高橋源一郎とポルノグラフィー

越川芳明

 

「エッチ」ではなく

 村上春樹の語り手たち(たいていが一人称の「僕」だが)の口癖が「いやはや」や「やれやれ」といった、人生への諦観をほのめかす間投詞だとすると、高橋源一郎の語り手たちがよくもらす言葉は何だろう。

 一時、「知識人」を意味するドイツ語をもじって「インテリゲンちゃん」と呼ばれたことがあるにもかかわらず、それは意外とお下劣な「おまんこ」である。

 たとえば、地下鉄の車掌が「ただいま迷惑行為がありましたのでしばらく停車します」などと、「痴漢」を「迷惑」とやんわり言い換えたり、たいていの日本人がセックスとか性交という言葉を使わずに、「アレ」とか「エッチ」とか、婉曲的に表現しようとする言語慣習に浸っている中で、語り手たちがときたま発する「おまんこ」という単語はキョーレツに響く。

 曖昧さを尊ぶ日本の精神風土に対して、このたった一個の名詞が「手投げ爆弾」のような役割を果たしている。共同体の価値観を疑おうともしない人にとっては、眉をしかめたくなるような、非常に挑発的な言葉だ。高橋がこの「手投げ爆弾」を使わなかった唯一の例外は、『官能小説家』である。大衆メディアの「朝日新聞」に連載したときに、この爆弾を投げることを封じられたのである。あとは、デビュー作『さよなら、ギャングたち』以来、誰に憚ることなくこの爆弾を投げつづけている。それは、なぜだろうか。

 本の帯に「純文学、エロデビュー!」と銘打たれた『あ・だ・る・と』を見てみよう。冒頭の章「人妻図鑑」は、こう始まる。

 昼の一時にはじまった面接は人妻五人終わったところで、夕方六時になっていた。五人目の人妻が「それではよろしく」と部屋を出ていくと、殺風景な大日本ビデオの会議室の真ん中の机に向かって、モリタが勢いよく突っ伏した。 「耐えられないッス。おれ、人間不信になっちゃいそうですよお。ピンさん、よくこの仕事やってますねえ」 「ピン」と呼ばれた男は、ニヤリと笑って「すぐに慣れるよ」といった。  この業界にも絶えず新しい人間が入ってくる。そういう連中は、少なくとも人なみ以上にセックスに興味があるはずなのだが、それでも、最初のうちは目まいがするようなショックを受け、回りの人間がすべて異常性欲者に見えてくる。だが、それは束の間のことで、三週間もたてば、新宿「高野」のフルーツパーラーの中だろうが、喫茶「上高地」の中だろうがハチ公前の「マイアミ」の中だろが、平気で「おまんこ」だの「ちんぼこ」だの「やっぱり中出しじゃなきゃ」だの「アナルも浣腸もオーケーですよね」と大声を出して、他の客たちから大いに顰蹙をかうようになるのだった。(5ページ)

 ここでも、確かに「異常性欲者」だの「おまんこ」だの「ちんぼこ」だの「アナル」だの「浣腸」だの、ジャンル小説としての「ポルノ小説」には絶対に欠かせない必須単語が出てくる。あるいは、「中出し」のような、風俗業界の専門用語の使用もある。

 そもそも、風俗業界にかぎらず、業界と性的用語の交わりは、この「ポルノ小説」に始まったことではない。むしろ、日本の芸能人たちをセックスと結びつけるのは、高橋の得意わざといってもいい。トルコ嬢の『石野真子』(『虹の彼方に』)から始まり、マスタベ―ション一家として紹介される菊地桃子の――父・宇津井健、母・小山明子、兄・渡瀬恒彦、兄・加藤剛、兄・風間杜夫、その他大勢の――家族たち(『ペンギン村に陽は落ちて』)を経て、石神井公園の探偵事務所のボスとして名前が登場する、巨乳タレントの吉川ひなの、小池栄子(『ゴヂラ』)にいたるまで、枚挙に暇がない。

なぜ美空ひばりや石原裕次郎が登場しないのか

 芸能人たちはTVや雑誌などのマスメディアの中で自己の虚像を作り、それを切り売りするのが商売だ。中でも、その商売をうまくやっているのが、いわゆるアイドルである。しかし、日本のアイドルは永遠不変の存在ではない。民衆に飽きられたら、アイドルの座から引きずり降ろされる。

