出口ナシの夢の放浪をつづる斬新なアニメ映画

リチャード・リンクレイター監督『ウェイキング・ライフ』
浅草の雷門前で露店をだしている30才前後の外国人女性がいた。彼女の名前は、
いま仮にナオミということにしておこう。低予算で世界を渡り歩いている放浪者である。
イスラエル出身のユダヤ人で、インドや米国やカナダを旅してきて、日本で渡航費をためたら、
インドへ戻るらしい。そういう目的だから、彼女、日本では北千住と浅草しか知らないという。
そういったことをあれこれ小1時間ほど立ち話をしながら、聞いた。
『ウェイキング・ライフ』を見て、ぼくがふと思い出したのは、なぜかあの浅草のナオミという
女性だった。映画の主人公であるワイリー青年と浅草のナオミさんとのあいだに、共通点はない。
むしろ、違いすぎるくらいだ。ぼくみたいにあれこれ余計なものを背負っちゃっている
ワイリー青年に対して、しがらみを捨てて何か吹っ切れた感じで生きているナオミさんと
いった具合に。
映画の主人公であるワイリーは、冒頭近くで、駅から友達に電話をかけて、
「迎えにきてくれてると思ったけど、まっ、いいか」という。ずいぶん物分りのいい青年だ。
その後も、水陸両用のモーターボートを運転する男に声をかけられ、あまり深く考えること
なく便乗を決め込む。ここでも、ワイリー、屈託なく「まっ、いいか」のノリである。
いかにも性格がよさそうだし、礼儀正しく、押しがつよくなくて、まるで日本人の若者を
見ているようだ。
ワイリーの夢の旅は、ベアトリーチェに導かれて地獄をゆくダンテの巡礼というより、
ひとりパラドックスの世界をゆくアリスの冒険に近いかもしれない。かれの前には、
ユニークなメタファーで自らの人生哲学を語る船乗りから、宣伝カーに乗って熱弁をふるう
狂気のアナーキストまで、男女合わせて20名をこえるキョーレツな人物がどこからともなく
現われ、自説をまくし立てる。そのバカバカしいまでの過激さ、過剰さが知的なユーモア
を生み出す。
腹を抱えてゲラゲラ笑うようなコミカルな笑いではない。
むしろ偉い市長さんや校長先生をコケにするTVアニメ『シンプソン一家』に
近い偶像破壊的な笑いである。コメディではないが、リンクレイター監督の比較的退屈な
ハリウッド産の映画にさえ、その片鱗はうかがわれる。
ところで、ワイリーのような、90年代の「X世代」( D・クープランド)以降の若者は、
B・E・エリスの小説『レス・ザン・ゼロ』にでてくる若者たち同様、「金」への執着を失い、
会社という組織の中で「家畜」のように働くことを拒む。日本でいえば、
自由なフリーター志向である。いまや若者は、「資本」や「株式会社」や「国家」といった、
近代資本主義を支えてきた大きな「物語」に自己の人生を託すことができない。
じゃ、どうすればいいのか。
ワイリー自身も、かれが言葉を発する数少ないシーンで、どうしたら出口ナシの夢の世界
(自分の置かれた世界)から抜け出せるのか、と自問する。ぼくらも映画を見ながら、考える。
そうしたワイリーの夢の逃避行をつづった映像の中に、50年代から60年代にわたって、
ドラッグによってもうひとつの現実を探求したビート世代(ケルアックやバロウズ)や
サイケデリック文化の担い手たち(J・レノンやK・キージー)に通じるものを見つけるのは、
それほど難しいことではない。
それは一言でいえば、体制・権威への批評精神であり、もっとありていに言えば、
ブッシュ政権やハリウッド映画の喧伝する「正義のアメリカ」という物語に騙されずに、
きみ自身の「まっ、いいか」にストップをかけろ、というメッセージだ。
ところで、浅草のナオミさんであるが、物腰の柔らかさにもかかわらず、
ぼくがいくら執拗に値切っても、一個4000円の指輪を500円しかまけてくれない。
その指輪は飾けがなく、ただアルファベッドの文字が刻んであるだけの無骨なものだ。
その文字はラテン語で「この日をつかめ」という意味らしい。つまり、いまを生きろということだ。
ぼくはその言葉に惹かれて、見かけに比べて安くもないその指輪を買った。
