タンジールの「ホテル・ミンザ」にて。 1992年の春。 ポールを昼食に誘う。ポールは、ステーキが食べたいといった。

 

ポール・ボウルズ追悼    

越川芳明

 

わたしがボウルズを知ったのは、いまから十年前だった。雑誌『新潮』のために四方田犬彦が訳出したボウルズの短編を読んで、まるで頭をガンと殴られたかのような強烈な衝撃を受けた。クールに展開する語り(ナラティヴ)を追いかけていると、いきなり目を背けたくなるような猟奇的な事件が勃発する。それまで親しんでいたポストモダンの作家たちとも、当時流行していたミニマリズムの作家たちともちがう作風だった。どちらかといえば、十九世紀の短編の名手、エドガー・アラン・ポウを彷彿とさせる人間の恐怖心理を扱った短編を読んで、わたしはボウルズの虜になってしまった。

これは後から知ったのだが、四方田氏にボウルズの翻訳を勧めたのが、映画作家のジム・ジャームッシュであることも興味深かった。というのも、ジャームッシュの良きパートナーであるサラ・ドライヴァーが、ボウルズの前衛的短編「あなたはわたしじゃない」を映画化し、監督としてデビューをしているからだ。USAの文学畑では、長らく無視され、文学史などでは触れられることもなかったが、映画、音楽をはじめとする異分野のアーチストたちによってカルトとして再評価されたのが、八十年代のボウルズであったようだ。

一方、九十年代の日本でのボウルズ復活はめざましいものがあった。確かにベルトルッチの映画『シェルタリング・スカイ』(日本での公開は、九一年)の影響は大きかったが、しかし、四方田犬彦訳『優雅な獲物』(新潮社刊)なしに、ボウルズの復活は有り得ただろうか。というのも、その本に刺激された書き手や編集者が出てきて、その後矢継ぎ早に、思潮社の作家ガイド、『ユリイカ』や『現代詩手帳』の特集、白水社の作品集(全六巻)や伝記などが世に出たからだ。わたしも凄い凄いと、ところ構わず吹いてまわったせいで、その落とし前をつけらされ、そのほとんどすべての企画にかかわることになってしまった。そんなわけで、九一年と九二年に、二度タンジールのボウルズのもとへ赴くまでになった。

とりわけ、二度目のときは一週間ほどタンジールに滞在し、毎日夕方になるとサロンと化すかれのアパートを訪ねた。グァテマラ出身の若い小説家ロドリゴ・レイ・ロサ、ジャジューカ音楽の二代目リーダーのバシール、長らくマグレブの民話の語り部としてボウルズに物語を提供してきたムラベ、アメリカ人の作曲家フィリップ・レイミーなど、若く多彩な顔触れに囲まれるボウルズの晩年を目撃した。なごやかな一座でありながら、ウェットではない人間関係のありように触れた。長いことモロッコに暮らし、人に頼らない生き方をしてきた老人が一座の中心にいた。わたしもすぐに仲間に加わって、ボウルズの若い友人たちに知遇を得た。

ある日、雑誌の取材で写真を撮る必要があったので、日課になっている郵便局や市場への外出のさいに、ボウルズのおんぼろのムスタングに写真家と一緒に同乗させてもらった。運転手が郵便物を取ってくるあいだ、助手席にすわったボウルズは片手の指先を使い、車のガラスをコツコツ鳴らしてリズムを取っていた。当時、書斎の机の上には、あれほど毛嫌いしていた電子オルガンがどかっと陣取り、アメリカンスクールから依頼されたという曲を作曲していた。作曲家の本能がよみがえったのか、とわたしは思った。アパートにはピアノがなかったので、きっと長いこと作曲などしていなかったのではないだろうか。 「母親がわたしの七歳の誕生日に、父親にせがんでグランドピアノを買わせたんだ。わたしは練習が嫌いで、適当に弾いていて、よく父親に耳を引っ張られたものだ」と、ボウルズはミントティを飲みながら、機嫌よく打ち明けた。「でも、作曲は好きだったよ」

ボウルズは異郷の地で亡くなった。若い頃は、ラテンアメリカやアフリカを遊牧民さながらに移動した。とにかく、USAが嫌いだった。USAの浅薄な物質文明が嫌いだった。かれはコーヒーではなく、紅茶を好んだ。より精確にいうならば、ボウルズにしてみれば、USAであれ、モロッコであれ、どこにも「故郷」などはなかったのではないか。昨今、かれを文化帝国者呼ばわりする批評家もいるようだが、「アメリカ帝国主義」を誰よりも嫌っていたのは、ボウルズだった。かつてボウルズは「孤独の洗礼」というエッセイで、砂漠における人間の存在をセンチメンタルな感傷を排して「絶対的な孤独(ソリチュード)」と定義して見せたが、わたしはかれの文章と人となりに触れることで、その強靭な精神力を少し垣間見たような気がした。

 

『週刊 読書人』99年12月10日