 かつて高橋源一郎の小説は、富岡多恵子から「身内」の文学だと批判されたことがあった。確かに、高橋の小説には常に、そのときどきのポップアイドルたちの名前――TV芸能人やグラビア・アイドルや人気作家や、そのときどきの流行の先端をゆくアイコン(図像)たち――池袋のサンシャイン、渋谷の109ビル、ドラゴンクエスト、スターバックス、吉野家などが数多く出てくる。だから、高橋の小説がそうした表層的な流行ばかりに囚われて、まるでハイパー消費主義に染まった日本の社会状況を安易に肯定しているかのように見えなくもない。

 だが、あとになって分かるのは、高橋源一郎が小説の中で書いてきたポップなアイドルやアイコンたちは、まったく限定的なものであり、永続的なパワーのないものばかりだったことだ。逆にいえば、流行に敏感すぎると批判された高橋源一郎の作品の中には、たとえば美空ひばりや石原裕次郎といった、多くの根強いファンを有する昭和のビッグスターがちっとも登場しないのだ。

 昭和時代のメディアの寵児であり、本物の<偶像>であった美空ひばりや石原裕次郎の名前が欠落している。それは、なぜなのか?

 高橋の小説に出てくる芸能人やタレントたちは、一言でいえば、交換可能の「消耗品」でしかない。高橋が「消耗品」としてのアイドルたちを数多く登用しながら、一方、美空ひばりや石原裕次郎のような、強力なスターを登用しなかったのには、隠れた理由があるのだ。

 それは、美空ひばりや石原裕次郎に代わる、交換のきかないアイドルを登場させるためだったのだ。高橋の小説で、美空ひばりや石原裕次郎らの不在を埋めるのは、昭和や平成の詩人たち――田村隆一、谷川俊太郎、金子光晴、藤井貞和などであり、明治の文学者たち――森鴎外、夏目漱石、樋口一葉などである。

「アイドル」ではなく

 これらの詩人や文学者たちは、高橋の小説で特権的な位置を与えられている。ことばが初めて発せられる始原の瞬間や、ことばによって何かが命名される瞬間を作り出す者こそが、高橋源一郎にとって詩人や文学者と呼ばれるにふさわしい。高橋の小説の中に、たとえ詩人とか文学者とかいった肩書きがつけられていなくとも、ことばとモノの結びつきを通常とは違うユニークな関係で捉えている者たちを見つけ出すのは難しくない。たとえば、次の『優雅で感傷的な日本野球』の一節を見てみよう。

「わたしは猫に何十という名前をつけてきた。猫を飼えない時には、代わりに電気器具に名前をつけた。トースターが『フランク』、冷蔵庫が『サム』、読書灯が『ヴィッキー』、ドライヤーが『ヴィンス』、テレビが『ルーク』。そういえば、あの頃の電気製品にはどこか動物じみたところがあったような気がする」(8ページ)

 ただ、こうした瞬間を表現したことばたちは、共同体の言語慣習とはかけ離れている。だから、すんなり理解されるとはかぎらない。理解されないどころか、精神に異常をきたしているのではないか、と誤解されかねない。しかしながら、こうした言語の独特な使用例はめずらしくはない。英語圏でいえば、パウンドやエリオットなどのモダニズム詩がそうだし、いっぽう日本でいえば、明治の小説がそうだ。

かつて、高橋源一郎は柄谷行人との対談(『別冊群像』)の中で、日本の近代小説の創始者、夏目漱石の小説に触れて、共同体の常套句(ルビ:クリシェ)を使わない漱石の文章をあえて「不透明な文」と呼んだことがある。(1) 「不透明な文」とは、世人に理解されにくい厄介な仕事をあえて背負い込む詩人や文学者をくさしているのではなくて、むしろ、ドン・キホーテのようなかれらの遇直さに対する、高橋なりの屈折した賛辞である。

 高橋自身の小説においても、高橋が巧みに自らの姿を投影させるこうした詩人や文学者は特権的な存在ではある。ただ、ポップアイドルのように民衆によってロマンティックに崇められるだけの存在ではない。言ってみれば、かれらは畏怖されると同時に笑いものにされる、両義的な存在として登場するのである。

