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教育関係書で、教師の〈からだ)と〈こえ〉も注目して論じたものはほとんどない。この『教師=身体という技術』は、教師の進退という観点から教育方法を論じた数少ない書のひとつである。 著者齋藤孝は、教育関係の根幹は「あこがれにあこがあれる関係性」であり、「一つは、教師である自分自身が新しい世界にあこがれ現在進行形で猛烈にに学び続けていて、他者のあこがれを誘発していくベクトルであること」「もう一つは、他者のあこがれに沿うことができるということ」であるという。これを根幹におきながら、彼は「構え」「感知力」「技化」について論じ、教師の進退を問題にしていく。その着眼は斬新で、今までの教育書とはあきらかに異なっている。 齋藤は「クリエイティブな関係性を現出する力・技術とはどのようなものか」を、「実践に勇気を与えるようなリアリティのある概念を・・・提出」しようとする。そして「教師の身体を技術として問い直」そうと考えている。手がかりとして竹内敏晴の身体論、斎藤喜博の授業論、芦田恵之助の教育論などを援用し、吟味する。彼の独創は、教える側が向きあう時の身体の「構え」「感知力」を問題にし、それを「技化」という観点からとりあげたところにある。 齋藤は教師の「構え」について、「積極的受動性」「息づかい」「ふれる」という観点からとりあげ、言語的・非言語的コミュニケーションについて考察する。さらに、教師の身体感覚を「感知力」という概念でとらえ、教室という場の雰囲気を感知する力を重視し、聴く力を問題にしている。ぼく自身の経験からいっても、学ぶ者に開かれた感受性をもっている教師は少ない。学校で生徒の聴く力ばかりが問題にされ、教師の聴く力が問題にされることは皆無なのだ。 今まで、教材の吟味や実践記録、教え方の手順やその法則性を様々な角度からとりあげた書は数多くあったが、教師の構えや感知力を問題にした書は、数少ない。まして、それを創り出すことを「技化」という視点で論理化しようとした書はほとんどなかった。この書にあえて不満を言えば、「構え」「感知力」の「技化」は意識されていても、教師の「論理力」についての「技化」の視点がないということであろうか。 この本のことばに血が通っているのは、著者が中学生・高校生だった頃の教師への反発が率直に語られ、教育方法を考える発条(ばね)になっているからだ。また、予備校における体験を知的な刺激と志を練る場としてとらえ返している。そのことが、著者の教育方法論を、学びの場を学校だけに狭めようとする凡百の教育技術論とは異なるひろがりのあるものにしている。さらに大学における自らの授業を具体的にとりあげている点もいい。教育方法論を書いておきながら、工夫のない退屈な授業しかなし得ない大学の教員は数多いからだ。そして「学校教育に限らず優れた教育実践を行っている・・・人たちに評価されなければ、研究としての意味はない」という言が、著者の視野のひろがりと志の高さを物語っている。 硬い<からだ>と<こえ>しか持ちえずに、死滅すべきものは滅びるがいいが、教育の再生もまた現在の困難さを見つめて試行錯誤するものの中にしか萌芽しない。この著者による新しい視点からの教育方法論・身体関係論の展開に注目したい。 |
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