ただの「ロシア文学者」ではない。じゃ、沼野充義は何者なんだ?
沼野充義 沼野充義
『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)
『W文学の世紀へ』(五柳書院)
沼野充義は、何者だ? 「ロシア文学者」だろうか。そう規定してしまうと、何かこの著者のたいへん大きな部分が抜け落ちてしまうような気がする。たとえば、かれには、少し前に、現代のうんざりするような経済的・政治的趨勢(グロバリゼーションや民族主義の台頭)に「ノー」を突きつけた、越境文学の痛快アンソロジー(『世界文学のフロンティア』全六巻、岩波書店)を、四方田犬彦や今福龍太と共に編んだ実績があるではないか。一国、一言語、一民族による文学制度の内側にとどまっている人には、こんなワザは使えない。そういえば、かれはロシア語や英語にかぎらず、言語習得にかんして凡人には及びもつかぬ異能を有しているようだ。
まあ、その程度で驚いていては、いけないわな。沼野充義の本領は、多言語習得のレベルではなくて、多言語習得を前提にした文学論のレベルにおいて発揮されるのだから。というわけで、最近たてつづけに出た二冊の本を読んでみた。一方が主にロシア・東欧の文学(ナボコフやブロツキーやカフカ、その他にこの本のハイライトともいうべき、ドブラートフをはじめとする、一九七〇年代から八〇年代にかけての「第三の波」の亡命ロシア詩人たち)を扱い、他方が主に現代日本文学(大江健三郎や安部公房、その他にリービ英雄や多和田葉子や水村美苗といった「バイリンガル作家」)を扱っている。とはいえ、扱う対象はちがっていても、著者のスタンスは変わらない。それをスーザン・ソンタグにならって、「外国人のまなざし」と呼んでみたい気がする。
「移民たちの天国と地獄」(『亡命文学論』に収載)という文章の中でも触れられているように、一九世紀末のこと、ポーランドの有名女優と作家が中心となって、南カリフォルニアでコミューンの建設が試みられた。ソンタグはそのときの出来事を題材にして、小説『In America』(二〇〇〇年)を書き、創作の動機を問われて、「その二人の亡命者に触発されたのです。わたしはアメリカについて書いてみたかったのです。外国人のまなざしで」と、答えていた。
二冊の本によれば、そうした「外国人のまなざし」で見ると、当たり前のように思っている世界が違ってみえてくる。現代ロシア文学を支えてきたのは、必ずしも「純血」のロシア人たちだけではなくて、むしろロシア語で書く少数民族出身者であったりユダヤ人であったりするという発見。ロシアの国民的詩人プーシキンの祖先にアフリカの血がまじっているという事実。また、安部公房の描く「砂漠」は無国籍的ではなく、「日本的」だという指摘。クンデラは、マイナーなチェコ語で書いていたときの作品のほうがより普遍的な価値を持っているという提言。
こんな風に作家や詩人の「帰属」に根源的な疑問を呈する沼野充義は、ただの「ロシア文学者」ではない。じゃ、何者なんだ?
(『すばる』2002年5月号を改稿)