 たとえば、表札だけの存在でしかない「谷川俊太郎」(『虹の彼方に』)もあれば、女子高生の援助交際の犠牲者としての「谷川俊太郎」(『ゴヂラ』)もあるし、横浜は日の出町の「トルコ」(この言葉も、賞味期限が切れた!)の女性に励まされるインポの男としての「田村隆一」(『虹の彼方に』)もあれば、夜更けに外に立って酔っ払いたちにタバコをせびる「老いぼれ」としての「金子光晴」もあり(『虹の彼方に』)、女の子を前に勃起しないペニスを見ながら涙する「金子光晴」もある(『ジョン・レノン対火星人』)。また、本の扉に謝辞まで捧げられた夏目漱石は、「何年たっても女房とセックスできる顔だ。要するに、変わり者の顔だ」とくさされる。(『官能小説家』)

 かくして、モノの命名者としての詩人に対する高橋源一郎のこうした両義的なスタンスは、『ゴヂラ』の主人公の「藤井貞和」で頂点に達する。この小説に登場する「藤井貞和」は、『天才バガボン』のれれれのおじさんに擬して造型されているほどだ。

 いうまでもなく、同姓同名の「藤井貞和」は優れた現役詩人であり、国立大学の教授だが、この小説の「藤井貞和」は、ぐうたらな女房にはどやされ、通勤列車では痴漢騒ぎに巻き込まれたりするうだつのあがらないサラリーマンだ。箒を持って一日中石神井池のまわりや、駅前周辺を懸命に掃除するが、枯葉やごみが絶えることはない。箒一本もっての「藤井貞和」のワルあがきは、効率性や生産性を優先させる資本主義の社会で、目先の利益にとぼしい言葉を書き連ねる詩人たちの徒労と蛮勇を表している。

 高橋源一郎は一見漫画チックに貶めているようでありながら、実は、本の扉に「この作品を全ての苦悩する詩人たち(藤井貞和等)に捧げる」とあるように、この作品はポピュラーとはいえない詩人たちへのオマージュなのだ。

 このように崇めたり貶めたりする対象は、厳密に言えば、「偶像」ではなく「フェティシュ(呪物神)」と呼ばれるようだ。そもそも、「偶像」とは、民衆から一方的に崇められる宗教的な絶対者であり、たとえばメキシコのグアダルーペの聖母やポーランドのチェンストホーヴァの「黒いマドンナ」のように、熱狂的な信者たちによって支えられている存在だ。

 しかし、他方でいまここでいう「フェティシュ」は、「仮象」や「倒錯」といった通常に使われているような意味でもない。二〇世紀にマルクスやフロイトの唱えた「フェティシズム」は、本物・偽物という二元論的な世界観に基づいており、「フェティシュ」にはネガティヴな意味しか与えられていない。マルクスやフロイトの理論によるかぎり、人間は「フェティシュ」としての貨幣やモノに囚われた<奴隷>でしかないからだ。

 石塚正英によれば、二〇世紀的な意味でのネガティヴな「フェティシュ」に対して、本来的な意味での「フェティシュ」があるという。そもそも、「フェティシュ」なる用語を使い始めたのは、一八世紀にアフリカの「未開社会」の習俗を研究したフランス人民族学者ド=ブロスであり、その研究によれば、たとえば大きな石や木などの崇拝対象としての「フェティシュ」に対して、人間はダイナミックな関係を有していたようだ。体系的な宗教が成立する以前の「未開」の信仰において、「フェティシュ」はモノであり、かつ神であった。つまり、その背後に「神霊」を宿す宗教の「偶像」と違い、それ自体が「神」であり、それを崇めたり貶めたりするというのだ。(2)  植物の枯れ死が次なる植物の生命の滋養となるように、衰退した「フェティシュ」を殺すことは、次なる「フェティシュ」に活力をもたらす。それが「生」のために「死」を賛歌する「フェティシズム」の逆説だ。

石塚は、『フェティシズムの思想圏』の中で、布村一夫の次のような説を紹介している。

「未開人にとってはフェティシュは便利なものである。それをおがむ。だが、満足をあたえないフェティシュを打つ。満足をあたえれば和解する。つまり未開人は、フェティシュを崇拝するかぎりでフェティシュの奴隷であるが、それを打ち、なげすてるかぎりでフェティシュの主人なのである」(303ページ)