この映画の最後のほうで、P・K・ディックの「時間は幻想」という言葉が言及される。
また、「現実は夢なのか、夢こそ現実なのか」という孟子の「胡蝶の夢」に遠く由来すると
おもえる問いかけは、この映画を推進させるひとつの大きな力である。
しかし、逆説的な言い方になるかもしれないが、このアニメ映画の真骨頂は、実はそうした
「めざめ」の恐怖と難しさを伝える、その映像手法にこそあるのだ。あたかもドラックをやった
ように、映画がおわった後も、依然として夢のつづきを見ているようなトリップ感こそ、
この映画のもたらす最大の効果だろう。いったい、そうした効果はどこからくるのか。
この映画は、リンクレイター監督がデジカメで撮った実写映像に、三十名をこえるアーティスト
がデジタル・ペインティングをほどこしたものだ。サビストンによれば、一こま一こま、
担当のアーティストがデッサンと色塗りをほどこしたが、その作業に10ヶ月もかかったという。
それでも、動きに変化のない途中の実写コマはカットしたそうだ。コマの大胆な省略によって、
作業時間が節約できるだけでなく、スムーズな実写映像にはない「揺らぎ」の効果も得られた。
また、下絵が比較的わかるシーンから、ほとんどわからないシーンまで、背景の塗り方や
人物の陰影のつけ方にも違いがあり、それがわざとテンポをずらして演奏したタンゴの
音響効果もあって、意識と無意識の境界地帯を漂うワイリーの内面をうまくひきだす。
ゴダールの愉快な理屈ぽさと、リキテンシュタインのポップな絵画性と、ピアソラの革新的な
音楽性をあわせもつ斬新なアニメ映画、それが『ウェイキング・ライフ』だ。
一回で好きになるようなタイプの映画ではないが、『メメント』や『パルプフィクション』
同様、一度ハマったら、ワイリーの夢世界と同様、きっと抜けられなくなるから、要注意。
(『Studio Voice』2002年10月号を改稿)
関連ウェブ・サイト
『ウェイキング・ライフ』Waking Life (2001)の公認サイト
リンクレーター監督Richard Linklater(1960- ) テキサス州ヒューストン生れ。
主な作品リスト
アニメ担当のアート・ディレクターBob Sabiston(1967- )
主な作品リスト
そうしたオータナティヴな価値を志向する姿勢は、すでに『スラッカー』(91年)や
『バッド・チューニング』(93年)にも見て取れるが、リンクレイター監督の本拠地が、
ブッシュ大統領のおひざもとのテキサス州であるということが示唆的だ。メキシコと
国境をなすテキサスの保守的精神風土こそが、鬼っこのリンクレイターを生んだという意味で。
しかし、結局のところ、この映画がぼくに、ナオミさんの生き方とその指輪の言葉を
想いださせたのも、映画の結末でリンクレイター監督自身がワイリー青年に向かって、
あるメッセージを発しているからなのかもしれない。映画の中で、監督自身はいう。
夢か現実か問いかけるのはいい加減にして、もう「めざめろよ」と。
夢の持っている浮遊感を言葉によってではなく、映像と音楽それ自体のテクニックによって
もたらすその秘密は、ボブ・サビストンの開発したロトスコープというコンピュータ・ソフトと、
グローヴァー・ギルのオリジナル音楽にある。
英語版
日本語版
監督インタビュー
最新版
1998年版
『恋人までの距離<ディスタンス>』Before Sunrise(1995)
『ニュートン・ボーイズ』The Newton Boys (1998)
『スラッカー』Slacker (1991)
『バッド・チューニング』Dazed and Confused (1993)
『サバービア』Suburbia(1997)
『テープ』Tape(2001)
人物紹介(日本語版)
インタビュー(英語版)
Beat Dedication(1988)
Grinning Evil Death(1990)
God's Little Monkey(1994)
Snack and Drink(1999)