最後のノマドによる「歴史小説」
ウィリアム・T・ヴォルマン(栩木玲子訳)『ザ・ライフルズ』(国書刊行会、2001年2月)
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やあビル、元気かい? きみとは何度もすれちがいを繰り返してるけど、いつか会えると思っている。こんどの小説『ザ・ライフルズ』は、『アイス=シャツ』にはじまる「北米大陸発見」シリーズ全七巻の一部だってね。このシリーズのために、きみはいかにも行動派の小説家らしく何度も北極を訪ね、訳者によれば、「一九九一年にはマイナス四十度の冬を体験するために……エレフ・リングナース島へ単独で出かけ、幻覚や幻聴に悩まされ、幻覚や幻聴に悩まされ」もう少しで凍死しそうになったというじゃないか。確かに、この小説のなかでも、睡眠不足からシロクマに襲われる「恐怖」に押しつぶれそうになったり、製氷室と化した小屋の中で、感覚のなくなった指でヒーターをつけるために悪戦苦闘するシーンなど、極限状況を体験した者でなければ書けないような迫力ある文章がつづく。そんなとき、きみは何度もみじめな思いで泣いているけど、たぶん本当のことだろう。
だけど、きみは探検家じゃない。小説家だ。おれがきみを小説家として信用するのは、命知らずの冒険家野郎の勇気のためじゃない。極地とか高峰とかを単独で探検をして命をかける冒険家なら、日本にだって存在する。たとえば、植村直巳のようにね。でも、不思議なのは、それよりずっとセコイ冒険をする連中ほど、それをでかいキャンバスに塗り込めたがるってことなんだ。だから、迫力いっぱいの極限状況のシーンのあとに、自分のセコさを振り返る、君の姿勢は信頼できると思う。きみはけっして自分をロマンチックに神格化したりしないってことさ。
「眠るための準備と服がしっかり暖かければ零下四十度も耐えられない寒さではない。自分の温度計の、大したことのないこの数字を披露するのは、いささか恥ずかしい気もする。というのも零下四十度の中で刈りや釣りを楽しむ人々を私は知っているし、かれらはその体験をいちいち本に書いたりはしない」
さて、本にいちいちレッテルを貼るという評論家の愚行を敢えておかして、この本を定義するとすれば、「歴史小説」だろうか。まず、この小説の大きな柱として、十九世紀半ばのイギリスの北西航路探検隊のエピソードがあるといえる。ウィリアム・フランクリン卿に率いられた二隻の艦船に乗り組んだ百二十九名の者たちは氷の北極海に閉じ込められ、棄船を余儀なくされ、厳冬のなか人肉を食らいながら、生き延びるが最後は全滅してしまう。このあたりの資料として、きみはさまざまな文献にあたって、百七十個を越える引用をしているね。
もうひとつの大きな柱は、今世紀のなかば、カナダのケベック州からさらに北部の辺地へと移住させられたイヌイット(エスキモー)たちのエピソードをめぐるものだ。日本における「従軍慰安婦」の問題とも通じる、少数民族の「強制抑留」と「強制労働」の問題は、カナダ史における一大汚点かもしれないが、カナダ政府は認めていない。
きみはサブゼロというドッペルゲンガーを創造して、二本の柱のあいだをいったりきたりする。あるときはサブゼロがフランクリンになったり、フランクリンがサブゼロになったり、語り手の人称が自在に変わり、また小説の時間も、十九世紀と現在のあいだを、小説の舞台もロンドンやニューヨークといった都会と北極圏とのあいだを行き来する。しかし、きみはただ過去の事件を掘り起こすのではなく、あくまで焦点は「現在」にあり、現在周縁に生きている人々に向けられている。リーパーなるエスキモーの美しい少女と、ジェーンという名の妻との愛に引き裂かれるフランクリン=サブゼロは、欺瞞のかたまりのような男だけど、そうした白人の欺瞞は、ビル、きみ自身が認めるからこそ、この小説が意味を持つんだ。イヌイットにとって、長年の経験から、どんな白人だって信用ならない存在に見えるし、きみは白人だから、フランクリンの欺瞞を引き受けるくらいじゃないと、イヌイットはおろか、日本人のおれだって認めない。でも、きみはイヌイットたちに胡散くさい存在として無視されつづけながら、それでも、きみは欺瞞的じゃないイヌイットと白人の文化的衝突の物語を書きあげた。チャトウィンが死んじゃったから、本当のノマドの作家はきみぐらいしかいないのだよ。このシリーズはあと三巻残っているらしいけど、完成させるまで死ぬな、ビル。
ヨッシー=ロベルト・コシカワより
『Studio Voice』2001年5月号