 高橋源一郎にとって「文学」とは、人間がそれに対して<奴隷>あるいは<従者>の関係しか築けない二〇世紀的な意味での「フェティシュ」ではなく、また永遠不朽の絶対的な「偶像」でもない。むしろ、人間にとって「神」のような特権的な存在でありながら、力が発揮できなくなったら、人間によって唾棄されもする「フェティシュ」のようなものではないだろうか。

なぜポルノグラフィーなのか

さきほど取りあげた「藤井貞和」をはじめとする詩人たちへの高橋の両義的なスタンスは、「未開人」の「フェティシュ」に対するスタンスとまったく変わらない。高橋源一郎は同時代のどの作家よりもモダニズムやポストモダンの文学について論じながら、その限界を知っている。現代小説や現代詩の形式に人一倍敏感であり、その狭い世界(文壇)の中だけで流通している形式には、人一倍懐疑的なまなざしを向ける。だから、「文学」へのスタンスとしては、「内輪の人(ルビ:インサイダー)」というよりも、むしろ「周縁の人(ルビ:アウトサイダー)」である。

そういう意味で、加藤典洋が高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を評しながら、衰退した文学形式としての現代小説を「ゾンビ」と呼び、それに対する高橋の姿勢を次のように表現しているところがとても興味深い。

「でも、高橋はその打ち捨てられた「文学」を拾い、もう一度、継ぎをあて、さあしっかりやるんだ、とお尻をたたいて、舞台に押し出す。ここで文学は「突っ立っている」死体、でも、そのようなものとして夢を託された「歩く」ゾンビです」(『一冊の本』61ページ)

   人の比喩にケチをつけるつもりはないが、「ゾンビ」では、まずいのではないか。小説であれ、詩であれ、衰退しかけた文学形式を「死体」のまま生かしておく必要が果たしてあるのか。文学ですら、それを蘇生させるためには、いちど徹底的に殺す必要があるのではないか。再生とは、本来そういうものではないのか。果たして、高橋は意志のない「死体」としてのゾンビを操作し、それによって世界を動かせると考えるような作家なのだろうか。

 そもそもデビューのときから、高橋は「文学」の部外者として、「文学」の社会的な影響力のなさを痛感していた。だから、流通している慣用法とは決別し、それに従わない小説の書き方で書き始めたのではないか。漱石の文学について語られた「不透明な文」というのは、むしろ高橋の文学にこそ当てはまる。いまなお、世界は慣用表現によって捉えることができず、「なにもかもすべてに「ヴェール」がかかっていた」と表現されるからだ(『君が代は千代に八千代に』)。

 だからこそ、高橋の小説において、何かが最初に命名される瞬間が輝いて見えるのであり、そうした瞬間がいっそう輝きを増すのが「死」と直接結びつくセックス・シーンにおいてなのだ。もっとも典型的なシーンを挙げておこう。デビュー作の『さよなら、ギャングたち』で、語り手があるオフィスで若い男女のセックスを目撃したシーンである。

 受け付けの女の子は受け付けの机に両手をおき、うしろから男が女の子の大きなお尻をかかえこんでいた。  ユニフォームの前ボタンを外し、ズボンとパンティをおろした女の子はうきうきしてたのしそうだ。  男はジーパンとTシャツをつけたまま、ジッパーだけを開けて、やっぱりうきうきとたのしそうにしていた。  二人は一生懸命性交していた。
 「ちりちりカールの陰毛ちゃん」と男は手の指で櫛のように陰毛を梳きながら言った。
 「うふふ」と女の子。
 「へのこ喰いちゃん」
 「かちかちにしこったクリトリスちゃん」  と男の子。
 「女たらし、痴漢」と女の子。
 「くわえたがりやちゃん」
 「おそそ盗人!」
 「やりたがりやちゃん」
 「玉門あらし! 変態!」
 「コイトゥスぐるいちゃん」
 「すけこまし! のぞき!」
 「おかあちゃん」
 「やくざ! ギャング! あなたのマシンガン!」
 わたしに気づいた女の子は、出口の方を指さし「出られますよ」と言って、わたしにウィンクした。(99−100ページ)
 語り手(わたし)がこのユニークなセックスシーンを目撃したとされるのが、幼児用の墓地のオフィスであったことに注目したい。墓地でセックスだって? といぶかしがる発想は、近代宗教にもとづく狭隘な倫理観の産物だ。むしろ、高橋のポルノグラフィックなシーンには、「死」こそが「生」を生み出すという、おおらかな「フェティシズム」本来の再生の逆説が見られる。

