ラテンアメリカの「後進性」をポップな読み物にする
――ホルヘ・フランコ『ロサリオの鋏』(河出書房新社)

越川芳明

 ずいぶん以前のことだが、本屋で偶然見かけたある本を、そのタイトルに惹かれて買いもとめたことがあった。田村さと子著『南へ――わたしが出会ったラテンアメリカの詩人たち』(六興出版)である。『南へ――』は、まるで激しいスコールによって淀んだスモッグも道路の埃もすべてきれいに一掃されたメキシコシティの夏の夕方を歩くみたいにスガスガしいかと思えば、他方では露店のタコスショップの激辛ハラペーニョを食べた後に、こちらの体と心がカッと熱くなるような、そんな複雑な魅力をたたえていたのだ。

 そんなわけで、河出書房新社が開始した<海外文学の新シリーズ>の第一回配本が田村さと子が翻訳した小説『ロサリオの鋏』であるということを知り、おもわず意気込んでしまったのだ。著者ホルヘ・フランコは、一九六二年生まれのコロンビア出身の小説家で、ガルシア・マルケスの後継者と目されているらしい。たしかに、この小説は『百年の孤独』のマコンドと同様、コロンビア第二の都市メデジンが<神話的な空間>として造型されている。しかし、その<神話的な空間>はすこしも牧歌的ではなく、むしろドラッグと殺人事件で汚染されている。

 この小説は、ロサリオという名のスラム出身の若い女の短い生涯を、アントニオという名の若者を通して<一人称>の「俺」で語ったものだ。「セックスを早い時期に知ると、その人の人生は不幸になる可能性が大きい」と、語り手はいう。が、ロサリオにとって早い時期にセックスを知ったのは、みずからが望んで、というのではなく、強者によってから力づくで強いられたことによるのだ。つまり、八歳のときに母が連れこんだロクでもない男にレイプされ、十一歳のときにまた別の男に襲われ、十三歳でその襲った男の急所を母の鋏でちょん切るという復讐を遂げて・・・。ロサリオはすでにそんな年齢で、ストリートワイズな知恵と護身術とを身につけて、キスをしながら急所を突くというワザを習得してしまっているのだ。

 かつて田村さと子はガルシア・マルケスに会い、次のように記している。「――後進性としての遅れこそ私たちの武器です。その遅れをエネルギーとして先進国に勝る文化的創造ができる――と言い切った彼の言葉の中に、感傷的にではなく、しかし愛着をこめて自らの土地に生き死にする人々を見据え、その中から浮かびあがってくるものを見極めようとする決意とでもいうものを感じた」(『南へ――』247ページ)と。

 そんなマルケスが高く評価しているというこの後輩作家も、ラテンアメリカの「後進性」を創作の武器として使う。たとえば、それはコロンビアの階級や人種にもとづく差別であり、麻薬問題や貧困問題であり、政治の無力やマフィアの暗躍(利権争い)であり、アメリカ合衆国に対するあこがれと反発の入り混じった微妙なスタンスなどである。そして、そうしたラテンアメリカの「後進性」が剥き出しのかたちで露呈しているのが、社会の周縁におかれたスラムなのだ。

 死と隣り合わせにあるようなスラムの激烈な生を書くのはいい。『ロサリオの鋏』はすごく面白い小説だが、すこし不満があるとすれば、小説家も語り手もスラム出身者でなく、むしろ上流階級出身者であることだ。小説家フランコは「スラム」を体現する人物としてロサリオという名前の、悪女でもあり聖女でもある<運命の女(混血女)>を登場させ、その<運命の女>に対する上流階級出身者の白人男からのロマンティックな愛情を絡ませる。

 これでは米国のハリウッド映画によく見られるように、ラテンアメリカの「後進性」のポップな商品化ではないだろうか。マルケスのいう「文化的創造」の観点からすれば、とても陳腐なやり方ではないだろうか。そんなわけで、最初の意気込みが強すぎたせいか、わたしはノリきれないで終わってしまったのだ。

(『週刊読書人』2004年3月19日)