<カタコト列島>への誘惑

管啓次郎『オムニフォン』(岩波書店 2005年)

越川芳明

 「世界の多様性は、世界のすべての言語を必要とする」 管啓次郎はカリブの思想家エドゥアール・グリッサンの詩学をそうパラフレーズし、本書のタイトル<オムニフォン>を「あらゆる言語が響きわたる言語空間」とを定義する。

 「世界のすべての言語だって、そんな不届きな!」と、あなたは思うかもしれない。

 それは仕方ないことだ。外国文学や外国思想の輸入業者である一部の学者たちが、自分のことを棚上げにして、流行りの思想を日本語に置き換えることだけしかしてこなかったのだから。

 管啓次郎も欧米産の「多言語主義」という言葉をつかう。でも、意味するところは正反対だ。主流言語を中心にして、他のいっぱいあるマイナーな言語も大事にしましょうよ、というのが、通常の「多言語主義」のベクトルだとすれば、管啓次郎は「ひとつの言語にはつねに他の複数の言語が滞在している」といい、主流とマイナーの枠を取っ払って、ピジン言語もなにも、すべての言語を平等に並置してしまう。それほどにラディカルなのだ。

 難しいことを述べてはいない。「涸れ川」と題された、アリゾナの砂漠を舞台にした短い物語を読めばいい。雨の匂いのする、ある夏の午後、ちかくの砂漠に子供たちとでかけていき、「僕」はうさぎを見つける。「僕」は何もいえない。いや、思わず舌が「僕」を裏切り、「僕」は二人のメキシコの少年に向かって「コホーネス」と叫ぶ。メキシコの少年たちは爆笑する。「コホーネス」とは、日本に訳せば、「金玉」という意味だから。「コネーホス」というべきだったのに。そういうユーモラスな間違いの喜劇をはさみながら、「僕」は翌日におなじ砂漠で発見された少女の死体事件に触れて、生の中にひそむ死をテーマにした、この小さな物語をとじる。

 この物語を読んで、わたしはおもう。管啓次郎の間違いは、少年たちの記憶にとどまるだろう。かられは砂漠でうさぎを見るたびに、変なオジさんの発した音(コホーネス)をみずから口にして、そのときの情景を思い浮べることだろう。管が本書の副タイトルに選んでいる<世界の響き>とは、そんな風に、言語の偶然性や間違いや沈黙などが生み出す人間どうしの結びつきや繋がりのことではないだろうか。

 <世界の響き>をかいま見せてくれるのが、「間に合わせの言語」と管がいうピジン言語だ。異質な言語どうしの接触から生まれる人間どうしの繋がりのはじまり。そして、そんな「ピジン言語」を支えるのは、とりあえずの「カタコト的精神」である。

 管啓次郎のもくろみは<カタコト列島>をつくることだったのではないか。カリブ海のグリッサンやマリーズ・コンデからポルトガルのペソアやドイツの多和田葉子まで、リトアニア系の移民の子アルフォンソ・リンギスからブラジルのふたりのアンドラージまで、それらの島々をリゾーム的に繋ぎあわせる。さらに、ジョイス、パウンド、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ、ベケット、フォークナーといったモダニストたちに、次々とカタコト精神をみつけて語る。

 カタコト列島は、地図の上に描かれた国境のように固定的でない。だから、管啓次郎はあなたを挑発し、誘惑する。アメリカ合衆国主導の経済的・軍事的グローバリズムに抗して、そうした危険な世界観に「ほころび」を見つけられる人たちにむかって、自分の列島を作って連結しましょう、と誘うのだ。管啓次郎の『コヨーテ読書』を読んでコヨーテ・パスタを作りたくなったあなたに、とりあえず、旅にでてみましょう、と。

(『週刊読書人』2005年4月22日号)