  しかし、科学理論の成立過程を実験事実からの直接的導出過程としてのみ描くのでは不十分である。それは帰納主義的偏見なのである。本稿での分析が示すように、初期量子論の形成過程を「新しい経験的事実の発見」、「発見された新しい経験的事実からの理論形成」という帰納主義的発想(経験的文脈)だけで説明するのではなく、経験的事実を説明する諸理論体系間の理論的競合と理論的連関という視点からもその歴史的形成を捉えなくてはならない。科学には「データから理論へ」あるいは「データによる理論のテスト」という経験的文脈とともに、「理論から理論へ」という理論的文脈も存在する。というのも、理論もまたある意味では「経験的なもの」だからである。そして理論はその最初の形成者の意図や意味づけを超えた客観的性格を持っている。そうした意味において、古い理論それ自体が、新しい理論を形成するために内容的な意味でも用いられるということもまた科学活動の一面なのである。


<注> 上記論稿の注に関しては、こちらのファイル(quantum-theory0-note06.htm)を参照されたい。