 おおらかな「フェティシズム」を思わせるポルノグラフィックなシーンは、ジャンル小説(ポルノ小説)としての『あ・だ・る・と』だけでなく、スカトロ(『君が代は千代に八千代に』)、近親相姦(『ジョン・レノン対火星人』)、アダルトヴィデオ(『日本文学盛衰史』『官能小説家』)といったように、いわゆる「純文学」と見なされるものにまで侵食している。

 さて、高橋源一郎にとって作品を書くということは、つねに「文学」や「共同体」への<遺言状>という意味を持っているのかもしれない。しばしば語り手によってささやかれる「おまんこ」以上に過激な「手投げ爆弾」は、「さよなら(グッドバイ)」だからだ。

 「手投げ爆弾」としての「おまんこ」や「さよなら(グッドバイ)」、それは単なる共同体の慣習(道徳)への挑発でもあるだけでなく、流通している文学形式(因習)への挑発でもあった。村上春樹が諦観の言葉を連発しながら、その実、芸能アイドルのように「国民作家」としての王道を行くのに対して、高橋源一郎は「おまんこ」や「さよなら」を連呼しながらポルノグラフィーによって自らその道を閉ざしてきた。

 「文学」でさえ、ほっておけばすぐに衰退する。マンネリ化する。そしたら、保護などしないで、殺せばよい。その殺しの儀式が高橋の場合は、ポルノグラフィーなのだ。そして、その殺しの儀式を通じて「文学」を蘇生させるのだ。とはいえ、ポルノグラフィーだって万能ではない。いみじくも『優雅で感傷的な日本野球』の中で、精神病院から出てきた「伯父」さんが小学五年生の「ぼく」に向かって語るように、「ポルノは子供にとっても大人にとっても死ぬほど退屈なもの」でもあるからだ(112ページ)。

 


1 高橋は言う。「しかし、明治に生きた漱石は、いきなり小説に飛び移るのではなく、不透明な文からはじめるしかなかった。不透明な文というのはスタロバンスキーがいったようにルソー以前の散文です。小説はそこから生まれた。漱石は起源に遡行してからはじめたともいえるのです」(『別冊群像 柄谷行人・高橋源一郎』28ページ)

2 石塚によれば、偶像崇拝(アイドラトリ)と区別される「フェティシズム」の特徴は次のとおりである。(1)フェティッシュは「宗教」以前のもので、「宗教」の出発点である偶像崇拝が存在するよりも古い。(2)宗教でないフェティシズムと宗教の一形態である偶像崇拝との相違は、フェティシズムではフェティシュそれ自体が神であるのに対し、宗教の偶像崇拝においては偶像(アイドル)の背後か天上にいっそう高級な神霊が存在する。(3)フェティシズムにおいてフェティシュは、信徒の要求に応じられなければ虐待されるか打ち棄てられるかするが、偶像崇拝において神霊は信徒に対し絶対者である。(『世界知とフェティシズム』4ページを参照)

 

出典
石塚正英『フェティシズムの思想圏』(世界書院 1991年)
――――『世界知とフェティシズム』(理想社 2000年)
加藤典洋「現代小説論講義15」(『一冊の本』朝日新聞社 2002年9月号 57-62頁)
柄谷行人・高橋源一郎『別冊群像 柄谷行人・高橋源一郎』(講談社 1992年)
高橋源一郎『さよなら、ギャングたち』(講談社 1982年)
――――『虹の彼方に』(中央公論社 1984年)
――――『ジョン・レノン対火星人』(角川書店 1985年)
――――『優雅で感傷的な日本野球』(河出書房 1988年)
――――『ペンギン村に陽は落ちて』(集英社 1989年)
――――『あ・だ・る・と』(主婦と生活社 1999年)
――――『日本文学盛衰史』(講談社 2001年)
――――『ゴヂラ』(新潮社 2001年)
――――『官能小説家』(朝日新聞社 2002年)
――――『君が代は千代に八千代に』(文藝春秋 2002年)
 

『現代詩手帖特集版 高橋源一郎』(思潮社 2003年10月)に掲載。

関連リンク
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