規格外れの人間を描く
ロバート・ベントン監督「白いカラス」

越川芳明

 

米国のユダヤ系作家

 フィリップ・ロスは、米国社会の周縁で規格外れのユダヤ人として生きるとはどういうことか、を問いつづけてきた作家だ。ロスの筆が冴えるのは、ブラック・ユーモアをこめて、米国社会の中枢に入り込んだユダヤ人エリートのなりふり構わぬ出世主義の卑劣さを内部告発するときだ。

 たとえば、このほどベントン監督が映画化した長編小説『ヒューマン・ステイン』(映画の邦題は、『白いカラス』)には、高校生の息子を有名大学の医学部に入学させるために、ライバル学生の両親に金と昇進をちらつかせるユダヤ人医師が登場する。

 そんな厚顔無恥な人物を登場させること自体、ユダヤ人共同体からすれば、裏切り行為に見えるだろうが、むしろ、そうしたアウトサイダーの視点ゆえに、わたしはロスのことを「信頼できる作家やなあ」と、思ってきた。

人種の変装

 「自由の国」アメリカ合衆国には、人種や宗教やイデオロギーにおいて、規格外の人間を排除するシステムがある。物語の舞台として、一九九八年のニューイングランドが選ばれたのは、偶然ではない。

 九八年といえば、クリントン前大統領の「セックス・スキャンダル」に対し、作家ロスの表現をもじって言えば、全米中が<迫害>の情熱に燃えていた年である。しかも、ニューイングランドは、十七世紀以来の魔女狩りのお膝元だ。

 米国社会の主流をなすプロテスタントのアングロ白人を、ふつうWASP(ワスプ)というが、ワスプでない移民の子孫のうち、比較的肌の白いアイルランド人やユダヤ人は、五〇年代頃まで、自分の人種や宗教を隠したり、名前を微妙に変えたりして、白人社会に紛れ込もうとした。そうした変装(パッシング)を愚劣だ、と誰に咎めることができよう。悪いのは、誰が見ても排除するシステムの方なのだから。

 ジョン・カサベテス監督が一九五〇年代後半に製作した映画『アメリカの影』をご存知だろうか。これは遺伝子のいたずらで肌の色が白と黒に分かれた黒人兄妹の悲劇を扱った先駆的な作品だ。

 一方、ロスの小説では、肌の色の白い黒人コールマン・シルクがユダヤ人の仮面をかぶり、学問の世界に紛れ込む。しかし、家族と手を切り黒人としての出自を抹殺して営々として築きあげた地位や名声も、何気ない事件によって簡単に崩れ去る。

鳴き方を知らないカラス

 七十一歳の元教授が失墜して以後、バイアグラの助けを借りて、狂おしいまでに恋愛の炎を燃やす相手が、三十四歳の女性フォーニアだ。映画は、この歳の離れた二人の<禁断の恋>と、フォーニアの元夫によるストーカー行為とに焦点を当てる。

 フォーニアは、幼い頃、母の再婚相手によって性的虐待を受けたことがある。読み書きはできないが、三つの肉体労働をこなして立派に自立している。彼女の元夫レスターは、ヴェトナム帰還兵で、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者だ。

 小説にも映画にも、フォーニアが愛玩する、動物保護協会に飼われたカラスが出てくる。この檻の中のカラスは、人間に育てられたために野生のカラスの鳴き方を知らない。老教授だけでなく、その若い愛人もその元夫も、実は「カラスである術を知らないカラス」なのだ。作家のロスもベントン監督も、そうした規格外の、ぎこちない生き方を強いられた人間たちの声なき声を丁寧に掬いとっている気がする。

(「読売新聞」2004年6月22日夕刊)

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フィリップ・ロス(一九三三年生まれ)
『さよなら、コロンバス』でデビュー。代表作は、『父の遺産』や『アメリカン・パストラル』など。

ロバート・ベントン(一九三二年生まれ)
『俺たちに明日はない』の脚本で、映画デビュー。代表作は、『クレイマー、クレイマー』や『黄昏』など。